第6話 伯爵家の簒奪 ― 因果の橋
訓練二日目。
呼吸と糸の制御、動きながらの保持、記録の講義。
昨日に続き、今日も朝から晩までみっちりと叩き込まれた。
私は必死だった。
皆に置いていかれないように、少しでも役に立てるように。
額を流れる汗を拭う余裕もなく、糸が切れないよう祈るように繋ぎ続けた。
その様子を、カインは黙って見守っていた。
時折、低い声で短く言葉を投げる。
「焦らなくていい。糸は急がせると揺れる」
その声に、胸の奥の張りつめたものが少し和らぐ。
――私は、この人の期待に応えたい。
「昨日より安定してる」
ヴェラが短く評する。
「切らさなかったな」
ジークは無骨にうなずき、木剣を片付ける。
「配膳の流れと同じ、ってことだね」
エリアスが眼鏡を押し上げ、記録帳を閉じた。
「ま、死なずに二日目を終えたのは上出来よ」
リディアはからかうように笑ったが、その声はどこか明るい。
私は深く息を整え、胸の奥に残る微かな脈動を確かめた。
昨日よりも、確かに橋の感覚は揺らぎなく残っている。
――その夕刻、拠点の玄関で小さな騒めきが起きた。
足音が速い。
扉の前で何かが止まり、ためらう気配。
次の瞬間、控えめなノックが三度。
「入って」
ヴェラが返すと、扉が軋み、細い影が差し込んだ。
少女――いや、私と同じくらいの年頃かもしれない。
色の抜けたような金髪を後ろで一つに結び、頬はこけ、青ざめた唇がかすかに震えている。
ドレスは良い仕立てだが、肩に継ぎが当てられ、裾に泥の跳ねが残る。
瞳だけが、淡い蜂蜜色に強く光っていた。
「た、助けてください……」
その声に食堂の喧噪が完全に止まる。
リディアが椅子から静かに降り、ジークは立ったまま場を見渡した。
エリアスが帳を閉じ、ヴェラが前へ出る。
カインは一歩も動かないのに、部屋の中心が彼へ吸い寄せられる。
「名は?」
「クラリッサ……クラリッサ・ロズベルトです。ロズベルト伯爵家の――」
声が詰まり、喉を押さえた。
「母の亡きあと、父は継母のエレオノーラを迎え入れ、義妹のイザベラと……
皆で、私を屋敷から追い出そうとして……
母の形見も、部屋も、相続権も、全部、全部……」
涙に崩れる前に、ヴェラが肩に手を置いた。
「座って。水を」
私は水差しを持ち、杯に注いで差し出す。
クラリッサは震える指先でそれを受け、少しずつ喉を潤した。
落ち着きを待って、エリアスが柔らかい声で促す。
「順を追って話して。今日ここに来るまでに何があった?」
彼女は語り出した。
母の死後、屋敷の空気が変わったこと。
継母は慈愛深い令夫人を装いながら裏で財を処分し、義妹イザベラに贅沢を与えたこと。
父ヘルマンは婿養子で伯爵代理にすぎないのに、継母と義妹の言いなりで、私を使用人部屋に追いやり、古参の使用人も解雇して証言を封じたこと。
残された侍女がこっそり渡してくれた帳簿の切れ端。
領地の収入に見合わぬ支出。
母の形見のドレスが義妹のために仕立て直され、母が大切にしていた青い宝石のついた髪飾り――
それが義妹の髪に挿され、笑顔で舞踏会に行く準備をしていたこと。
「舞踏会……三日後か」
エリアスが筆を止め、低く繰り返す。
「なるほど、舞台は整っている」
そのときだ。クラリッサが私を見つめ、はっと息を呑んだ。
「……セリナ様?王立学院の――公爵家の……」
彼女の蜂蜜色の瞳が、驚きに揺れた。
私は一歩、彼女に近づく。
「クラリッサ様。覚えていてくださったのですね」
「はい。学院では何度もセリナ様をお見かけしていました。セリナ様は常に姿勢を正し、言葉も所作も淑女の鑑で……私にとって憧れの先輩でした」
私は頷く。
確かに、彼女の姿を見たことがある。
人混みの後ろで、小さく礼をしていた少女。
派手な義妹が男子生徒を引き連れて廊下を進むとき、彼女は影に下がり、目立たぬように振る舞っていた。
それでも、礼法の角度は正しく、瞳は澄んでいた。
「ここで再会するとは……驚きました。セリナ様が、ギルドに……」
クラリッサの驚愕は無理もない。
学院で“完璧な貴婦人”と呼ばれていた私が、いまは黒いローブの集団の一員であるのだから。
「クラリッサ嬢、いま大事なのは三つ――証言、記録、物証だ」
