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第1話 婚約破棄 ― 完璧な淑女の崩壊

 百枝のシャンデリアが金と水晶をこぼし、王立学院の大広間は光の花で満ちていた。磨かれた大理石の床に、舞曲の弦が柔らかな波紋を描く。吹き抜けの高窓には、春の夜を招き入れるように薄紗が揺れ、貴族子女の色とりどりのドレスが花壇めいて咲き誇る。

 私はその中心に立っていた。


 陽光を凝らしたように淡く輝く白金の髪は、礼に則ってゆるやかに巻かれ、うなじで一束にまとめて翠玉の簪で留められている。光を含んだ一房が頬に触れるたび、薄く色づいた唇が無意識に結び直される。翡翠の瞳は清冽で、長い睫毛の影が瞬きのたびに細い扇をつくる。


 通った鼻梁、しなやかな顎の曲線、肌は粉雪のようにきめ細かい。鎖骨のくぼみは深すぎず浅すぎず、呼吸に合わせてほんのわずかに上下するだけで、視線を吸い寄せる。夜空色のベルベットに月光の刺繍を散らしたドレスは、芯地まで張り詰めて輪郭を保ち、肩から流すオーガンザが魔力灯の明滅に合わせて微かに震えた。


 手袋越しの指はピアノ線のように細くまっすぐで、立ち姿は一幅の肖像画――見る者に「完成」を思わせる。


 ――本来なら、祝福されるはずの夜だった。


「セリナ・フォン・アーデルハイト。お前との婚約を、ここに破棄する!」


 楽団の音が断ち切られ、杯が止まり、扇が凍る。

 王太子アウグストは金砂の髪をわずかに払った。その髪は陽光を固めたように波打ち、海色の瞳は氷の表層を思わせる。濃紺の礼装軍服には勲章が重ねられ、刃のような横顔には、情の影が一滴もない。


 大広間の空気が、温度ごと数度下がった。


「……殿下、今なんと?」


 自分の声が、自分のものではないみたいに遠い。


 アウグストは視線を浴びることに慣れた身のこなしで、一歩前へ出る。彼の隣には少女がいた。

 ――平民の特待生、リラ。


 栗毛のボブは柔らかく肩で揺れ、光を含んで蜂蜜色にも見える。焦げ茶の瞳は濡れた小鹿のように大きく、瞬きのたびに頼りなげな光を浮かべた。頬は桃のように淡く色づき、笑えばすぐに涙ぐむような柔らかさが漂う。首筋は細く、華奢な肩先は壊れ物を思わせる。


 纏っているのは淡いシルバーグレーのドレス。飾りは最小限に抑えられ、胸元には水晶を嵌め込んだ聖紋入りの小さなブローチがひとつだけ留められている。

生地は上質ながら過剰を避けた仕立てで、むしろ清楚さを際立たせていた。


 動作はどこかぎこちなく、それがかえって「庇護を求める花」のような印象を与える。伏し目になれば、かすかな影が頬に揺れ、まるで祈りの前に立つ信徒のように見えた。光に透けるほど白い肌には、世間の荒波を知らぬ無垢さが漂っている。


 ――その姿は、完成された絵画のようなセリナとは正反対だった。

 リラは可憐で、誰もが「守りたい」と思わせる“弱さ”を纏っていた。


 そして今宵、その胸元のブローチこそが聖務院から授けられた「聖女候補の印」であった。澄み切った光を返す水晶の輝きは、彼女自身の存在を黎明の光のように映し出していた。


「セリナは嫉妬に駆られ、リラに毒を盛った。陰で侮辱と脅迫を繰り返していた――証人もいる」


 アウグストはリラの肩を庇うように手を置いた。


 リラは、小鳥が羽を震わせるように両手を胸の前で組み、震える声を絞る。


「セリナ様が……食堂で、私の杯に……それから、廊下でも突き飛ばされて、魔法で……」


 ざわめきが広間の天井に触れて散った。


「なんて恐ろしい」

「やはり、魔力が強すぎるのは禍だ」

「完璧な淑女など、仮面にすぎなかったのね」


 囁きが扇の陰で膨らみ、宝石の耳飾りが冷えた角度で揺れる。私は背筋を崩さぬよう、足先に力を込めた。高いヒールの芯が大理石をわずかにきしませ、白金の髪は冷たい光を撒く。


