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第4話 因果を返す者たち ― ギルドの掟

 翌朝、私は見慣れない天井を見上げて目を覚ました。梁は節の多い古木で、白壁には蝋燭の煤が淡く染みている。


 東向きの小窓から差し込む光は、薄布のカーテンを透かして床板に長方形の明るさを落とした。寝台は小さいが沈み込みは柔らかく、毛布は太陽と石鹸の匂いが混ざっている。胸の奥に残っていた硬さが、呼吸に合わせて少しずつほどけていく。


 昨夜の出来事が、順番を整えながら心に戻ってきた。


 家からの追放。夜の公園で差し伸べられた手。名を告げなかった黒衣の男の背に導かれて、辿り着いたこの場所――。


 夢と現実の境目にまだ薄い膜があるのに、ここで眠っていいのだと身体が先に納得している。私はワンピースの皺を手でなで、外套を椅子の背にかけ直し、顔を洗って髪を結わえた。


 鏡は小さいが磨かれていて、ぼんやりした輪郭の中に翡翠色の瞳だけがはっきりと在る。


 扉が二度、間を置いて叩かれた。


「起きたか」


 低く整った声がする。私は返事をし、扉を開けた。


 廊下側の光の縁に、男が立っている。昨夜は深いフードに隠されていた顔が、今は明るみに出ていた。


 漆黒の髪は朝の光を吸い込み、瞳は深い湖の底のように静謐で、どこか熱を秘めている。輪郭は彫像のように端正で、頬や顎の線には無駄がなく、唇は冷たさと柔らかさを同時に宿していた。


 昨夜の闇の中で声だけを頼りにしたときには、もっと年長の人物だと思っていた。けれど実際は、思ったよりも若い。


 その美しさと若さの落差に、胸の奥がどきりと跳ねる。


 私はとっさに胸に手を当てて、乱れる鼓動を隠そうとした。


「こっちだ」


 男は短く言い、私を先導した。


 広くはない食堂に入ると、温かな匂いが鼻を打つ。


 長卓の上には木の皿とカップが並び、大きな鍋からは湯気が立ち上っていた。焼き上がったばかりの黒パンが布にくるまれている。


 用意されていたのはそれだけ――パンと野菜の多いスープ。けれど、満ち足りた香りが空気を柔らかく包んでいた。


 すでに四人が席に着いていた。


 一人目は白銀の髪を腰まで垂らした女性。


 冷たい碧眼と黒のローブは鋭い印象を与えるが、その立ち姿は凛として揺るぎない。背筋は弓の弦のように張り、言葉少なながらも、誰もが自然に従いたくなる気配をまとっている。