カインの低い声が室内の空気を締める。
彼は視線だけでエリアスとヴェラ、ジーク、リディアに合図を出した。
「掟は守る。三系統が揃うまで断罪しない。私情で動かない。
身元は秘す。奪ったものは返すが、余計なものは奪わない。仲間は見捨てない。――いいな」
私たちはそれぞれ短く頷いた。
クラリッサが不安げにカインを見上げる。
「……あの、その“断罪”というのは……」
「鏡を相手の前に置くだけだよ、クラリッサ嬢」
リディアが軽く片目をつむる。
「見栄えよく塗った化粧は、明るい所でいちばん剥がれるの」
「舞踏会で、ですね」
エリアスが記録帳を繰り、淡々と段取りを書き出していく。
私は立ち上がり、文書庫の片隅へ向かった。
棚の下段に、他の帳簿に紛れるように置かれた木箱がある。私は手をかざし、魔力をほんの少し流し込む。かすかな震えと共に蓋が音もなく外れた。内布に包まれた因果カードが静かに収められている。
私は1番上の黒い板を両手で取り上げ、クラリッサの前へ戻った。
漆黒に私の鼓動が吸い込まれていく感覚。
掌に伝わる冷たい重みが、これから架ける橋の確かさを告げていた。
呼吸を四つ吸い、四つ止め、四つ吐く。
「クラリッサ様」
私はクラリッサの前に膝をつき、目線を合わせた。
「これに触れてください。名を胸の内で呼び、返してほしいものを、心の真ん中に置いて。声に出さなくていい。震えるなら、震えてもいい。私が橋になります」
彼女は戸惑いの色を浮かべ、やがて決意とともに頷いた。
両手で因果カードを包み込む。蜂蜜色の瞳が、ほんの少しだけ強くなる。
私は魔力の糸を細く、さらに細く落とす。
板の黒が、淡い蒼に脈動した。
光がひとしずく、クラリッサの指先から滲んだ。
最初の糸が立つ。
――証言。
彼女の心の声が、色になって上がってくる。
窓辺で自分の髪を梳かしてくれた母の手。
小さな頃に教えてもらった礼法の歌。
形見の髪飾りをもらった日の、青い光。
継母が部屋の鍵を取り上げた夜の冷たい匂い。
義妹の嘲笑。
友人だったはずの令嬢たちが、目を伏せるようになった理由のわからない痛み。
私はその色を指先で受け止め、糸の端にしるしを付ける。
二つ目の糸。
――記録。
数字の列、日付の並び、金庫の帳。
古い印影。
署名の癖、継母の侍女の筆圧。
エリアスが肩越しに覗き込み、幻視筆記を起動する。
半透明の小さな羽根ペンが空中で踊り、目に見えない“書き込み”を、紙の上に写していく。
クラリッサの心に触れる数字は冷たく、しかし正直だ。
私はその線を拾い上げ、糸に結び付ける。
三つめの糸。
――物証。
裁縫室の青い糸くず、宝飾の留め金に残る微細な擦れ、香水に混じった薬草の微香、賭場の会員証。
ヴェラが横からそっと指先を添え、糸が過剰に増えそうになるのを抑えてくれる。
「三本立った。束ねられる?」
「……はい」
私は自分の呼吸を再び数え、掌を少し開く。
三本の糸が、互いに遠ざからず、しかし絡まらず、橋脚に向かって緩やかに集まっていく。
クラリッサの指先が強くなる。
私の指先も、自然と力が入る。
束ね終える瞬間、因果カードの面に淡い光の帯が走り、静かにひとつの名が浮かんだ。
――クラリッサ・ロズベルト。
それは罪の署名ではない。媒介の誓名。
依頼人の名が“返却の橋”へ結ばれた印だ。
青白い光はすぐに薄れ、黒の底に吸い込まれた。
私はゆっくり手を離し、クラリッサの瞳を見た。
「……見えました。あなたの願いは、奪われた相続と、母上の形見、居場所――尊厳。その道筋は開ける」
クラリッサの肩から、少しだけ力が抜ける。
エリアスがすぐに記録帳へ要点を写し、ヴェラは帳簿束の位置に印を付けた。
リディアは窓枠に軽々と腰掛けて、顎に手を当てる。
「舞台は三日後。舞踏会だ」
カインの声が低く響く。
「依頼は受ける」
低い、揺るぎのない声。
その言葉にクラリッサが大きく息を呑む。
私は彼女の手を握った。
「クラリッサ嬢」
エリアスが優しく言う。
「今夜はここで休むといい。外に戻るのは危険だ。あなたの証言は“熱”を帯びている。敵は嗅ぎつける」
「寝室は私が整えるわ」
ヴェラが立ち上がる。
「湯も用意する。疲労は判断を鈍らせる」
「ごはん、食べられる?」