 喉はひび割れ、言葉は粉々に崩れた。


「私は――。私はこれまで国と家のために力を磨いてまいりました。殿下の妃として恥じぬよう努めてきました。毒など、いじめなど、していません」


 けれどアウグストの声は、冬の刃だった。


「証人はいる。お前は力を笠に着て弱き者を虐げた。王妃にふさわしいのは清らかな心――リラだ」


 視線が一斉に突き刺さる。否定は誰にも届かない。


 この場には、聖務院の若い司祭見習いまで招かれていた。白の縁取りをした短い外套。彼は小さく十字を切り、震える吐息で言う。


「聖務院は、リラ・エーベルヴァイン嬢を聖女候補として認めております。彼女の告白は“御心”に近いと、私は信じる」


 その言葉は、群衆の疑念を一瞬で祈祷へと変える。


 リラはうつむき、涙に濡れた睫毛を震わせた。


「……私なんて、平民なのに。神様が私をお選びくださったのは、きっと弱い私を憐れんで……。殿下、セリナ様は、怖かったのです」


 弱さを誇る言葉。喉の奥で、何かが音もなく砕けた。


 私は思う。これは偶然ではない。


 聖務院の「候補」印は、ここ数ヶ月の間に王都で囁かれ始めたものだ。学院の礼拝堂で、リラは幾度か“灯り”をともした。夕べの祈りの最中にだけ灯るはずの聖火が、彼女の祈りに合わせて明るさを増したと、司祭は語った。小さな傷口が、彼女の手で温もりを帯びて塞がったのだと、学友は興奮して言った。


 ――だが、私は見ていた。

 祈りの前に香具の煤が不自然に濃かった日。リラの指先に、舞踏の授業では使わない細い薬指輪が光っていた日。


 確かめる術を私は持たない。完璧という額縁は、問いの声を飾ってはくれない。


 幼い日の棘が、喉の内側で疼く。


 アーデルハイト公爵家の食卓は、静けさと規律だけが皿に盛られていた。父は鋼鉄のような冷たい光の瞳で「家」を語り、母はいつも遠くを見ていた。年の離れた兄は、栗色の髪を撫でつけ、狐めいた細い目で誰かの機嫌を測り続けた。 


 私は、生まれながらに異常な魔力量を持っていた。三歳の誕生日に燭台が勝手に明滅してから、周囲は私を“祟り”のように扱った。腫れ物に触れるみたいに距離を置き、囁く声だけが私を通り過ぎる。


 アウグスト殿下――私の婚約者。


 三歳の冬、私は王太子の婚約者に選ばれた。誉れと鎖を同時に。礼儀、舞踏、政治、歴史、魔力制御――眠りを削り、欠点を削り、弱音を削って育った。欠けを見せれば王家への侮辱になる。私は磨耗しながら輪郭だけを保ち、肖像画の役に徹した。


 彼は最初、私の努力を認めていた。幼い頃は手を取り、学びをともにした日もあった。だが成長するにつれ、彼の視線は冷たさを帯びていった。


「お前が完璧であるほど、俺は矮小に見える」

――その言葉を一度だけ、聞いたことがある。


 人々は私を「完璧な淑女」と呼んだ。


 だが完璧は、ときに隣に立つ者の劣等感を照らし出す。アウグストは次第に目を逸らし、言葉は侍従を介して形だけになった。冷たい距離が「礼儀」という名で正当化され、ふれた手の温度は記憶の瀬から削れ落ちていく。


