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第9話 孤児院の闇 ― 裁かれる偽善

 春の陽は高く、栄誉の館の前庭に並ぶ旗は淡い風に揺れていた。

 慈善事業の表彰式――孤児や貧民を支えた者を称え、寄付のさらなる拡大を促す、社交季の目玉行事。

 磨かれた大理石の階段を上がれば、千の煌めきを抱いたシャンデリアが光を撒き、金糸で縫い上げた緞帳が舞台の裾を飾る。


 上座の近くには、今年の功労者として孤児院の院長が控えていた。丸顔に立派な口髭、温厚そうな笑窪。腹は豊かに張り出し、手はふくよかで、握手するたび「子どもは宝ですな」と微笑む。

 

 名は――オズヴァルト・フェルカー。王都の幾つかの慈善組織を横断する理事でもある。今日の主役たちは、彼の周りで穏やかな談笑を続けていた。


 私たちは群衆に紛れて配置に入った。


 上手の柱陰に、フードを深く被った影がひとつ。布の奥からわずかに覗く唇が、不敵に歪む。リディアだ。黒のローブに隠された瞳が鋭く光を帯びる。


 正面右側には、もうひとつの影が静かに立っていた。腕に抱えた帳簿と法文の束だけが、その存在を示す。ヴェラ。白銀の髪は布の陰に隠れ、碧眼は外からは決して見えない。


 背面の控えの間では、フードの影が鏡を緞帳裏に仕込み、光の角度を丹念に確かめている。エリアスだ。眼鏡の光も隠され、ただ筆と鏡面だけが彼の正体を語る。


 下手の出入り口には、無言の影が立っていた。大柄な体躯は布越しでも揺るぎなく、掌の中で結界札が重みを持つ。ジーク。灰色の瞳は見えずとも、そこにある冷気は伝わってくる。


 私はその中央通路から少し奥、黒衣の青年の隣に控えていた。団長――カイン。彼もまた深くフードを被り、光を遮ってその表情を隠している。


 開式の合図の鐘。司会が滑らかな声で登壇者の名を読み上げ、功績を披露する。寄付の金額、配給したパンの数、開いた夜学の回数――数字は綺麗に並び、拍手が何度も起こる。


 ――やがて、オズヴァルト・フェルカー院長の番が来た。


「子どもたちは、未来の灯。わたくしは、その灯を守る小さな手です」


 彼は両腕を広げ、慈父の面持ちで言った。


 大広間のあちこちから賛嘆が湧く。


 私は喉の奥で小さく数を刻んだ。四つ吸い、四つ止め、四つ吐く。魔力は細糸に解け、舞台袖へ、天井へ、床下へ。あの院長室、地下の隠し棚、港の倉庫――それぞれへ伸ばした糸が、微かな震えで“準備完了”を告げる。


 カインが頷いた。黒衣の裾が静かに揺れる。


「――では、次の表彰に移り――」


 司会の言葉が終わる前に、空気がひとかたまり、押し黙った。


 その瞬間、黒衣の青年が中央通路へと一歩を踏み出した。背後から白い光が差し、漆黒の輪郭だけが浮かぶ。隣を歩くのは、同じくフードを目深に被った少女――私。布の陰からわずかに覗く白金の髪の輝きだけが、正体を示す唯一の印だった。


