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日常編➈ ふたりの金色

 朝食の皿を重ねて流しに運び、卓の上を拭いているときだった。扉を叩く軽やかな音が響く。

 打つ音は細く短く、けれどためらいがなくて、小さな鈴の音みたいに弾む。

 誰だろうと首を傾げ、私は立ち上がった。


「はい、どちら様ですか?」


 扉に手をかけ、いつものように用心して一拍置く。叩いた余韻と沈黙の気配を測り、そっと細い隙間を作った。

 そこに立っていたのは、陽光を抱えたような少女だった。肩のあたりで揺れる栗色の髪。透きとおる金色の瞳。どこかで見覚えがある――そう思った瞬間、彼女がぱっと笑った。


 「おはようございます!お姉ちゃんいますか?」


 両腕に抱えた籠から、甘い香りがふわりと漂ってきた。白布の端から、焼きたてのバターと卵の香りがふわりと逃げていく。


 「イリーナ!? あんた、こんな街はずれに一人で来たの!?」


 赤い影が私を追い越し、その勢いのまま少女をぎゅっと抱きしめた。


 「だって……お姉ちゃんに会いたくて」


 「会いたくて、じゃない!ここは危ないんだ、ひとりで歩く道じゃないの!」


 叱りながらも、リディアの腕は妹を抱きしめたまま離れない。その手の強さに、私は胸の奥が温かくなる。

 背後からヴェラが静かに顔をのぞかせた。


 「前に会ったときより背が伸びたわね。いくつになったの?」


 「十五です」


 イリーナが少し誇らしげに答える。そして小さく首をかしげて、「……お邪魔でしたか?」と問う。


 ヴェラはふっと目を細め、やわらかな声で返した。

 

「大歓迎よ。ただし、来るなら誰かと一緒じゃないとダメ」


 そのやりとりの横で、カインが音もなく歩み寄り、白布のかかった籠からマドレーヌをひとつつまんで口に運んだ。無表情のまま噛みしめるが、目尻がわずかに緩んだのを私は見逃さなかった。


「団長、おはようございます。お味はどうですか?」

 

 イリーナが恐る恐る尋ねる。

 カインはほんの一瞬だけ視線を落とし、淡々と答える。


「甘味は士気を保つ。良い焼きだ」


 もっともらしい口ぶりに、イリーナはほっと胸をなでおろす。

 リディアがイリーナの耳元に顔を寄せ、くすくす笑いながらそっと教える。


「カインは隠しているけど、甘党なんだ」


 イリーナは目をぱちくりと丸くし、姉を見上げる。カインはわずかに目をそらし、何事もなかったように、また菓子へ手を伸ばした

 その一連のやりとりに、私は堪えきれず口元を押さえる。


「ふふ……。お茶を用意するわね。マドレーヌには紅茶が合うわ。こちらへどうぞ」


 そう言ってイリーナから籠を受け取り、食堂へ案内する。リディアはその間も妹の手を握ったまま離さず、椅子に座らせるときも当然のように隣に腰を下ろした。

 私は茶葉をポットに落とし、湯を注ぎ込む。立ちのぼるのは、甘やかで深い紅茶の香りだった。

 振り返れば、リディアは妹の肩を軽く抱き寄せ、からかいながらも目尻をやさしく緩めていた。イリーナがまだ少し頬を紅潮させたまま、姉の隣でちょこんと腰掛けている。


 この穏やかな光景を前に、胸の奥がじんわりと温かくなる。暗い過去を抱えていても、今ここにあるのは確かな幸せの一幕だ――私はそう思いながら、湯気の立つポットを卓へと運んだ。