リディアが覗き込むと、クラリッサは心細げに笑った。
「ありがとうございます……」
クラリッサが深々と頭を下げ、ふと顔を上げて私を見た。
「セリナ様が、どうしてここにいらっしゃるのか……でも、聞きません。今は、私が――」
「返すべきものを返す。そのために来たのでしょう?」
彼女は強く頷いた。蜂蜜色の瞳に、かすかな光が戻る。
◇
皆が散り、私とカインだけが訓練室に残った。
因果カードはまだわずかに温い。
カインがそれを指で軽く叩く。
「初めての媒介、よくやった」
「……震えました。糸が増え過ぎそうになって」
「増えるのは悪ではない。切らすな。迷えば、呼吸に戻れ。それだけだ」
もっと何か言葉を求めてしまいそうで、私は代わりに頷く。
その瞬間、カインの黒い瞳が真っ直ぐこちらを射抜いた。
その視線に捕らえられた途端、胸の奥が小さく跳ねた。
冷たいはずの黒の奥に、ほんの一瞬だけ温度のようなものが宿って見えたのだ。
「明日は実地の段取りだ。お前は依頼人に“橋”であることを示し続けろ」
「……はい」
短い返事が喉を震わせた時、まだ心臓の鼓動が落ち着かないのを自覚してしまった。
広間を出る廊下で、窓の外の空が群青から藍に変わりつつあるのが見えた。
ギルドに辿り着いてから、まだ四日しか経っていないのに、日々は濃く重なり、もう遠い昔のことのように感じられる。
長く続くはずだった「正しい道」が断たれた夜から、私はすでに別の道の上を歩いていた。
寝台のそばに因果カードを置き、薄布の上からそっと手のひらを重ねる。
呼吸を四つ吸い、四つ止め、四つ吐く。
胸の中の川はおとなしく流れ、髪の毛より細い糸へ戻っていく。
耳の奥で、微かな脈動が私に合わせて整う。
◇
舞踏会までの三日間、私達は三組に分かれて動いた。
ジークとリディアは、古参の使用人や侍女を追った。
街外れの下宿に身を寄せていた侍女は震える声で証言する。
「奥方様とイザベラ様は、ご令嬢のお部屋を荒らし、形見までも奪ったのです」
また、別の古参の使用人は酒場で嘆いた。
「伯爵様は賭場に通い詰め、屋敷の金を使い果たして……もう見ていられませんでした」
さらに義妹イザベラの嘲笑が、社交場の耳に残っていた。
「クラリッサよりも、わたしの方が伯爵家にふさわしいのよ」
――証言の糸、集結。
ヴェラとクラリッサ、そして私は、伯爵邸の執務室に忍び込んだ。
伯爵は仕事をしていないのか、机の上には乱雑に書類が積み上げられ、薄っすらと埃がかぶっている。
クラリッサが震える指で開いた帳簿には、領地の収入と釣り合わぬ支出が並ぶ。
宝飾やドレスの代金が公費として計上され、印影は二年前の古い型。
改ざんの痕跡は明らかだった。
本来は家令が署名すべき欄に、継母の侍女の癖ある筆跡が残されていた。
エリアスが幻視筆記を起動し、光の羽根ペンが虚空に走る。
帳簿の行を、そのまま記録に写し取った。
――記録の糸、確定。
さらに裁縫室。
床には青い糸屑が落ちていた。
それは母の形見のドレスと同じ色合いの生地だった。
形見は解かれ、義妹イザベラの舞踏会ドレスに仕立て直されていた。
義妹の部屋に置かれた髪飾りの宝石には、新しい擦れ跡が残る。
侍女の小箱に隠されていた香水瓶には、弱い毒――倦怠と衰弱をもたらす成分が混ざっていた。
ジークが差し出したのは、伯爵が通っていた賭場の会員証。
――物証の糸、確保。
三日間の調査が終わり、拠点の卓上に証拠が揃った。
証言は侍女と古参使用人の声、記録は帳簿に偽造された印影、侍女の筆跡。
物証は髪飾りと裁縫室の糸くず、毒の香水瓶と賭場の会員証。
エリアスが記録帳に整理して線を描き、三系統が一点に交わる図を示す。
「これで舞台は整った」
カインが低く告げる。
「明日、舞踏会で返す」
クラリッサは蜂蜜色の瞳を潤ませながらも、強く頷いた。
「……私は、母の形見と私の居場所を取り戻したい」
私は彼女の手を取り、因果カードを重ねる。
「クラリッサ様。必ず返します」
炉の火がぱちんと弾け、夜の帳が落ちていく。
舞踏会は、明日。
私たちは“橋”として、因果を測り返す準備を整えた。
――因果は巡る。返さねばならない。
私は橋であることを、もう一度、自分に誓った。