「ざまぁギルドだ……」

「今日は誰が――」

「署名が出るのか……」


 ざわめきが、たちまち恐怖に変わる。


「これは、何の真似だね?」


 オズヴァルトの唇が、笑窪とともに引きつった。


 カインは静かに視線を上げた。低い声が広間の端まで届く。


「孤児院院長、オズヴァルト・フェルカー。お前の行いを、ここに記す」


 瞬間、開かれていた扇が一斉に止まり、杯を掲げた手が宙で凍った。大広間に、重い沈黙が落ちる。


 上手の柱陰で、深いフードの奥から細い指先がひらりと掲げられた。影の中で羊皮紙の束が開かれる。リディアだ。布越しにのぞく金の瞳が、獲物を逃さぬよう鋭く光を帯びる。


「――【証言】を読み上げるわ」


 最初は、昨夜ギルドの拠点で震えながら語られたノエルの声。売られかけた日、荷馬車、鎖、必死の逃走。幼い息の乱れと共に記された真実。


 二つ目は、孤児院の元炊事係の女の言葉。夜食の名目で少女が一人ずつ院長室へ呼ばれ、戻ってきた子らは衣服を乱し、涙で眠れぬ夜を過ごしたこと。


 三つ目は、港の旧倉庫七番で捕らえたハルツ商会の手代、クルト・ハルツの自白。合言葉、積荷の符丁、代金の受け渡し、そして「未使用」「戻し」の札の存在。


 言葉が重ねられるたび、ざわめきはさざ波から嵐に変わっていく。


「以上、証言は三通り。全て日付と場所、関係者名を伴っている」


 リディアの声は鞭のようにしなやかで、残酷なほど正確だった。

 言葉が紡がれるごとに、羊皮紙の文字が宙に刻まれ、証言者の影がそこに重ねられて映し出される。


「言いがかりだ!」


 オズヴァルトが声を荒げる。笑窪は消え、顔には脂汗が滲む。


「子どもは嘘をつく。女も怨恨で語る。商人は取引を誇張する。――そんなもの、証拠のうちに入らん!」


「では【記録】で、どうぞ」


 正面右手、もうひとつの影が静かに進み出る。ヴェラだ。フードの陰に隠された白銀の髪がわずかに揺れ、帳簿を抱えた腕が台上に重く叩きつけられる。


「寄付金の受領と支出。表の帳簿では“清掃費”や“修繕費”に流れたことになっている。だが裏帳簿では、“人件費”“雑費”の名目で現金が消える。印影は同一だが、紙の繊維の年代が異なる。――後から捏造だ」


 碧眼が細められる。


「さらに、港湾管理局の荷役記録。荷の符丁“K”“R”“U”。あなたが運んだ“孤児院寄付物資”と同じ便に、無記名の荷が混ざっている」


 ざわめきがどよめきに変わった。「同じ便……」「二重帳簿だ……」と観衆が囁く。


 ヴェラは冷ややかに法文を広げる。


「王都児童保護令第十三条――『児童の売買、斡旋、ならびに性を強いる行為は、加害者・斡旋者・管理者を等しく罰する』。王都人身売買取締法第五条――『公益の仮面を用いた隠匿は、情状を斟酌しない』。条文はあなたに味方しない」


「記録も、いくらでも偽れる!」


 オズヴァルトは必死に汗を拭い、引きつった笑窪を取り戻そうとする。


「映像があるのかね? 目で見せてくれれば――」


「良いだろう」


 背後の控えの間。フードに隠れた影が鏡を起こした。エリアスだ。幻視筆記の光が走り、鏡面が白く輝く。大広間の空気が一瞬たわむ。


 ――映ったのは、見覚えのある院長室。机に分厚い書類を積み、オズヴァルトが椅子にふんぞり返る。彼の手は、前に立たせた少女の顎を強引に掴んでいた。


「泣いても駄目だ。声を出すな」


 少女は震え、目を閉じる。扉の外では若い見張りが一瞬ためらい、やがて立ち去る。


 場面は切り替わる。裏庭の暗がり、荷車に鎖を持った手代が立ち、少年たちが怯えて固まる。ノエルが友の手を握り、決意したように駆け出す――映像は彼の荒い呼吸と共に乱れ、闇に切れた。


