第15話 魔導院の欺瞞 ― 揺らぐ碧眼
王都の夜は、昼間の喧騒が嘘のように沈み込んでいた。
表通りに並ぶ灯は次々と消え、石畳の上を走る馬車の音も途絶えて久しい。残るのは、夜警の長靴が石を叩く乾いた響きと、遠い鐘の残響だけだった。
ギルドの広間にも、静寂が漂っていた。
炉の火は落とされ、温かな余熱だけが石壁にしみこんでいる。大卓には十二の蝋燭が灯され、炎は小さく息づきながら影を壁へ揺らしていた。
リディアは窓辺に座り、両手に短剣を握っていた。刃を布で磨き、時折、炎にかざしては光の反射を楽しむように眺める。
ジークは炉端に背を預け、膝に剣を置いていた。目を閉じているのかと思えば、灰色の瞳は半ば開き、周囲を警戒している。指がわずかに動き、柄の革を馴染ませる。
ヴェラは広間の片隅で薬草を刻み、香炉に落としていた。白い煙がゆっくり漂い、苦くも甘い香りが広間を満たす。眠気を遠ざけ、呼吸を整えるための調合だった。
私は卓に座り、羽根ペンを握っていた。紙の上に墨ではなく淡い光が走る。これが“幻視筆記”――魔力を糸みたいに流し込み、見えない記録を形に残す技術だ。
隣のエリアスが、手本を指でとんと叩いた。
「ほら、三画目が浅い。もうちょっと深めに」
「深めって……これ以上やったら紙が焦げるわよ」
「大丈夫、焦がさずに残すのがコツなんだよ。呼吸で加減してみて」
私は舌打ちしながら線を引いた。光がにじむ。手が震えている。エリアスはにやりと笑い、肩を軽く叩いた。
「震えは悪いことじゃないさ。呼吸に馴染ませれば、ちゃんと形になる」
言われるまま、私は息を吸い、四つ数え、止め、吐く。因果を媒介するときの呼吸。胸の奥のざわめきが、すうっと落ち着いていく――。
ゴン、ゴン。
重い扉を叩く音が広間に響いた。
私の背筋が跳ねた。
夜中に訪ねてくる者など、まずいない。夜警なら笛を鳴らす。商人なら朝を待つ。だが、今の音は違った。規則性も軽さもなく、必死に縋るように板を揺らしていた。
リディアが顔を上げる。短剣を回し、腰の鞘に差し込む。
ジークは目を細め、剣を膝から持ち上げた。
ヴェラは煙を吹き消し、香炉を机に押しやる。
「この時間に訪ねてくる者は、ただの迷子じゃない」
カインが立ち上がり、ローブの裾を翻す。
ジークと並んで扉へ歩む。二人の背が並んだ瞬間、空気が重く引き締まった。
閂が外され、扉が開いた。夜気と月光が流れ込み、外に立つ影を照らした。
そこにいたのは、一人の少女だった。
煤に汚れた研究衣。裂け目から覗く腕は痣に覆われ、髪は栗色だが、焦げ跡で黒く斑をつくっている。碧眼は怯え、唇は乾き切っていた。
「……助けて……」
少女はそのまま膝を折り、床へ崩れた。掌が石に当たり、乾いた音を立てる。
私は反射的に走り、少女の体を支えた。骨ばった肩、熱を帯びた体、震える指。彼女を扉脇の長椅子へそっと座らせ、卓の水差しから木杯に温い水を注いで手渡した。
「ゆっくりでいい。喉を湿らせて」
少女はこくり、と小さく頷き、震える指で杯を支えながら少しずつ水を含んだ。乾いた唇がわずかに色を取り戻す。
「大丈夫? 怪我してるの?」
少女の喉がひくりと鳴り、かすれ声が漏れる。
「わ、私は……魔導院の研究員……平民です……。実験で……魔力を注がれて……身体が壊れて……友達も……戻ってこなくて……」
空気が一瞬で凍り付いた。
ヴェラが最前に進み出る。白銀の髪が蝋燭の火を反射し、冷たい碧眼が少女を射抜いた。その瞳は氷のように冷静なのに、奥に深い影が揺れている。
「名前を」
「……ミリア。ミリア・カーネル」
まだ十五、六。頬には幼さが残るのに、目の下には深い隈が刻まれていた。
カインが顎で合図する。
