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第2話 追放 ― 血の縁を絶つ時

 学院から帰還する馬車の中で、私は窓の外に揺れる灯りを見つめていた。

 夜の王都はまだ祭りの余韻に浸っている。居酒屋からは笑い声とグラスの音、街角では楽士が笛を鳴らし、踊り子たちが裾を翻す。卒業という門出にふさわしい喧噪――だが、私にとっては遠い国の物語に過ぎなかった。耳に届く声も、目に映る光も、何一つ自分に触れてこない。煌びやかさは、かえって心の闇を輪郭くっきりに浮き上がらせた。


 ――婚約破棄。


 王立学院の大広間で、冤罪の宣告を受けた瞬間から、胸の奥で壊れ続けている何かがある。シャンデリアの光、リラの涙に濡れた瞳、宝石の奥で歪む冷笑。私の否定は虚空に溶け、残ったのは「完璧な淑女など虚像だった」という囁きの反響だけだった。


 向かいに座る家令は、相変わらず無音の石に似ていた。慰めも怒りもなく、ただ事実だけを運ぶ器。馬車の車輪が石畳を叩くたび、胸の内側で乾いた砂がこすれ合う。


 やがて馬車は公爵邸に到着した。

 アーデルハイト公爵家――私の生家。

 けれど、今夜ここは私を迎える家ではない。門をくぐった途端、肺の奥に冷たい予感が入り込んだ。屋敷のすべての灯りが点り、玄関ホールには人影が整列している。普段は半分も灯されない廊下まで眩しく、まるで「裁きの場」を演出しているかのようだった。


 玄関の扉が開いた瞬間、炎の列が一斉に揺れて私を覗き込む。黒大理石は冷え、磨かれた床に長いまっすぐな髪の影が二重に伸びた。


「戻ったか、セリナ」


 名を呼んだ声に、一滴の温度もない。


 中央に立つのは父、アーデルハイト公爵。栗色の髪には白が混じり、油で撫でつけられた髪筋は硬直した威厳を纏う。瞳は冷え切った鋼鉄のような青灰で、光を拒む刃の角度で私を測っていた。片手に握った黒檀の杖は、祭司の槌のように床を支配している。


 その隣に母。白磁の肌に淡い薔薇色を帯び、瞳は私と同じ翡翠の色をしている。だが、その緑は春の若葉の温もりではなく、氷の奥で光る鉱石のように冷ややかだった。薄く結ばれた唇は扇の要のごとく決して開かず、感情を覆い隠していた。


 階段の上からは兄が見下ろしている。髪は父譲りの栗色を濃く受け継ぎ、瞳は母の翡翠色をわずかに帯びている。だが光は濁り、狐のように細い目尻には、長年温めた嘲笑が張りついていた。


「……殿下からすべてを聞いた」


 父の声は低く、重く、天井の梁を伝って落ちてくる。


「王妃候補の身でありながら、舞踏会で醜態を晒し、家に泥を塗ったな」


「それは冤罪です!」


 張り裂けそうな胸から、堰を切ったように声が飛び出した。


「私はリラに毒など盛っていません。脅したこともない。殿下が信じたのは――」


「黙れ」


 空気そのものを打つように、父の杖が振り下ろされる。


「王太子殿下の御前でなされた言葉は“事実”だ。真偽は問題ではない。お前の否定は、もはや家に益をもたらさぬ」


 真偽は問題ではない――。


 その瞬間、胸のどこかで小さな音がした。何かが外れ、落ちた。


 母が扇をわずかに傾け、冷ややかに言う。


「セリナ。あなたは幼い頃から強すぎた。魔力も、努力も、完璧さも。……人は強すぎる光を嫌うものよ。結局、家のためにもならなかった」


 階上で、兄が軽薄に笑う。


「いい気味だ。完璧な妹に比べられる苦痛から、ようやく解放される。父上、母上、今宵を境に家も軽くなる」


 背筋を、ゆっくりと氷が這い降りていく。


 私は、今この瞬間まで、どこかで期待していたのだろう。父も母も兄も、最後の一滴くらいは私の無実を汲もうとしてくれるのではないかと。愚かだ。彼らにとって私は、家の均衡を保つための重しであり、飾りであり、盾であり続けただけ。


 私の中で、何かが音もなく座標を変える。問いは短く、乾いていた。


「……処分は」


 父は家令に顔を向け、書式を読み上げるように告げる。


「今夜をもって勘当する。セリナを屋敷から追放せよ。持ち物の持ち出しは禁止。衣服は下女の予備を一着与えよ。護送は門まででよい」


 音のない雷が落ち、屋敷の空気がひび割れて静まった。


 母は目を閉じて小さく頷き、兄は口角をわずかに吊り上げて私を見た。


 家令が一歩進み出て、低く頭を垂れる。


「セリナ様、こちらへ」


 膝が震えた。だが、踵は沈まない。私は足裏に力を集め、大理石の上に自分の重さを置き直す。


「参ります」


 廊下の燭台が、私の影を細長く裂いた。


 侍女用の衣裳部屋に案内され、渡されたのは灰色の粗末なワンピースと、薄い外套。布靴は踵が擦り切れている。


 鏡台の前で、私は自分の髪をほどいた。白金の髪が肩から胸へと滑り落ち、束ねていた翠玉の簪は、掌の中でひどく場違いな光をこぼす。


 私は簪を布にくるむと、衣装棚の奥に戻した。持ち出してはならない――そう言い渡される前に、もはや必要がないのだと思った。完璧な淑女の肖像を縫い止めていた糸は、ここで切れる。


