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日常編⑩ 雨宿りと半歩の心

 依頼調査の帰り道だった。

 空に積もっていた鉛色の雲が、唐突に裂けた。


 ぽつ、ぽつ――冷たい滴が頬に落ちるや否や、あっという間に大粒の雨へと変わる。

 石畳を叩く音は瞬く間に大合唱となり、通りを行く人々は悲鳴のような声を上げてそれぞれの方向へ駆け出した。


「っ……走れ!」


 カインの低く鋭い声が響く。


 私は因果カードを落とさないようにしっかり握りしめ、全力で石畳を蹴った。雨脚は凶暴で、瞬きの隙間に視界を覆い尽くす。駆け込んだのは、古びた倉庫の軒先だった。腐食した鉄の看板が軋み、瓦屋根の下で雨が跳ね返る。


 息を切らし、背を壁に預けたその瞬間――黒い外套が雨を裂き、荒々しい水音を背負ってカインが飛び込んでくる。私のすぐ横に立ち、濡れた肩から雫が滴り落ちる。


「カイン!」


「ああ。他の連中は別の軒に入ったようだ」


 肩で息をしながら、カインは濡れた外套を外すこともなく、ただ深く吐息をついた。

 雨音が轟々と響き渡り、世界がすべて水に支配されたかのようだった。

 それほどの喧噪の中、二人の呼吸だけがやけに近く感じられる。


「……寒いか?」


 低く問われて、私は一瞬きょとんとする。


「え……?」


「中に入れ」


 そう言うなり、彼は片腕で外套の片側を広げ、私の肩をぐっと引き寄せた。

 濡れた布の匂いと、彼自身の体温が入り混じって押し寄せる。

 思わず息を呑むと、胸の鼓動が跳ねる音が、雨音に紛れず聞こえてしまいそうだった。


「……少しはましだろう」


 彼の声はいつもより低く、しかし不思議なほど柔らかい。

 視線を逸らしたのは、頬が熱を帯びているのを悟られたくなかったからだ。


 ――そのとき、不意に彼が口を開いた。


「……昔、仲間を一人、失った」


 雨の轟きが一瞬遠のいたように感じた。私の耳は彼の声だけを捉え、ほかの音をすべて押し流してしまった。


 私は言葉を返せず、ただ彼を仰ぐ。

 濡れた前髪の隙間から覗く横顔――張りついた黒髪が影を落とし、普段の冷徹さの奥に隠された傷を映し出している。


 問いかけたいのに、声が出ない。

 ただその沈黙のまま、目を逸らさず彼を見つめた。


 カインは短く息を吐き、視線を雨の帳へ逸らした。まるで胸の奥に押し込めてきた痛みの記憶を呼び起こすように、その眼差しは遠い過去を映していた。


「俺の判断が遅れた。退路を確保する前に突撃を許し、包囲された」


 その声は低く、重く、まるで石を水底へ落とすように胸に沈んでいく。


「……」

「まだ若かった。十六……いや、十七になったばかりだったはずだ」


 言葉の端にわずかに震えが混じる。

 いつも冷静で鋼のような決断をする彼が、こんな風に過去を口にするのを、私は初めて聞いた。


「弟みたいなやつだった。無鉄砲で、よく俺に叱られて……それでも、笑うと子供みたいに無邪気で。……助けられなかった」


 その吐息は雨に溶け、消えそうなほど弱々しい。

 彼が抱えてきた痛みの深さが、ひしひしと伝わってきた。


 カインの外套の中、肩を抱き寄せる力がわずかに強まった気がする。

 言葉はなくとも、その手から彼の痛みが滲み出し、胸の奥にじんと響いてくるようだった。


 私はただ彼を見上げ、続きを待つ。

 やがて、低く掠れた声が落ちてきた。


「……それからは、拾うようになった」


 瞼を瞬かせる。


「拾う?」


「ああ。味方の位置、敵の動き、退路、風向き……そして仲間の足取りまで」


 思わず息を呑む。


「剣を握る力が鈍れば疲れている証だ。歩調が乱れれば、心が折れかけている。肩の揺れひとつで、どこまで持つかが見える。……だから、俺は拾うんだ。小さな兆しを。誰も置いていかないために。――それが、残された俺の償いなんだ」


 雨音が一層強まったように思えた。けれど私の耳には、彼の声だけが鮮明に届いていた。


 ――彼は、私たちの足音や揺れまでも拾い取っていた。

 その想いが胸を熱くさせる。

 ただの指揮官としてではなく、命を預かる者として。

 その眼差しの中に、自分の小さな歩みさえも拾われている――そう思うと、守られているような不思議な安堵が胸に広がっていった。


「カイン」


 気づけば声が零れていた。


「……あなたは、優しいのね」


 彼は何も言わず、ただ静かにこちらを見た。黒曜石の瞳が雨の帳の奥でわずかに揺れる。


「仲間を守ろうとするのを償いだと言うけれど……私はそうは思わないの。過去を背負って続けるその行いは、罰じゃなくて――生きている仲間への想いでしょう。それを私は、優しさだと思うの」


 言葉が落ちたあと、しばしの沈黙が訪れた。


 屋根を叩く音は絶え間なく響いているのに、この狭い軒下だけは別世界のように切り離されていた。

 カインは視線を逸らしたまま、口を開こうとしない。

 肩に置かれた手は動かず、ただ静かに重みを伝えてくる。

 その沈黙は答えの拒絶ではなく、胸の奥に沈んだ何かを揺らすための時間のように思えた。


 やがて、彼の黒曜石の瞳がゆるやかにこちらへ戻る。

 その奥で、ほんの刹那、影が揺れた。

 言葉にならない想いが、確かにそこにあった。


 私はそっと息を吸い込み、声を重ねる。


「その子を失ったことは消えない。でも……だからこそ、カインは誰よりも強くて、優しい。私は、そう思う」


 再び沈黙が落ちる。

 雨音と鼓動だけが世界を満たし、倉庫の軒先は時を止めたように静まり返った。

 カインは、呼吸を整えるようにわずかに肩を揺らす。

 その横顔には、痛みと共に、拭えぬものを抱え続ける強さが刻まれていた。


 その沈黙は冷たさではなく、深く沁みわたる余韻。

 言葉にできない了承が、確かに二人の間に置かれていた。


 やがて、雨脚は徐々に弱まっていく。

 外套の内に身を寄せていた私がそっと抜け出すと、彼の手が肩から離れた。

 その一瞬、わずかな名残惜しさが胸を締めつける。


 雲間から月が顔を覗かせ、濡れた石畳を白銀に照らしていた。


「行こう」


 低く告げた声は、雨に洗われた夜気に溶け込むように柔らかかった。


「ええ」


 二人並んで外へ踏み出す。名残の雨粒が肩を打ち、思わず身をすくめたとき――彼がふとこちらを振り返った。


「……夜は危ない。離れるな」


 短く、不器用な言葉。けれどその響きは、胸の奥に温かく残った。

 思わず笑みがこぼれる。


 雨はほとんど上がり、空気は澄み渡っていた。冷たいはずなのに、胸の奥まで温かく広がっていった。


 ――心は、彼の隣に、ほんの半歩だけ寄っていた。

 そのわずかな近さが、胸の奥にひそやかな鼓動を芽吹かせたように感じられた。

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