「セリナ、カードを」
私は頷き、文書庫へ駆けた。重厚な木箱の蓋を開けると、漆黒の板が眠っていた。因果カード。返却者にだけ許された媒介。両手で抱え、広間に戻る。
膝をつき、ミリアに差し出す。
「怖がらないで。大丈夫。これはあなたに絡む“因果”を映すだけだから」
ミリアは怯えたように瞳を瞬かせたが、震える指が板に触れた瞬間、光が弾けた。淡い青白の糸が立ち上がり、広間の空気を震わせる。
――証言の糸。
『薬量が足りない? なら倍にすればいい』
『数が減ったところで補充はいくらでも利く』
『私は責任を負わん。記録だけ残せ』――研究者と院長の声。
――記録の糸。
名簿の空欄。
授業表に押された“不自然な病欠印”。
そして実験日誌。
「注入回数」「持続時間」「臓器損耗」――冷たい数列。
欄外に走り書き。「対象換え」「再利用可能」。
――物証の糸。
瓶の底に刻まれた印〈人体投与・第三級〉。
腕に残る革帯の痕。
胸を焼く魔力の印痕。
倉庫札の符丁〈在庫・補充・破棄〉。
私は呼吸を四つ吸い、四つ止め、四つ吐く。
焦らず、遠ざけず、絡ませず。
糸を慎重に撚り合わせていく。
束ね終える刹那、因果カードの黒の底から、青白い光の細字が静かに立ち上がる。
――ミリア・カーネル。
媒介の誓名。返却の橋に灯る標。
私は顔を上げた。
「この子の証言は真実。魔導院で人体実験が行われている」
エリアスの筆が、その瞬間を逃さず“記録”に重ねる。
リディアが小さなナイフを指の間でくるりと回した。「最悪ね」
ジークは拳を握り、歯を食いしばる。
エリアスは速記帳に細かい字を刻みつける。
ヴェラは碧眼を細め、ほんのわずか震わせた。
カインが低く告げた。
「セリナ、彼女を休ませろ」
私はミリアを抱え、客室へ案内した。
寝台に横たえ、毛布を掛け、額を冷やす。呼吸は浅いが、震えは次第に収まってきた。
ミリアが袖を掴む。
「……もう……友達を失いたくない……」
「大丈夫。今度は私たちが返すから」
寝室の扉を静かに閉めると、広間に戻るまでの廊下がやけに長く感じられた。
私は自分の胸に手を当てる。鼓動がまだ速い。因果カードを媒介したときに見えた光景が、網膜の裏に焼きついて離れない。
鉄の枷に繋がれ、胸に魔法陣を刻まれた人々。叫びも抵抗も、数字に置き換えられて「破損」と処理されていく。
広間に戻ると、皆が既に席に着いていた。蝋燭の火は低く、影が長く伸びる。その影の奥で、誰もが無言のまま息を潜めていた。
カインが卓の端に立ち、低く言った。
「これは一人の少女の妄言じゃない。魔導院は腐っている」
ジークが剣の柄を握り、呻くように言う。
「平民を……消耗品扱いか」
拳に力がこもり、革手袋が軋む音が響く。
リディアは腕を組み、苛立たしげに足を揺らしていた。
「金も権力も持ってるくせに、やることはそれ? 笑えない冗談ね」
ヴェラは目を閉じ、呼吸を整えていた。
白銀の髪が蝋燭の炎を受けてゆらめく。
だがその碧眼が開かれたとき、奥底には冷たい光と、燃え残った痛みが混ざり合っていた。
「……私の仲間も、消された」
声は低く、だが明確に広間を震わせた。
「『存在しなかった』とされた。でも確かに、あの子たちはいた。禁術の光に呑まれた。私の目の前で」
沈黙が落ちる。
私は拳を握った。ヴェラの言葉は、刃のように胸へ突き刺さる。
エリアスが帳面を閉じ、顔を上げる。
「記録は残る。書いた者が嘘をついても、数字や印章は必ず綻びを残す。空白も、代理印も、実験の記録も。全部を繋げば、因果は揺るがない」
カインは頷いた。
「だから俺たちが動く。三系統を揃えて返す。奴らを逃がさない」
蝋燭の炎が音もなく弾け、影が揺れた。
カインは手を広げ、全員を見渡した。
