4:三回目の人生
ヴィクター・エル・レンドールは、作中で暴虐の愚か者として登場する。
七歳にして初めて殺したのは従者。眼つきが気に入らないと言う理由だった。次にメイド達を虐げ、遊び相手に選ばれた幼い子息達は言うことを聞かせて駒として使い、公爵である両親には愛情たっぷりに可愛がられて育った。
成長すると、女を弄び廃人にする遊びや、ギャンブルでイカサマをして金を巻き上げることに悦楽を覚えるようになっていく。罪なき平民を罠に嵌め、奴隷に落とす遊びは一番長くハマっていた趣味だ。
顔立ちはいいため一部コアなファンはいたが、おおよその読者には忌み嫌われた。
ヴィクターは、すべて原作通りに事を起こしていった。
媚びへつらう中位貴族をオモチャにして、同い年の王子には表面上従いつつも裏では悪態をついた。一番共に過ごす時間が長くなる従者は、演技に気づかれぬよう、難癖をつけて次々に変えていった。
最初の人生では、万引き一つしようとも思わない性格だった。しかし、ヴィクターとして出来得る限りの悪行を行う日々に、いつしか罪悪感を抱かなくなっていった。強迫観念に駆られていたのか、物語の強制力が働いていたのか、今となっては無意味な考察だ。
唯一原作から異なった行動を取ったのは、国外の豪雪地域に秘密基地を作ったことだ。
幼いヴィクターが魔法で作った部屋は、六畳ほどと狭く、冷たい石造りだった。燭台の細いろうそく一本で照らされ、いつも湿気と薄闇が漂っている。置いてあるのは、こじんまりとしたシングルベッド、簡素な長方形の木製デスクとイス。そして、唯一繰り返し読んでいる古ぼけた魔法書。
自室から魔法で移動し、ワイシャツの首元を緩めてベッドに倒れ込む。いつも鼻持ちならない表情を浮かべた顔は、ナイフで感情をそぎ落とされたような無表情。魔法で空中に浮かせた魔法書のページを開き、ぼうっと文字を眺めた。
魔法書を開く気力すら残っていない日は、ベッドの中で体を丸め、すべてを忘れるように目を閉じた。そうして昏々と眠ることだけが、ヴィクターに呼吸できる唯一の時間だった。
騎士に殺される場面へ向かう際、地下室は魔法で潰した。魔法書は自らの手の中で焼き、親指の腹と人差し指の側面には火傷が残った。公爵はすでに国家反逆罪で捕縛され、加担していた従者は捕まり、その他は保護された。
ヴィクターは安堵していた。物語は佳境に向かい、悪役は退場し、主人公達は世界を救う。騎士はヴィクターを殺すことで、新たな力を手に入れる。それは、主人公が勝つために必要不可欠な過程だ。
ヴィクターは物語を演じ切ったのだ。
目覚めてから数瞬、青年は見慣れない天井をぼうっと見上げた。空気中に含まれる埃が眩い朝日に照らされ、星々のように煌めいていた。すん、と鼻を啜ると、傍らで丸くなっていた黒猫が頭を頬に擦りつけてきた。
魔法書を燃やした時の焦げた臭いが鼻腔の奥で蘇り、親指と人差し指がチリチリと痛みを滲ませる。起きなければと思うのに、地下室で眠る時のようにただただ虚無感が体を覆い尽くしていた。
力なく瞼を下ろすと、涙がこめかみへと伝い落ちていった。
掃除の終わったリビングは、ほぼ物がない。リビングテーブルとイス、壁がけテレビとローボードだけが、日に焼けたカーテンが開けられたリビングに居心地悪そうに置かれている。
キッチンは消費期限切れをすべて捨て、何年も使われた形跡のない皿や調理器具が残った。これも後々捨てられる予定だった。廊下も一通り床掃除を終え、バスルームとトイレも使用できる状態になっている。
客間、書斎、自室の向かいは手付かずで、換気をしてもまだ埃臭さが残っている。階段正面の部屋の鍵は、いまだ見つかっていない。
自室の向かいに入った青年は、袖まくりをして掃除に取りかかった。
おおよそはゴミ袋の運搬と、段ボールを畳んでまとめる作業に時間を費やした。この部屋は親の寝室だったようで、ゴミ袋の下からはベッドが出てきた。しかし使われた形跡はほぼなく、物の少なさから、両親はほとんど帰宅していなかったことが窺える。
書斎は床に散らばった本と積もった埃こそあれど、本腰を入れた掃除は不要だった。本を本棚に戻すと、窓を開け、空中の埃を逃がしながら床を拭いた。
