日常編⑥ 第三隊隊長ミレイユ・ルグランの来訪 ― ないしょのウィンク
雨上がりの王都の石畳は、まだ薄く光を含んでいた。拠点の裏庭に風が抜け、乾ききらぬ土の匂いと、私が朝焼いたオレンジピールのパウンドケーキの香りが、やわらかく混ざっている。
「――いい匂い。ここは相変わらず、戦場のあとみたいに落ち着くね」
扉口に立っていたのは、一人の女性だった。
亜麻色の長い髪を高くひとつに結い、切れ長の瞳が涼やかに笑う。白磁の肌は雨雲の名残を受けてわずかに青く映え、頬の線はしなやかに引き締まっている。背は高く、姿勢は百合の花の茎のようにすらりと伸び、凛とした気配を纏っていた。風に揺れても決して折れず、淡く香る気高さが、彼女の存在をひときわ際立たせている。
ただ美しいだけではない。男らしさと女らしさの境目を軽やかに行き来する清冽さ――だからこそ、彼女は男以上に女に慕われる。街では「第三隊の花」と呼ばれ、酒場では娘たちが憧れの瞳で名を囁くという噂を聞いたことがある。今、目の前の姿を見れば、それが誇張でないと分かる。
私は思わず呼吸を忘れ、心臓が跳ねた。頬の奥がじんわり熱を帯び、ぽうっと見とれてしまう。
「はじめまして。あなたがセリナだね。噂の新人さん」
真っ直ぐな瞳が射抜いてきて、胸の奥にふわりと風が吹き込んだ。私は慌てて姿勢を正す。
「い、いらっしゃいませ……ルグラン様。ギルドへようこそ」
「ミレイユ」
低い声が割り込む。道具庫の影からジークが現れ、背筋を伸ばして彼女を見る。
「珍しいじゃねえか。第三隊の隊長様が遊びに来るなんてよ」
「“様”はやめて。肩がむず痒い」
ミレイユ・ルグランは片手を軽く上げて笑った。笑いは爽やかだが無礼ではない。清らかな空気だけが部屋に広がる。
「こいつとは軍で一緒だった」
ジークが短く言う。
「兄貴ぶらないでよ、ジーク。二ヶ月だけでしょ、上官だったの」
「十分だ」
ふたりのやり取りには、砂埃の匂いと、焚き火の煙に似た親密さが混ざっていた。
私へ向き直ったミレイユの瞳が、観察するように細くなる。
「セリナ。姿勢がいいね。呼吸も静か。……訓練、続けてる」
「っ……」
胸の奥に指先で触れられたみたいに、熱が跳ね上がる。頬がまた赤くなる。――ぽうっとするのは二度目だと、気づいていながら止められない。
「――うちの新人を誘惑すんじゃねえ」
ジークが眉を寄せて低く言う。
「誘惑なんてしてない。ただ事実を言っただけ」
「顔真っ赤にさせるのを“誘惑”って言うんだよ」
私は慌てて台所へ退き、湯気の向こうで深呼吸を一つ。茶を三杯、盆に載せて戻ると、ミレイユは表情を引き締め、単刀直入に切り出した。
「今日は、半分は私用、半分は相談。――治安府に匿名の投書が来たの。港近くの市営倉庫で薬品が横流しされている。帳簿という“記録”はある。けど“声”と“物”が薄い。だから、あなたたちの“目”を借りたい」
「現場の目が必要ってことか」
ジークが私を見る。喉が乾く。けれど、目は逃げない。
「行きます」
「助かる。ギルドからは君たち二人。治安府は第三隊を連れていく。――もし危険があれば、私が守る」
“私が”という言葉が不思議と頼もしく、胸の緊張をひとつ溶かした。
◇
王都港に近い荷揚げ場。灰色の倉庫は雨を吸って重く、鉄扉の縁に塩の白粉が噛んでいる。青灰の制服に身を包んだ第三隊の隊士たちが手振りで静かに配置につき、外周はすでに押さえられていた。ミレイユは中央で短く指示を飛ばし、その身振りだけで人の動きを軽く揃えてしまう。
