メリーちゃんは知っている AIじゃ届かない安心を
はじめましての方も、シリーズを読んでくださっている方も、ようこそお越しくださいました。
この物語は、臨床工学技士(Clinical Engineer=CE)という医療職に焦点を当てたヒューマンドラマです。
……と言われても、「臨床工学技士って何をする人?」と思われる方が多いかもしれません。
それもそのはず。CEは、医療の現場では欠かせない職種でありながら、患者さんや一般の方からは見えにくい“縁の下の力持ち”だからです。
人工呼吸器や透析装置、手術中に使う生命維持装置――これらの専門機器を操作・管理するスペシャリストであり、医師や看護師とも連携して患者さんの命を支える存在。
それが臨床工学技士です。
本作『CEです。何でもござれ!:メリーちゃん、未来を守る』は、そんなCEたちが、AIや遠隔診断支援といった新たな医療の波に直面しながらも、“人に安心を届ける医療”とは何かを模索していく姿を描く物語です。
初めて読む方にもわかるよう、登場人物や背景は作中で自然に紹介していますので、安心して読み進めてください。
また、本シリーズの第1作『CEです。何でもござれ!』は現在Noteにて無料公開中です。
物語世界をさらに深く知りたい方は、ぜひ下記リンクからご覧ください。
https://note.com/hiro_shinonome/m/m42f31659debd
医療の中にある“人の温もり”と“静かな熱意”。
この物語が、そんな世界の一端を感じていただけるきっかけとなれば幸いです。
CEです。何でもござれ!:メリーちゃん、未来を守る
プロローグ 置き去りの鼓動
ピーピー……。
静まり返ったCE室に、小さなアラーム音が鳴り響く。
人工呼吸器のセルフチェック音。その耳慣れた電子音に、南條アキはそっと目を閉じた。
でも、すぐに目を開けて、目の前のモニターに視線を戻す。
開いているのは、病院の次期導入予定である「AI遠隔診断支援システム試験運用に関する報告書案」。
スクロールバーの動きだけが、時間の流れを知らせてくれる。
(あたし……本当に、こういうことをやる立場になったんだ)
そう思った瞬間、ふいに、胸の奥がきゅうっと締めつけられた。
技士長補佐に就任して、半年あまり。
現場から離れ、会議資料や進捗管理、部門間調整に追われる日々は、CEという職種への誇りを試されるような日々だった。
誰かの安心を届けたくてこの道を選んだはずなのに、いまは正確な数字や合理的な設計ばかりに囚われている。
「アキさん、朝早いですね」
後ろから声がして、振り返ると、佐々木翔が報告書の束を抱えて立っていた。
「おはよう。……その資料、昨日の修正?」
「はい。AIの補正アルゴリズム、看護部の要望で一部説明加えました」
「ありがとう。……翔くん、ずいぶん頼もしくなったね」
自分で言いながら、ほんの少し寂しさを感じた。
(あたしの背中って、いまも誰かの道しるべになれてるんだろうか)
「じゃ、会議用に印刷してきますね!」
「お願い」
翔が出ていくと、再び静寂が戻る。
CE室の壁時計が秒針を刻む音が、やけに大きく感じられた。
そのとき、インカムが鳴る。
『南條さん? 病棟から、呼吸器の設定確認でお呼びです』
「……了解。すぐ向かいます」
机から立ち上がると、足が自然と軽くなる。
現場に戻れる。それだけで、呼吸が少し楽になる。
病棟への廊下を歩いていると、すれ違いざま、ユウがこちらに気づいて歩み寄ってきた。
「おはよう。今日は資料の山じゃなくて、現場?」
「うん。呼吸器の確認」
「そっか。……でも、ムリはするなよ。最近、顔に出てる」
「……ありがと。でも、ムリしないと進まないの」
そう答えながら、心の奥がかすかに痛んだ。
「……アキ」
呼び止められたその名前に、足が止まる。
ユウは、いつもの柔らかな目で、まっすぐに見つめてきた。
「俺さ、アキがどこにいても、どんな役職でも、CEであることに変わりないって思ってるよ」
その一言が、胸にそっと触れた。
声に出して言えない何かが、胸の奥でひっそりと鳴る。
