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第10話 商会の陰謀 ― パンを待つ声

 王都の朝は、いつもなら焼きたてのパンの香りで始まる。

 けれど、この数週間、路地に漂うのは焦げた薄粥の匂いと、値札を仰ぐ人々の深いため息ばかりだった。

 量り売りの小麦は倍に跳ね上がり、籠から芋は消え、干し肉は鍵のかかった箱にしまい込まれ、まるで神具のように扱われている。

 「今年は凶作だ」「いや、輸送路が荒らされてる」「政治が悪い」――噂は形を変えながら、市場の天幕の下で幾重にも重なり、朝霧のように離れない。

 パン屋の石窯の前では、夜明け前から並んだ人の列が、開店の刻限が近づくほどにざわめきを強くした。

 幼い子の手を引く母は、今日の配分が半量になるという貼り紙の前で視線を落とし、行商の老人は顎の白い髭をしきりに撫でては、秤の皿を疑い深く覗き込む。

 並ぶ誰もが、これが長く続くなら、次に削れるのはたぶん「誇り」だと薄々気づいていた。


 そんな朝の空気を切り裂くように、拠点の扉が三度、規則正しく叩かれた。

 カインが目だけで合図し、ジークが戸を引く。冷えた空気と一緒に、土と汗の匂いが流れ込んだ。


「……お願いします。商会の連中が、食糧を倉庫に隠して値を吊り上げているんです。わしらの村は、もう飢え死に寸前で……」


 敷居をまたいだのは、農夫姿の老人だった。背中は真っ直ぐとは言えないが、折れてもいない。肩の担ぎ跡が硬く盛り上がり、ひび割れた掌は、生きるために土を握ってきた年月を黙って物語る。

 草色の粗布は擦り切れ、膝には繕い糸の結び目がいくつも浮いていた。頬は痩けているのに、目だけは畑の土のように粘り強い色を保っていた。

 私は椅子を勧め、湯気の立つ湯を差し出す。


 器を両手で包んだ老人は、指先の震えを止めるように息をゆっくり吐き、湯気越しにこちらを見た。


「村の名は?」


「西の丘の先……ウィンデルの谷です。去年は初霜が早く、収穫は減りました。それでも、倉に分け合える分はありました。ところが……王都に運ぼうにも買値は下がる一方、なのに売り値は上がるばかりで。おかしいんです」


 老人は俯き、言葉を選ぶ。

 彼の背で、長年繕われ続けた外套の縫い目が、ひときわ細かい針目で波打っていた。きっと家で誰かが、何度も丁寧に直したのだろう。私はその糸の細さと根気を思い、胸のどこかがきゅっと縮む。


「わしらの村から出した小麦が、王都の倉庫に運ばれて、それきり姿を消す。市場には回ってこないのに、値段だけが釣り上がる。商会の連中が“凶作だ、足りない”とふれ回って、備蓄を抱えたままです。日数が経っても、封が切られないまま……」


「抱き合わせの買い叩き、からの塩漬け放置。王都じゃ昔からある手口だけど、ここまで大規模となると……名前は?」


 リディアが片肘をつき、金の瞳を細める。


 老人は小さく唾を飲み込んだ。


「レーヴァント総合商会……王都でいちばん大きい商会です」


 部屋の温度が一段下がった気がした。ヴェラが眉をわずかに動かし、エリアスは記録帳の見出しに、太い線でその名を書き込む。ジークは静かに立ったまま、老人の靴の泥と、踵の削れ方に視線を落とした。長い道を急いで来た足だ。