「役割を分ける。――リディア、ジーク」
「任せて」
リディアが唇の端を上げる。
「物証を追え。研究棟の調合室や倉庫には必ず痕跡が残っている。ジーク、お前は罠を切り開け」
「了解だ」
ジークは低く頷き、剣を指で叩いた。
「エリアス、ヴェラ」
「はい」
「記録を掘れ。名簿、日誌、授業表、実験記録――何でもいい。痕跡を抉り出せ。ヴェラ」
カインの目が彼女に向けられる。
ヴェラは長い吐息を落とし、碧眼を伏せた。けれど次に顔を上げた時、その瞳は揺らぎながらも深く澄み、言葉以上の誓いを宿していた。
「誰も、もう、空白にしない」
「そして――セリナ」
呼ばれて、心臓がひときわ強く打った。
「お前は証言だ。……今はミリアの声を束ねろ。彼女の存在は、奴らにとって最も都合の悪い鏡になる」
私は強く頷いた。胸の奥にまだ恐怖が残っている。けれど、それ以上に「返したい」という思いが膨らんでいた。
「やるわ。必ず」
カインは最後に言葉を締めた。
「――これは冗談でも遊びでもない。だが俺たちがやらなければ、犠牲者の声は土に埋もれる。因果は返す。それが俺たちだ」
短い言葉に、広間は静かに震えた。全員がひとつの視線で互いを確かめ、沈黙のうちに頷きを返す。蝋燭の炎が高く揺れ、石壁に灯りを投げた。まるで誰かの祈りに応えるように、空気が少しだけ明るくなる。
私は因果カードを胸に引き寄せる。冷たい板のはずなのに、掌の内側にはほんのわずかな温もりが宿っているように感じられた。――これは、私に与えられた役目だ。冤罪で奪われた私自身の居場所を取り戻すためだけではない。ヴェラの仲間の声も、ミリアの涙も、名のない被害者たちの未来も。すべてを、必ず返す。
カインが低く、だが確かな声で言った。
「三日後に学術式典がある。あそこが舞台だ。人が集まり、魔導院の威光が最も濃くなる場で、三系統を並べて公に返す」
その言葉に、皆の顔が引き締まる。
作戦は、確かに動き出した。三日後の学術式典――そこで私たちは橋を組み、渡す。
誰もがそれぞれの手に小さな灯を持ち、同じ方向を見つめている。
◇
夜の魔導院は、塔の影が互いに重なり合い、まるでひとつの生き物のように息をしていた。外壁には無数の結界札が埋め込まれ、星明かりを鈍く反射している。
風も音も遮られるその空気は、鋼鉄よりも硬い。
「……厚いな」
ジークが低くつぶやき、灰色の瞳を細めた。
渡り廊下の下で、リディアが唇を歪める。
「厚いほど、突破したときに気持ちいいってものよ」
ヴェラは静かに碧眼を閉じ、両手を組む。唇が紡ぐのは古い風属性の詠唱。周囲の気配を薄くし、見張りの視線を逸らす。
同時に、エリアスが幻視筆記用の羊皮紙を広げ、光の細線で結界の流れを写し取っていく。
「ここ、南壁の合わせ目。二重結界の縫い目だ」
紙の上に浮かんだ線を指し示す。
「なら俺が割る」
ジークが短剣を抜き、刃に魔力を流し込む。鈍い光が結界の継ぎ目を探るように走った。
ヴェラの詠唱が結界の力を一瞬だけ削ぎ、リディアがその隙に結界札を二枚突き立てる。
――ぱん、と乾いた音。
光の壁が小さく揺れ、亀裂が走る。
「今!」
ジークが短剣を振り下ろし、裂け目を広げる。
ヴェラが風の膜で音を抑え、エリアスが幻視筆記の光で周囲の魔力を“偽装”する。
薄い幕が一瞬だけ透け、内側の闇が覗いた。
リディアが身を滑らせ、次にジーク、エリアス、最後にヴェラが続く。
彼女が結界を後ろから閉じ直すと、外の気配は再び元通りになった。
「よし。ここから別れるわ」
ヴェラの声は低いが、確かな響きを持っていた。
「リディアとジークは物証。私とエリアスは記録を確保する。合流は北壁のバルコニー」