「……ありがと。でも、あたし、まだその場所がよくわからない」
そうつぶやいて、背を向けた。
歩き出すと、ユウの視線が背中に刺さる。
でも、振り返ることはできなかった。
(……怖いのかも。自分の居場所が、変わってしまうのが)
廊下の先から、再びアラーム音が聞こえてくる。
ピーピー。
それは、昔もいまも、アキにとって最も安心できる音だった。
けれど同時に、ふと気づく。
(……この音だけに、すがってちゃダメなんだ)
机に向かっていたときの自分と、いまアラームに向かう自分。
どちらも本当のCE南條アキ。
でも、その鼓動のリズムが、少しずつ変わりはじめている気がする。
機械の音に守られていた自分から、人を守る側の自分へ。
あのメリーちゃんと呼ばれていた日々を胸に刻んだまま、次の一歩を踏み出す時が来ている。
(だったら——)
アキは、インカムを再確認しながら、小さくつぶやいた。
「CEです。何でもござれ。……今も、これからも」
その言葉が、どこかに置き去りにしてきた自分の鼓動を、そっと呼び戻してくれるようだった。
第1章 補佐の決意、チームの再構築
Part1
ピーピー、ピーピー。
早朝の透析室に、規則的なアラーム音が響いていた。
「す、すみませんっ! 設定、確認ミスかも……!」
バイタルモニターの前で慌てて操作していた佐々木翔が、頭を下げる。
アキは、無言で装置の表示画面に目を通すと、落ち着いた手つきでチューブのバルブを一つ調整した。
「流量、上がりすぎてた。プリセットと患者体重、入力ミスだね」
「あっ……」
「初歩的だけど、よくある。次からは確認項目を声に出して。CEとして、これは命のリズムを扱う仕事なんだから」
「……はい!」
翔の声に、わずかに悔しさが滲んでいた。
その横顔に、数年前の自分を重ねる。
臨床工学技士――Clinical Engineer、略してCE。
医師や看護師とは違う、もう一つの「命を守る」職種。
人工呼吸器、透析装置、ペースメーカなど、生命維持管理装置と呼ばれる医療機器のスペシャリストとして、病院内を縦横に動く存在。
だが、患者や他職種からの認知度はまだまだ低く、「機械の人」「MEさん」「メリーちゃん」などと、曖昧な呼び名で呼ばれることも多い。
(私たちの仕事って、見えにくいから)
機械の音が静まり、透析装置が安定動作に入る。
モニターの波形が一定のリズムを刻み、患者の血液は再び、透析回路を穏やかに流れ始めた。
「南條さん……すみません。昨日、マニュアルで再確認したつもりだったんですけど」
「つもりは確認じゃない。患者さんの体重1kgの違いで、透析の強さも変わる。細かいようで、大事なことだよ」
「はい……」
「でも、ミスしたときに誤魔化さなかったのはえらい。謝れるCEは、伸びるから」
そう言うと、翔はきょとんとした表情でこちらを見た。
アキはふっと微笑んだ。
「……メリーちゃんが言ってた。って、誰かに言われたら困るから、いまのはオフレコね」
「えっ、それってアキさんのことじゃ――」
「翔くん」
「はいっ、了解です!」
肩の力が抜けたのか、翔は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、アキもまた、ほんのわずかに安堵した。
透析患者のケアには、正確無比な装置管理と、患者一人ひとりに合わせた繊細な設定が求められる。
ただ機械を触るだけじゃ、命は守れない。
患者の鼓動と機械の波形の間に立つ。それがCEの役割だ。
(それでも……)
アキはふと、視線を手元の記録端末に落とした。
(補佐になってから、現場で機械に触れる時間は減ったな)
資料作成、報告会議、他部署との調整――
どれも臨床工学技士という職種の信頼を積み上げるために必要な仕事だとわかっている。
でも、どこか物足りなさが拭えない。
「アキさん?」
「……ん、ごめん。次の装置、翔くんが先にチェックして。私は記録するから」
「はいっ、わかりました!」
翔が次の装置に向かう背中を見ながら、アキは記録画面に数値を打ち込み始めた。
