第5話 因果を返す者たち ― 四つの息と一本の糸
夜明け前。窓の外の空は、藍と灰のあわいでまだ世界の輪郭をためらっていた。
私はそっと寝台を抜け出し、厚手のショールを肩に羽織って厨房へ向かう。昨日、粉とバター、蜂蜜、胡桃を見つけてしまったせいだ。焼きたての甘い匂いは、人の心をほどく。
手を洗い、粉をふるい、冷えたバターをカードで刻んで指先でなじませる。蜂蜜を落とすと、琥珀の筋が生地の上で光った。刻んだ胡桃を混ぜ込み、小さく丸めて天板に並べる。火室の扉をわずかに開け、温度と炎の機嫌を確かめる。祈りにも似た短い沈黙。
縁が薄く狐色に染まり、香りが立ちのぼった瞬間、背後から低い声。
「早起きだな」
「おはようございます、団長。……うるさくしませんでした?」
「いや。厨房は歓迎する音だ。それと――団長じゃなくていい。カインでいい」
「……カイン」
その名を口にした瞬間、胸がふわりとざわつき、頬がほんのり熱を帯びた気がして、慌てて視線を落とした。
彼は腕まくりをして、竈に新しい薪を一、二本足し、火を整える。私は焼きたての一枚をふうっと冷まして差し出した。
「熱いです。気をつけて」
黒い瞳が一瞬だけほどける。噛む音、微かな頷き。
「甘さが尖ってない。……胡桃が利いてる」
「蜂蜜がよかったみたい。――朝食、何を作ります?」
「スープと卵、黒パン。人数分やる」
「手伝わせてください」
私は袖を捲り、玉葱と根菜を刻む。鍋で油を温め、玉葱が透き通るまで木べらをゆっくり動かす。にんじんと芋、塩をひとつまみ。湯気が立ち、厨房にやわらかい匂いが満ちる。
カインは卵を割り、パンを厚く切る。火の上でスープが小さく笑う頃、私は胸の奥で迷いを噛み潰しながら口を開いた。
「……王太子妃教育の一環で、炊き出しを手伝っていました。祝祭日の前や寒波の夜に、大鍋をいくつも並べて、パンを千切って、匙を数えて。礼法も舞踏も刺繍も習いましたけど、人に食べてもらって“温かい”って言ってもらうのが、いちばん好きでした。――でも、全部、無駄になったけど」
吐き出した自嘲を、湯気がさらっていく。胸の奥が少し軽くなった。
包丁の音が止み、代わりに低く穏やかな声が落ちる。
「それは無駄じゃない。……今、この場に活きている」
「……ええ」
カインは鍋の味を見て、塩をひとつまみ落とし、底から静かに返す。
「無駄にするかどうかは、お前が決めるんだ。俺は――悪くないと思う」
その言葉に、胸の奥に温かいものがじんわりと広がった。短い会話が、朝の音に溶けていく。
やがて皆が起きてくる。ヴェラは分厚い本を抱え、ジークはパンを寸分違わず二つに裂き、エリアスは湯気の向こうで眼鏡をくい、と押し上げる。リディアは鼻先をひくつかせ、焼き網の上に身を乗り出した。
「なにこれ、幸せの匂いがする」
「失敗作からどうぞ」
「ご褒美の言葉にしか聞こえないわね!」
ぱくり。二枚目に伸びる指。ジークは無言で一枚取り、その噛む音だけで“合格”を伝えた。ヴェラはスープを啜り、ぽつり。
「塩の位置が良い。根は甘いほど溶けやすい」
「料理評まで始まった」
エリアスが匙を掲げる。
「炊き出しの手だね。配膳の流れが綺麗だ」
食卓の温度が十分に上がったところで、奥からカインの声。
「食べろ。終わったら訓練だ」
私は匙を握り直し、スープを口に運ぶ。
向かいでパンをかじっていたリディアが、にやりと笑って言った。
「緊張してる? 最初の日は誰でもそうよ。大丈夫、死にはしないわ。――多分」
「励ましているのか、脅かしているのか、どっちなの?」
「半々」
ジークは無言で私の皿にパンを一切れ置き、短く頷いた。 それだけで「気にするな、食え」と言っているのが分かった。
ヴェラが本から目を上げ、碧眼で射抜く。
「セリナ、今日からあなたは“返却者”として基礎を叩き込まれる。魔力は大河。流路を細くし、必要な場所だけに渡す。揺れる橋は、誰も渡れない」
私は頷いた。記録帳にさらさらと走るエリアスの筆音が、不思議と心強い。
◇
地下の訓練室。石壁、太い柱、床の白線。
手には漆黒の因果カード――ただし、これは依頼で使うものではない。力の流し方を覚えるために作られた“訓練用”だ。名が刻まれることもなく、幾度も魔力を通せば黒は曇り、やがて砕かれて処分される。
ここで行われるのは、返却者のための基礎訓練。
因果の糸を結び、どんな状況でも切らさないための修練だ。
「呼吸からいくわ」
ヴェラが正面に立つ。
「四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く。肩は上げない。肋骨の下を開く。――魔力は胸で暴れるから、腹で受ける。返却者は揺れる橋であってはならない」