掃除が終わったのは、正午過ぎ。快晴だった空はいつの間にか雲が垂れ込み、片付けられたばかりの室内も薄暗くなっていた。
着替えのため、自室に入る。
ベッドとデスクしかない部屋だった。向かいの部屋もベッドといくつかの棚のみで、リビングも最低限の家具のみ。書斎は唯一本が残っているが、もう十年以上も使用された形跡がなく、人の気配は残っていない。
どこもかしこも空っぽの家だ。今の青年のように。
「どうするか」
これからどうしたらいいのか、という響きを含んだ声だった。
一生働かず、この家の中で息を潜めるように生きるのか。それとも最初の人生のように、『普通』の人生へ戻るのか。
不意に、秘密基地にしていた部屋が酷く恋しくなった。
小さなベッドと頼りないろうそくの火。一冊の魔法書を何度も何度も読み返した質素な木製デスク。誰にも邪魔されず、偽る必要もなく、ただインクで描かれた魔法に浸り、ただ昏々と眠ったあの部屋。
ベッドに倒れ込んだ青年は、冷たいシーツに顔を埋めたまま動かなくなった。開けられたままの窓から、拭かれたばかりの床へ雪が舞い落ちる。かすかな水っぽい匂いが風に乗って入り込み、室内を湿らせていく。
秘密基地よりも広い部屋は、いまだ青年をぎこちなく居させていた。
玄関前に置かれた宅配の紙袋を手に、青年はリビングに戻る。
朝食のお粥と、子猫用のキャットフードがテーブルに並べられた。子猫はソファーで丸まっていたが、匂いを察知して軽やかにソファーから飛び降りると、青年の足元に絡みついて来た。入浴用に洗ったバスタオルもいつの間にか子猫の巣に使われており、ソファーの片隅に丸まっている。
片付けを終え、数日が経過した。
青年はベッドやソファーに横たわって、何をするでもなく、ただぼうっとして過ごしていた。ベッドから起き上がれない日もあり、子猫は十センチほど開けている窓から出入りして自由気ままに過ごしていた。デパートで買ったレトルトなども、ほとんど手が付けられていない。
青年は子猫の餌を先に用意し、勢いよく食べ始めた子猫の頭を一撫でしてから、自分の朝食の用意に取りかかった。塩味のお粥は、白いプラスチック容器のままダイニングテーブルへ運ぶ。コップに入れた水を隣に置くと、無言で食べ始めた。
スプーンを口へ運ぶ動作は遅く、あっという間に食べ終えた子猫が足にじゃれつく。青年が足を動かすと、小さな前足から繰り出された猫パンチが裾を揺らした。その後もテーブルに上げろとばかりに散々鳴くため、猫の扱いに慣れていない青年は、勢いに押されて子猫をテーブルへと乗せた。
テーブル内を歩き回って遊んでいた子猫がリモコンをかまい、偶然テレビのスイッチが入る。連続殺人のニュースが流れており、男性アナウンサーの流暢な事件説明と共に、七名の写真が映された。
テレビ画面に映された、まったく見知らぬ人々の顔写真。年齢は十代半ばから四十代と幅広く、居住地こそ皆都内だが、それ以外の共通点は見つかっていない。
見つかっていないだけだったのだ、と青年は思う。
『顔は違うけれど、雰囲気で分かるさ』
エドワードの黒い双眸が、ふと青年の記憶の中で鮮明に蘇る。窓から差し込んだ光を浴びてなお、ブラックダイヤモンドのように、しっとりとした黒さが皓々と煌めいていた。
エドワードが前世を思い出したのは六歳。騎士として敵と殺し合った記憶は、子供の人生にどんな影をもたらしたのか。思い出した後にどんな人生を送ったのか。エドワードは口にしなかった。青年も尋ねなかった。
『元気になったら、また会おう。その時は、』
あの唇の描いた笑みは、エドワードの時には一度も見たことのない類の形をしていた。しかし、ヴィクターの時に見覚えがある。
ある時、公爵領で連続殺人が起きた。戦い慣れた屈強な男ばかりを狙い、決闘して殺し、遺体を美術品のように飾ってはわざと見つけさせる凶悪事件だ。公爵はすぐさま専任チームを作って対処に当たり、一ヶ月後に犯人の男が現行犯で確保された。
