第11話 商会の陰謀 ― 糧を返す舞台
王都広場は、人で膨れ上がっていた。ひび割れた踵、擦り切れた袖、空の籠。春の陽は眩しいのに、頬のこけた影だけが濃い。舞台には市長と議会の代表、そして白い羽根飾りの帽子を被ったレーヴァント総合商会の会頭――カリオン・レーヴァントが、紅玉のタイピンを胸に光らせて立っている。豊かな腹と、脂じみた笑み。
「市場は自然に任せるのが最善だ!」
よく通る声が広場の端まで届く。
「需給が価格を正しく導く。高値は不足の合図、民は節約を学ぶ。飢えは一時、商いは永遠――皆さん、耐えれば実りは戻る!」
「子どもが倒れてるんだぞ!」
「お前の腹だけが実ってる!」
怒号が渦を巻き、棒切れを握った若者が一歩、舞台へと滲み出る。空腹は怒りに近く、怒りは火に近い。
そのとき、舞台袖から黒衣の影が現れた。
深く被ったローブ。顔は見えず、声もまだ発されないが、歩みに迷いはない。先頭に立つ影の隣で、私は袖の内に息づく因果カードの脈を感じていた。後ろには、法を紐解く影、嘲笑を忍ばせる影、守りの札を携える影、筆を構える影。誰も名を告げないまま、一団は舞台へと歩み出た。
「ざまぁギルドだ……!」
誰かが小さく呟き、その言葉が波のように広がる。恐れ、期待、歓喜、ざわめき。視線が一斉に集まり、空気が固まった。
カリオンはわずかに顔色を曇らせ、すぐに笑みを整えた。
「最近流行りの義賊崩れか。ごっこ遊びなら他所でやれ。ここは市民大会、理で話す場所だ」
カインは一歩、前へ。
「理で話そう。理は、証拠で立つ」
「ほう、証拠ね。私のところには“まともな記録”が揃っている。君たちは?」
黒衣の団長は低く、言った。
「レーヴァント総合商会の会頭――カリオン・レーヴァント、お前の行いをここに記す」
群衆が息を呑む。私は袖口で因果カードを押さえ、仲間たちが位置に散るのを見送った。様式は変えない。三つの鎖で、因果を地に縫い止める。
「まず――【証言】」
リディアが舞台下から数人の男を促し出す。痩せ、煤に汚れ、帽子を握りつぶした手が震えている。声を歪ませないように、彼女は短く頷いた。
「顔は隠していい。声だけで十分」
男のひとりが唇を噛み、搾り出すように言った。
「毎夜、麻袋を積んだ。『検品中』の札を貼り替えて、奥に――下段は古い袋、上に新しい袋。出ていくのは“見せる分”だけ。市場にはひとつかみ、残りは鉄扉の向こう」
もう一人が続ける。
「役人が来る前に札を差し替えるんだ。長く眠らせた袋は、粉が痛んでる。なのに……」
「黙れ!」
カリオンが怒声をあげる。「雇われ人の妄言だ!」
リディアは猫のように笑い、肩をすくめた。
「妄言なら、札の裏の“二重の糊”も、鍵の擦り傷が“新しい位置”に移ってるのも、説明してもらえる?」
「次――【記録】」
ヴェラが分厚い帳簿を高く掲げ、淡々と告げる。
「二重帳簿。表には“凶作で出荷減”。けれど裏帳簿には実際の入庫量が記録されている。数字は嘘を吐かない。税の受領書と港の荷役日誌、通行許可の刻印と照らし合わせた結果、数千樽分が“検品中”の名目で倉庫に眠り続けた」
彼女は指先で印影の欠けを示し、鋼のような声を落とす。
「同じ判を流用し続けた跡もある。紙繊維の年代とインクの酸化度が一致しない。――偽装の痕、明白」
「締め――【物証】」
エリアスが黒い鏡を立て、細いペン先を一度、軽く弾いた。鏡面に白光。空中に映るのは、絹の天蓋と金糸の房が揺れる大広間。葡萄酒が滝のように流れ、舞姫の足に金貨が降り注ぎ、重い杯がぶつかり合って甲高い音を立てる。中央には、カリオン・レーヴァント。紅玉のタイピンが揺れ、笑いが腹から揺れる。
エリアスは淡々と読み上げる。
「日付は“飢えの冬”の只中。支払先:『黄金の蔦亭』。支払方法:金貨現金払い、総額は“保管小麦二百樽の市価相当”。――映像と領収札は照合済み」
広場から低い地鳴りのような唸り。怒号がもう一段、熱くなる。
「俺たちの飯代を酒にしたのか!」
「子どもの粥が金粉になった!」
「景気づけだ!」
