第3話 影の手 ― 因果を返す誘い
王都の夜道を、私は当てもなく歩いた。
門が閉ざされる鉄の響きが、まだ耳の奥で鈍く反響している。
父の断罪、母の冷笑、兄の嘲り――その光景が瞼の裏で何度も繰り返され、胸の奥を針で刺すように痛めつける。
私は――アーデルハイト公爵家から追放された。
身に着けているのは灰色の粗末なワンピースと、下女の予備だという薄い外套、それに擦り切れた布靴。
公爵家の令嬢として育った私には似つかわしくない服装だ。
石畳を踏むたびに靴底が硬さを伝え、外套の隙間から冷気が容赦なく滑り込む。
豪奢なドレスや宝飾は没収され、手元に残されたのは、ただ一つの錫の菓子缶だけだった。
掌で包み込んでいるそれは冷たく、まるで私自身の未来のように重く沈んでいる。
大通りにはまだ祭りの熱が残っていた。
酒場の扉は開け放たれ、歌声と笑い声が通りまでこぼれてくる。
角の屋台では串焼きの香りが漂い、学生たちは卒業を祝って杯を掲げていた。
リュートの音色に合わせて踊る影。
紙灯籠の橙色が風に揺れ、石畳に柔らかい光の模様を散らす。
人々の笑顔が眩しい。祝福の声が羨ましい。
だが、私にとってそれはすべて遠い。
まるで透明な壁の向こうから覗いているようで、温度も香りも、心に届くことはなかった。
「……私は、終わったのね」
呟いた声は夜風に攫われ、誰の耳にも届かない。
王妃としての未来も、家族の庇護も、居場所さえも失った。
残されたのは身一つと、この冷たい缶だけ。
人の熱を避けるように、大通りを外れた。
裏通りは暗く、窓は閉ざされ、街灯もまばらで、石壁には湿った苔が広がっている。
遠くの鐘が時を告げるが、音は冷たく、孤独を際立たせるだけだった。
どれほど歩いたのだろう。
気づけば、私は小さな公園に辿り着いていた。
昼間なら子どもたちの声が響いていたはずの場所も、夜は沈黙に支配されている。
中央の噴水は水が枯れ、苔が石の隙間にびっしりと張り付いていた。
並んだ樫の木々は黒い影を地面に落とし、錆びた鉄製のベンチが三つ、不自然なほど整列している。
私はその一つに腰を下ろした。
鉄の冷気が背中から骨へと伝わる。
外套では寒さを防げず、冷気が肺にまで届いて、呼吸のたびに胸が痛んだ。
ポケットから錫の缶を取り出す。
掌で包むと、ひやりとした感触が皮膚に張りついた。
中には私が焼いた菓子が数枚だけ入っている。
家の中で唯一、自分の心を慰められた時間の証だった。
粉糖の甘い匂いが微かに立ち、思わず瞼を閉じる。
幼い頃、火加減に集中して生地を練る時間だけは、完璧という鎧を脱げた。
笑う母の代わりに、焼き上がる香りが心を支えてくれた。
だが今、その記憶でさえ冷たく色褪せていくように思える。
「……全部、奪われた」
努力も誇りも、冤罪の一言で瓦解した。
涙は出なかった。泣き切ってしまったのだろう。
胸に残るのは空虚だけで、そこに風が吹き込むたび、冷たい音が鳴る。
――そのとき。
気配が揺れた。
背後の樫の木の影から、長身の人影が静かに現れた。
黒衣のローブに身を包み、フードを深く被って顔を隠している。
歩みは驚くほど音がなく、まるで夜そのものが形を取ったかのようだった。
私は思わず身を固くした。
「……誰?」
返ってきた声は低く、落ち着いていた。
夜気よりも冷たいのに、妙に胸に残る温度を帯びている。
「――お前を探していた」
「……探していた? 私を?」
心臓がひときわ強く跳ねた。
「冤罪で切り捨てられた娘がいると聞いた。
セリナ・フォン・アーデルハイト、お前だ」
私は息を呑む。
「なぜ……私?」
「因果は巡る。歪みは返されねばならない」
――因果は巡る。返さねばならない。
耳の奥で、あの時に聞こえた囁きが蘇る。
庭園で風に混じって届いた、不思議な声。
「……あなた、一体何者なの?」
問いかける声は震えていた。
答えを求めているのか、それともただ理由が欲しかったのか。
フードの奥で、月光がわずかに瞳を照らした。
深く暗い、だが揺るぎない光。
「今は名乗らない。お前が歩むと決めたときに、教えよう」
素っ気ない答え。
それでも、その言葉の奥には確かな意志があった。
「……私はもう何も持っていない。
家も未来も、立場も……そんな私に、何ができるの?」
声は掠れていた。
心の奥底で、矛盾がうずく。
莫大な魔力を抱えているのに、自分を温めることも、荷を軽くすることもできない。
努力を積んできたのに、ただ震えるしかできない自分。
だが男は一歩近づき、冷ややかな夜気を押しのけるように言った。
「お前の魔力は重荷じゃない。――誰かを救うための力だ」