「朝は糖と塩分。よく噛んで」


 そう言ってパン籠を押し出した彼女は、ヴェラと名乗った。威厳と静かな気遣いが同居していた。


 次に目に入ったのは、燃えるような赤い短髪の少女。


 金色の瞳は子猫のようにいたずらめいて輝き、頬には笑みを隠そうとしない。華奢な体つきだが、身のこなしはしなやかで油断がない。


「リディア。固いとこは任せて。……あ、今日は柔らかい。よし!」


 ひょいと私の皿にもう一切れパンを置く。その気安さと裏腹に、指先には刃物のような鋭さが潜んでいるのを直感した。


 その隣には、短く刈った金髪の男がどっかりと腰を下ろしていた。


 軍人らしい均整の取れた体格。灰色の瞳は感情を押し殺しているが、その沈黙の奥には、鍛え抜かれた体力と胆力が宿っている。


「ジーク」


 彼は名乗ると、大鍋を片手でぐいと持ち上げ、私の木椀へ豪快にスープを注いだ。熱い湯気が立ちのぼり、卓の空気が一気に温まる。


 鍋を戻す動作も力強く、頼もしい大盾のように確実だった。


 最後に、茶色の髪を几帳面に撫でつけた青年。


 黒縁の眼鏡越しの瞳は穏やかで、手には銀のペンを器用に転がしている。几帳面で頭の回転が速いのは一目で分かった。


「エリアス。よく眠れた?」


 優しく問いかけた彼は、パンを半分に割ってスープに浸しながら満足そうに頷いた。


 私は空いている席に腰を下ろし、黒パンを割る。香ばしい香りとスープの湯気が鼻腔をくすぐり、胃の奥がじんわりと温まった。


 冷え切っていた昨夜とは違う。ここには、確かに生きるための温度があった。


 食べ終えると、彼――黒髪の男が立ち上がり、長卓の端に指を置いた。


「時間だ。場所を移す」


 彼の一言に、皆が自然に腰を上げる。


 連れられて石造りの広間へ入る。奥の壁には王都の地図が掛けられ、ピンの色がいくつも刺さっている。糸が何本も渡されて、点と点が結び目で呼吸していた。ここはただの広間ではない。因果を返す計画が組み立てられる、仕事の場だった。


 黒髪の男が私の方へ向き直った。


「まずは俺からだ。俺はカイン。この拠点の指揮を預かっている」


 名が音になって私の胸に落ちる。昨夜、闇の中で差し伸べられた手がひとつの輪郭を持った。


 カインは短く間を置き、広間全体に声を通す。


「ここにいる者は――俺を除いて、かつて“因果のカード”に名を記された者たちだ。誰かの罪、誰かの背徳、誰かの怠慢。いずれによって人生を折られた者たちが、今は『因果を返す者』として動いている。世間は“ざまぁギルド”と呼ぶが、それは向こうの呼び名だ。看板は持たない。仕事だけを置いていく」


 リディアが肩をすくめる。


「“ざまぁ”って笑うためにやってるんじゃない。返すため。覚えといてね」


「呼び方はどうでもいい」


 カインは結論だけを置く調子で言う。


「必要なのは、掟と手順だ。よく聞け。


 ひとつ、三系統――証言、記録、物証――の三つが揃うまで断罪しない。

 ふたつ、私情で動かない。

 みっつ、身元は秘す。

 よっつ、奪ったものは返すが、余計なものは奪わない。

 いつつ、仲間は見捨てない。


 ――以上だ。これを外せば、俺たちは“返す者”ではなくなる」


 私は背筋を正し、胸の内で静かに復唱した。


 証言、記録、物証――三系統。私情で裁かない。秘す。返し、奪わない。見捨てない。


 彼の言葉に、胸の奥で乾いた石が一つ、きちんと積まれる音がした。


 私の鼓動が一つ大きく打つ。


 白銀の髪のヴェラが一歩進む。


「ヴェラ。副団長。かつて宮廷魔導師だった。王妃の命で禁呪に手を貸し、仲間を失った。沈黙の報いは遅れてやってきた。今は“流れ”の補強と制御を担当している。証言・記録・物証の三系統が揃うまで、あなたの“橋”が乱されないよう支えるのが私の仕事」


 リディアがひょいと前へ。


「リディア。前職は暗殺ギルドの犬。妹を人質にされて、やりたくない仕事を山ほどやった。今は違う。潜入、尾行、撹乱。必要があれば刃も持つけど、最後の最後。できるだけ笑って終わらせるのが好き」


 ジークが短く息を吸ってから言う。


「ジーク。軍上がり。上官が戦功のために民を捨てた時、止められなかった。俺の罪だ。今は前に出る。遮る、抱える、引く。返すための盾」


 エリアスが眼鏡を押し上げ、銀のペンを親指で転がす。


「エリアス。元は宮廷書記官。見て見ぬふりの印をたくさん押した。黙るのは共犯だと、遅れて学んだ。今は“書く・照合する・残す”を担当。“なかったこと”にさせないための手仕事だよ」


 最後に四人の視線が私に集まった。


「私はセリナ・フォン・アーデルハイト……いえ、セリナです。昨日まで公爵家の娘でした。アウグスト王太子殿下に婚約破棄を告げられ、冤罪を着せられ、家からも追放されました」


