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第16話 魔導院の狂気 ― 学壇に刻まれる裁き

 学術式典の朝、舞台は王都の市壁の向こう――魔道院本院の大ホールだった。

 天を突くように漆黒の尖塔が曇天へ針を立て、王都を押し潰すような威圧が、石畳と外壁に重くのしかかっていた。正門には各国の紋章旗がはためき、式典用の金縁の垂れ幕が風に翻った。広い石段を上れば、古式の魔法紋が刻まれた重厚な扉と列柱。学の権威と栄光に彩られた装いは完璧で――ゆえに、その真下に塗り隠された闇の濃さが、いっそう際立って見えた。


「配置につく」


 カインの低い声に、私たちは頷いた。

 リディアは観客席を見渡せる回廊の影へ、ジークは舞台袖の非常扉脇へ身を滑らせる。

 エリアスとヴェラは演壇脇の帳の裏――観衆からは見えない位置に身を潜め、記録と補強を担う。

 私はカインとともに舞台の陰影に立ち、胸に因果カードを抱きしめる。指先の震えを、四つ吸い、四つ止め、四つ吐く呼吸で押さえ込んだ。


 出席者は錚々たる顔ぶれだった。北海学派の碩学、砂漠の国の大魔導、山岳都市から来た錬金学の権威。王国側の高官が列をなし、魔導院の職員は金糸の縁取りの礼服で固めている。会場を満たすのは、誇りと競争心と政治の匂いだ。


 鐘が三つ、澄んだ音を重ねる。司会役の魔導士が演壇に立ち、「本年度・魔導院学術式典」を宣言した。拍手が波となって広がり、やがて壇上に院長が現れる。


 ゲルハルト・エッケルシュタイン――厚い胸板、丹精な髭、ゆったりと装飾を施した袖口。彼は「これぞ王国の叡智」と言わんばかりの微笑を浮かべ、両手を広げた。


「諸賢。去年一年、我らが魔導院がいかほどの成果を挙げたか、まずは総覧からお示ししよう」


 彼の声は、よく響く劇場の声だ。観客に隙を与えず、拍手を誘導し、議論を要点だけで打ち砕く訓練を積んだ声。


「魔力量拡張理論、実験段階において有意の伸長。魔素耐性の閾値、記録更新。失敗の蓄積すらまた、成果である」


 最後の一節の言い回しに、私は背を強張らせた。白々しい修辞で残酷さを塗り隠している。


 ヴェラが視線だけで合図する。彼女が手にしたのは、控えの写本と王都法の条文を抜き出した羊皮紙だった。薄闇の中、その紙面がちらりと光り、証拠の準備が整ったことを告げている。


 隣でエリアスが幻視の鏡を抱え、わずかに頷いた。磨かれた鏡面が息を潜めるように光を宿し、映し出す瞬間を待っていた。


 胸の奥で、指先の震えが一瞬強まる。けれど、負けない。私は深く息を吸い、頷いた。


 院長は次々と図表を映し、黒衣の助手に合図しては枚をめくらせる。人々の視線は、上向きの曲線と金字塔のラベルに奪われていく。そこに描かれていないもの――名前、顔、冷えた石台、裂ける悲鳴、焼けた皮膚の匂い――は、当然のように外されている。


 私は胸の前で因果カードを軽く擦った。黒の板は、心臓の鼓動に合わせてかすかに脈動する。


「次の演題で、我らは実地応用の可能性に言及する」


 院長がそう締めようとした瞬間、カインが一歩、演壇の陰影から現れた。


「――その前に、補足がある」


 会場の空気がきしんだ。誰かが「誰だ?」と呟き、別の誰かが「あのローブ……」と低く囁く。


「ざまぁギルド……?」


 言葉は波紋になって広がった。視線が刃のように集中する。守衛が腰の剣に手をかけかけた瞬間、ジークの視線が鋲のように突き刺さる。その圧に守衛は息を呑み、足を止めた。刃は抜かれず、動きもそこで凍りつく。