「……お嬢様」


 背後から、囁きのような声がした。


 振り返ると、若い侍女が立っている。私より少し幼い、夏麦の色の髪を三つ編みにした娘。彼女は何年も前から私の部屋に配されたが、仕事以外の言葉を交わした記憶はほとんどない。


 侍女は震える指で、小さな包みを差し出した。


「この、手袋……破れていないものを。夜は冷えますから」


 私は短い息を飲み、受け取った白手袋を胸元に押ししのばせる。


「ありがとう」


 侍女は慌てて首を振る。


「いけません……私は、何も……」


 侍女はまた、小さな錫の缶を差し出す。


「それは?」


 と廊下に控える家令が問う。


「……お嬢様が焼いた菓子でございます。お許しください」


 焼き菓子。夜の静けさの中で、私が火加減を覚え、粉の比率で心を落ち着かせた時間の結晶。

 この侍女がいつも心配そうに見守っていてくれたのを知っている。


 家令は一瞬だけ、目を伏せた。


「持ち出しを許可します。ただし、それのみ」


「感謝します」


 錫の缶を外套の内ポケットに滑らせると、甘い匂いが一瞬だけ立ちのぼった。粉糖と蜂蜜の混じった、ささやかな温度。心の空洞に、針の先ほどの灯がともる。


 玄関ホールに戻ると、父は庭先の風を背に受けて立っていた。


「セリナ。お前は国のため、家のためと唱えながら、結果を出せなかった。価値は結果で測られる。――覚えておけ」


 母は扇の陰で瞼を伏せ、兄はあくびを噛み殺すように笑った。


 私は深く一礼し、顔を上げずに背を向ける。


 庭に夜風が吹き込む。春というには早すぎる。

 刈り込まれすぎた生垣は、黒い歯列のように並び、その奥で白い石像が目を伏せている。あれは幼い頃、母に連れられて散歩した石像の列だ。私はいつも一体の裾に隠れ、風から身を守った。


 今、その石像は私を見ない。


 門衛が重々しく鎖を外し、鉄の扉を押し開ける。油の匂いと、鉄の軋む音。


「これより先、当家敷地への立ち入りを禁ずる」


 門衛の声は、業務の読み上げに過ぎない。


「承知いたしました」


 私は敷居に片足をかけ、ふと振り返る。

 父と母と兄。それぞれの位置から、誰も動かない。家の中心へ背を向ける娘は、もはや家具にも及ばない。


 扉の向こうに、一歩。


 重たい鉄の響きが、夜へ落ちた。

 それは私と家族を永遠に隔てる鎖の音――たしかに、そう聞こえた。


 石段に夜露が薄く光る。薄い外套ではまだ春と呼ぶには早い、冷たい風を防げない。肩から胸へと冷えが滑り込み、肺に針のような痛みを残す。


 私はふと、幼い頃からの教えを思い出した。

 ――自分の体に魔力を使うな。

 ――暖を取る術も、収納の術も、家の者がやればよい。お前は“家”のために結界を張り、浄化を行え。


 そう、私は莫大な魔力を持っているのに、自分を温めることすら許されなかった。

 肉体は絶えず魔力を循環させており、そこに外から流し込めば拒絶が起きる。制御を誤れば、内側から命を削る――父はそう断じていた。


 だから私は、寒さに震えながら歩くしかない。


 私は外套の襟を指先でかき寄せ、空を仰ぐ。王都の夜空は雲が速く、月の輪郭がほどけては結ばれる。


 足を止めれば、呑まれる。

 私の内側から、静かな声が立ち上がる。

 ――歩け。


 菓子缶を握る。冷たい錫が、掌でわずかに温まった。ひやりとした金属の感触に、さっき侍女が渡してくれた手袋の柔らかさが重なる。


 門を離れ、石畳へ一歩踏み出す。踵と石が触れて鳴った音が、私ひとりの存在を確かめてくれる。


 夜の王都の灯りが、遠くに滲んでいる。まるで「こちらへ」と手招きするように、灯火が道の先へ散っていた。


 ――終わった。

 私はもう、家に属さない。


 ――ならば、私自身のために歩くしかない。


 石畳を踏みしめ、私は歩き出す。屋敷の塀はすぐに背後の闇へ溶け、庭の木立は輪郭を失う。


 家も、未来も、居場所も失った。残ったのは身一つの自分だけ。だが、その「一つ」は、かつてよりも重く、確かだ。


 夜風は冷たい。襟元から侵入した冷気が背骨を這い上り、耳朶を刺す。外套の薄布がばさりと鳴り、袖口が皮膚に擦れて痛い。


 それでも、胸の奥でただひとつの囁きが繰り返される。

 ――因果は巡る。返さねばならない。


 私はその言葉を、吐く息に混ぜて前へ押し出した。


 灯りは遠い。だが、遠いからこそ、歩けば近づく。

 薄い外套は風を防げない。だけど、歩みは風に負けない。


 錫の缶の重みは軽い。けれど、今の私にとって、それは十分な重さだった。甘い匂いの記憶と、火加減の静けさと、手袋の白。

 それら全てが、今の私の全てだ。


 王都の外れへ向かう通りに、ゆっくりと人影が疎らになる。酒場の笑い声は背後で小さくなり、夜回りの巡査が角を曲がって消えた。


 路傍の祠に小さな灯が揺れ、誰かの祈りの残り香が漂う。私は足を止めず、祠の前を通り過ぎながら、ほんの一瞬だけ睫毛を伏せた。


 ――私は私のために歩く。

 そして、いつか。

 奪われたものを、奪い返すのではない。

 返すべき場所へ、返すのだ。


 足下で、石畳が乾いた音を刻む。衣の裾が夜気を掬い、心臓は「生きている」と一定の答えを返す。


 私は歩く。灯りの方へ。夜の方へ。私自身の方へ。

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