 声はわずかに震えた。

 けれど口に出したことで、その重さは変わる。


 ヴェラが黙って頷き、リディアは興味深そうに目尻を下げ、ジークは無言で拳を握り、エリアスは記録帳にさらりと一文を書きつけた。


 カインが長卓に木箱を置き、蓋を開けた。


 中には何枚もの黒板が静かに重なっている。

 そのうちの一枚を取り出すと、漆黒の表面が灯りを呑み込み、かすかな呼吸のように脈を打った。


「これは――因果カードだ」


 カインの低い声が、広間の空気を引き締める。


「依頼ごとに一枚、新たに用意する。依頼人に握らせることで、絡んだ因果を“測る”ことができる。

 証言、記録、物証――三系統が揃ったとき、俺たちは断罪に動く」


 彼は黒板を持ち上げ、私の目の前に示した。


「因果カードには依頼人の名と、告発される側の名が刻み込まれる。二つの名を結ぶためには“橋”が必要だ」


 黒曜石の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。


「カードは名前を刻むだけの器じゃない。橋とは、訴えを確かに渡し、証言や物証の声を正しく繋ぐための通路のことだ。依頼人の思いを受け止め、言葉にできなかった証言を留め、現場に残る痕跡の“声”を拾う。握られた手の温度や震えまでも、記録として刻む」


カインの声が強まる。


「――そして、その橋になるのが返却者。お前には、その素質がある」


 私は無意識に息を止めていた。

 箱の中に眠る黒板の束は、これから無数の因果を吸い込むのだろう。

 その一枚を受け取ることは、背負うということ。


 それでも――伸ばした指は止まらなかった。


 私は両手でカードを受け取った。黒が、私の魔力の縁に触れ、わずかに蒼に脈打つ。胸の奥の歯車がかちりと噛み合い、静かな熱が広がる。


「……私が、その橋に」


 カインは言い切った。


「お前は“刃”に向いていない。だからいい。刃は他にいる。お前は“橋”になれる。魔力を髪の毛より細い糸に落とし、必要な場所へ“だけ”渡す。返却者は橋そのものだ」


 胸の奥に、昔からの疑問がまた浮かぶ。


 どうして私は、自分を温めることさえできないのだろう――。


 ヴェラが静かに応じるように言った。


「自分の体に魔力を落とすのは難しいの。肉体は常に魔力を循環させているから、外から流し込めば拒絶が起きる。暴走すれば命を削るわ。だから“他者のために媒介する橋”こそ、あなたの魔力にふさわしい」