 カインは演壇へ寄り、院長の隣――一段低い位置に立つ。その立ち姿だけで、権威の高さと真実の重さが対照を成した。


「王国の叡智の名において、記録を補い、理を正す。理は三つで立つ。記録、証言、物証――そのすべてを、ここに揃えた」


「不届き者!」


 院長が手を振り上げる。


「ここは学の場だ。ならず者の見世物ではない!」


「学が真であるなら、真に耐えよ」


 カインの声音は冷たく、静かなほどよく通る。


「ここで示すのは“見せ物”ではない。理だ」


 司会が狼狽して評議員席へ視線を投げた。王国側の高官の一人が立ち上がりかけて椅子を軋ませ、砂漠の国の大魔導が眉を上げ、北海学派の碩学が顎鬚を撫でる。混乱の渦の中心で、ヴェラは一歩前へ出た。黒衣の裾が石に触れて微かな音を立てる。


「【記録】から」


 ヴェラは書見台に綴りを置き、頁をめくった。インクと紙の匂いが一閃し、張り詰めた空気に切り込む。


「ここに、実験室の日誌がある。“提供者”の名が列をなし、その半数以上に赤い斜線――“失踪”の印。搬入記録や薬品庫の在庫、廃棄処分票は互いに矛盾し、数字はばらばらなのに、この赤い斜線だけは、機械のように規則正しく増えている。……数字を誤魔化しても、人の消失だけは隠しきれなかったのよ」


 声を重ねる彼女の手は、微動だにしなかった。幾度も訓練で磨いた冷たい鎧のように。

 私の心は痛んだ。――ヴェラは、名簿に並ぶ赤い斜線のひとつひとつに、自分の失った友の影を見ているのだ。


「捏造だ!」


院長が声を張り上げる。


「わが院の帳簿を勝手に読めるはずがない!」


 エリアスが淡々と差し挟む。


「捏造かどうかは、第三者が照合すればいい。王都学術監理令に基づき、写しを三部、評議と監察局と国外の学会連絡院に回す準備がある」


 ざわめきが別の色を帯びた。――この場だけの騒ぎで終わらない、と人々が理解したのだ。


「続けるわ」


 ヴェラは別の束を掲げた。粗い紙質、端がすり切れた帳簿だ。


「授業表。生徒名の横に異常な数の“病欠印”。同じ日の同じ講義で十人以上が一斉に病欠――偶然ではない。記録を追うと、病欠にされた三日から七日のあいだに実験の投与記録が集中し、その間に戻らぬ者が出る。やがて名簿の該当箇所は白紙に差し替えられ、まるで最初から存在しなかったかのように処理されている」


 揺らぎのない口調。けれど碧眼の奥には、確かな怒りが燃えている。


「さらに、実験日誌と覚え書き。注入回数、持続時間、臓器損耗――冷たい数列が並ぶ余白に、こうある」


 エリアスが幻視の鏡に手をかざし、文字を浮かび上がらせる。筆記の走り書きが拡大され、会場の壁に映し出された。


 ――「泣き声が測定値に影響」

 ――「命が尽きると陣式が安定」


 ヴェラの指先が僅かに強ばった。


「人の命を“測定値”と呼ぶ――その一語こそ、魔導院の倫理の欠落を示す動かぬ記録よ」


 エリアスは投影を保ちながら静かに告げる。


「記録は嘘を許さない。どこを裂いても血が滲んでいる」


 会場の空気が重たく沈む。誰かが喉を鳴らす音さえ響くほどに。


「次に――【証言】」


 リディアが一歩進み出て、掌に数枚の羊皮紙を掲げた。墨痕はまだ新しい。


「ここに残された声を、代わりに伝えるわ」


 読み上げられる言葉に呼応して、羊皮紙の文字が淡い光に変わり、宙へ浮かび上がる。光はゆらぎ、蝋の炎に溶けるような影を形づくる。声はその影から響き、観衆の耳を刺した。