「よろしければ、これを握ってください」


 私は因果カードを取りに走り、老人の掌にそっと載せた。

 黒い板は、冷たい石の手触りと、どこか柔らかな脈動を同時に持っている。


 媒介者になってから、私はいつも一呼吸遅れて、その鼓動を自分の呼吸に合わせる練習をしている。


「あなたが見たこと、聞いたこと、感じた疑い。全部“ひとつの糸”として測ります」


 老人は目を閉じ、祈るように板を包み込む。私はその上に、自分の指を軽く重ねた。

 息を四つ吸い、四つ止め、四つ吐く。呼吸が静かに落ちると、黒の底に微かな蒼が滲み、薄紅の光が指の隙間に宿る。


 ――証言の糸。

 倉、鍵、封蝋。重ねられた麻袋の壁。札には「検品待ち」「輸送調整」。しかし日付は既にひと月を超えて古い。

 村の共同倉では、計量台の針が同じ重さを指しているのに、買い値の札だけが日に日に薄くなっていく。

 夜、家の前で火を焚いて、温い粥を分ける列。列の端で、若い父が匙を子に譲る。


 ――記録の糸。

 灯りの落ちた帳場。黒革の帳簿に二重の挟み書き。見せるための数字と、実際に動いた数字。

 港湾役所の通行許可台帳の空白。徴税の受領書に続く不自然な「該当なし」の記載。

 税を納めた印紙が帳簿から剥がされた跡。糊残りだけが残り、沈黙が改竄を物語っている。


――物証の糸。

 『黄金の蔦亭』の領収札の束。葡萄酒は滝のように、金貨は雨のように。聖像の金箔貼り替え代、舞姫へ撒かれた謝礼の小袋。

 レーヴァント会頭が掲げた重い金杯の指跡と、杯の縁に残った蜂蜜酒の乾き跡。


 三本の糸が、空間に細く、しかしまっすぐに立ち上がる。

 私は掌をわずかに開き、呼吸の間合いに合わせて、糸の間に「余白」を置く。互いを遠ざけず、絡まらせず、同じ橋脚へと導くために。

 糸はやがて、ひとすじへと収束した。


 因果カードの面に青白い光の帯が走り、黒の底から名が浮かび上がる。

 ――トマス・ウィンデル。

 媒介の誓名――依頼者の名が“返却の橋”へ結ばれた印だ。


 光はすぐに沈み、板はふたたび静寂を取り戻す。私は老人の指先から熱のわずかな抜けを感じ取り、そっと手を離した。


「……糸は、はっきり繋がっています」


 私が告げると、エリアスが素早く要点を写し取る。ペン先は迷いなく滑り、行替えのたびに小さく乾いた音を立てた。


「一次情報:依頼人証言。補強:因果視の映像断片。対象:レーヴァント総合商会、会頭カリオン・レーヴァント。疑義:価格操作、備蓄隠匿、二重帳簿」


「王都商事法第十一条・流通妨害。王都食糧安定令第四条・備蓄の不正隠匿。――“凶作時の価格吊り上げを目的とする操作”は、罰則が二段重いわ」


 ヴェラが法文集をぱらりとめくる。指先に薄いインクの匂いと紙の粉が付く。


 カインが立ち上がり、黒衣の裾がからりと鳴った。部屋の重心が、彼の動きに合わせてわずかに移る。


「段取りだ。――ここからはいつも通り、三系統を揃える」


「リディア。商会の腹の底に潜れ。港湾倉庫と旧市街の私設倉。どこからでも“口”を得ろ」

「了解。商会のオオカミたちには、猫の毛で近づくのが効くのよ」


「ヴェラ。記録院に当たれ。入出荷記録、通行許可、荷役日誌、徴税の受領書。数字の鎖で“動かない証拠”にする」

「印影と紙、インクの酸化度、筆致。二重帳簿は、痕跡で割れる」


「エリアス。宴の映像を引き出せ。楽士の証言、支払いの札。――“金の流れ”を可視化しろ」

「了解。金貨一枚まで書き残す」