やがて、画面上に「技士長補佐:南條アキ」という文字が映し出される。
(補佐としての責任も、やっと少しずつ形になってきた)
けれど、その補佐という肩書きが、時折、彼女をひとりぼっちにさせる瞬間があることも、誰にも言えないままだった。
透析装置が低く唸りながら、血液を清めていく。
その音は、今もアキの原点を思い出させる。
(患者さんの鼓動と、誰かの安心を、ちゃんと繋ぐために――)
自分に言い聞かせるように、アキは静かに息を吸った。
Part2
昼下がりのCE室には、静かな緊張感が漂っていた。
南條アキは、パソコンの画面に映る点検報告書とにらめっこしていた。
(……昨日の透析装置、やっぱり翔くんの記録と若干ズレがある)
技士長補佐として、確認すべき項目は山のようにある。
日々の点検記録、院内研修の準備、導入予定機器の仕様確認。
現場の仕事を離れたわけではないが、全体を見る責任が重くのしかかる。
手を止めたそのとき、不意に背後から声がかかった。
「おつかれー。肩、ガチガチになってない?」
「……ユウ。今朝の件、翔のこと見ててくれた?」
「もちろん。あいつ、ああ見えて根はマジメだし、めちゃくちゃ落ち込んでた」
「うん……ちゃんと指導したつもりだけど、大丈夫かな」
そう言いながら、アキはパソコンの画面から視線を外した。
「ま、翔にはアキがついてるから平気っしょ」
「そう思われてるの、ちょっとプレッシャーなんだけど」
「じゃあ俺がついてるってことで、ダブルで安心?」
ユウが軽く笑ってみせる。アキはその言葉に、わずかに口元を緩めた。
鳥海ユウ。
CE室の同期であり、どこか気の抜けたような物言いとは裏腹に、現場では誰よりも信頼されている男。
そして、アキにとっては、仕事でも私生活でも……特別な存在になりつつある。
「でもさ、アキは最近、なんでも一人で背負いすぎだと思うんだよね」
「……そう見える?」
「見える。っていうか、前からそう。昔からさ、完璧じゃなきゃいけないって思ってるでしょ」
「それがCEでしょ。命のそばにいる仕事だから。甘えは許されない」
アキの言葉に、ユウはほんの少しだけ表情を曇らせた。
「もちろん、そうだけど……でも、チームでやる仕事だよ。CEって」
「……」
「忘れたの? アキが新人だった頃、先輩に言われたんじゃなかったっけ。一人で全部抱え込むなってさ」
その言葉に、アキは胸の奥を軽く叩かれたような気がした。
あのとき、人工心肺装置のスタンバイを任されて、ミスの不安で眠れなかった夜。
全部自分でやらなきゃと力みすぎていたあの日。
先輩の言葉に、肩の力がふっと抜けた感覚を、今でも覚えている。
「……忘れてた。っていうより、忘れたふりしてたかも」
「なら、そろそろ思い出してもいいんじゃない?」
そう言って、ユウは缶コーヒーを差し出した。
受け取ったアキがプルタブを引くと、微かに甘い香りが広がった。
そのとき、CE室のドアがノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、宮永カナだった。
機器バッグを肩にかけ、少しだけ汗ばんだ額をタオルで押さえている。
「午前の病棟ラウンド、終わりました。13号室の点滴ポンプ、ちょっと異音あったので交換しました」
「ありがとう、カナ。記録だけ残しておいてもらえる?」
「はい!」
元気よく返事をして、端末に向かうカナ。
その背中には、少し前まで戸惑いが見え隠れしていたが、いまはもう、しっかりと自分の居場所をつかみはじめている。
呼吸器でも透析でもなく、点滴ポンプ一つにも安心を届けようとする彼女の姿は、かつてのアキそのものだった。
(そうか……あたしは今、彼女たちの背中になる番なんだ)
ふと、翔が書類を手に駆け込んできた。
「アキさんっ! 研修会のレジュメ、これで大丈夫でしょうか!」
「見せて」
内容を確認しながら、アキはそっと息を吸った。
「うん。いいと思うよ。翔くんの言葉で書いてあるから、ちゃんと伝わると思う」
「ありがとうございます!」
アキの視線が、翔とカナ、そしてユウへと順に移る。
