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第13話 病院の偽り ― 返却の処方

 医療評議会の朝、学院附属講堂の白壁は曇り空の光を跳ね返し、石畳に薄い影を落としていた。高窓の向こうには、薬草園の緑。だが、空気は清浄ではない。消毒液と紙の匂いに、張り詰めた人心の匂いが混じっていた。


 鐘が三つ鳴り、席次に沿って白衣と黒衣が並ぶ。壇上には議長たる老医師、その左右に評議員。最前列には各療養院の代表が座り、聖ベネディクト病院の席には丸い腹を揺らしながら座る男――院長エトヴィン・ローゼンバルト。金の指輪、光る髪油、笑窪の陰影。


 傍聴席には遺族と市民、病院の看護師や医師、商人、議会の観察員。その最後列、扉の近くに治安府第三隊の女隊長ミレイユ・ルグランが控え、隊士が静かに目を光らせている。


「本日の議題は、市民嘆願の審理に関する件だ」


 議長の声は乾いていた。


「嘆願提出者は――」


 老農のオットー・ハルトが立ち上がろうとして膝を震わせたとき、黒衣が列の間に影を落とす。私たちが歩み出ると、さざなみのような囁きが広がった。


「ざまぁギルドだ……」

「顔は……ローブの陰」

「因果の札が出るのか」


 カインが前へ出る。漆黒の髪に高窓の光が一筋落ちて、黒曜石の瞳が静かに光る。


「市民の嘆願を預かった。密室に閉ざされた“選別”を、公開の場で正すために来た」


 エトヴィンが鼻で笑った。


「ここは医の場だ。門外漢が口を出すところではない」


「門を閉ざして命が失われたから、開けに来た」


 カインの声音は低く、よく通る。


「理は声ではなく、証で立つ。証言、記録、物証――この三つを揃えて、我らは理を示す」


 議長が眉をひそめたが、傍聴席から「聞かせろ」という低い声がいくつも重なり、やがて彼は小槌で静粛を促した。


「……ただちに結論を出すものではない。証拠を見よう」


 私は因果カードを袖に待たせ、視線で合図を送る。まずは記録、次に証言、最後に物証。三つの鎖を順に。


 ヴェラが一歩進む。黒のローブから分厚い綴りと印影の写しを取り出し、壇上の机に静かに置いた。碧眼が微かに冷える。


「【記録】を確認しましょう。寄付金の流路:宛先“平民救護基金”から“施設美観維持費”へ。さらに“貴賓病室の備品購入”“院長室改装”へ。印影は同一の印面を流用、紙繊維の年代は古いのにインクは新しい。搬入伝票は“薬品納入:百六樽”とあるのに、在庫台帳は“八十樽”。二割の差分の説明が必要です」


 エトヴィンが肩を揺らす。


「経理の手違いだ。忙しい現場ではよくあること」


 エリアスが淡々と継いだ。


「忙しさで消えるのは“桁の誤り”です。だが、ここは“同じ桁で繰り返し二割”。三ヶ月連続です。搬入印を押した薬商組合の出納とも照合しました。数字は一致しません――記録があなた方に不利であるという事実だけが、一致しています」


 傍聴席のざわめきが膨らみ、白衣の中に伏し目が増える。議長の喉仏がひとつ上下した。


 リディアが病院で集めた口述票を小さく掲げ、短く読む。声は鞭のようにしなやかで、無駄がない。


「【証言】。『水をください』『順番ですと言われた』『薬は高すぎると笑われた』『隣の部屋から果物の香りがした』『歌声が聞こえた』『“非治療適応”の札を貼られた』」


 エトヴィンが食い気味に言う。


「病状の重さが違う。治療可能性――見込みのある者を先に救う。貴族は国の柱であり、支援者でもある」


 私は口を開きかけたが、リディアが一歩だけ寄って柔らかく笑う。


「治療の見込みがどうこう言う前に、【証言】があります。『貴賓室の札は、一度も剥がれなかった』。本来なら三年前に制度ごと廃止され、札も外されているはずでした。けれど実際には残され、使われ続けていた。――つまり“治療見込み”ではなく、最初から“身分”が貼られていたのです」


 エリアスが鏡を立て、指先で一度軽く弾く。白光が講堂に広がり、空中にゆっくりと映像が開いた。石灰の壁、格子窓の釘痕、床の欠け。二つの病室が並ぶ。右――貴賓病室。果物籠、薬瓶、ふかふかの枕。左――平民病床。薄い毛布、空の水差し、乾いた唇。「水を」と動く口。看護の手が一瞬止まり、札に視線を落とし、静かに去る。