「内部の調査は私とこの二人――ジーク、セリナ。副官は入口と床下の通風孔の確認を」
合図ひとつで二人の副官が走る。ジークは封札の束を袖へすべらせ、私は薄手の手袋の縁を握り直した。
扉が開く。湿った空気が、薬と油の匂いを混ぜて一息分、重たく流れ込んだ。
――整っている。整いすぎている。
等間隔に並ぶ棚、隙なく積まれた箱。教本の挿絵のような秩序。私は歩幅を少しだけ崩し、足裏の感覚を拾っていく。板の沈み、釘の返事、湿り気の重さ。視線は高い場所と低い場所を繰り返し往復し、指先は箱の角に触れては離れる。
鼻先に、うっすらとした違和感が引っかかった。
「……匂いが、均一すぎます」
口に出た自分の声が思いのほか落ち着いていて、少し驚く。ミレイユが視線で促した。
「続けて」
「本来なら薬ごとに揮発の癖が違います。甘いもの、酸っぱいもの、粉っぽいもの……。でも、ここは同じ匂いに“揃えられて”いる。――“見せるため”の棚です」
私はしゃがみ込み、床板の合わせ目に指先を走らせた。木目に沿って、ごくごく細い直線が一本、刃物で引いたように走っている。爪先で掬うと、白い粉がきらりと光った。
「油です。船舶用。床下を通って箱を引き上げた痕」
指を鼻先に寄せると、潮と油の匂いが確かに混ざっていた。板の目に、指で押したような小さな凹み――開閉用の“目印”もある。
「ここ、嵌め板です。夜間に床下から出入りして――」
板が、はね上がった。
息を呑む暇もなく、黒い影が飛び出す。刃の線が視界を白く裂き、一直線に私へ向かってきた。
「――セリナ!」
名を呼ぶ声と同時に、強い腕が私の体を覆った。背中ごと壁に押しつけられ、視界いっぱいにミレイユの横顔が迫る。亜麻色の髪が頬をかすめ、涼やかな息が耳朶に触れるほど近い。
彼女の手には、すでに治安府の制式サーベル。刃ではなく刃の“腹”をうまく差し入れ、短剣の進路を押し流す。金属が擦れる低い音。勢いを逸らされた暴漢の懐へ、彼女の体がしなやかに入り、マントの裾で刃を絡め取るように払い上げ、同時に足さばきで相手の重心を刈った。
「……治安府だ。静かに」
声は鋭い。けれど私の耳元では低く、優しい。外周を固めていた隊士が雪崩れ込むようにして暴漢を押さえ込み、縄が締まる音が重なった。
静けさが戻る。私はまだミレイユの腕の中にいた。背に感じる壁より、胸に押し当てられた体温の方が熱い。心臓は自分のものとは思えないほど騒いでいる。
「大丈夫?」
「っ……だ、だいじょうぶです」
震える返事。ミレイユは腕の力を弱め、けれど一拍置いてからそっと離した。肩に置かれた掌が、次の一歩を促す合図のように温かい。
「見事だったよ、セリナ。床の“線”、よく見抜いたね。次は、見えたら半歩、後ろ。いいね?」
「はい」
視界の端でジークが鼻を鳴らす。
「相変わらず、無駄がねえ」
「あなたが教えた」
「二ヶ月だけだ」
「それで十分」
淡々と交わされる言葉の背後で、第三隊は通風孔、床下の抜け道、港側の出口を手際よく押さえ、押収品の目録が積み上がっていく。均整は剥がれ落ち、“見せかけ”の秩序の下に隠されていた流れの傷が姿を現した。
「引き渡しは第三隊が責任を持つ。――ふたりとも、ありがとう」
◇
夕刻の光が拠点の窓辺を斜めに洗う。机の上には私のメモと、ジークが描いた簡素な動線図。それだけ。今回は他の誰も呼んでいない。二人分の茶の湯気が静かにたちのぼり、パウンドケーキの断面に柑橘の粒が灯のように埋もれている。
扉がノックもなく軽く開いた。
「お邪魔するね」