「――ミリア・カーネル。

 研究補助として実験室に出入りしていた。『魔力量を増やす試薬』と称して注がれ、身体は冷え、指は動かなくなった。だが彼らは笑って言った――“成功だ、値が出た”と」


 影は袖を捲る仕草を真似、腕に焼き付いた魔法陣の痕を淡く映し出した。客席がざわめきに沈む。


「“病欠”扱いで授業から友が消えた日、二度と戻ることはなかった。名簿は空欄に差し替えられていた」


 次の羊皮紙。影は少年の細い肩を映す。蝋の炎に透かされるような頼りなさ。


「――ユリス。

 注射のあと、目が霞み、寝台に縛られた。泣けば“数値が狂うから黙れ”と叱責された」


 声は途切れ、影は震えながら消える。


 続く羊皮紙から、少女の影が浮かぶ。薄青い炎に揺らぐ姿。


「――エマ。

 瓶底のラベルを見た。“人体投与・第三級”。投与のたびに彼らは言った――“次は増量”。呼ばれた友の名は、戻ることがなかった」


 影像は炎に吸い込まれるように消え、静寂が落ちた。


 エリアスが幻視鏡を支え、補足する。


「三者の証言は日付・場所・関与者で一致し、学寮の当直記録とも符合している」


 その時、実験主任が立ち上がり、声を荒らげた。


「戯れ言だ! 子どもの妄言を――」


 だが言葉は最後まで届かなかった。回廊の陰からリディアの視線が突き刺さる。短剣は抜かれずとも、指先が鞘をわずかに弾いた音が冷たく響き、殺気が会場を切り裂いた。


 男は喉を詰まらせ、蒼白のまま腰を落とす。会場には再び沈黙が訪れた。


「最後に【物証】」


 ヴェラが革袋を卓上に置く。エリアスが鏡板へ転写する。

 映されたのは、札束と瓶。


「投与札。日付、薬量、“成功/失敗”の印。印影は複数の担当印で、同時期に“病欠印”の多い授業表と重なる。――つまり、授業から外された同日に投与が行われている」


 別の映像が重なる。瓶底に刻まれた文字。


「薬瓶の底刻印、“人体投与・第三級”。院内規程では臨床以前の段階で人への投与を禁じている。違反は明白」


 札と瓶の並びは、数字と鉄と硝子の冷たさで会場の喉を凍らせた。


「これで、三系統。【記録】【証言】【物証】」


 カインの声が落ちる。

 会場の温度が下がった。誰もが理解する。欠けたものは、もうない。


「まだ終わりじゃない」


 カインが全体を縫い止めるように言った。


「最後の確認をしよう。法の場へ渡す前に、ここで“公”に照らす」


 ヴェラが法文の写しを掲げる。


「王都研究倫理規程第六条、『研究対象の人格と生命は、いかなる進歩よりも優先される』。第八条、『身分・財産による被験の選別を禁ず』。王都学術監理令第二条、『研究・教育の記録は公開され、監査に服する』。――あなたは、これらすべてに背いた」


 碧眼は静かだった。怒りを見せず、憎しみを見せず、ただ理を置く。その静謐さが、何よりも冷たく鋭い。


 そのとき、カインの声が重なった。


「――魔道院院長ゲルハルト・エッケルシュタイン。お前の行いを、ここに記す」


 会場の空気が張り詰める。名を呼ばれた瞬間、逃げ道は消えたのだと、誰もが悟った。


 私は因果カードを抱え直す。黒の板が、脈打つ。

 胸の奥で、炎ではなく灯がともる。怒りの火ではない。道を照らす灯。


「セリナ」


 ヴェラが小さく囁く。


「束ねて」


「ええ」


 私は一歩前へ出た。因果カードを胸の高さに掲げる。光の糸が、私の掌を透かして客席へ広がり、端々が震える。数百の息づかいと心臓の鼓動が、ひとつの静寂に合流していくのが分かる。