この場所には、仲間がいる。
一人で背負い込まなくてもいい。そう思える瞬間が、少しずつ増えてきた。
「みんな、おつかれさま。午後もよろしくね」
「「はいっ」」
アキはふっと笑った。
たとえ完璧じゃなくても、誰かの安心に繋がる存在になれたなら、それだけで意味がある。
――そのことを、ようやく受け入れられるようになってきた。
午後の予定表には、次回会議の準備、AI診断システムの運用案作成、在宅支援機器のデータ分析が並んでいる。
(全部やれるかはわからない。でも……)
「やってみるか。CEです。何でもござれ、だしね」
誰に聞かせるでもなく、小さくそうつぶやいた。
その声には、もう補佐だからという重さではなく、補佐として進む覚悟がにじんでいた。
Part3
会議室の空気は、どこか張りつめていた。
長机の上には資料がずらりと並び、各部署の代表たちが黙々とページをめくっている。
その中央に、南條アキが座っていた。
前方のスクリーンには、彼女が用意したスライドが映し出されている。
「……以上が、AI遠隔診断支援システム導入に関する今期の進捗状況です」
言い終えた瞬間、自分の声が乾いて響いたように感じた。
沈黙が、数秒続いた。
「質問、よろしいでしょうか」
声を上げたのは、内科の主任医師の代行で出席していた若手医師だった。
アキはすぐに反応する。
「どうぞ」
「AIによる初期診断の補助は大変有効だと思います。ただ、患者さんへの説明を誰が行うのか、現場ではまだ整理されていないように感じます。CEがそれを担うという理解でよろしいのでしょうか?」
「はい。あくまで支援という立場ではありますが、解析結果の補足や補正の説明については、CEが第一報を担う方向で調整中です」
そこまで言い切って、胸の奥に微かなざわめきが走る。
(……本当に、うまく伝えられてる?)
次に手を挙げたのは、看護部の主任だった。
「患者さんからは、AIに診断されたという言葉に対して、まだ強い抵抗感があります。機械任せにされているという印象が拭えないようです」
「……その点についても、重く受け止めています」
アキは深く頷く。
「AIは、確かに正確で合理的です。けれど、正しさだけでは安心にはつながらないこともある。だからこそ、私たち人間――臨床工学技士が間に立ち、伝える役割を担うべきだと思っています」
その瞬間、言葉が少しだけ重く響いた。
医師でも、看護師でもない。
でも、機械と患者の間に立ち、命の鼓動を守る人。
それが、CEという職種の本質だと、彼女は信じていた。
「わたしたちは、機械の専門家です。でも、同時に、安心の橋渡しでもありたい」
そう言った自分の声に、ほんの少しだけ、誇りが乗っていた。
ふと、斜め後方の席に目をやると、カナが小さく頷いている。
その表情には、迷いと決意が混じっていた。
やがて会議が終了し、出席者が資料をまとめて退席していく中、カナがそっと近づいてきた。
「アキさん……さっきの言葉、すごく良かったです」
「……そう? 自分ではまだ、言葉足らずだった気がして」
「でも、私も現場でそれを感じます。AIって、正しいけど、あったかくはないって、患者さんが言ってました」
「……あったかくはないか」
その言葉が、胸に残る。
機械は、冷たい。
でも、それをあたたかく使うのが、CEの仕事なのかもしれない。
「私たちにしか、できないこと……あるんですね」
「あるよ。きっと、それが未来のCEの形なんだと思う」
二人の間に、わずかな静寂が流れた。
それは、不安でも迷いでもなく、これから歩む道を見据える静かな決意の時間だった。
アキは視線を落とし、タブレットの画面に映る次回プロジェクト会議:AI×CE連携検討という予定を見つめる。
(ここからが、ほんとの勝負かもしれない)
「カナ、翔には今日の議事録を共有してくれる?」
「はい!」
「ユウには、明日のリハーサルの資料、あとで送るように伝えておいて」
「了解です、技士長補佐!」
カナが敬礼のポーズを取る。アキは思わず苦笑した。
「もう、からかわないで」
「ふふ。でも、アキさん……本当に頼もしいです」
