第12話 病院の偽り ― 闇に沈む病室
王都の朝は、まず石畳の上を滑る車輪の音から立ち上がる。露台を押し出す商人の掛け声、井戸から吊り上げられた桶の滴り、パン窯の口から吐き出される白い蒸気。屋根の上を行く鳩の影が、薄雲を裂いては消え、まだ冷たい日差しが尖塔の金飾りを一瞬だけ明るくする。
そんなありふれた朝の気配の只中で、拠点の扉が三度、ためらいがちな間を置いて叩かれた。
「入って」
ヴェラの静かな声に、古い蝶番が短く軋む。敷居の影から現れたのは、背を折った老人だった。
麻布の外套は擦り切れ、掌は土で黒く、節だらけの指は寒さにこわばっている。
けれど、深い皺の谷に沈まずに残った光が、瞳の底でじっと揺れた。
「……お願いします」
老人は卓の端へ近寄り、両手を置いた。骨の輪郭が皮膚を押し上げ、爪の白い欠けが痛々しい。
カインは椅子から立たない。だが、部屋の中心は自然と彼へ重心を寄せた。
私は一歩進み、低く穏やかな声で促す。
「まず、お掛けください」
ヴェラがすでに椅子を引いていた。座面には薄い毛布が敷かれ、冷えを和らげる。
私は卓から木の杯を取り、暖めていた蜂蜜入りの麦湯を注ぐ。
湯気はやさしく、焦げ麦と花の甘い匂いが混じる。
老人の手に杯を添え、唇まで導くと、彼は二口、三口と慎重に呑んだ。
こわばっていた喉が通り、肩の上がりが少し下がる。
「お話を、ゆっくり」
「北区の大病院でございます。あれは……我らが出し合った寄付で建ちました。働き手が倒れても、皆で助け合えるように、そういう場に、と。けれど今は、貴族さまの部屋だけが果物と薬で満ち、平民は“治療不能”だと追い出される。妻は……妻は、床に伏したまま、薄い布一枚。粥も薬ももらえず……息を引き取りました」
言葉が途切れ、老人の喉が波打つ。
杯の中で蜂蜜が細く揺れた。
「因果を測ります」
私は立ち上がり、文書庫の奥の木箱へ向かった。登録魔力で錠が外れ、蓋が静かに軋む。中には、内布に包まれた漆黒の因果カードが、夜の水面のように沈黙していた。
その中の1枚を慎重に取り上げ、卓へ戻る。
老人の前に立つと、その両手に黒い板をそっと重ねた
カードは、掌の熱を吸いながら、奥底で小さく脈打った。
エリアスはこの瞬間すでに記録帳を開き、黒縁眼鏡の奥で視を落とす。
「お名前は胸の内で。返してほしいものを、真ん中に置いて。――わたしが橋になります」
老人は、目を閉じた。
震える息が徐々に整い、掌がほんのすこしだけ温度を帯びていく。
次の瞬間、黒の底から糸の光が、髪より細く立ち上がった。
エリアスの筆先が、微かに速さを増す。
――証言の糸。
壁一枚隔てた二つの部屋。
片や絹のシーツに山盛りの果物、甘い香を焚いた空気。
片や板の床、乾いた唇、看護人の冷ややかな声。「治療不能」。
妻の浅い呼吸、指先の冷え。
――記録の糸。
村の組合が書記に預けた寄付控帳の写し。
月ごとの額、受領印の輪郭。
日付の列に刻まれた、誇らしげな古い筆致。
――物証の糸。
病室の隅に転がった欠けた薬壺の破片。
貴賓室前に積まれていた木箱の刻印――薬商の紋ではなく、見慣れぬ商会の印。
三本の糸は、立つだけで涙の重みを帯びていた。
私は呼吸を四つ吸い、四つ止め、四つ吐く。
焦れば千切れる。
焦らず、遠ざけず、絡ませず。
糸は私の指先へ自然と集まり、やさしく撚り合わされていく。
束ね終える刹那、因果カードの面を淡い光の帯が横切った。
黒の底から、青白い光の細字がゆっくりと立ち上がる。
エリアスの筆が、その瞬間を逃さず“記録”の行に重ね書きする。
光の色、立ち上がりの順序、告発者の呼気の深さまで、短い記述で固定していく。
――オットー・ハルト。
依頼人の名が、媒介の誓名として“橋”に結ばれた。
罪の署名ではない。
返却の道筋に灯る最初の標。