「【物証】。貴賓室に残った“痕”は昨日すでに記録してあります。窓格子を打ち直した釘の跡、繰り返し物を置いた棚板の欠け、そして外されず古びたまま残った札の端の破れ。今日の映像は別角度ですが、すべて合致しています」


 エリアスが静かに言う。


 誰かが、堪えきれずにすすり泣いた。


「薬も布も足りなかった……うちの娘は、あの“貴賓室”のせいで……!」


 エトヴィンが立ち上がる。椅子が引きずられ、耳障りな音が講堂に走った。


「ねつ造だ! 治療は崇高な義務だ。われわれは全員を救えないとき、秩序を守るために選ぶ! 美観も治療の一部だ。患者は綺麗な場所で癒える」


 ヴェラの横顔が僅かに歪む。


「“癒える”対象は、選別していないはず。王都医療倫理法第三条。『身分と財産を理由に治療機会を差別してはならない』――暗唱できるでしょう?」


 議長が皺深い額を押さえ、小槌を鳴らす。


「静粛に。――ギルド、まだ示すものがあるのか」


 カインが前へ出た。黒衣の影が壇上に差し掛かる。私は袖の内側に因果カードの重みを確かめ、胸の内で四つ吸い四つ止め四つ吐く。


 カインの声は低く、冷たく、講堂の隅々に届いた。


「証拠は三系統揃った。因果は返却される」


 私は一歩踏み出す。因果カードを胸の前に掲げ、黒の板へ魔力を流す。光の糸が走り、記録と証言と物証の間を縫い合わせていく。帳簿の数字から薬庫、薬庫から貴賓病室、貴賓病室から札へ、札から“水を”という口の形へ、そして老人の涙へ。糸は細いままでは終わらない。束ね、太らせ、返す。


「奪ったものは、患者の生命と尊厳、そして寄付の公益。罪は公に記録される。――これが、あなたに返るもの」


 光が爆ぜ、講堂の空気が一瞬だけ熱を帯びた。因果カードに燃え立つような書が走る。黒い板の上を、炎の筆が疾走する。


 ――エトヴィン・ローゼンバルト

 ――クラウス・メルダー(会計)

 ――マルガレーテ・ヒルデブラン(主任医師)


 署名は誰の目にも見える烙印となって宙に浮き、静かに、しかし消えない光で輝き続ける。傍聴席の遺族が息を呑み、白衣の若い医師の拳が震え、片方の手の爪が掌に食い込む。その隣で看護師が顔を覆い、肩を小さく震わせていた。


「やめろ!」


 エトヴィンが絶叫した。


「その名を消せ! 名誉を傷つけるな! これは私だけの罪ではない、制度が、制度が――」


 ヴェラが冷徹に告げる。


「王都医療倫理法第三条、第九条、王都寄付監督令第二条違反。刑罰は寄付金の返還・没収、医療資格の停止、場合によっては剥奪。主任医師は業務上過失ならびに差別選別行為により告発。制度の議論は別の席で行われる。――あなたは、あなたの分を返しなさい」


 壇の隅で、会計の男が椅子を引き、出口へ滑ろうとする。ジークが一歩で道を塞ぎ、剣を抜かずに結界札を床に打った。透明の壁が流れのように立ち上がり、逃げ足をやさしく逸らし、足をもつれさせる。男は尻餅をつき、手首に鎖がかかる。


「暴れるな」


 ジークの声は低い。


「行き着く先は法廷だ」


 講堂の重い扉のそばに控えていた治安府第三隊が前へ進み出た。ルグラン隊長が兜を取り、羊皮紙を掲げた。


「法務院と医療監察局の即時認証に基づき、告示する。エトヴィン・ローゼンバルト、クラウス・メルダー、マルガレーテ・ヒルデブラン。前記の容疑により拘束する。貴賓病室・院長室・会計室は即時封印、記録は押収。貴賓病室の備蓄品は、本日より平民病床へ優先配分とする」


「誰がそんな権限を!」


 エトヴィンの声は掠れていた。


「“医療は誰のものか”」


 ルグラン隊長は淡々と返す。


「本日、ここで決まった」


 隊士が進み、鎖の金属音が床に転がる。取り巻きが立ち上がりかけたが、ジークの結界は押し返す壁ではなく、波を曲げる柵として働き、衝動を脇へと流していく。乱闘は起きない。怒りは逸らされ、視線は署名の光に縫い止められたままだ。