「証拠は三系統揃った。因果は返却される」


 カインの声が、講堂全体に鋼のように響いた。


「奪ったものは、研究対象の尊厳と命。罪は公に記録される。――これが、あなたに返るもの!」


 私の声は震えず、講堂の隅々にまで届いた。

 その言葉と同時に、因果カードがまばゆい光を放ち始める。私の掌の中で脈動する黒の板が、白銀の糸を何百、何千と吐き出した。光の糸は会場全体を走り、天井のアーチに絡まり、再び一点に収束していく。


 因果カードの表面に、燃え上がるように署名が浮かび上がる。


 ――ゲルハルト・エッケルシュタイン

 ――カール・シュトレーベ(補佐官)

 ――オルデン・ヴァイス(実験主任)


 光の筆跡は燃えながら刻みつけられ、やがて静かに黒の板へ沈んだ。それでも名は消えない。観衆の目に焼き付くように残り続けた。


「な、名前が……!」

「逃げられない証だ……」

「ざまぁギルド……!」


 囁きが波のように広がり、次第に畏怖のざわめきに変わる。誰もが、その名を刻まれる恐怖を肌で感じていた。


「陰謀だ! 偽造だ! 私は……私は……!」


 院長は青ざめ、膝を折りながらも、最後の虚勢を張った。震える手を掲げ、火花混じりの魔力を練り上げる。


「燃えろ! ギルドの徒ども――!」


 だが、放たれた火弾は空を裂くより早く、ヴェラの碧眼に射抜かれた。

 彼女の指先から淡い光が揺らぎ、薄い膜のような結界が一閃する。院長の魔法は音もなく弾かれ、逆に火花の残滓が彼自身の袖を焦がした。


 ざわめきが広がり、やがて嘲笑と怒号に変わる。


「……これが院長?」

「力もない……ただの肩書きか」

「我らを欺いてきたのは、こんな男だったのか!」


 観客の顔には失望と怒りが濃く刻まれていた。尊敬を向けていた壇上が、一瞬にして軽蔑の対象へと反転する。


 ヴェラは冷然と告げた。


「その程度の魔力で、誰を傷つけられると思ったの? あなたは権威にしがみつくだけで、術者ですらない」


 院長の顔から血の気が引き、言葉はもはや誰にも届かない。

 次の瞬間、魔導士たちが慌ただしく杖を構えた。詠唱の囁きが空気を震わせ――。


 ジークが即座に一歩前へ出て、厚い結界を展開する。光の壁が舞台を覆い、漏れ出しかけた魔力の余波を吸収した。観衆を守るように立つその姿に、会場のざわめきはさらに高まる。