リディアが肩をすくめ、ジークは剣を握り直す。
エリアスは羊皮紙を胸に抱え、ヴェラは碧眼を前に向ける。
四人は互いに短く頷き合い、それぞれの闇へと散っていった。
◇
調合室は薬草の匂いと焦げた匂いが入り混じり、胸を刺すほど濃かった。棚の一角には整然と並んだ試薬瓶、奥の台には書き散らされた計測表。さらに壁際の木箱には、薄札が束ねて収められていた。
リディアはその箱を開け、札束を素早く抜き取る。
「……投与記録ね。日付と薬量、“成功/失敗”の印まで押してある」
札を扇状に広げ、裏面をぱらぱらとめくる。そこには赤や黒の印影が無造作に連なっていた。
「日付ごとに偏りがある。……つまり、どの時期に集中的に実験が行われ、どれだけ犠牲が出たかが一目でわかる」
札の角を指でそろえ、革の袋に滑らせる。
そのとき、ジークの低い声が響いた。
「……リディア、こっちだ」
寝台の並ぶ奥。革帯で両腕を縛られた少年と少女が、薄布を掛けられたまま横たわっていた。頬はこけ、唇は乾ききっている。それでも胸はかすかに上下していた。
ジークは膝をつき、脈を確かめる。わずかに指先が震え、低く吐き捨てるように言った。
「……ひどいもんだ。人を、物みたいに……」
リディアも眉をひそめ、唇を噛んだ。
「ここまで衰弱させて……よく平気で眠れるわね、あの連中」
彼女は息を荒く吐き、次の瞬間には冷静さを取り戻して短く指示を飛ばした。
「結界を二枚、外套の内側に挟む。体温が落ちすぎないように」
リディアは短く指示し、外套の裏布を裂いた。簡易の吊り帯を作り、少年と少女をやさしく包み込む。ジークが肩にひとりを背負い、もうひとりはリディアが抱え上げた。
そのとき――革帯が床に落ち、乾いた音を立てた。二人は反射的に息を止める。
廊下の奥から、硬い靴音が近づいてきた。規則的な間隔、槍の柄が床を打つ音。巡回の兵だ。
「……来るぞ」
ジークは囁き、背の少年を抱え直す。
リディアは少女を胸に寄せ、瞼の上に軽く布をかけてやると、扉の方へ目を向けた。
調合室の隙間から、二人組の影がゆっくりと近づいてきた。甲冑の擦れる音。鼻にこもった声がひそひそと交わされる。
「また“素材”が減ってるらしいぞ」
「気にするな。どうせ数合わせだ」
足音が扉の前を通り過ぎていく。リディアは喉の奥で毒を飲み下すように息を吐いた。
「迂回路で戻る」
ジークが囁く。
「……見張りが戻る前に抜ける。合図は小石を三度叩く音――それが“動け”の合図だ。逃げ道は北の梯子塔。そこから外へ出る」
リディアは短く頷き、抱えた少女の体を支え直した。
二人は素早く扉を閉め、通路の影へ身を滑らせた。
巡回の残響がまだ石壁に揺れている。
「今」
ジークの結界が床を滑り、音の波を吸い込むように消した。
四つ角ごとに結界札を薄く貼り、足跡をかき消す。リディアは小さく舌を打ちつつも、少女を抱く腕をさらに強めた。
「早く抜けるわよ。長居はごめんだもの」
二人は影を縫うように通路を進み、西棟の奥へと急いだ。
◇
同じ頃、東塔の図書庫。
高い書架に囲まれた空間は、昼間なら研究者や学徒が行き交うはずだが、今は不自然なほど静まり返っていた。蝋燭の火がまばらに灯り、無人の机には開きかけの帳簿が残されている。
ヴェラは指先で一冊を抜き、頁を素早く繰った。
「……名簿。やっぱり、ところどころが空欄のまま」
そこには十数人分の記録が並んでいるはずなのに、唐突に“穴”のように白紙が空いていた。
名簿の空白を指でなぞった瞬間、ヴェラの碧眼が震えた。
かつて同じ空欄の中に、彼女の仲間の名が飲み込まれたからだ。
氷のように冷たいはずの瞳に、いまは痛みと怒りが交錯し、揺らいでいた。