外套を肩に掛けたミレイユが戻ってくる。白百合の凛とした気配が、部屋の空気をもう一度清めた。
「引き渡しは滞りなく。――セリナ、本当に、よくやったね。君の“目”が、抜け道の口を見つけた」
「ありがとうございます、ルグラン様」
胸の奥に広がる誇らしさが、甘い匂いと混ざってふわりと上がる。と、すぐそばでジークが一歩前に出た。
「だからよ――うちの新人を、誘惑するんじゃねえ」
「あら、またそれ」
ミレイユは口元を手で隠して笑う。笑いながらも、視線は私から外さない。
「誘惑なんてしてない。ただ、事実を言ってるだけ」
「顔真っ赤にさせるのを“誘惑”って言うんだ」
「過保護」
「当然だ」
言い切り方が不器用で、でもどこか温かい。私がどう反応していいか迷っていると、ミレイユがふっと目を細め、こちらへ一歩、近づいた。
「――ねえ、セリナ」
切れ長の瞳に、いたずらの光。彼女はすっと身をかがめ、私の耳へ顔を寄せる。亜麻色の髪が頬を撫で、涼やかな吐息が耳朶をくすぐる。距離は、指先一枚分。
「ないしょ話。私ね、ジークのこと、けっこう好きなんだ」
「え……っ」
囁きは甘く、まっすぐ胸の奥へ落ちてきた。鼓動が跳ね上がり、息が詰まる。耳の奥まで熱くなって、視界が柔らかく霞む。ミレイユは片指を唇に当て、片目をウィンクした。
「ないしょ、ね?」
私はこくこく頷くしかない。言葉は、どこかへ逃げてしまった。
「……何こそこそやってんだ」
不意にジークの声。振り向くと、彼は何かを言いかけて、短く咳払いに変えた。
「……次から現場で半歩下がるの、忘れんな。危ねえ場面じゃ、俺が前に立つ」
「はい」
「それと――」
ジークはちらりと皿に視線を落とす。
「食べすぎんなよ。……俺の分も残しとけ」
あまりに不器用な言い方に、笑いが喉からこぼれる。ミレイユも小さく肩を震わせた。
「じゃあ私は、“次の試作”を予約。セリナの焼き菓子、第三隊でも評判になりそう」
「は、はい。ルグラン隊長がいらっしゃる時に、用意しておきますよ」
「……俺のいる時にしろ」
ジークのぼそりが被さり、ミレイユがまた「過保護」と小声で返す。やり取りは軽くて、どこか甘い。私は皿を並べ、均等に切り分けたケーキを置く。フォークが触れ合う小さな音が、部屋に静かな弾みをつくる。
食べ終えると、ミレイユは外套を取り、肩に羽織った。
「今日はありがとう。――また来る。次は完全に私用で」
「用件はケーキだな」
ジークの低い声に、ミレイユが笑って頷いた。
「それも。……セリナ、予約ね」
「は、はい」
「ジーク、元気で」
「ああ」
短い返事。けれどその一音に、砂煙の向こうで交わした笑いの温度が混じっていた。
ミレイユが外套を翻して扉を閉める直前、ジークは彼女と一瞬だけ視線を交わした。
言葉は交わさない。けれどジークが人差し指で一度だけこめかみに触れ、軽く外へ払う。
それは軍にいた頃、別れの合図に使っていた仕草――「生きて、また会おう」という短い暗号。
ミレイユは振り返らずに片手をひらりと上げ、扉が音もなく閉まった。
私はそのやり取りを見てしまい、胸が不意に跳ねる。
言葉を超えて、目だけで、仕草ひとつで通じ合える関係。――ああ、なんて大人の絆だろう。
どきりとした心臓の鼓動を押さえながら、私は胸の奥に指先をそっと当てる。
あの人が囁いてくれた“ないしょ”は、私だけが預かった宝物。
夕方の風がすり抜け、残ったのは焼き菓子の匂いと、頬に広がる熱。
秘密は、一つあるだけで世界を少し甘くする。
――だから私は、その秘密を、大事に温めていこうと思った。