オットーの肩が震え、皺の谷に溜まった涙が、細い光を滲ませる。
エリアスはそこで筆を止め、余白に小さく朱を打った――「証言糸、確立」。
「……見えました」
私は小さく告げる。
オットーは顔を上げ、唇を嚙みしめ、深く、深く頭を垂れた。
ヴェラが出来るだけやわらかい声で言う。
「あなたの言葉が、握り潰されることはない」
「必ず、返します。奪われたものを、奪ったところへ」
私はそう言って、彼の手を両手で包んだ。
オットーは何度も頷いた。
涙はこぼれたが、絶望の色はもう薄かった。
エリアスは最後に記録帳を閉じ、封の紐を一度固く結ぶ。
部屋に静けさが戻った。
◇
その夜、ギルドの広間には灯火がゆるやかに揺れていた。
石壁にかかる古い地図や武具の影が、橙の光に合わせて長く伸び縮みする。卓の中央には因果カードが一枚、黒い水面のように静かに置かれていた。
全員の視線はそこに吸い寄せられ、部屋全体がひとつの鼓動を共有しているかのようだった。
最初に口を開いたのはカインだ。
背凭れに深く掛けていた椅子を押しやり、ゆっくりと立ち上がる。黒いローブの裾が床を撫でると同時に、低くよく通る声が広間を支配した。
「三系統の証拠を揃える必要がある」
彼の言葉はただの確認ではなかった。
全員の胸に刻まれた掟を、あらためて鋼のように鍛え直す響きだった。
ヴェラは碧眼を細め、炎にかざした手で静かに頷き、エリアスは机上の帳面を指先で叩きながら視線を上げる。
リディアは椅子の背に身を預け、足を組んだまま耳を傾け、ジークは壁際で腕を組みながら、黙したまま頷いていた。
カインは続ける。
「まず【記録】。帳簿を抑えなければならない。寄付金や備蓄の記録があるはずだ。数字は嘘をつかないが、隠す者がいれば必ず歪む。その歪みを抉り出す」
その言葉にエリアスが静かに眼鏡を押し上げる。
几帳面な彼は、帳簿を読むことこそ自分の役割だと理解していた。
ヴェラは視線を炎から離さず、「印影や筆跡も見逃さない」と小さく応じる。
カインは指を二本立てた。
「次に【物証】。実際の病室の差を、目で確かめなければならない。匂い、湿り、布の薄さ、果物の皮――言葉より雄弁に語るものがある」
リディアの唇に皮肉めいた笑みが浮かぶ。
「忍び込むのは得意分野よ」
軽やかに返す。
ジークはその隣で短く言った。
「護りは任せろ」
二人の息は、すでに呼吸の段階で合っている。
そして、カインの視線が私に落ちてきた。
炎の光がその黒い瞳に深く沈み、逃げ場を与えない。
「そして【証言】。患者や遺族の声を記録し、矛盾なく並べること。魂から零れ落ちた声こそ、最も重い証だ。……セリナ、お前が担え」
「……はい」
自分でも驚くほど、声はまっすぐに出た。
胸の奥で、氷のように冷えたものと炎のように熱いものがぶつかり合い、背筋が自然に伸びていくのを感じる。
もう“公爵令嬢”として飾られる私ではない。
返却者として、誰かの因果を橋に渡す者として立っているのだ。
カインは視線を全員に巡らせ、最後に低く言い放つ。
「分担は決まった。――余計な情は捨てろ。ただ返すために動く。奪われたものは、必ず返す」
広間に一瞬の沈黙が落ちる。
やがて全員の「応」という声が重なったとき、因果カードの黒がかすかに脈打ち、灯火の炎がひときわ強く揺れた。
その瞬間、私はようやく自分が本当に“仲間の一人”としてこの場にいるのだと、深く実感した。
◇
北区の大病院は、昼の顔に抜かりがない。
白壁は日を弾き、真鍮の手すりは指先が映るほどに磨かれ、入口のアーチには王都の名工が手掛けたと謳う彫刻が並んでいる。
ステンドグラスの聖者が黙って慈善を語り、通りを行き交う人々に「ここは救済の殿堂だ」と言わんばかりに微笑みを投げていた。
だが、門をくぐって三歩。
空気が変わる。