カリオンは脂汗を額に光らせ、声を張り上げた。「取引相手をもてなすのは商いの常道、全ては投資だ!」
「投資で人は食えない」
ヴェラの声は氷。
「王都商事法第十一条・流通妨害、王都食糧安定令第四条・備蓄の不正隠匿。凶作時の操作は、罰が二段重い」
カリオンの背後で、取り巻きが脇目を振り、舞台の階段の影がさっと動いた。刃のきらめき。
「来る」
ジークは剣を抜かない。足元の札を叩くと、透明な壁が舞台の縁に立ち上がった。
飛び出しかけた若者の体が壁にぶつかり、押し戻される。地に転ばず踏みとどまった彼の目から、悔しさと空腹の涙がこぼれ落ちた。
「暴れるな!」
ジークの声は低いのに、広い。
「“パンを待つ者”は守られる」
結界は“押し返す壁”ではなく“波を曲げる柵”。怒りは逸らされ、舞台の中心に眼が戻る。
カインが一歩、前へ。黒衣の裾が静かに揺れた。
「証拠は三系統揃った。因果は返却される」
私は頷き、因果カードを胸の前に掲げる。掌に当たる黒い板は、心臓と同じリズムでぬくもりを打っていた。糸はもう張り巡らせてある。港の倉庫、私設の扉、奥の鍵、帳場の裏、宴の金杯――あらゆる結び目が指先の内側で確かな手触りに変わっていく。
息を整える。四つ吸い、四つ止め、四つ吐く。私は一歩、踏み出し、はっきりと告げた。
「奪ったものは、市民の食と命と尊厳。罪は公に記録される。――これが、あなたに返るもの!」
光が弾けた。
細い糸が百千に裂けて渦を巻き、やがて一斉に収束して黒い板へと吸い込まれる。板はまばゆく脈動し、燃え立つような書が走った。
――カリオン・レーヴァント
――ダグラス・フェンネル(副会頭)
――ヘルマン・クロイツ(会計長)
黒い板にまばゆい署名が刻まれる。誰の目にも見える炎の刻が、空気の上に焼き付いた。
「やめろ、やめろ、やめろ!」
カリオンが膝をつき、震える両手を伸ばす。
「その名を消せ! 頼む、金なら――」
「名は消えない」
ヴェラが冷ややかに言う。
「消えないものとして刻むのが、返却」
カリオンの取り巻きが横に跳ね、舞台袖の影から別の刃が滑る。
「下がれ!」
ジークが一歩だけ踏み込み、刃と人の間に身体を差し入れる。彼の肩口で火花が散り、短剣は結界に弾かれて床に転がった。
「二度は言わない。今、ここは裁きの場だ」
そのとき、広場の端の重い扉が開いた。甲冑の列が二列、規律正しく進む。先頭で兜を取ったのは、麗しき亜麻色の髪の女騎士――治安府第三隊隊長ミレイユ・ルグラン。
「王都治安府、第三隊。法務院より即時認証を受領。――告示する」
彼女は羊皮紙を掲げ、王印と法務官の署名を光に透かす。
「カリオン・レーヴァント、ダグラス・フェンネル、ヘルマン・クロイツ。王都商事法第十一条、王都食糧安定令第四条違反の容疑で拘束。商業資格の永久剥奪、資産の没収、倉庫の封印、記録の押収。反論は法廷にて」
隊士が動き、鎖が鳴る。カリオンはなおももがき、群衆に手を差し伸べる。
「待て、私のもてなしを受けた者たちよ、言ってくれ! 私は街のために――」
扇が一斉に閉じられ、視線が逸らされる。
「ざまぁギルドだ……」
「因果は返された……」
広場のそこかしこで、誰かが震える声でそう呟いた。
私は袖を下ろし、因果カードを胸に抱き直す。黒い板の熱は薄れ、燻銀のような余光だけが残っている。刻まれた署名は消えない。返却が完了した証――それは、逃げ場のない記録に転じる。
ルグラン隊長が薄い笑みをこちらに寄越し、小さく頷く。
「協力に感謝する、ギルド。混乱を抑え、資料の形式を整えたまま提示してくれるのは助かる」
エリアスが鏡を布で覆い、現場の記録を綴じる。
「押収リストの控え、こちらに写し。市の食糧局へ“即時開放”の勧告案も添えます」
ヴェラは封蝋に“橋”の紋を押し、徴税官に二部を手渡した。
「封印解除の手順と、配給優先順位。子ども、老人、病者の順。議会へも同文を回すわ」
リディアは舞台袖で片手を上げ、
「港の私設倉、鍵は“北風二度で下りる”――合言葉は漏れてる。今から衛兵と一緒に走る?」