 同時に、回廊の陰からリディアが影のように滑り出る。音もなく魔導士の背後に回り込み、詠唱しかけた男の手首をねじり上げた。短剣の柄が喉元に冷たく触れる。


「口を開けば、次は声を奪うわよ」


 低く、鋭い声。男は喉を詰まらせ、目を見開いたまま動きを止めた。仲間の魔導士たちも息を呑み、詠唱を凍りつかせる。リディアの殺気が、刃よりも鋭く空気を裂いていた。


 会場に、怒りの声がさらに渦巻く。


「罪を隠すために魔法を放つのか!」

「学の名を汚すな!」

「恥を知れ、院長!」


 群衆の非難が、断罪の杭をさらに深く打ち込む。壇上に残された院長は、もはや逃げ道を失っていた。


 ヴェラの碧眼が鋭く光り、冷たい声が会場を貫いた。


「もはや逃れる道はない」


 静謐で冷たい言葉が、断罪の最後の杭を打ち込んだ。


 大ホールの扉が音を立てて開かれる。王都治安府第三隊の隊士たちが二列で進み出ると、整然と揃った靴音が大理石の床に重く響いた。

 その規律ある響きに、ざわついていた会場がぴたりと鎮まる。空気は一瞬にして研ぎ澄まされ、蝋燭の灯りさえ揺らぎを潜める。


 先頭に立つミレイユ・ルグラン隊長が兜を外した。束ねた亜麻色の長い髪がさらりと揺れ、切れ長の瞳に凛とした光が走る。その美貌に観衆の息がひそやかに吸い込まれた。


 彼女は一歩前に進み、羊皮紙を高く掲げる。

 王印と監察局印が重なる朱の印章が、炎を受けて鮮やかにきらめいた。


「――王都治安府第三隊、隊長ミレイユ・ルグラン。法務院および魔道監察局より即時認証を受領。ここに告示する」


 羊皮紙の上で王印と監察局印が重なり、光を受けて鮮やかに輝いた。


「ゲルハルト・エッケルシュタイン、カール・シュトレーベ、オルデン・ヴァイス。王都研究倫理規程第六条および第八条、王都学術監理令第二条違反の容疑により、ここに拘束する。魔道院本院のすべての施設は監査下に置かれ、記録・資産は全面的に調査を受ける。全職員は監察局および法務院の聴取に応じる義務を負う。反論は法廷にて聴取する。――連行せよ」


 隊士たちは手際よく、院長と補佐官、主任の両腕を縛り上げた。


 観衆の視線が冷たく突き刺さる中、彼らは引き立てられていく。


「私は、学を……王国を……!」


 院長の叫びは、観衆の冷たい視線に押し潰される。かつて尊敬と羨望で満たされた壇上は、今や蔑みと恐怖の牢獄だった。


「因果が返された……」

「もう二度と……命を弄ばせはしない……!」


 誰かの呟きが波紋のように広がり、やがて大ホール全体がその声に同調していった。


 カインが最後に前へ出て、観衆に宣言した。


「罪は裁かれた。だがこれは終わりではない。新たな秩序が必要だ。命と尊厳を守る法を――誰の身分にかかわらず、等しく」


 その声に、学者や高官たちの間から拍手が起こる。最初はためらいがちだった音が、やがて雷鳴のように大ホールを満たしていった。


 私は因果カードを胸に抱き、深く息を吸った。

 ――因果は巡る。返さねばならない。

 その囁きは、もう私自身の声になっていた。


 ◇


 学術式典の大ホールに残ったのは、冷たい余韻だけだった。

 評議院の立会人が証拠目録に署名し、監察局の書記が封緘済みの証拠袋を差し出すと、最後に王都の印章が蝋に押し当てられた。じゅ、と小さな音が響き、赤い蝋が固まる。

 ――これでもう、誰も改ざんできない。証拠は公文書となり、法廷へ渡る運命を背負った。


 私は因果カードを袖に収め、胸の奥でひとつ息を吐く。これは終わりではない――次の始まりだと分かっていた。


 夕刻、ギルドに戻ると炉に新しい火がともっていた。

 湯気が立ちのぼり、スープの香りが石壁いっぱいに広がる。橙の光がゆるやかに揺れ、戦い終えた体の緊張をほどいていく。


「……お帰りなさい。本当に……ありがとうございます」


 ミリアが出迎え、深く頭を下げた。

 卓には彼女の手で整えられた皿が並び、湯気がやわらかく立ちのぼっている。震える指先で器を並べながらも、その瞳は確かな感謝に潤んでいた。

 その一つひとつの仕草が、言葉以上に彼女の気持ちを伝えていた。


 皆で温かな食事を囲んだあと、セリナは鍋からスープをよそい、湯気をまとった椀をヴェラが盆に載せた。橙の光を反射する盆の縁が、食堂の温もりをそのまま奥の間へ運んでいくようだった。

 ミリアは胸の前で手を組み、静かに後ろから続く。


 客間では、ユリスとエマがまだ寝台に横たわっていた。毛布に包まれた小さな肩がわずかに上下し、かすかな寝息が静寂に溶けている。その姿は弱々しいけれど、生きている証でもあった。