私は指示に従い、吸う、止める、吐く。
胸の瀬が泡立ち、流れは腹へ沈んでいく。糸は髪の毛ほどに細く、それでも切らさない。
「今、落ちすぎ。細いのはいいけれど、切れてはだめ。糸は生き物よ」
ヴェラの声に促され、私は息の拍を一つ足し、糸の先に微かな温度を灯す。因果カードの黒に淡い蒼がひとしずく落ちた。
「よし。――次、動きながら」
ジークが木剣を二本持って現れ、そのうち一本を私に投げた。
「返却の場で敵が立ち塞がることもある。合図はない。間合いを詰められても、糸は繋げ」
木剣が空気を裂く。受け、払う。足裏、膝、肘。どこかに力が入りすぎると、魔力の糸が震える。汗が頬をつたう。二撃、三撃、四撃――
「視線を剣に吸われるな。背で俺の位置を掴め」
その言葉で焦点が変わる。剣そのものではなく、“流れ”を感じ取る。糸は切れない。台上の黒は、穏やかな蒼の脈動を続けていた。
「いい。終わり」
木剣が下り、肺の底まで空気が落ちる。返却の場で戦闘に巻き込まれても、糸を繋ぎ続けられるか――今の訓練はそのためだった。
リディアが私の背にひょいと跳び乗る真似をして、すぐ離れた。
「次は私。影に呑まれても、ちゃんと生きて帰ってきてよ?」
灯りがひとつ吹き消され、訓練室に影が濃く落ちる。気配が消えた次の瞬間、足首に冷たい金属。私は反射で糸を横にひらき、小刃を弾いた。
影から影へ、猫のように折り畳まれるリディアの体。肩をひねって避け、肘で間を作り、その隙間に糸を差し込む。二手、三手。最後の刃が首筋へ落ちる直前、ぱちん――糸が弾いて刃は滑った。
「やるわね。最初の二手で死ななかったのは、わりと褒めていいわよ」
「褒めているようで褒めていないわ」
笑いが弾け、ヴェラが手を差し出す。冷たい指先が、なぜか心地よい。
◇
エリアスが卓を引き寄せ、薄い記録帳とインク壺を置く。
「セリナ、記録の講義。――退屈だなんて言わないでくれよ」
「言いません」
「ありがとう。まず“記録”は二種類。人が残したものと、世界が残した痕跡。前者は改ざんされる。後者は風化する。だから、両方を束ねる。事実は一つの面だけでは嘘になる」
紙面に三本の線。「証言」「記録」「物証」。
「証言は心の温度を持つ。嘘の熱にも種類がある。恐れ、保身、赦しを乞う嘘。認めるべき誤りと、許してはならない偽装――その見分けは“温度感”。
記録は冷たい。だから形式を守る。日付、署名、印。齟齬は入口。
物証は匂いを持つ。薬の反応、金属の擦れ、繊維、足跡……世界は小さく喋る。僕らはその声を拾い上げる」
冤罪の夜、拾われなかった声――私は頷く。
「最後に、記録者の罪。僕は黙って判を押した。沈黙は共犯だ。返却者は、沈黙を破る最後の橋になる。橋は、揺れてはいけない」
休憩には朝のクッキーが役立った。
「これ、あと三枚いける」とリディア。
ジークは二枚重ねで受け取り、一枚を無言でエリアスへ。ヴェラは胡桃の刻みを見て「熱の回りが均一。基礎ができている証拠よ」。
カインは最後の欠片を摘み、ほんの一瞬だけ目を伏せる。黒い瞳の奥で、ほんの一瞬だけ何かがほころぶ。私は気づかないふりで水差しを回した。
◇
午後も訓練は続いた。呼吸、姿勢、歩幅。視線の配り。人混みで足音を一定に保つ。階段の角で立ち止まらず、曲がり角を滑るように通過。扉の取っ手に触れる前に金属の匂いで使用頻度を測る。
一見ささいな所作の連続が、返却者に必要な「揺れない橋」を形づくっていく。
日が傾く。窓の外の群青が深まり、石床の影が長くなる。カインが因果カードを指先で軽く叩いた。
「基礎、よくやった」
「……震えました。糸が増え過ぎそうになって」
「増えるのは悪じゃない。切らすな。迷えば、呼吸に戻れ」
必要なだけの言葉が与えられる。彼はわずかに屈み、視線の高さを合わせた。
「覚えておけ。返却は破壊じゃない。奪ったものを奪い返すのではなく、元の場所へ戻す。それが俺たちの名の由来だ」
「――ざまぁ、ですね」
思わず漏れた言葉に、口角がかすかに上がる。
「ざまぁ、は結果だ。方法は常に正面からだ」
私は小さく笑い、息を整えた。
――眠る時、寝台のそばに置いたのは、訓練で使った黒板ではなく、私だけに与えられた“誓約のカード”。
誰の名も刻まれていないが、返却者としての証――お守り。
夜だけ、枕元に。そうして初めて、胸の奥の不安が静まる気がした。
四つ吸い、四つ止め、四つ吐く。胸の中の川は細く静かに戻っていく。耳の奥で、微かな脈動が私に合わせて整う。
――橋は揺れない。
明日も、基礎を積む。