エリアスは背後から覗き込み、光のペンを走らせて写し取る。
「帳簿管理の署名もない。わざと削除されたな」
次に二人が手にしたのは、授業表だった。生徒の名の横に、いくつもの“病欠印”が押されている。
「……頻度が異常だわ。これじゃ授業に出られるはずがない」
「病欠に見せかけて、生徒を研究棟へ送っていたんだ。名簿の空白とも符合する」
エリアスの声は淡々としていたが、瞳の奥は鋭く光っていた。
さらに奥の机で、ヴェラは封筒に入った紙束を見つける。取り出したそれは、実験日誌の抜粋だった。
「注入量」「持続時間」「破損部位」――冷たい数字が並び、欄外には走り書きがある。
――「泣き声が測定値に影響」
――「命が尽きると陣式が安定」
ヴェラは一瞬だけ碧眼を伏せ、深く息を沈めた。指先が震え、爪が紙の端を食い込ませる。
「……人の命を“測定値”と呼ぶなんて」
低く絞り出された声には、怒りと吐き気が入り混じっていた。
エリアスは顔色を変えず、ただ筆を走らせていた。だがペン先はわずかに強く紙を削り、羊皮紙に小さ
な傷を残す。
「記録は残す。こいつらの冷酷な言葉すら、後で奴らを縛る縄になる」
そのとき、通路から低い唸りが近づいてきた。
床に刻まれたルーンが淡く光り、自律式の見回りが始まったのだ。
「……戻りの罠か」
ヴェラが囁き、袖から小さな鏡を取り出す。光を反射させ、監視の帯を別の側廊へと逸らす。
「今よ」
二人は息を合わせ、資料を抱えて通路を抜けた。
◇
西棟の渡り廊下を抜けたリディアとジークは、ようやく月明かりに照らされた外気へ出た。抱えられた少女と背負われた少年はかすかに呻き声を漏らし、額に冷や汗を浮かべている。
「持ちこたえて」
リディアは少女の頬に手を当て、小さく囁いた。
「もう少しで外よ。必ず連れ出すから」
北壁に面した古いバルコニー。
そこには先に到着していたヴェラとエリアスが待っていた。
ヴェラは脈、瞳孔、呼吸を短く確認し、頷いた。
「まだいけるわ。……今のうちに抜けましょう」
だが、塔の奥から低い唸りが立ち上がった。結界が再調律され、外壁側の“綻び”が塞がれはじめている。
「戻りの穴が閉じる」
ヴェラの声は冷静だが、急いていた。
「別の薄い場所へ。……北壁の雨樋なら通れる」
「高すぎる」ジークが眉を寄せた。
「だとしても、ここで閉じられるよりまし」
ヴェラの碧眼が月光を受け、冷たい輝きを宿した。
四人は目を合わせ、黙って頷く。
北壁は白石の急斜面で、足がかりはほとんどない ただ一本、古い雨樋が釘と錆で辛うじて外へ突き出していた。
「先に僕が降りる」
エリアスが言い、軽く息を整えると、幻視筆記の紙束を胸に固く抱えたまま体を投じた。緩衝の風が衣を膨らませ、勢いを殺し、下の草地に膝をついて着地する。
「受け取れる!」
彼が声を上げると、リディアが少女を抱いたまま柵を越えた。風が彼女の外套を広げ、ふわりと落ちる。エリアスが受け止め、少女を地面に横たえる。
「次は俺だ」
ジークは背の少年を抱え直し、躊躇なく身を投じた。途中で体をひねり、外套を広げて風を受ける。衝撃を最小限に抑え、地面に膝を突いた。
最後にヴェラが立った。
彼女は短く詠唱を唱え、風を操って自らの落下を緩める。月明かりに白銀の髪が揺れ、碧眼が一瞬だけ揺らいだ。
――かつて仲間を救えなかった自分とは、もう違う。
その想いを胸に、静かに地面へと降り立った。
背後で結界が完全に閉じる音が響いた。
戻る道は、もうない。
だが、それでいい。
四人は互いに視線を交わし、意識のない二人とともに夜の闇へ駆け出した。
◇
ギルドの裏口に辿り着いたとき、東の空はわずかに白んでいた。
扉が開き、暖かな空気が流れ出る。
真っ先に駆け寄ったのはミリアだった。