 さらに港の旧倉庫七番。木箱、縄、重い扉。符丁“未使用”、そして「戻し」の札。


 観衆の誰かが、堪えきれず杯を落とした。乾いた音が沈黙を裂く。


「以上で【物証】の提示を終える」


 エリアスがペン先を止め、記録の結び目を軽く押さえる。


「証言・記録・物証――三系統、揃った」


「こんな茶番に騙されるな!」


 オズヴァルトが壇上で悲鳴のように叫び、観衆の前に飛び降りかけた。袖の影から護衛の男が主を守ろうと短剣を抜き放つ。


「下がれ」


 ジークの低い声が響き、一歩、前へ。

 抜き放たれた長剣の切っ先が石床を叩き、乾いた音が広間に走る。

 同時に結界札が一斉に灯り、壇上と観衆の間に透明な壁が立ち上がった。護衛の短剣は弾かれ、火花を散らす。


「秩序を破れば、その瞬間に斬る」


 灰色の瞳が冷たく光る。護衛は腰を抜かし、短剣を落とした。オズヴァルトは足を取られ、膝をつく。額の汗が頬を伝い、笑窪は引きつりへと変わる。


 カインが前へ出る。黒衣の裾が緞帳の赤と対照を成し、声が重く響いた。


「証拠は三系統揃った。因果は返却される」


 私は因果カードを胸の前に掲げ、静かに呼吸を合わせた。糸はすでに張られている。院長室、地下の棚、港の倉庫、ノエルの枕元、孤児たちの寝台――すべての結び目が掌の内で確かな手触りへ変わっていく。


「奪ったものは、子どもたちの未来と尊厳。罪は公に記録される。――これが、あなたに返るもの」


 光が弾ける。


 無数の細い糸が一斉に収束し、黒い板に吸い込まれた。因果カードがまばゆく脈動し、焦げるような光の書が走る。


 黒い板に、まばゆい署名が刻まれる。


――オズヴァルト・フェルカー

――クルト・ハルツ(ハルツ商会手代)

――エミール・バルス(孤児院会計係)


 赤銅色の刻名が広間に燃え上がり、観衆の胸を震わせた。


「名が……」

「消えない……」

「ざまぁギルドの印だ……」


 オズヴァルトは這うように後退し、必死に首を振る。


「違う、違うのだ、私は――私は善意で――」


 その声を断ち切るように、ヴェラの冷ややかな声が落ちた。


「“公益の仮面”は刃より鋭い。だから、法は仮面から剥がす」


 その時、重い扉が開いた。


 銀の紋章を肩章に付けた治安府の隊士が二列で入場し、整然と広間を進む。

 先頭の隊長が兜を取ると、亜麻色の髪がさらりと揺れた。

 切れ長の瞳に凛とした光、中性的な美貌――。


 静まり返った観衆の中で、低い囁きが洩れる。

「……ミレイユ隊長」


 その名が伝わった瞬間、場の空気はさらに張りつめた。


「王都治安府第三隊、隊長ミレイユ・ルグラン。法務院より即時認証を受領。――告示する」


 羊皮紙が掲げられ、王印と法務官の署名が光を受ける。


「オズヴァルト・フェルカー、クルト・ハルツ、エミール・バルス。王都児童保護令第十三条、王都人身売買取締法第五条違反の容疑で、拘束する。施設は即時封印、資産は没収、関係記録は押収。反論は法廷にて聴取する。連行せよ」