鼻腔を突くのは香油の芳香ではなく、その奥に沈む鉄の気配――床石に染み込んだ古い血と、いくら拭いても抜けきらない湿りだった。
「言葉は表に、事実は裏に」
隣を歩くエリアスが、眼鏡の奥で瞳を細めて呟く。
彼の声音は、冷静な観察者のそれだった。
受け付け前はごった返していた。
農夫らしい男が包帯を巻いた腕を抱え、順番を待つ。だが彼は「寄付者様の面会が先です」と看護人にあしらわれ、舌打ちして踵を返した。
痩せた母親は咳き込む幼子を抱え、列の端で不安げにきょろきょろと視線を彷徨わせている。
面会簿を覗き込むと、筆跡の癖が激しく走る行があり、その横に赤く囲われた「貴賓室」の文字。
「次!」と声が響くたび、豪奢な衣服をまとった者だけが奥へと通され、残された平民たちは重い空気をまとって溜息をつく。
私の耳は自然とその声を拾い、心の底で細い糸を張った。
「お父さん、帰ってこれるよね」
幼い少女のすすり泣きが、冷えた石の床に落ちて震える。
「寄付を出したのに、なんで……」
誰かの呟きが消え入り、看護人は眉をひそめて「規則です」と言葉を切った。
廊下の隅には木箱が積まれていた。蓋は外され、空になった箱が乱雑に転がる。
刻印は三つ。
ひとつは王立薬草院、もうひとつは王都南の酒造組合。
そして、見知らぬ商会の印――見慣れぬ意匠が赤い染料で刻まれていた。
薬ではなく、別のものが運び込まれている証だった。
私は人波の陰に身を沈め、耳と目で必要な断片を集め続けた。
誰の声が真実の熱を持ち、どの記録が形を結ぶのか。
因果の糸はここに散らばっている。
だが、まだ束ねることはできない。
ここは“証言の入口”にすぎない。
糸を編み、橋にするのは拠点でだ。
告発者の言葉が“前”に置かれたとき、初めて因果は形を取る。
夕刻、面会が終わるや否や、病院の廊下はひと気を失い、燭台の明かりだけが点々と闇を押し返していた。
リディアとジークはその隙を突いて、裏の窓から滑り込む。
「右が貴賓、左が一般。匂いが違う」
リディアの囁きは鋭敏だった。
右の扉からは陶器の触れ合う音、果物の甘い香が洩れる。笑い声さえ混じっていた。
左の扉からは湿った咳と浅い呼吸。床板を伝って鼻腔に届くのは、塩と冷えの匂いだった。
ジークは掌に符を広げ、空気を閉じ込めるように動かす。
温度、湿度、臭気――すべてを封じて因果の証として留める。
リディアは影のように床を滑り、職員用の扉を抜け倉庫へ。
そこは、並ぶ木箱が壁のように積み上げられた薄暗い空間だった。
「……整然としてるようで、不自然ね」
最前列の箱に手をかける。
王都酒造の刻印が押された木箱を軽く持ち上げると、がらんと音を立てて空だった。
酒造の印でありながら、中身はない。
「偽装か、横流しか」
ジークの低い声が背後から響く。
見知らぬ商会の印が押された箱は異様に重い。
蓋をこじ開けると、陶器の壺がぎっしりと詰まっていた。
表には「滋養酒」と札。
リディアは細い針を差し込み、一滴を舌にのせる。
「……強い。薬じゃない、ただの酒」
眉をわずかに歪め、舌の奥で苦味を押し殺す。
病人に必要な薬が、寄付で集められた資金が、酒に化けている――その事実が空気を重くした。
さらに奥。
王立薬草院の印を持つ木箱に手を伸ばす。
蓋を外すと陶製の薬瓶が並んでいたが、その数は半分に満たない。
しかも瓶に貼られたラベルは粗雑に剥がされ、上から「貴賓室」と雑に書き直されていた。
「……見られたくないものは、張り替える」
リディアが呟く。
薬瓶の口から漂うのは薬草の清香。
しかしその奥に混じるのは、酒精と甘い香り。
薬の効能を弱め、飲みやすさを装った偽物だった。
そのとき、廊下から靴底の音が近づいてきた。
釘打ちの靴の硬い響きが、二つ、三つ。
ジークは床を指で叩き、即座に結界を展開する。
扉の内側に薄い壁が立ち、押されても動かぬよう支える。