 ヴェラが小さく微笑んだ。


「橋は、揺らすことも、折ることもできる。あなたは揺らさない。折れない。――それができるなら、ここに座る資格がある」


 昨日の夜まで、世界中に問われ続けていた問いが、今、私の掌の上で形を変える。


 私は息を吸い、うなずいた。


「やります。私は橋になります」


 大魔力であっても、自分ひとりのためには使えない。


 ーーだからこそ、私は橋になる。奪われたものを元へ返すために、人と人とを繋ぐために。

 因果カードはただ名を刻むだけでなく、依頼人の思いを保存し、三系統の因果を結ぶための道標にもなるのだと、私は理解した。


 ヴェラが小さな木箱を開き、封蝋と印環、短剣を取り出した。


「誓約を」


 カインがまだ誰の名も刻まれていない黒板を取り出す。

 それは――返却者となる者だけに与えられる、誓約用の因果カードだった。


 長卓の上に置かれた板の隅に、赤い蝋が垂らされる。

 私は指先を掠め、そこに小さな赤い滴を落とした。


 エリアスが印環を押す。黒い板の表面に、赤い蝋がじゅ、と沈み込み、小さな紋章が刻まれた。

 両岸に立つ柱と、その間に弧を描く橋――返却者の証。


 私はその紋を、息を止めて見つめた。

 小さな印なのに、胸の奥に杭のように刺さる。


「このカードは、お前自身の“お守り”だ」

 カインの声が響く。

「お前が橋である限り、印はお前を守る。だが――刃になろうとすれば、焼ける」


「焼かせません。……焼きません」


 震えながらも言い切った言葉は、今までの私の声とは違っていた。

 ずっと“力は禍”だと恐れられてきた私に、「必要だ」と告げてくれる声。


 因果カードを両手で抱きしめた瞬間、心臓がひとつ大きく跳ねた。

 胸に置いた手の下で、冷たい黒がかすかに蒼く脈打ち、熱が広がっていく。



 午前の見学は、文書庫と地図室から始まった。棚に並ぶ綴りの背には番号と簡潔な見出し。封蝋の色で種別が分かれ、湿度計が静かに揺れる。


 壁一面の地図にはピンと糸――王都の表と裏の流れが重ねられていた。


 道具庫では、縄、滑車、楔、油紙、灯火、白墨といった地味な道具が並んでいた。


「派手は目立つ。目立つと死ぬ」


 リディアが肩を竦め、私の腰に合う小さな革ポーチを選んでくれた。


「最初はこれ。重くない、入れ過ぎない。だって“橋”でしょ?」


 ジークは避難路の図面を広げ、要の箇所を指で押さえる。


「退避は絞る。迷わせないことが、最短の救いだ」


 ヴェラは地図室の壁に掛けられた王都の地図を示し、点と線の複雑な網をなぞった。


「因果は点ではなく、流れ。一本の糸に囚われず、全体を見なさい。橋は常に川全体を渡すものよ」


 エリアスは記録帳を開き、整然とした文字の列を指先で示した。


「これは“記録書”。断罪は証言や物証と突き合わせて進む。曖昧なままでは、因果は歪む。僕の役目は、それを確かめて残すことだ」


 そう言うと、彼は文書庫の奥に並ぶ小さな木箱を引き寄せた。蓋を開けると、中には黒板が何枚も収められている。


 因果カード――既に名を刻まれたものだ。


 表面には依頼人の名と告発された者の名が並び、その二つの文字を結ぶように淡い痕跡が走っている。ひとつひとつが、過去の因果を返した証。


「これらは、僕らが動いた依頼の“記録”でもある。名は消えない。燃え尽きても、ここに残る」


 エリアスの眼鏡の奥が、淡く光った。


「だからこそ、書き留める手を緩めない。なかったことにさせないために」



 夕刻、再び広間に戻ると、カインが簡潔に締めくくった。


「今日の導入はここまでだ。明日から訓練に入る」


 食堂には再び食事が並べられた。麦粥に塩漬け肉の薄切り、果実が添えられている。朝より少しだけ豪華だが、派手さはない。


「今夜は果実がある。贅沢よ」


 リディアが目を輝かせて手を伸ばす。


「塩加減、昨日の肉より良い」


 エリアスが真顔で分析する。


「熱い飯があるだけで充分だ。世の中、それで生きていける」


 ジークは豪快に肉を口に運ぶ。


 ヴェラは果実を半分に割って私に差し出す。


「初日の祝福。受け取りなさい」


 私は両手でそれを受け取った。酸味と甘みが広がり、胸の奥まで満たされる。


 家族と食卓を囲んだ記憶がほとんどない私にとって、このささやかな夕飯は、どこか懐かしく温かいものだった。


 夜が更ける。私は小さく頭を下げ、自室へ戻った。


 机の上に、誓約の因果カード――私だけに与えられた“お守り”を置く。

 触れた黒は体温でわずかに曇り、蒼い脈が一度だけ灯った。


 それはまだ誰の名も刻まれていない。

 けれど、この印がある限り、私は返却者としてここに座る資格を持つ。

 刃にはなれない私の力を、正しく使うための証。


 錫の缶の蓋を撫でる。中身はもう少ない。だが、足りないのは菓子ではない。昨日まで欠けていた“居場所”だ。


 明朝、訓練。奪われたものが帰るための橋。私はその橋になる。


 橋のかけ方、渡らせ方、引き上げ方――体で覚える。掟は胸に入った。仲間の顔も、配置も、道具の重さも、少しずつ身になり始めた。


 “ざまぁ”と呼ぶ声は、外に任せる。私の仕事は、返すことだ。奪った場所へ、奪われたものを。


 寝台に腰を下ろし、毛布を引き寄せる。暗がりの中で、机の上の因果カードが微かに脈打った気がした。


 私は瞼を閉じ、その光を胸の奥で受け止めた。


 ――明日。返し始める、最初の一歩。

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