 隊士が走り、三人に枷が掛けられる。オズヴァルトは必死に観衆の顔を見回し、助けを乞うように手を伸ばした。


「私はただ子どもたちのために動いてきただけだ! 誰か、どうか証言を!」


 誰も応えない。むしろ、扇がさらに固く閉じられ、目は逸らされる。


「あれが“橋渡し”……」

「罪が記された……」


 ささやきが波となり、やがて静けさに戻る。


 壇に、ひとりの小さな影が立った。ノエルだ。カインが頷き、ジークが結界の内側に一筋の通路を開く。ノエルは震えながらも前を見て、私の傍らに来た。


 私は片膝をついて目線を合わせ、彼の掌に自分の手をそっと重ねる。


「君の声が、橋になった」


「ありがとう……ありがとう……」


 ノエルは何度もお辞儀をして、溢れる涙を拭った。


「礼は、君が生き直すことで十分だよ」


 エリアスが微笑む。


「記録は残した。もう“なかったこと”にはならない」


 ルグラン隊長が合図すると、徴税官が二名、台帳と封蝋を携えて壇上に上がる。


 黒帳簿に赤い封が打たれ、勲章や表彰状も没収品として記録された。


「孤児院施設は暫定的に市の管轄へ。保護官を即日派遣する。子どもたちは安全な場所へ移送する」


 ルグラン隊長は短く告げ、こちらを一瞥する。


「ギルド、協力に感謝する。……君たちの“様式”は、治安府の混乱を減らす」


「こちらの台詞だ」


 カインが短く返し、私に目で合図する。


 私は因果カードを胸に抱え直し、残る魔力の脈を静かに落ち着けた。署名の光は薄れ、黒の板に燻銀のような痕跡だけが残る。消えはしない。返すべき因果が、返された証だ。


 広間の空気は冷え、しかしどこか澄んでいた。観衆の多くはまだ呆然としている。だが、幾つかの視線は、救済のほうへ向き始めていた。


「ざまぁギルド……」

「怖ろしいが、正しい……」

「子どもが救われるなら……」


 誰かが小さく拍手を打つ。それを咎める空気は、もうなかった。


 私たちは舞台袖へ引き、ひと呼吸置く。


「きれいに決まったじゃない。証言、記録、物証――三系統、満点」


 リディアが緊張を笑い飛ばすように指を鳴らした。


「数字も嘘を吐き切れなかった」


 ヴェラは法文と帳簿の束を整え、淡く笑みを漏らす。


「保存完了」


 エリアスは幻視鏡を布で覆い、記録に書き加える。


 ジークは剣を鞘に戻し、結界札を一枚ずつ丁寧に回収した。手の甲の筋が盛り上がり、なお固く張り詰めていた。


「ありがとう。あなたが“盾”だったから、私は糸を束ねられた」


 私が言うと、ジークは短く頷くだけで視線を逸らした。


「次は、もっと速く張る」


 カインは一歩下がり、広間の全景を一瞥する。


「橋は渡した。――行くぞ」


 私たちはひと塊になって大広間を後にした。


 外に出ると、昼の光が音を失くして降りてきた。石畳の向こうには、子どもたちのための仮設馬車が待機している。保護官が乗り込み、名簿に目を通す。ノエルが馬車の入口で振り返り、私に手を振った。私は同じ高さで手を振り返す。指先がわずかに震え、胸の奥が温かく満ちた。


「セリナ」


 黒衣の団長が、私の名を呼ぶ。カインの瞳は、いつもより少し柔らかい。


「よくやった。言葉も、糸も、迷いがなかった」


「……怖くなかったと言えば嘘になります。でも、因果が、教えてくれました。私に何ができるか」


「その怖さを忘れるな。忘れた時、人は“裁きたいから裁く”に堕ちる。俺たちは“返すために裁く”」


 私は頷いた。因果カードを胸に当てる。黒い板は静かに冷たい。それでも、脈の残り火が掌に伝わり、心臓が応える。


 ――因果は巡る。返さねばならない。


 今日は、子どもたちの未来と尊厳を返した。明日は、別の誰かの何かを返すだろう。


「ざまぁギルドだ」

「因果は返された……」


 背後で囁きが続く。恐怖と安堵を等分に含んだ声。


 私は振り返らない。銀髪を束ね直し、背筋を伸ばして歩き出す。拠点への帰路、石畳の角を曲がるたび、私の世界は昨日より少しだけ広がっていく。


 台所の戸棚には焼き菓子の材料がまだ残っている。今日の帰り道に買い足した林檎の香りが、布袋越しに微かに立った。


 明日の朝、私は皆に林檎のタルトを焼こう。きっと、カインは何も言わずに頷く。ヴェラは「砂糖は控えめに」と言いながら二切れ食べ、リディアは「三切れ目は幻よ」と笑って一口で消し、エリアスは端の焼き色を熱心に感想し、ジークは結界の札を整えながら黙って皿を空にする。


 そして私たちはまた、机の上に地図と記録を広げ、次の“橋”の位置を決めるのだ。


 遠くで鐘が鳴った。王都の昼は、いつも通りの顔で続いていく。だが、その地面の奥で小さな流れが変わった。今日、私たちはそれを確かに感じたのだ。


 ――因果は巡る。返さねばならない。


 ざまぁギルドは、今日も“返す”。


 誰かの奪われたものを、世界の正しい位置へ。

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