「中から施錠されているのか?」
「いや……昼の見回りで鍵は壊れたままだったはずだ」
外の看護人同士が小声で言葉を交わし、しばし扉を探る気配が続いたが、やがて足音は遠ざかっていった。
リディアは息をひとつ吐き、ジークは符を折り畳む。
木箱の蓋は元に戻され、痕跡は一切残されない。
ジークは符に刻んだ札と刻印を懐に収め、リディアは髪を整えるふりで埃を払った。
――物証、確保。
二人は視線を交わすと、影のように静かに倉庫を後にした。
◇
同時刻、エリアスとヴェラは事務棟へ足を踏み入れていた。
日暮れが迫り、窓辺のランプが紙面に橙の光を落とす。
帳簿の匂い、羽根ペンの擦れる音だけが室内を支配していた。
エリアスは懐から市民監査室の通行状を差し出す。
封蝋の色に若い書記が目を丸くし、すぐに分厚い台帳を運んでくる。
「寄付受領の記録を拝見したい」
眼鏡の奥で静かに告げる声に抗う者はいなかった。
頁を開けば、北区の商人組合や職人組合、村の組合の名が並び、金額はどれも大きい。
だが支出帳の欄には、薬草購入は月に一度、しかもごく少額。
その代わりに「歓待費」「講堂装飾費」が目立っていた。
「数字の比率が歪んでいる。寄付を受ければ受けるほど、薬ではなく装飾が増える」
エリアスの指先がさらりと紙面を走る。
ヴェラは黙って朱印を拡大鏡で覗き込む。
摩滅した共用印がいくつも混じっていた。
「裏帳簿がある」
彼女の囁きに、若い書記の肩がぴくりと揺れた。
その時、肉付きの良い副院長が現れる。
香料の匂いを纏い、指には金銀の指輪が光っていた。
彼はにこやかに笑みを作り、声を張る。
「講堂の装飾をご覧いただけましたか? 寄付者の皆様への感謝を形にするのも我らの大切な務めでして」
寄付を飾りに変えたことを、誇らしげに語る副院長。
だがその言葉の裏を、ヴェラは見逃さない。
ふと首を傾げ、穏やかな声音で突いた。
「その講堂に掛けられていた“貴賓室”の札……おかしいですね。”貴賓室”は三年前に制度ごと廃止されたはずです。どうして今も使われているんですか?」
副院長の笑みが瞬間的に凍りつく。
瞼が痙攣し、頬に冷や汗が滲んだ。
「……いや、それは――」
言葉を継ぐ前に、エリアスは通行状を机に置いた。
「明日の医療評議会で、この数字と装飾の“意味”は必ず問われます。……その場で何が明らかになるか、お心積もりを」
副院長の作り笑いはさらに固くなる。
二人は丁重に礼をして部屋を辞し、帳簿の山は不気味な沈黙を保った。
――記録、抑え。
◇
同日、リディアとジークは別動で貴賓応接に潜入していた。
壁に掛けられた新しい地図の木枠、その片隅に小さな銀の針。
誰も気づかぬ細工。
案内の少年が席を外した一瞬を狙い、ジークが音もなく枠を外す。
中の空洞から現れたのは、黒革綴じの新しい帳面二冊。
頁を開けば、寄付の入金と、装飾・歓待への流用。
貴賓室への特配。
そして「酒」。
供給元は南区の酒造組合。
数量は樽単位で記されていた。
ジークは即時複写の符を展開し、リディアは手際よく元の位置に戻す。
扉の外から足音が戻る前に、すべては元通りになった。
――裏帳簿、確定。
◇
夜。
私は蝋燭の灯に照らされた小部屋に座り、ひとりひとりの声を拾っていった。
因果カードを膝に置き、耳と心で受け止める。
最初に現れたのは、骨ばった女だった。
頬は落ちくぼみ、薄い布を肩に巻いたまま震えている。
彼女は私の手を握りしめ、声を失った喉から絞るように囁いた。
「……看護人が言ったの。『ここは静かに死ぬ場所だ』って。治すためじゃない、ただ……死ぬまで閉じ込める場所だって」
その言葉は、諦めとも怒りともつかない重さを帯びていた。
私は彼女の細い指の冷たさを覚え、心の底に一本の糸を刻む。
次はまだ幼い少年だった。
父を入院させたばかりだという。