広間の光に照らされた二人の影を見た瞬間、彼女は息を呑み、足がもつれるように膝をついた。
「……嘘……ユリス、それにエマ……!」
震える手で額の汗を拭い、頬を両手で支える。瞳が大きく見開かれ、涙が溢れる。
そこにいたのは、かつて同じ部屋に閉じ込められていた少年と少女だった。
「どうして……生きて……ここに……」
声は途切れがちだったが、溢れる驚きと安堵がそのまま言葉になっていた。
痩せ細った少年――ユリスが虚ろな目をこちらに向け、かすれた声でつぶやいた。
「……ここは……どこ……?」
ミリアは涙を拭う暇もなく、その手を握りしめた。
「大丈夫。もう鎖も実験もない。――因果を返す人たちのギルドよ。私たちは守られるの」
少女――エマは弱々しく唇を震わせた。
「仲間が……何人も消えたの。声も名前も、全部……。でも……私たちも手伝いたい。因果を返すのを……」
その言葉に、広間の空気が揺れた。
リディアが小さく息を吐き、ジークが深く頷く。
ヴェラは一瞬だけ目を伏せ、掌に力を込めた。
私は因果カードを取り出し、三人に向かって差し出す。
「無理に話さなくてもいい。でも、あなたたちの声は“証言の糸”になる。私が橋にするから」
三人の手が震えながらも板に触れた瞬間、淡い光が広間を満たした。
――鎖の軋む音、泣き声、研究員の冷酷な言葉。
それらは確かに証言の糸となり、因果カードの奥に刻まれた。
卓の上には、既に並べられた証がある。
投与札と薬瓶――それは【物証】。
名簿の空欄、授業表の病欠印、実験日誌と覚え書き――それは【記録】。
そして今、三人の声が【証言】となった。
「……揃った」
カインが低く告げる。
「治安府と法務院、それに魔道監察局の認証は根回しを済ませる。式典で突きつければ、もう揉み消せない」
ヴェラは帳簿の写しを指先で押さえ、碧眼を伏せた。白銀の髪が肩に落ち、蝋燭の火が細い影を作る。
「……あの事故のとき、院長は『体調不良』で姿を消したわ」
静かな声だった。だが、言葉の縁は冷たい刃のように鋭い。
「現場に立つ力も、立たなければならない器もなかった。数字の上で威張るだけ。崩れた陣の前に立ったのは、あの人ではない。私たちだった。……そして、消えたのは私の仲間」
広間の空気が固く沈む。ヴェラの指が帳簿の角をわずかに押し、紙の繊維が音もなく軋んだ。
「私怨で刃を振るう気はない。ざまぁギルドは私怨で動かない。けれど――三系統は揃った。もう、あの人は逃げられない」
碧眼が上がる。そこには燃えさしの炎ではなく、揺るがない灯があった。
その言葉に、皆の背筋が伸びる。
私は胸が締め付けられた。
ヴェラの瞳に揺れる影――それは深い傷と孤独。
けれど今は仲間がいる。支えられる背がある。
だから私は強く願った。
――この人が倒れぬよう、傍らで声を重ねたい。
「ヴェラ……大丈夫。私たちも一緒に返す」
碧眼が一瞬だけ揺れ、かすかな微笑が浮かんだ。
「私、あの人を憎んでると思ってた。けど……違ったのかもしれない」
彼女は目を閉じ、深く息を吸う。四つ吸い、四つ止め、四つ吐く――私と同じ呼吸。
「憎しみだけなら、とっくに燃え尽きてた。残ったのは、空白よ。名も、姿も、何も残らなかった仲間の空白。それを埋める記録が、やっと揃った。私怨では動かない。だから、ずっと踏みとどまれた。けれど、明日は違う。理に基づいて、動かぬ証で縫い止める。……仲間の仇は、理で果たす」
皆の視線がカインに集まる。
彼は短く頷き、宣言した。
「明日だ。学術式典で返す。――準備を整えろ」
窓の外、夜明けの光が石畳を照らし始めていた。
それは戦いの幕開けを告げる光。
全員の胸に、同じ誓いが燃えていた。