その言葉に、アキは少しだけ目を細めた。
頼られることの重みと、喜び。
それを噛みしめながら、次のステップへと歩き出す。
(完璧じゃなくていい。ただ、伝えたいことがある――)
そう思えたとき、胸の奥に新しい鼓動が、確かに響いていた。
第2章 人間と機械の架け橋
Part1
午後の多目的カンファレンスルームは、各部署の打ち合わせが終わり、資料と意見の余韻だけが残っていた。
その中央で、南條アキは配布資料を手に、ひと息ついていた。
医工連携会議――それは、AI遠隔診断支援システムの運用に向けた最後の調整ステップ。
臨床工学技士としての専門性だけでなく、他職種との橋渡し役としてのバランス感覚が問われる場だ。
「南條さん、ありがとうございました。ご説明、非常にわかりやすかったです」
声をかけてきたのは、在宅医療部の主任看護師だった。
「いえ……こちらこそ、貴重な現場の声をありがとうございます」
「実は、ひとつだけ気になっていて……在宅でAIモニタを使用する際、患者さんがそれって機械が全部決めるの?って不安がるんです。人間の目で見てもらえてるのかって」
アキは静かに頷いた。
「わかります。現場でもよく聞かれるんです。……AIの診断は、正確で早い。でも、それが安心になるかというと、別の話ですよね」
「ええ。ロボットに診られてるって感じがする、とも言われました」
アキは、どこか胸の奥がチクリと痛むのを感じながら、返す。
「……だからこそ、私たちが必要なんだと思います。人の目で確かめて、人の声で説明する。それが、臨床工学技士にできることじゃないかと」
看護師は少し目を丸くし、そして微笑んだ。
「その言葉、患者さんにぜひ聞かせてあげたいです。今後、説明の場面に同席をお願いしても?」
「もちろん。できる限り伺います」
そのとき、ドアの向こうからノックの音がした。
「失礼します」
顔を出したのは、宮永カナだった。少し緊張した表情を浮かべている。
「午後のモニター点検、終わりました。ちょっとだけご報告を……」
「ありがとう。こちらもちょうど話が終わったところ」
看護師が部屋を後にすると、カナは小さく息を吐いた。
「……アキさん、さっきの話、少しだけ聞こえちゃいました」
「そっか。どう思った?」
「私も、似たような経験があります。在宅の説明に行ったとき、小学生の女の子に言われたんです。機械って冷たそう。でも、お姉さんが触ってると、ちょっとだけあったかいって」
アキは、胸がきゅっとなるのを感じた。
「それ……すごく、重い言葉だね」
「はい。でも、嬉しくもありました。CEって言っても伝わらないけど、メカちゃんなら名前を覚えてもらえる。それだけでも、近づける気がして」
ふいに、アキは柔らかく笑った。
「カナは、ちゃんと橋渡しになってるんだね」
「私……まだまだです。でも、患者さんのわからないとか不安に、ちゃんと応えられるようになりたい」
「それ、私も同じ。AIがどんなに進んでも、最後に人の声で安心ですって伝えることは、きっとなくならない」
その瞬間、カナの目がほんの少し潤んだ。
「……アキさん」
「なに?」
「私、ここで働けてよかったです」
その言葉に、アキは言葉を失い、ただ微笑んだ。
(それはきっと、私が一番ほしかった言葉かもしれない)
そのとき、インカムが鳴った。
『南條さん? 呼吸器のアラームについて、4階病棟より確認依頼です』
「了解。行こう、カナ。現場の音が呼んでるよ」
「はい、メカちゃん出動です!」
そう言って笑う彼女の背中が、ほんの少しだけ、たくましく見えた。
そしてその背中を見送るアキの中にも、CEという仕事が変わらず続いていく理由が、少しずつ形を成していくのを感じていた。
Part2
午後三時を過ぎた頃、中央材料室から戻ってきた佐々木翔は、手にした清拭済みのホルター心電図モニターをそっと棚に戻した。
手際よくラベルを張り替え、次の点検項目に視線を走らせる。脳裏には、今朝の患者の言葉がずっと引っかかっていた。
「先生、この機械、勝手に判断するって……ほんとに大丈夫なんでしょうか」