ルグラン隊長が頷く。
「走る。暴徒化する前に“開いて見せる”のが一番の消火だ」
ジークは結界札を一枚ずつ回収しながら、波のような人並みの流れを見渡した。
「こっちとこっちに食糧馬車を入れれば、押し合いは避けられる。……俺が誘導板を振る」
誰かが舞台のすぐ下から、遠慮がちに手を伸ばした。ウィンデルの谷の老人――トマスだ。皺だらけの掌が、私の手を探す。
「嬢さん……本当に、返してくれたんだな」
私はトマスの手を両手で包む。掌に残る因果カードの余熱が、彼の体温と混ざる。
「あなたが声をくれたから。橋は、渡すべき場所へ」
老人の目が滲み、
「村の子らに、パンの匂いを聞かせられる」
と笑った。
その日のうちに、治安府の先導で封印が解かれ、初動の配給が始まった。私たちは広場から一歩引き、暴発しない波の作り方を隊士に短く伝える。
「列は“蛇腹”に」
「子どもを最前に」
「割り込みは“列を崩す行為”として先に注意」
ルグラン隊長は短い指示を矢継ぎ早に飛ばし、エリアスは配給場の張り紙に『本日配る量』『明日以降の予定』『開放済み倉庫の一覧』を書き出す。数字は不安を削ぐ。見通しは人を支える。
夕刻、広場の熱が少し落ち着いた。パンの端を齧る子どもが、「これ、甘い」と笑った。私は思わず、胸の奥の糸がほどけるのを感じる。――甘い。甘いと感じる味覚が、ここにまだある。
舞台袖に下がると、カインが何か言いかけて、結局いつものようにほんの少し頷くだけにした。
「よくやった」と彼は言わない。けれど、視線の熱で十分だった。
私は軽く会釈し、肩の力をそっと抜く。
「……砂糖はきちんと計りました」
カインの口端がわずかに緩む。
「過不足なく――返却は果たされたな」
黒衣の背を追って歩き出すと、道の向こうから別の噂が風に乗ってきた。
「ざまぁギルドだ」
「顔は見えない」
「署名の光を見たか」
「因果は返された」
恐れと敬意と安堵が混ざり合う声色。それが街に定着していくほど、私たちは刃ではなく“橋”でいられる。
拠点へ戻る途上、私たちは手早く後始末の段取りを固めた。ヴェラは「没収資産のうち“穀物以外の換金性資産”は飢饉対策予算に組み入れるべき」と提案し、エリアスが文章にしてルグラン隊長に渡す。
リディアは「商会の残党が市場を荒らす前に、“喉”――運搬人の手配所を押さえる」ためにまた夜へ消え、ジークは「倉庫街の“抜け道”の結界印を治安府に共有」し、隊士の動線に組み込んだ。
カインは最後に短く言う。
「今夜は“見せしめ”は不要だ。見せたのは“返却のやり方”だ。……広めろ」
拠点の扉をくぐると、石壁に残る昼の熱がゆっくり冷えていく。靴を脱ぎながら、私は台所に回って、林檎の籠を覗いた。残りは少ない。けれど、分け合う数は決まっている。
「焼くか?」
背後からカインの低い声。
「はい。……今日は、甘さは控えめで」
「珍しい」
「市が甘さを取り戻しましたから」
カインは返事をしなかったが、静かな笑いが空気に落ちた。
夜、窓の外で風が石畳を撫でる音を聞きながら、私は因果カードを掌に載せた。黒は静かに冷たい。けれど、その中心には微かな脈が、まだ、たしかに灯っている。
――因果は巡る。返さねばならない。
今日、私たちは“市民の食と命と尊厳”を返した。
明日はまた別の糸が、誰かの手の中で震えるだろう。
証言、記録、物証――三つの鎖で、世界の歪みを止めるために。
翌朝、王都の路地に久しぶりのパンの香りが広がった。窓辺の子どもが鼻先を鳴らし、老いた犬が尻尾を振る。市場の値札は静かに書き換えられ、籠の底に白い粉が戻る。
「ざまぁギルドが来た日から、風向きが変わった」
誰かのそんな囁きが通り過ぎ、私はふと立ち止まる。白金の髪をひとつにまとめ直し、翡翠の視線で朝の光を見据えた。
恐れられるより、機能すればいい。裁きたいから裁くのではなく、返すべきだから返す。
私の手の中で、黒い板が、次の脈を小さく打った。
――王都治安府第三隊、隊長ミレイユ・ルグラン、法により犯人拘束。




