日常編➁ ヴェラ先生のちいさな灯火
その日、ギルドの広間はいつになく賑やかだった。
城下の孤児院から子どもたちが見学に訪れることになり、普段は静かな石造りの空間に、小鳥のような笑い声と足音が溢れていた。厚い木の扉がぎいと開き、十歳にも満たない小さな子どもたちが列をなして入ってくる。
磨かれた靴を持たない子も多く、裸足の足裏が板張りをぱたぱたと叩き、埃っぽい匂いすら新鮮に感じさせる。
「すごい……! 本当に冒険者のギルドだ!」
「見て! 壁に剣がいっぱい並んでる!」
「ねえ、お姉さんたちは魔法も使えるの?」
矢継ぎ早に飛んでくる質問に、私は思わず苦笑した。いつもの依頼掲示板も、今日は子どもたちの背伸びする視線に晒されている。
隣ではジークが子どもたちに取り囲まれ、早くも肩車をせがまれて大汗をかいていた。大柄な彼の背に登ろうと、数人が一斉に飛びつき、彼は「うわ、待て待て!」と必死に応戦している。
そんな光景に、広間はさらに笑いに包まれた。
そのとき――。
「お姉さん、魔法を見せてください!」
「ぼくにも教えて! 光とか炎とか!」
子どもたちの声が一斉に上がった。
広間の隅で静かに本を読んでいた白銀の魔女ヴェラは、その言葉に顔を上げた。冷ややかな碧眼がすっと子どもたちを射抜き、空気が一瞬で凍りつく。
紙をめくる音すら消え、ざわめいていた広間が静まり返った。
「……私に遊び相手をしろと?」
刺すような声音に、子どもたちは一様に肩をすくめ、後ずさった。だが、その中でただ一人、勇気を振り絞った少女が小さく拳を握り、前に進み出た。
痩せた腕に破れた袖。けれどその瞳はまっすぐで、怯えを押し殺した意志が宿っていた。
「わたし……魔法、覚えたいです! お母さんがいなくなっても、誰かを守れるように強くなりたいから」
言葉は震えていたが、想いは確かだった。
ヴェラの瞳がわずかに揺らぎ、ほんの一瞬、冷たい仮面がひび割れるのを私は見た。
「……仕方ないわね」
彼女は静かに本を閉じ、長い白銀の髪を肩から払いのけて立ち上がった。
「ただし、教えられるのは基礎だけ。魔法は遊びではなく、責任そのものだから」
その声は厳しいが、拒絶ではなかった。子どもたちは歓声を上げ、彼女を取り囲む。
ヴェラは深いため息をつき、杖を手に取った。黒衣の裾が床を擦り、石造りの広間に響く。
「まずは集中。呼吸を整え、心を澄ませるの。炎や雷を望む前に、最初は光。光は命を支えるものだから」
そう言って子どもたちに胸の前で手を組ませる。
ヴェラが低く呟いた。
「――〈灯火〉」
杖の先に小さな光がともり、広間を柔らかに照らした。昼の光とは違う、まるで温もりをそのまま掬い取ったような光。
冷えた石の壁に反射して、薄い金色の輝きが広がる。
子どもたちは目を丸くし、口々に歓声をあげた。
「わあ……!」
「きれい……! 本当に出た!」
「触れるかな?」
伸ばした指先に光はふわりと逃げる。
広間には小さな驚嘆の声が重なり、まるで星空を仰ぐような表情が並んだ。
ヴェラは冷たい表情を崩さぬまま、しかし穏やかに続ける。
「今度はあなたたちの番よ。自分の中の“あたたかさ”を思い浮かべて。家族でも、友達でも、好きなものでもいい。それが魔力を形にする源になるの」
子どもたちは小さな目をぎゅっと閉じ、短い指で印を結ぶように胸の前で両手を組む。
しかし――。
呪文を真似ても、光は生まれなかった。肩を落とす声が次々に上がる。
「やっぱりできないよ……」
「むずかしい……」
ヴェラはすっと膝を折り、子どもたちと同じ目線に降りていった。冷たい印象の彼女が子どもと視線を合わせる姿は、それだけで驚きだった。
「すぐにできるものではないわ。でも、胸の奥にあたたかいものが流れる感覚、少しは感じられたはず」
「……うん!」
子どもたちはうなずく。瞳の奥に、再び小さな火が宿る。
そのとき、一人の少年の掌に淡い光の粒が宿った。
ふわりと宙に浮かび、蛍のように瞬いて漂う。
「……できた! ぼく、できたよ!」
少年は涙ぐみ、仲間たちが歓声を上げて彼を囲む。
その輪の中心で、光は柔らかに脈打っていた。
私はその光景を見つめるヴェラの横顔を盗み見た。
氷の仮面はほんの少し崩れ、彼女の唇は微笑みに近い形を描いていた。
「……やればできるものね」
その小さな呟きは、彼女自身に向けられたもののようにも聞こえた。
「ヴェラ……」
私は思わず声をかけた。
彼女はいつもの冷淡な表情に戻ったが、その碧眼の奥には確かな温もりが残っていた。
やがて見学の時間が終わり、子どもたちは孤児院の先生に連れられて帰っていった。
広間には、走り回った名残の足跡と、まだ漂う余韻だけが残る。
ジークは床にへたり込み、汗だくになりながら「もう勘弁してくれ……」と嘆いていたが、その顔はどこか楽しげだった。
静けさを取り戻した広間で、ヴェラは再び本を開き、ページを繰りながら小さく呟いた。
「……守りたいと思う心が、因果を正す最初の力になる。忘れないことね」
その背中は、いつも通り孤高で冷たく見えた。
けれど私は確信していた。
彼女はただの氷の魔女ではない。
かつて失ったものを抱え、それでも人を導こうとする人なのだ、と。
残された余韻は、血なまぐさい戦場とは正反対のぬくもりに満ちていた。
私は胸の内でそっと祈る。
――また、こんな日が訪れますように。