「ジーク。倉庫街の全体図を取れ。表と裏の倉、運河の抜け道。群衆の動線も押さえる」

「承知した。守るのは暴徒ではなく、“パンを待つ者”だ」


「セリナ。媒介者。老人とその村の声を守れ。糸を太くするのはお前の役目だ」

「はい」


 老人――トマスは深々と頭を下げた。

 背に結び付けた細い縄が、骨の浮いた肩に食い込んでいる。ここまで背負って来たのは穀ではなく、村の声だ。


「……わしらの声を、どうか……」


「返します。奪われたものの場所へ」


 自分の声が、思ったより落ち着いていることに気づく。因果カードの余熱が掌に残り、心の拍と緩やかに同調していた。


 ◇


 拠点を出ると、王都の市場はいつも以上に音に満ちていた。

 樽の蓋を叩く音、秤の錘が皿に落ちる乾いた金属音、値段交渉の声。

 私はトマスと並んで歩き、袖の内で因果カードをそっと押さえる。糸はざわめきの向こう、ひとつの名へ収束し続けている――レーヴァント。


 大通りの角で、庶民服に身を包んだリディアがふっと現れた。頬には煤、肩には薄いショール。

 視線だけで私を認めると、何気ない顔で近づき、手に持った干し果物の包みを差し出すふりをして、薄い木札を指の間に滑り込ませる。


「上客用の私設倉、見つけた。刻印なしの扉に独自紋の封蝋。夜警の一人が“酒と甘い声”に弱い」


「合言葉は?」


「この符丁。『北風の夜に開く扉』――二回目の『北風』で鍵が下りて、三回目で“招かれた者”扱い」


 猫のような笑み。尾を見せない笑い方。

 彼女の踵が去り際に鳴らした軽い音は、いつでも逃げられる身のこなしの合図でもある。


「記録院、やはり二重。表の台帳は毎週動くのに、徴税の受領書が“該当なし”で止まる週がある。貨物は動いているのに、税が動かない。つまり別ルート」


 背後から、頭巾を深くかぶったヴェラの低い声。

 白銀の髪が布の縁からわずかに光り、手には丁寧に糸綴じされた写しの束があった。


「会場は『黄金の蔦亭』。飢えの冬に金を撒いた夜の領収札、きっちり残ってる。――映像、取れるよ」


 エリアスが薄紙の束を掲げる。紙の端には葡萄の印影が淡く押され、金粉の微粒子がわずかに残っていた。店が“誇り”として保存している証拠だ。


「表が塞がれば、荷車はここへ逃げる」


 ジークは運河沿いの地図を広げ、表から裏へ抜ける路の幅、石畳の継ぎ目、溝の深さまで指で辿る。

 彼の指は、剣を握るときより静かに、しかし重たく世界をなぞる。


「市民大会は三日後。“価格安定”が議題。商会長は自分から壇上に立つ」


「舞台は整う。――あとは三系統の鎖を太くする」


 ヴェラが証拠束に“橋”の紋を押し、カインが頷く。これで因果の鎖は正式にギルドの手に委ねられた。


 ◇


 夜。

 私たちは三方に散った。


 私はトマスの手を握り、因果カードをもう一度握らせる。

 彼の指は固いが、初めに来た時の震えは少し収まっている。


「村へ伝えてください。市民大会に“ウィンデルの谷”の代表として来て、と。――声は多いほど、糸は太くなります」


「行ってきます」


 トマスは立ち上がった。痩せた身体に、またひとつ灯が入ったように見えた。


 リディアは“猫の毛”を肩に掛ける――街娘に化けるための薄いショールのことだ。

 彼女は私設倉の夜警に笑いかけ、苦い酒を甘くし、合言葉を二度、そして三度囁く。その合間に、扉の内側から鍵の噛み合わせを見極め、小指の爪ほどの目印を蝶番の陰に残した。