「セリナは初めてよね。私の妹のイリーナ」


 リディアが紹介すると、イリーナはにっこり笑い、ぴょこんとお辞儀をした。


「イリーナです。はじめまして」


 私は微笑んで軽く会釈を返した。


「セリナよ。最近、新しくこの仲間に加わったの」


 イリーナはきらきらと目を輝かせて私を見上げた。


「すっごく綺麗な人……。お姫様みたい」


 リディアがくすりと笑い、からかうように肩をすくめる。


「お姫様だったのさ、最近までね」


 私は何も言わず、ただ静かに微笑んだ。


「お姉ちゃんがお世話になってます」


 イリーナがどこか大人びた言い方をすると、リディアは思わず吹き出した。


「生意気なことを言うようになったね」


 笑い声が卓の上に広がり、紅茶の香りと混じり合って、ひととき柔らかな空気を作り出していた。

 そのとき、イリーナが姉の袖をきゅっとつまみ、甘えるように声をかけた。


「お姉ちゃん、街に行こうよ。市場を歩きたいの」


 リディアが少し面食らったように目を瞬かせると、イリーナはぱっと視線をセリナとヴェラに向け、言葉を足した。


「そうだ、セリナさんとヴェラさんも一緒にどうですか?」


 私は思わず笑って首を傾げる。


「せっかくの姉妹水入らずなのに、いいの?」


 イリーナは顔を明るくし、迷いなく答えた。


「大勢の方が楽しいです!」


 ヴェラは少し考えてから、静かにうなずく。

 

「足りないものの買い出しもあるし、私も一緒に行っていいわよ」


「じゃあ、ついでに美味しい甘いものでも食べようか」


 リディアが悪戯っぽく笑うと、卓の端に座っていたカインの瞳が一瞬だけ揺れた。無表情を保ったままなのに、どこか羨ましそうな気配が伝わってきて、私は笑みを噛み殺した。


 ◇


 市場通りに出ると、昼前の光が石畳に反射して眩しかった。人々の声と香辛料の匂いが入り混じり、空気そのものが賑やかに揺れていた。

 リディアは当然のようにイリーナの手を握り、決して離さない。その横顔はいつもの挑発的な笑みではなく、少し真剣で、どこか守りの強さが滲んでいた。


「わあ、見て!」


 イリーナが声を上げ、色とりどりの布や小物を並べる屋台へ駆け寄った。


「走るな、危ない!」


 リディアが慌てて追いかける。任務のときには絶対に見せない顔だ。まるで普通の姉が、妹を追いかけるその姿。


 屋台には鮮やかなリボンが束ねられていて、イリーナは赤い一本を手に取った。


「これ、買おうかな。お姉ちゃんの髪の色と同じだから」


 リディアは一瞬だけ言葉を失い、それから小さくため息をついて笑った。


「あんたったら……。仕方ない、買ってあげる」


 露店のおばさんがにこにこと袋を手渡しながら言った。

 

「よく似てるね、姉妹かい?」


「はい! 自慢のお姉ちゃんなんです」


 イリーナが胸を張って答えると、リディアはくすぐったそうに視線を逸らした。


 果物の屋台では、切り分けられた柑橘の試食が差し出された。イリーナが弾む声で「お姉ちゃんも食べて!」と差し出す。

 だがリディアは受け取らず、そっと押し返した。


 「あんたが食べな。好きでしょ?」


 イリーナは照れ笑いしながら口に放り込む。その頬のふくらみを見て、リディアは目を細める。


 やがて私たちは甘味処へと足を運んだ。木枠のガラス越しに並ぶケーキは、赤や白や琥珀色にきらめき、まるで宝石のようだ。

 リディアは妹に微笑を向け、小さく頷いた。


 「好きなもの選んで」


 色とりどりのケーキが卓に並んだとき、イリーナがふと思い出したように口を開いた。


 「前にここで、お姉ちゃんが私の誕生会を開いてくれたんです。……その時は全然お金がなかったから、二人でひとつだけケーキを頼んで……。でも、お姉ちゃん、ほとんど食べなくて、私に食べさせてくれて」


 リディアの手が、一瞬だけ膝の上で強く握られた。


「あの頃は、生きるのに精いっぱいだった。辛い思いをさせて、ごめん」


 イリーナは首を振り、真っ直ぐに姉を見上げる。


「お姉ちゃんがいたから、それだけで幸せだったよ」


 その言葉に、リディアはわずかに目を伏せた。

 私は、その沈黙の奥に彼女の思いを感じ取った気がした。暗い路地で剣を握りしめ、妹だけは笑っていてほしいと願い、それを支えに立ち続けてきたのだろう。血に汚れ、光から遠ざかりながらも、必死に妹の笑顔だけを守ろうと踏みとどまってきたのだ――そう思えた。