 ヴェラはそっと盆を寝台脇の台に置き、落ち着いた声で呼びかける。


「……目を覚まして。温かいスープを持ってきたわ」


 ユリスがまぶたを震わせ、ゆっくりと目を開いた。焦点を探す瞳に、安心を伝えるようにセリナが微笑みかける。


「もう傷つけられることはないの。全部、終わったわ」


 ユリスの唇がかすかに震え、言葉にならない息がこぼれた。


「……本当に?」

「ええ」


 セリナは強く頷いた。


 エマも顔を上げ、椀を両手で受け取ると、ゆっくりと一口すすった。熱が喉を下りるたびに、胸の奥に冷えた闇が少しずつ溶けていくようだった。


「私……また勉強したい」


「できるわ」


 ヴェラが即答する。碧眼に迷いはなく、ただ確信の光が宿っていた。


「学ぶのは権利よ。奪われたものは、返させる」


 その言葉に、ミリアが小さく頷き、震える声を重ねる。


「私も……魔術を、人を傷つけるためじゃなくて、人を助けるために使いたいです」


 三人は肩を寄せ合い、小さな嗚咽をもらした。

 それは苦しみの涙であると同時に、初めて未来を望む者の涙だった。


 ◇


  やがて三人の寝息が落ち着いたころ、セリナたちは静かに部屋を後にした。扉を閉じると、張りつめていた空気がすっと緩む。

 食堂では、食事を終えたあとの静けさが広がっていた。器は片づけられ、卓の上には残り香だけが漂う。炉の火に照らされた仲間たちの顔には、疲労よりも次へ進む覚悟が浮かんでいた。


「どうだった?」


 リディアが椅子の背に片肘をかけ、金の瞳を細めながら振り返った。


「……あの子たちに、ちゃんと伝えたわ。院長たちは拘束されて、因果は返されたって」


 セリナが答えると、リディアはやわらかな笑みを浮かべた。


「そう。あの子たちが少しでも安心できたなら、今日の舞台は意味があった」


 ジークが腕を組み、低い声で言葉を継いだ。


「まだ名簿には空欄が残ってる。……でも、今日は少なくとも三人が守られた」


 その声には守れたことへの安堵が滲んでいた。


 ヴェラが静かに頷き、碧眼を細める。


「彼らの言葉は、確かに届いたわ。もう二度と、独りで恐れる必要はない」


 エリアスは帳面を開き、淡々とペンを走らせていた。羽根ペンの音が、部屋の静けさを律動に変える。


「今日の証言も物証も、すべて記録に残す。誰の名も、二度と消させないために」


 ヴェラは碧眼を上げ、ゆるやかに息をついた。


「奪われたものは、まだ返し切れていない。……返すべき因果は、この街にまだ潜んでいるわ」


 カインは炉の火を見つめたまま、低い声で締めくくった。


「俺たちは因果を返す者だ。この歩みを止めることはない」


 橙の光が揺れ、仲間たちの顔に影を刻んだ。

 その影はひとつに重なり――次の因果を待ち受ける誓いとなった。


 私は因果カードを胸に抱いた。

 ――重い役割だ。けれど、この仲間がいる。

 ヴェラの確信、ジークの背、リディアの笑い、エリアスの記録、そしてカインの導き。

 一人では折れてしまう重みも、皆となら支え合い、必ず橋を架けられる。奪われたものを返す、その務めを共に果たし続けられる。


 仲間への信頼が、胸の奥に静かな灯をともした。

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。

不幸の淵から歩き出したセリナが、仲間と共に少しずつ成長していく姿を、これからも描いていきます。


苦しみに向き合いながら未来を切り拓く彼女を、ぜひ最後まで全力で応援してください。

感想や評価をいただけると、セリナと一緒に走り続ける力になります!

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