 本来なら、今夜は努力が報われる節目だった。卒業し、婚礼の支度へ――そのはずの夜が、冤罪の宣告で別の脚本に書き換えられる。


「殿下、どうかお考え直しを!」


 誰かの声が震えて上がったが、「王太子の御決断だ」と別の声がかき消す。

 アウグストは群衆に向き直り、宣言を硬く結ぶ。


「清らかな心を持つ彼女こそ、王妃にふさわしい」


 リラが小さく肩を震わせた。守られる弱さの演出は、痛いほど巧みだ。


 観衆の同情が一気にリラへ傾き、私には冷笑と恐れがまとわりつく。


「……セリナ様は魔力が強すぎる。王妃となれば、王太子殿下が霞んでしまう」

「平民から聖女候補へ――これも神意だろうさ」


 透明な箱に閉じ込められたみたいに世界から音が消え、私は足元の大理石に縫い付けられる。視界の端で、兄が薄く笑った。


 ――ああ、これは最初から仕組まれていた。


 私はただ、求められるまま努力してきただけだ。家族に愛されなくても、婚約者に冷遇されても、国のために己を削って淑女であり続けた。


 その結果が、これなのだろうか。


 胸の奥が張り裂けそうになって、視界がにじむ。私は踵を返した。


 ドレスの裾が花弁のように翻り、爪先が床に微かな擦過音を残す。扉を押し開け、テラスの冷気に身を投げた。夜風は刃のように肌を切り、石段を降り、中庭の陰に身を落とす。美しく刈り込まれた垣根が銀に光り、噴水の水音が遠くで冷たく細る。


 胸の中はぐしゃぐしゃで、喉が焼ける。


「どうして……」


 誰もいない闇に声を落とす。石畳に膝をつき、手袋を外し、白い指で頬を拭う。涙はもう冷えて、肌に塩の線だけを残した。胸腔は空洞で、風が吹くたび軋む。


 そのとき、背後で軽い足音が止まった。


「セリナ様?」


 振り返る。リラが立っていた。月光が栗毛に淡い輪をつくり、頬の涙は宝石のように光る。


 彼女は、胸の前で指を組み、首をすくめる。


「ごめんなさい。私……殿下を止められなくて。私は弱いから、神様が私を選んだのだと、聖務院でも言われました。清らかでなくとも、弱い者にも、御心は注がれるのだと……」


 聖女候補の口から語られる「弱さ」の価値。

 私は冷たくなった息を、ゆっくり吐き出す。


「あなたは、聖務院に認められた。――それだけで、どれほど多くの人が、あなたの言葉を“真実に近い”と信じるか、わかっているの?」


 リラは驚いたように目を丸くし、すぐに伏し目がちに微笑んだ。


「でも、セリナ様のように立派な方を、私は尊敬しています。本当です。だから、私……祈っています。セリナ様も幸せになれますように」


 弱い光をぶら下げた言葉ほど、暗闇では強く見える。


 リラは会釈して踵を返す。


 扉が閉まる音がして、静寂が戻る。私は不格好に座り込み、肩を抱いた。完璧であることで守れるはずだった未来は、完璧であったがゆえに壊れたのかもしれない。冤罪はいつだって鮮やかで、真実はいつだって地味だ。


 風が頬を撫でる。耳の奥で、別の鼓動みたいな音が微かに鳴った。


 ――因果は巡る。返さねばならない。


 誰の声でもない囁きが、夜の底で小さな灯をともす。顔を上げた私の視界の端、植え込みの向こうで、黒い布の裾が一瞬揺れた気がした。息を止める。けれど次の瞬間には、どこにも何もいなかった。


 別の方向から、家令の無機質な靴音が近づく。


「お嬢様。旦那様より、至急帰還せよとのご命でございます」


 私はゆっくり立ち上がり、ドレスの埃を払った。白金の髪が肩に落ち、翡翠の瞳が夜に焦点を結ぶ。指先はまだ僅かに震えている。それでも、背筋は崩さない。


「わかりました」


 馬車寄せで、公爵家の紋章を刻んだ馬車が冷ややかに光っている。祝宴の音は遠のき、水仙の澄んだ香りだけが風に残った。


 耳の奥で、もう一度、確かな囁き。

 ――因果は巡る。返さねばならない。


 私は振り返らない。翡翠の瞳に、ほんの粒ほどの火が宿っている。燃え尽きるためではない。いつか誰かを温めるための、小さな火。


 仮面が剝がれた顔で、私は馬車に乗り込んだ。

 この夜、終わった物語の向こう側で、別の扉が音を立てて軋み始めていた。

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