「……イリーナ」


 名を呼ぶ声には、いつもの鋭さはなかった。長く張りつめてきたものが、ほんの少しほどけていくように聞こえた。


 イリーナが微笑む。その笑みに、深い感謝と愛情が宿っているのを私は見た。リディアはきっと、その表情に報われるような温もりを抱いたに違いない。


 私は紅茶のカップをそっと置き、二人のやり取りを見守っていた。

 その会話は、他の誰も触れることのできない姉妹だけの宝物のようで、私はただ静かに耳を傾けていた。


 けれど卓の上には甘い香りが満ち、場の空気は少しずつ和らいでいく。


「さあ、いただきましょう」


 そう言って私が皿を押しやると、イリーナは小さく頷き、どこか遠慮がちにフォークを手に取った。リディアはそんな妹を横目で見つめながら、いつものように自分の分を妹の皿に少し移そうとする。


 「また……。お姉ちゃん、食べなきゃ」


 イリーナが苦笑まじりに抗議する声に、リディアは首を振り、観念したように笑った。


 私はその笑い声を聞きながら、胸の奥がじんわりと温まるのを感じた。

 この姉妹の間に流れる絆の強さこそ、リディアを生かしてきた力なのだろう。


 ◇


  再び拠点に戻るころには、窓の外に夕暮れが滲んでいた。石畳を渡る風は冷たく、街灯に火が入るたび影が長く伸びる。台所では鍋の湯気が立ちのぼり、肉と香草の匂いが廊下にまで広がっていた。


 イリーナが袖をきゅっとまくり、「お手伝いさせてください」と言う。

 声には張りがあり、十五歳のあどけなさと、年齢以上の落ち着きが同居していた。皿を運ぶ姿はぎこちないけれど真剣で、その様子にエリアスが目元に静かな笑みを浮かべる。ジークは大きな背を壁に預け、まるで妹の成長を見届ける兄のように目を細めていた。


 その夜の食卓は、ほんの少し豪華だった。焼きたてのパン、香草を効かせた煮込み肉の大皿、季節野菜のロースト。デザートには、蜜をからめた果実のコンポートと、イリーナが持ってきたマドレーヌが並び、卓をひときわ華やかにしていた。皆が揃い、卓を囲んで笑い声を交わす光景は、それだけで特別な祝祭に思えた。

 リディアは終始、妹の隣に座り、何度も皿の中身を分け合いながら、普段より柔らかい表情を浮かべていた。妹の笑い声を聞くたびに、リディアの金の瞳は緩んだ。


 食事がひと段落したとき、リディアがふと声を落とした。


「イリーナ、毎日楽しい?」


 何気ない問いかけに見えたが、その声には妹を案じる響きが隠せずににじんでいた。

 イリーナはスプーンを置き、真っ直ぐに姉を見つめ返した。


「楽しいよ。朝起きて、パンを買いに行って、お日様を浴びて。刺繍の小物も少し売れるようになって……」


 そこで、ふと恥ずかしそうに視線を伏せ、頬を染める。


「……あ、今度、お姉ちゃんに紹介したい人がいるの」


 その言葉に、卓の上にふと小さな間が生まれた。笑いも会話も一拍だけ途切れ、次の声を待つ静けさが流れる。


「誰」


 リディアの声は鋭く、刃のように短く問うた。けれどその奥には、妹を思う切実な心配が透けていた。指先はナイフの柄をくるりと回し、止め、また回す。その小さな癖が、抑えきれない思いを物語っていた。