緊張で喉を詰まらせながらも、必死に言葉を繋ぐ。
「……貴族の部屋の前だけ、床が光ってるんだ。僕、掃除が好きだから分かる。石灰を磨いた跡があるんだよ。そこだけ綺麗に、毎日磨かれてる」
彼の靴の底には、確かに白い粉がこびりついていた。
それは講堂の装飾や床磨きに使われる石灰。
少年の言葉と靴底はひとつに重なり、証言の重みを増す。
最後に姿を見せたのは看護女のミレだった。
年のわりに痩せた肩が小刻みに震え、視線は何度も床へ落ちる。
私は静かに腰を下ろし、逃げ道を塞がぬよう声をかける。
「聞かせてくれますか?」
しばらく沈黙が流れた。
蝋燭の炎が揺れ、彼女の影が壁に歪む。
そして、唇がようやく開いた。
「……夜番で、貴賓室は果物の皮が山になるんです。食べきれないほど。虫が来るから香を焚いて、窓は閉め切り。でも一般病室は“寒いから”窓を開けるなと……。空気は淀んで、息が重くなるのに」
彼女は震える声で続けた。
「薬も同じです。貴賓室には瓶が山ほど運ばれて、余ったものは棚に残る。でも一般病室では、同じ瓶から中身を半分だけ分けて“効き目は同じだ”と言われるんです。……私は、自分の手でそれをやらされました」
その瞬間、彼女の肩から力が抜けた。
長く押し殺してきたものを吐き出した安堵と、まだ残る恐怖が交じる吐息。
私はそれ以上追わず、ただ静かに頷いた。
心に刻んだ糸は、いずれ束ねられる時を待っている。
言葉は熱いまま、冷まさずに持ち帰る。
――証言、集結。
◇
拠点の広間。
長卓の上には、昼から集められた証拠が一つひとつ慎重に並べられていた。
倉庫から持ち帰った刻印札、粗雑に貼り替えられたラベル、半分しか残っていない薬瓶。
講堂から剥がれ落ちた金箔の欠片。
ジークが封じた符には、湿りと臭気、部屋ごとの温度差が閉じ込められている。
さらに、リディアとジークが複写した裏帳簿。
最後に、因果カードに刻んだオットーや患者たちの声。
エリアスは深呼吸し、黒板の前に立った。
白墨を握り、まっすぐ三本の柱を引く。
その動作は儀式のようで、線が引かれるたびに広間の空気が張り詰めていく。
「証言」
白墨の先が黒板を叩く。
オットーの震える声。
『静かに死ぬ場所』と囁いた女の言葉。
床の“磨き”を告げた少年。
夜番で果物と薬の不自然な差配を語った看護女ミレの告白。
「記録」
次の柱に移る。
厚い受領と薄い薬費。
納入先の偏り。
共用印の混入。
そして、応接の壁から見つかった裏帳簿の数字。
「物証」
三本目に並ぶ。
刻印の異なる木箱。
滋養酒の壺。
貼り替えられたラベル。
講堂の金箔片。
水差しの底に残った灰。
病室ごとの温湿度差。
エリアスが三つの柱を背に立つと、卓を囲む皆の顔に迷いはなかった。
ヴェラは証拠の一つひとつに保存の封を施す。
手のひらから流れる魔術の光が、薬瓶や札に薄い膜を張り、証拠を外の干渉から守る。
ジークは病院の配置を描いた動線図を広げ、どの部屋にどんな差があったかを明瞭に示す。
リディアは赤い筆を取り、要点に印をつけていく。
見る者がひと目で矛盾を読み取れるように。
私は因果カードを前に置き、掌をそっとかざした。
オットーから受け取った証言の糸の光に、女の絶望の声や少年の小さな観察、看護女ミレの震える言葉が絡みつき、少しずつ太く、確かな束となっていく。
その脈動に合わせるように、記録の冷たさと物証の重さ――三本の柱が呼吸を始めていた。
糸の温度と張りを確かめながら、心の奥で明日への準備を整える。
そのとき、カインが低い声で広間に落とした。
「舞台は講堂。市民、医師団、監査、そして院長。……派手さは要らん。重さだけでいい」
その言葉は皆の胸に鋲を打つように響き、誰もが頷く。
「はい」
声が揃い、夜が締まった。
明日、三本は一つになる。
返すべきものを、返すために。