心臓リハビリに通う高齢男性だった。導入されたばかりのリモートバイタル監視装置について説明していると、不安げな目でこちらを見つめながら、そう問いかけてきた。
翔は丁寧に説明したつもりだった。しかし、その疑いが完全に拭えたとは、どうしても思えなかった。
AIは、正しいことを言う。でも、どこか冷たい。
翔はそれを、言葉にするのが難しい空気として、何度も感じていた。
彼は静かに端末に向き直り、使用履歴とアラーム記録を確認していく。確かに、AIの解析結果は的確だ。しかし、何かが足りない。あるいは、何かを見落としている。
そう思っていたとき、ふいに背後から声がした。
「お疲れ様。もう片付いた?」
振り返ると、宮永カナがタブレットを抱えて立っていた。
「うん。あとは点検記録の入力だけ。カナは?」
「さっきまでアキさんと在宅モニタの対応だったんだけど……なんか、考えちゃって」
翔は椅子を回して、彼女に向き直った。
「何を?」
「……私たちの言葉って、どれくらい届いてるんだろうって」
カナはゆっくりと椅子に腰を下ろし、タブレットを脇に置いた。
「さっきの患者さん、モニタの説明をしてるとき、機械はすごいね。でも、あなたがそばにいてくれるから安心するよって言ってくれたの。すごく嬉しかった。でも同時に、私たちってそんなに頼られてるんだって、ちょっと怖くなっちゃって」
翔は静かに頷いた。
「……俺も、似たようなことあった。今日の午前、モニタ説明したおじいちゃんにこれ、人間の目でも見てくれてるの?って聞かれて……。思わずもちろんですって言ったけど、咄嗟だったから、ちゃんと伝えられたか不安でさ」
「ね。ちゃんと伝えるって、難しいよね」
「うん。でも、だからこそCEが必要なんだって、アキさんも言ってた。機械の精度を信じてもらうために、使う人間が顔を見せるって」
カナは少し笑って、膝の上のタブレットをなぞった。
「メカちゃんって呼ばれるの、最初はちょっと恥ずかしかったけど……最近は、誇らしいなって思えるようになった」
「翔くんは何て呼ばれてるの?」
「え? そんなの……翔ちゃんとか、お兄さんとか……。あ、でもこの前、小児科でビープの人って呼ばれた」
ふたりは思わず笑った。そこには、緊張や不安ではなく、確かに温かい空気が流れていた。
翔はふと、真面目な顔に戻る。
「……でも、俺はまだ、声にならない不安に気づけてないと思う」
「翔くん?」
「例えば、AIの表示が正常でも、患者さんの顔が強ばってたら、そこに何かがあるはずなのに、それをちゃんと感じ取れる自信がないんだ。たぶん、今はまだ正しさだけを信じてる」
カナは、翔の言葉をしっかりと受け止めるように、静かに頷いた。
「でも、気づこうとしてるってことが、大事なんだよ。翔くんがそうやって悩んでること自体、もう立派な一歩だと思う」
翔は照れ臭そうに目をそらした。
「……ありがとう。でも、もっと安心を届けられるCEになりたい。アキさんみたいに、ユウさんみたいに」
カナは、翔のその言葉に優しく微笑みながら、そっと隣に並ぶ。
「一緒に、なろうよ。誰かの安心になれるCEに」
「うん……一緒に、ね」
その約束のような言葉は、ささやかだけど、確かな決意の音だった。
彼らの会話の奥にあったのは、技術ではなく、想いだった。
そして、その想いこそが――AIがどれだけ進化しても決して真似できない、CEという職業の核心だった。
(たとえ答えがまだ見つからなくても、迷っていい。怖くても、向き合えばいい。俺たちは、その先にいる誰かのために、ここにいるんだ)
翔の胸の奥に、またひとつ新しい鼓動が、生まれようとしていた。
Part3
夜のCE室には、機器の稼働音と静かなタイピングの音だけが満ちていた。
南條アキは、モニターに向かいながら、修正中の提案書に目を通していた。
それは、AI遠隔診断支援システム導入に関するプロトコル草案。患者説明の際、臨床工学技士が「安心」をどう担保するか、具体的に盛り込むべきだと、彼女が主張している文書だった。
……でも、言葉だけじゃ足りない。どうしたら、人がいる意味が伝わる?