「えっと……その、お店の手伝いをしてくれる人で。すごくいい人なの。真面目で、優しくて、猫に好かれる」


 イリーナの弾む声。けれどリディアの表情は揺れず、低い調子で返す。


「猫に好かれるのは評価する」


 冗談めかした答えに笑いが漏れたが、リディアの瞳はまだ試すように細められていた。


「……その人を、私に紹介したい?」


「う、うん。お姉ちゃんにも会ってほしくて」


 間髪入れずに返ってきた言葉は真剣そのものだった。だが次の瞬間、リディアの口元がわずかに上がる。


「条件がある」


「え?」


「私より強い男じゃないと認めない」


「ええええええ!」


 イリーナの顔から血の気が引き、肩がしゅんと落ちる。


「そんな人、いるわけないよ。お姉ちゃんに勝てる人なんて……私、一生お嫁に行けなくなっちゃう」


 食堂に静寂が落ちた。鍋の余熱が漂い、薪の爆ぜる音だけが小さく響く。

 リディアはゆっくりとナイフを置いた。挑発的な笑みが、ふっと消える。金の瞳の奥が、長い廊下みたいに静かになる。


「……あんたを泣かせるやつは、絶対に許さない。強さっていうのは、殴り合いの話ばかりじゃない。逃げずに、あんたの隣で、毎日同じ朝飯を食べる根性のことだ」


 イリーナの唇がわずかに震えた。リディアの声は掠れて、胸の奥に火を灯すようだった。


「だから――“私よりも、妹を幸せにできるなら”いいよ。認める」


「……!」


「ただし、試す。しつこく。これでもかってくらい」


 イリーナは俯き、両手で顔を覆った。肩が小さく震え、指の隙間から笑い声がこぼれる。


「もう……お姉ちゃんより私を幸せにできる人……そんな人いるわけない」


 その言葉は拗ねた子どものようで、けれど聞く者を思わず微笑ませる愛らしい甘えだった。

 リディアは椅子を引き、妹の頭を抱き寄せる。その腕には、甘えを受け止める姉の温もりと、決して離さないという強さが込められていた。


 私は目頭が熱くなり、ヴェラがフォークを置く音を聞いた。銀が木に触れる一拍まで、いつもより柔らかかった。


 食後、イリーナがリディアに小さな包みを差し出した。


「これ……お姉ちゃんに」


 リディアが布を解くと、中から刺しゅう入りのハンカチが現れる。角には金糸で小さな模様が刺されていて、灯りに照らされほのかに輝いた。


「お姉ちゃんの瞳と同じ色。……私、この色がずっと好き」


 イリーナは頬を赤く染めながらも、どこか誇らしげに言った。リディアは包みから現れた布をそっと広げ、指先で模様をなぞる。しばし見つめたあと、大切に胸元へ当てるように抱きとめた。胸に触れた金糸の輝きに、ふと母の面影がよぎる。


「あんたと私と同じ色。……母さん譲りの色だ」


 その声は短く、けれど深かった。炉の火がぱちりとはぜ、炎の影が姉妹の横顔を赤く撫でる。


「母さんは――綺麗なひと、だったよね」


「綺麗で、強かった。父さんの手を引いて、夜道を歩ける人」


 語られる記憶に、誰も言葉を挟めなかった。卓の上に漂う沈黙は重さではなく、失われた光を惜しむ静けさだった。

 リディアが笑うとき、その表情はいつも軽やかだった。けれど、姉妹で交わす言葉が昔の記憶に触れた途端、その笑みの奥に影が落ちる。無邪気さを装う裏で背負ってきた重さを、私は痛いほど感じ取った。