 私は因果カードを下ろし、余熱の残る板を掌で包む。黒の中で、微かな脈がまだ打っている。返却の完了を告げる、低い鐘のような脈。確かに、橋は架かった。


 壇上の端で、白衣の若い医師が立ち上がった。顔は青いが、目はまっすぐだ。


「……貴賓室には反対でした。ですが、上からの命令で札が掛けられ、逆らうことは許されませんでした」


 ヴェラが視線だけを向け、柔らかくも鋭い一言を投げる。


「次は、あなたが止めなさい。記録し、署名し、公開するの。医の名で」


 若い医師は唇を結び、深く頷いた。


 傍聴席から、絞るような声が上がる。


「ざまぁギルドだ……」

「因果は返された……」


 オットーが席を立つ。杖を握る手が震えていたが、膝はさっきより確かだ。私が近寄ると、彼は帽子を胸に抱えて頭を下げた。


「妻は戻りません。ですが――今、誰かの妻が、水を、もらえる」


「ええ」


 私は返す。


「今、ここから」


 評議会は、臨時の決議を続けた。「選別基準の廃止」「寄付金の流路の公開」「患者家族の立会権」「備蓄の実地監査」。エリアスは項目ごとに書き留め、控えを複製して議会の観察員に渡す。


「残すことが形にすること。書かれない善は、風と一緒に消える」


 講堂を出ると、曇り空の切れ目から淡い日差しが落ちていた。


 背後から押し殺した声が次々に響く。


「ざまぁギルド……やはり本物だ」

「署名の光を見た」

「これで報われる……因果は返されたんだ」


 恐れと安堵と敬意の混ざった音色が、石畳を滑っていく。正体は隠される。だが、やり方は見せる。それでいい。刃よりも、橋でいたいのだから。


 私たちはルグラン隊長と隊士たちに護られながら、聖ベネディクト病院へ戻った。


 病院の前庭にはすでに監察局の馬車が横付けされ、評議会で示された果物籠や薬箱が運び込まれている。

 ジークは「ここで押し合いになる」と見越して角に立ち、列を“蛇腹”に整える。リディアは薬庫の底板の合図――「右から三欠け」の棚を監察官に示し、封蝋の色が鮮やかに押された。ヴェラは配分順序の紙に「子ども、老人、病者」の順を大書し、廊下の正面に貼る。


 カインはその全部を見渡し、頷きひとつで要るものと要らないものを仕分ける。

 私は因果カードを胸に、並ぶ人々の列の先頭に立つ看護師に微笑んだ。


「水は最初に。砂糖水は二番目に。――過不足なく」


「帰りに甘いものを買って帰るか」


 カインの低い声が耳元に落ちる。黒衣の団長の横顔は、いつもより柔らかい。


「今日は許してくれるのね」


「今日は、許す。過不足なく」


 私の口元に笑いが生まれる。


「過不足なく、ね」


 拠点に戻ると、台所の棚に取っておいた林檎がいくつか残っていた。私は皮を薄く剥き、砂糖の匙を量る。今日は控えめに。リンゴの酸が立つくらいがいい。オーブンの前で待つ私の心に、黒い板の冷たさが静かに寄り添っていた。


 ――因果は巡る。返さねばならない。


 今日、私たちは“医療の名で奪われたもの”を返した。

 明日はまた別の糸が、どこかの掌の中で震えるだろう。

 三つの鎖を揃え、カインが宣し、私が束ね、名が燃えて、法が降り、鎖が鳴る。

 様式は刃ではない。橋だ。誰もが渡れるように、何度でもかけ直せるように。


 オーブンの鐘が鳴り、甘い香りが廊下に流れる。足音がひとつ、ふたつ。リディアの早足、エリアスの静かな歩、ヴェラの踵、ジークの重み。最後に、カインの影。皿を配る手が重なり、私はタルトを切り分ける。


「今日は甘さ控えめ」


「市が甘さを取り戻したからな」


 カインがぽつりと言って、フォークを入れる。黒曜石の瞳が一瞬だけ緩んだ。


 窓の外、薄日が石畳をなでる。遠くの鐘楼の影が伸び、薬草園に風が走る。私は因果カードを指先で撫で、目を閉じた。余熱は消えかけて、けれど、中心の脈は確かに――次を告げている。

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