その瞬間、胸の奥で凍りついていた疑問が、かすかにほどけた。
――私の力は、私自身のためではなく、“他者のために”意味を持つのかもしれない。
「……本当に、私でも?」
「歩み出すかどうかは、お前次第だ」
差し出された手。
硬く、しかし温かい掌だった。
剣を握り、血と汗を浴びてきた者の手。
それなのに、不思議と拒むことができなかった。
私は震える指を伸ばし、その手を取った。
掌が触れた瞬間、胸の奥でかすかな火がともった。
「……これから、私はどうすればいいの?」
「案内する」
彼は私を導き、王都の裏通りへと歩き出した。
◇
入り組んだ路地を迷いなく進む。
三度左に曲がり、石段を下り、古い水路の橋を渡り、さらに右へ。
建物はどんどん古び、窓の明かりは消え、月光さえ遮られていく。
私はただ必死に背を追った。
足音は布靴の擦れる音ばかりで、周囲の闇は深く沈んでいた。
やがて、蔦の絡まる石造りの建物の前に辿り着いた。
外から見ればただの倉庫にしか見えない。
男は懐から小さな金具を取り出し、扉に触れる。
かすかな金属音が響き、扉は音もなく開いた。
「……鍵は?」
「必要なのは“印”だ。持ち歩くのは合図だけでいい」
中は蝋燭の明かりが点々と揺れ、古い木と革の匂いが漂っていた。
廊下には厚い絨毯が敷かれ、足音は吸い込まれる。
案内された部屋には小さな暖炉が燃え、机と椅子が整然と並んでいる。
秘密を守るための静謐さが漂い、息を呑むほどの整然さだった。
「ここは……?」
「俺たちの拠点のひとつだ。明日、仲間に会わせる。今日は休め」
そう言うと、男は扉のそばにある板を軽く叩いた。
ぱし、と乾いた音。
壁の裏から小さな機構が動き、棚の一段が押し出される。
そこには洗いざらしの寝間着と、厚手の毛布、真新しい石鹸と手拭いが揃っていた。
「着替えはそこに。湯は隣で汲める」
最低限の説明を終えると、男は立ち去ろうとする。
その背に、思わず声が漏れた。
「待って……どうして、私に手を差し伸べたの?」
男は振り返らず、低く答えた。
「お前の力があれば――救われる人間が確かにいる」
言葉は低く、淡々としていて、誇張は一つもない。
なのに、不思議と胸の中心で焔になった。
冷たい夜の名残を溶かし、血と呼吸をふたたび循環させるような、小さく確かな熱。
「……私の力で、誰かが……救われる?」
震える声が自分でも驚くほど熱を帯びていた。
これまで「禍」としか呼ばれなかった力が、初めて“誰かのために”意味を持つのだと、胸の奥で火花のようにきらめいた。
「因果は“返す”だけじゃない。返した先に、空いた穴を埋める手がいる。正すだけでは、壊れた秩序は戻らない。お前の魔力は、その“埋める”に足る」
扉が閉まる。
部屋に残るのは薪の爆ぜる細い音だけ。
私はしばらく立ち尽くしていた。
寝間着や毛布、石鹸や手拭い――そんな細やかな配慮まで、最初から用意されていたことに気づいて、胸の奥がじんわりと熱くなる。
家では誰一人、私に温もりを残そうとしなかったのに。
“休め”と言ってくれた声と、この用意が重なり、冷え切っていた心の奥で小さな火が揺れた。
私は立ち尽くしたまま、呼吸をひとつ、ふたつ。
重ねて脱力する。
外套を外し、埃を吸ったドレスの襟元に指をかける。
布の音が部屋の静けさに吸い込まれ、私の輪郭が一枚ずつ剥がれていく。
洗面器に湯を注ぐと、鉄の匂いが少し和らいだ。
顔を拭き、手を洗い、指の節に残る強ばりを湯に沈める。
石鹸の匂いが、ざらりとした今日一日の手触りをふっと軽くする。
寝間着は柔らかく、縫い目は粗いが、肌を刺さない。
毛布は思いのほか厚い。
小さな寝台に腰を下ろし、足を引き上げる。
マットレスがきしみ、身体が沈む。
私は外套のポケットから錫の缶を取り出し、机の隅に置いた。
蓋の縁に白い粉がかすかに残っている。
暖炉の火が、缶の側面に小さな光の波紋を走らせた。
「……ありがとう」
誰にではない。
侍女に。家令に。
それから、月光の下で手を差し出した男に。
言葉は小さく、暖炉の火に吸い込まれる。
小さな寝台に横たわり、瞼を閉じる。
心臓はまだ速く打っている。
歩き続けた脚がじんじんと主張し、両肩の奥で冷えが遅れてほどけていく。
耳の奥であの言葉がふたたび響いた。
――因果は巡る。返さねばならない。
返す先は、もう目の前にあるのかもしれない。
眠りは浅く、しかし確かに訪れた。
明日の朝、私は“完璧な淑女”ではなく、“返す側”として目を覚ます。
そう思えた瞬間、胸の火はようやく、灯りではなく、暖かさになった。