「イリーナ」


 呼ばれて、妹が顔を上げる。リディアは同じ金の瞳をまっすぐ合わせた。


「あんたを訓練に入れるって話が出たとき、私がどうしたか覚えてる?」


「……うん。お姉ちゃんは、怒った。怖いくらいに」


 イリーナの声にはわずかな震えが混じった。それは姉があの日見せた激しさを、忘れずに抱き続けている証だった。


「怒ったというより、燃えたんだ」


 リディアはゆっくり言葉を継ぐ。


「燃やすものが、あのときは山ほどあった。あんたに刃を握らせようとする手も、あんたから笑顔を奪おうとする闇も、全部だ」


 喉の奥で笑った。その笑みは軽やかに見えながらも、鋭い刃の重みを知る者の響きを帯びていた。


「私がいるから、あんたは手を汚さなくていい。そう決めた。だから――」


 イリーナが小さく問いかける。


「だから、今も私に甘いの?」


 リディアはわずかに目を伏せ、ほんの少し考える間を置いた。そして顔を上げ、真っ直ぐな声で答える。


「甘いんじゃない。……ただ、美味しいものを食べさせたいだけ」


 一瞬、食堂の灯りが揺れた。言葉は冗談めいているのに、その奥には長い時間をかけて積み上げられた愛情が滲んでいた。

 イリーナは目を瞬かせ、それからえへへと照れ笑いを浮かべる。その屈託のない笑顔に、胸の奥がじんと温かくなり、私は思わず目を細めた。


 ◇


 夜更け、辻馬車を呼ぶことになった。リディアが同行して、妹を家まで送り届けるためだ。

 玄関先にはギルドの仲間たちがそろい、誰もが柔らかな笑みを浮かべて見送っていた。


「また来てもいいですか?」


「必ず誰かと一緒に来い。それと――またマドレーヌを忘れずに」


 答えたのはカインだ。いつもの無表情のまま、けれど声の端にかすかな温もりが宿っていた。

 イリーナは一瞬きょとんとしたが、すぐにぱっと花が咲くような笑顔になり、両手で籠を胸に抱き寄せる。


「はい!」


 その姿に、場の空気が自然とやさしく色づく。ヴェラが口元をゆるめ、ジークも穏やかに笑みを漏らす。エリアスは静かな眼差しを向けたまま、黙って頷いた。まるで家族が末の妹を送り出すような光景だった。


 弾む声とともに、イリーナは馬車に乗り込む。リディアも続き、扉が閉まる。車輪が石畳を転がり、音はやがて夜の闇に吸い込まれていった。その背を見送りながら、私の胸には温かな余韻が残った。



 しばらくして、私たちは自然と食堂に集まっていた。火は落とされていたが、炉の余熱と甘い匂いがまだ部屋に残っている。誰も口には出さなかったが、皆、リディアの帰りを待っていたのだと思う。


 やがて、扉が開く音とともに、リディアが戻ってきた。

 彼女は水差しからコップに水を注ぎ、一気に飲み干す。喉仏が上下し、置かれたコップの底が軽く鳴る。その横顔には、送っていった妹の温もりをまだ引きずるような柔らかさがあった。


「で、カイン」


 リディアは水を置くと、振り返ってわざと挑発的な声を投げた。


「私が送っている間に、マドレーヌ一個食べたでしょ」


「報告書の締切がある」


「話を逸らした」


「逸らしていない」


「……襟元に、欠片がついてる」


 カインの指先が、ごく自然に襟へ触れ――止まる。

 次の瞬間、私とジークが同時に吹き出し、エリアスが帳面を軽く叩いた。


「団長の威信が焼き菓子で揺らいでいるな」


「威信は菓子ごときでは崩れない」


 返す声は平坦だが、耳朶がほんのり赤い。

 その様子に耐えきれず、全員が一斉に笑い声をあげた。台所に響いたその音は、余熱の残る空気と混じり合い、心地よい温もりを広げていった。


 ◇


 寝室に戻る前、リディアは屋根に上がった。瓦の感触が足裏に確かに伝わる。視線の先では、遠い街灯りが星屑のように散り、夜の静けさに溶けていた。

 ポケットから、イリーナが渡していった小さな刺繍のハンカチを取り出す。角には、金糸で縫ったささやかな花飾り。母の瞳の色。自分と、妹の色。


「……私よりも、妹を幸せにできるなら」


 その言葉を夜の空気に置いてみる。

 胸の奥に、ゆっくりと熱が集まる。悲しみとも違う、怒りとも違う、焼けるような――それでいてどこか苦くも温かい熱。

 それは燃やしてしまった夜の名残。暗い路地をひとりで歩いた足音。刃を拭った布の匂い。震える小さな手を握り締めた記憶。全部、ここにある。


 ――私は血を背負った。だからイリーナには、光を背負わせたい。妹が歩もうとする未来に刃を突き立てることだけはしたくない。幸せを望むなら、背を押すしかない。けれどその背が崖に向かうなら、自分はためらわず引き戻すだろう。その覚悟は消えない。自分の存在の意味は、妹を守ることに尽きるのだから。


 リディアはハンカチを胸に押し当て、深く息を吐いた。夜風が赤い髪をかすかに揺らし、呼吸とともに熱を奪っていく。

 見上げれば、群青の空に星が澄み渡り、月明かりが彼女の横顔をやわらかく照らしていた。屋根の上にはただ、自分の鼓動と夜の静寂だけが広がっている。


「いける」


 自分にそう呟き、唇に挑発的な笑みを浮かべる。いつものように。

 そして、再び窓枠へ足をかけた。軽やかに身を翻し、暗い室内へと戻る。そこには、温かい皿の余熱と、笑いの残響と、そして――まだ数個、隠されているはずのマドレーヌが待っている。


 そのひとつを、見つけるために。

 そして、また明日を笑うために。


 リディアは赤い髪の影だけをひらりと残し、夜に融けていった。

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