考えれば考えるほど、手が止まった。
書くべきことは頭にあるのに、文章にならない。そんな歯がゆさが、胸に澱のように沈んでいく。
「――迷ってる顔だね」
不意に声がして、アキは顔を上げた。
鳥海ユウが、ポットからコーヒーを注ぎながらこちらを見ていた。
「何時からいたの?」
「さっき。ICUのラウンド終わって戻ってきたら、まだ電気がついてたから。……今日はもう、帰ってもいい時間だよ?」
「わかってる。……でも、気になって」
アキはモニターに視線を戻す。
「AIの判断をCEが説明するってだけじゃ、きっとダメなんだと思う。今のこの流れに、ちゃんと人間らしさを残したい。なのに、どうしたらいいのかわからなくて」
ユウは静かにコーヒーを差し出し、向かいに腰を下ろした。
「……昔さ、俺がCEになったばかりの頃、アキに言われた言葉を覚えてる」
「え?」
「わかってる、だけじゃ届かない。ちゃんと伝わる言葉で、伝える責任がある――そう言われた。たぶん、今のアキも、そのときと同じなんだろうなって思って」
アキの胸に、遠い日の自分の声がよみがえる。
そう、あの頃の彼女は、誰よりも現場にこだわっていた。
誰かに伝わらなければ、技術も知識もただの自己満足になる。だからこそ、現場で患者と向き合い、目を見て言葉を届けてきた。
「……あの頃は、ただ正しくありたいだけだった。でも今は、安心してもらいたいって思うようになった」
アキは、カップを手に取ると、小さく息を吐いた。
「たぶん、私が求めてるのは、精度の説明じゃなくて、保証の言葉なんだと思う。もし何かあっても、ちゃんと人が見てますって伝えられる仕組み。患者さんや家族が、モニター越しでも人の存在を感じられるような何か」
「それが、アキにとってのCEとしての正しさなんだね」
「……うん」
ユウは頷いた。
「じゃあ、それを書けばいい。難しい理屈はいらない。アキの言葉で、アキが信じるCEの形を」
「……ありがとう、ユウ。私、自分が何を伝えたかったか、やっと整理できた気がする」
アキは再びキーボードに手を置いた。
画面の光が、彼女の横顔を照らしている。
夜の病院に満ちる静寂の中、アキは改めて思った。
CEの仕事は、正しさを支える。でも、それだけじゃ足りない。
人がそこにいて、手を差し伸べ、言葉をかけるからこそ――それが、安心になる。
AIがどれだけ進化しても、きっと、それは変わらない。
そして、その変わらないものを守るために、自分はここにいる。
(……私が伝える。どんなにAIが進歩しても、あなたをちゃんと見ていますって。機械じゃなくて、人として)
画面に、新たな文章が刻まれていく。
その言葉は、かつての自分への返信であり、未来のCEたちへの手紙でもあった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
「臨床工学技士(CE)」という職種、初めて耳にした方も多いかもしれません。医師や看護師のように目立つ存在ではありませんが、医療機器を通して命を守る、現場には欠かせない専門職です。
本作では、そんなCEたちが技術だけでなく「人の心」に寄り添いながら働く姿を、温かく、そして等身大に描いていきます。
第1章と第2章では、南條アキが技士長補佐として新たな立場で葛藤する様子、仲間である鳥海ユウ・宮永カナ・佐々木翔たちとの関係性、そして医療現場における新たな技術「AI遠隔診断支援システム」の導入が、少しずつ物語の主軸として動き出しました。
ここまで読んで、「もっと彼らの過去が知りたい」「CEという仕事に興味が湧いた」と思ってくださった方は、ぜひシリーズ第1作『CEです。何でもござれ!』をNoteでご覧ください。
https://note.com/hiro_shinonome/m/m42f31659debd
次回の更新では、AIと人間の間で揺れる医療現場と、それに立ち向かうCEたちの姿をさらに深く描いてまいります。