あの人の表情一つで、心乱される
嵐が去ったみたいだ。
大事なものが大きな風と雨によってぐちゃぐちゃにされたのを見つめながら、呆然と立ち尽くす。そんな心境だ。
なかなか動き出せる程の気力が戻らないフィリネグレイアにいつの間にか戻ってきていたのだろう、ミュレアが躊躇いがちに話しかける。
「お嬢様、お気を強く持って」
ミュレアの言葉にフィリネグレイアの身体が震えた。何も考えられなかった彼女の思考が段々明確になってくる。
「ミュレア、わたくし、どうしよう」
「お嬢様?」
目を見開いてじっと前方を見つめ続けながら呟くフィリネグレイアにミュレアは違和感を覚える。
「陛下のご不興を買ってしまったわ」
そう言った瞬間にフィリネグレイアは涙を流した。一滴流した後、それは次々と止めどなく溢れては滑り落ちて行った。
言いようのない感情が自分の中を暴れまわり、抑えられない。フィリネグレイアは止まらない涙を隠すように両手で顔を覆った。
静かに涙を流すフィリネグレイアにミュレアは何も声をかけず、部屋の外に出る。その時ミュレアと一緒に入ってきていたサヴィアローシャは、フィリネグレイアの前まで行き、床に膝をついた。
「フィリネグレイア様」
優しい呼びかけに、フィリネグレイアはゆっくりと顔から両手を離す。彼女の両の目からは、まだ止めどなく涙が流れている。
彼女の泣き顔を見たサヴィアローシャは顔を歪ませた。
「私はフィリネグレイア様と陛下がどのような会話をなされたのか分かりません。フィリネグレイア様は何故、泣いておられるのですか」
サヴィアローシャの優しい問いかけに、フィリネグレイアは静かに左右に頭を振り、答えられないという意思表示をした。
「フィリネグレイア様は、陛下のご不興を買ってしまわれ不安なのですか?」
この問いにも、フィリネグレイアは頭を左右に振った。静かに自分を見つめ続けるサヴィアローシャをフィリネグレイアもじっと見つめているうちに、ゆっくりと自分の胸の内の言葉を口から慎重に紡いでいく。
「不安、なのかもしれない」
己の柔らかく傷つきやすい部分の気持ちを外に吐き出す、それだけでフィリネグレイアの涙が再びあふれ出した。一度壊れた殻はなかなか元には戻ってくれないようで、フィリネグレイアは制御出来ない自分の感情に苛立たしさを覚え、言葉を吐き出すように話す。
「あの人のあのような悲しそうな表情、初めて目にしたわ。わたくしはあの人を傷つけてしまった。それがこんなに胸が痛くなるなんて思わなかった」
言葉に出来ない感情が自分の中を駆け巡る。
サヴィアローシャはフィリネグレイアに言うべき言葉を、伝えなけらばならない言葉を彼女に告げる。
「フィリネグレイア様は、陛下を御自分の言葉で傷つけたことが苦しいのですね。それはきっと、陛下が貴女にとって大事な人だからですよ」
最初、フィリネグレイアにはサヴィアローシャが何を言いたいのか解らなかった。だが、段々と彼女の言葉を理解していくと、彼女は大きく目を見開いた。
「わたくしの、大事な人」
小さく呟いくフィリネグレイアの言葉に、サヴィアローシャは肯く。フィリネグレイアの手を取り、包み込みながら彼女の濡れた瞳を見つめた。サヴィアローシャが初めてフィリネグレイアに会ったとき、何て自信に満ちたしっかりした女性なのだろうと圧倒された。これが王妃にと望まれる程の人物なのかと、まるで自分たちとは一線を越えた存在なのだという認識であった。だが、今は自分の感情をうまく制御出来ずに戸惑っている唯の女性だ。自分たちと同じように、傷つく心を持っている普通の人間なのだ。
フィリネグレイアを自分の身近に感じ、一種の感動を感じていたサヴィアローシャ。だが、次の言葉にやはりこの人は他とは違うのだ、と認識を新たにした。
「本当にそうなのかしら」
フィリネグレイアの発した言葉の後少し間が空く。
「はい?」
思わず聞き返した。段々と顔が蒼白なっていくフィリネグレイアにサヴィアローシャは焦る。
「確かに統率者としての陛下は尊敬しているし、大事な方だけれど、貴女が言っているのはわたくし自身の大事な人という意味よね」
自分の気持ちを確認するようにサヴィアローシャに問いかける。彼女は頷きながらも、先程の涙を流すか弱い女性から、何故か驚愕の事実を知った為に対策を講じなければという強い意思を宿した女性へと一瞬で変ったフィリネグレイアに、鳥肌が立った。
そんな彼女の変化に気付く事もなく、フィリネグレイアは考え込む。
自分の大事な人。それは今まで家族とミュレアなどの仲の良い人たちだけだった。だが、その人たちと国王へ対する感情は違う気がする。それがどのように違うのかは、まだ分からないが、それが分からないと先に進めない様な気がする。分からない事があれば情報を集めて知れば良い。知らなかったことが分かれば、見えなかった事実が見えてくる。
自分のやることを決めたフィリネグレイアは、揺れて頼りなかった自分の心が急速に強く固まっていく感覚を覚えた。