「錠は二重。でも、下段は飾り。上だけ開けば十分」


 彼女は息を整え、夜の暗がりに音もなく溶けた。


 ヴェラは記録院の地下室で、古い通行札の束を引き出した。

 油灯の下、虫眼鏡で印影の欠けを拾うたび、細い光が紙の繊維を透かして揺れる。


「この“欠け”は三年前から同じ。つまり“同じ判”を流用している。――偽造の可能性が高い」


 通行証は、本来なら荷車ごとに一枚ずつ発行され、印判はその都度押される。

 もし判が流用されていれば、記録に残らない荷がいくらでも出入りできるということだ。

 税を逃れ、倉庫に隠されたままの穀物を闇に流す――その抜け穴になる。


 税関の古株職員は、最初は口を閉ざしていた。

 ヴェラは袖の下の代わりに“正しさ”の話をした。


「今年、あなたの孫は何を食べている?」


「……薄粥だ」


「なら、判を貸した上役の名を出して。――黙れば、その薄粥すら奪われる」


 男は額の汗を拭い、震える指で上役の名を書いた。

 人は、ときに金よりも“孫の飯”で動く。


 エリアスは『黄金の蔦亭』で、帳場の女主人に丁寧なお辞儀をする。

 彼は店の由来と職人の誇りを語り、舞姫へ支払われた謝礼袋の紐の結び跡まで、静かに質問で辿った。


「誇り高い取り引きは、記録に残す価値があります。――この街は覚えておくべきだ」


 女主人は一瞬迷い、やがて小箱を出した。

 金粉が舞う夜の絵葉書のような領収札。曲の題名と楽士の名が、細い硝子ペンで誇らしげに書き込まれている。

 エリアスは幻視筆記で支払いの風景を再構成した。金貨の音、踊る影、笑う商会長――カリオン・レーヴァント。

 薄い鏡板に、その夜の光景の輪郭が揺れ、やがて冷えた銀色へ定着する。


「これが“物証”になる」


 ジークは倉庫街の裏へ回り、結界札の位置を決めた。

 路地の幅、壁面の出っ張り、投げ込まれやすい石の角度。

 彼は人波がぶつかる地点を二つ、曲がる地点を三つ、逆流する地点を一つ――黙って足で測り、目で刻む。


「群衆の波はこう動く。こことここでぶつかる。――結界は“押し返す壁”じゃない。“曲げる柵”にする」


 彼の戦いは、刃を抜かないこと。

 守るのは人の“腹の空き”の行列。

 ジークは己の怒りを深く沈め、淡々と札を用意した。


 ◇


 二日後。

 因果カードの表面は、微細な線で埋まっていた。

 私が触れると、それは地図のように重なり合い、倉庫から帳場へ、帳場から宴席へ、宴席から再び倉庫へ――金と穀の往復を描き出す。


「揃ったわね。証言は農夫、下働き、楽士。記録は入出荷、通行、税。物証は封蝋と宴の映像」


 ヴェラが囁く。


 リディアが指を折って数え、頷く。


「逃がし道はジークが潰す」


「“市民大会にて提示”。――舞台は王都広場」


 エリアスが索引を閉じ、表紙に題箋を貼る。


 カインの口元に、かすかな冷笑が浮かんだ。


「カリオン・レーヴァントは“市場原理”を語って拍手を取るつもりだ。語らせた上で、切る」


 彼の黒い瞳がわずかに和らぎ、私を見る。


「セリナ。お前の言葉で“食と命”を返す。糸は十分に太い。迷うな」


「迷いません」


 私は答え、袖の下で因果カードをきゅっと確かめた。

 黒い板は、私の鼓動に合わせて静かに脈打っている。


 ◇


 その夜、拠点の台所で林檎を薄く切り、砂糖とバターで火を入れた。

 甘い香りが小さな部屋に満ちる。

 炎の音は、外のざわめきと無縁に、一定のリズムで揺れていた。


「……相変わらず、砂糖は計るんだな」


「相手が“甘い言葉”を使うから、こちらは“甘い匂い”で心を落ち着けます」


「理屈になっていない理屈だが、効果はある」


 彼は一切れ摘み、噛みしめ、いつものようにほんの少しだけ頷いた。

 リディアは瓶詰めの香辛料をくるくる回し、「あたしは辛いほうが好き」と笑い、ヴェラは砂糖は控えめに、と口で言いながら二切れ食べた。

 エリアスは端の焼き色に延々と感想を述べ、ジークは黙って皿を空にする。


 そんな「ふつう」の時間を、私は深く吸い込んで胸の底に沈めた。明日の広場で、怒りが火を噴いたときの“重し”にするために。


 ◇


 夜更け、寝台のそばに因果カードを置き、薄布の上からそっと手のひらを重ねる。

 呼吸を四つ吸い、四つ止め、四つ吐く。

胸の中の川はおとなしく流れ、髪の毛より細い糸へ戻っていく。

 耳の奥で、微かな脈動が私に合わせて整う。


 目を閉じると、ウィンデルの谷の夜が広がった。

 納屋の梁に吊るされた灯り。干し草の匂い。

 床に座り、匙を交互に手渡す影。


 老人が言う。「明日は王都へ行く。声を返してもらうために」

 若い者が応じる。「じゃあ、俺たちは畑を見てる。母ちゃんは子らを頼む」


 声は静かだが、諦めと違って、足がある。歩いて来る声だ。


 私は目を開ける。

 黒い板の面は、わずかに温い。


 明日――私は橋だ。

 奪われたものの、正しい場所へ通すための。


 ◇


 明け方、王都の川霧が路地を這い、石畳に薄く水の匂いを残した。

 パン屋の周りには、夜明け前よりさらに長い列ができ、露店の天幕は湿りを含んで色を濃くしている。

 市場の外れで、子らが空の籠を提げて列の最後尾を探して走るのを、私はぼんやりと眺めた。


 空はまだ白い。だが、もうすぐ、光は強くなる。

 今日、広場に集まる人の数は、きっと誰の予想より多い。


 私は外套の前を合わせ、深くフードを被る。

 ざまぁギルドの黒い影は、陽の下でも、影であることを選ぶ。

 見られてよいのは、因果の橋だけ。

 明かすべきは、名ではなく、重さだ。


 ――舞台は整う。

 証言、記録、物証。

 盾と刃。

 宣言と返却。

 そして、署名。


 私は掌の中で、黒い板の脈動に耳を澄ませた。

 奪ったものは、市民の食と命。

 返す先は、広場の真ん中だ。

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