気まぐれで犯人を見に行ったヴィクターは、気が違えたように微笑む男にぞっと背筋を凍らせた。ただただ殺し合いを楽しみ、生を奪う恍惚感に憑りつかれた奇妙な光が万華鏡のように輝いていた瞳。
エドワードの双眸は、それと同じだった。
あの男は、殺しに来る。過去の恨みなど一切関係なく、殺し合いがしたいがために。
前世の記憶が六歳の少年にもたらしたのは、人に殺されかけ、人を殺すという、命のやり取りのヒリつく感覚。現代日本ではほぼ味わうことのない生の実感。そして、体中に傷痕が残るような生活が、男――エドワードの理性を狂わせたのだ。
ああ、もう、物語は終わっていた。
青年は、こみ上げる様々な感情の濁流に耐えかねたようによろめき、肘をテーブルにぶつけた。音に驚いた子猫が振り向き、テーブルに伏せられた頭に顔を寄せて鳴く。
前足で髪をつつきながら顔を覗き込む子猫の前で、テーブルにポタポタと水滴が落ちていく。
青年は、今流れている涙がどういうものなのか分からなかった。エドワードが変わってしまった悲しみか、主人公達が殺されたことへの怒りか、もうヴィクターではないという実感か。胸を掻きむしりたいほどの衝動に駆り立てられ、嗚咽が絞り出される。
青年――綿貫は、ようやくヴィクターだった人生の終わりを悟った。そして、今の人生で初めて息を吸ったような感覚を噛みしめながら、とめどなく流れる涙の熱を手のひらに感じた。
テレビは、被害者知人の言葉として、聖職者じみた男の声を流していた。
春の日差しの中、リビングの窓際で日干しされているクッションで、黒い子猫が丸まっていた。
洗われたばかりのふわふわした毛並みは、最近やや肉つきが良くなり過ぎた体をいっそう健康的に見せる。子猫を包み込むオレンジ色のタオルケットは、子猫の寝相でどんどんとぐちゃぐちゃになっていた。
青葉が芽吹き始めた庭は、瑞々しい匂いがガラス窓越しにも伝わってくる。先週からようやく庭の手入れが始まり、枝が絡み合っていた低木が引き抜かれた庭は、風通しが良くなった。小さな白い花が咲き始め、片隅に雑草が積まれた庭を彩っている。
周囲から視界を遮るように植えられている木々も、業者により来月の伐採が決まっている。そのための近隣への挨拶も済ませており、隣家の家族からは「また一緒にバーベキューしましょうね」と誘いを受けた。
カーテンが取り換えられたリビングは、空気中に陽光をたっぷりと含んでいた。
テレビ下のローボードには、旧作映画のブルーレイが三本。壁際には子猫用のベッドが置かれ、オモチャの入った箱が隣にある。ソファーには淡いモスグリーンのクッションがあり、綿貫が昼寝をした時のへこみが残っていた。
まだ全体的に物が少ないものの、いくつかの小物が彩りを生んでいた。来週には、子猫用のキャットタワーがテレビの横に増える予定になっている。
突然ピクリと耳を動かした猫は、前足を伸ばしてから眠たげに起き上がる。階段を軽やかに上がり、声が聞こえた部屋へと入った。
デスクでパソコンに向かっている綿貫は、顔に大きなガーゼを貼っている。ズボンから覗いた足首は包帯で固定されており、手や腕もサイズが異なる絆創膏だらけだった。首を覆うように巻かれた包帯が窮屈なのか、時折首元を気にして肩が揺れる。
「う、このステージは早かったか……?」
パソコン画面に表示されているのは、新たに始めたオープンワールドRPGゲーム。綿貫のやや不慣れな操作で、キャラクターがまだレベルが上がり切っていない剣を振るう。敵モンスターはガードが堅く、倒し切るまでに二分近く格闘していた。
警察の事情聴取も終わり、バイトが休みである今日。包帯だらけの腕で猫を抱き上げると、猫は両手を綿貫の顔に押しつけてにゃあにゃあと鳴く。
「もうお腹すいたのか? お前、もう少し運動しないとダメだぞ」
綿貫の腕に抱えられた猫は、「にゃ?」と甘えた声で首を傾げる。たった数ヶ月で随分と成長した猫は、すっかり綿貫の家に居着いていた。そのままクロと名付けられ、赤い首輪が黒い毛並みを彩っている。
猫を抱えたまま立ち上がった綿貫は、掃除が終わった二部屋の前を通って階段を下りた。
キッチンで餌を準備している間、猫は綿貫の足元をウロウロと歩き回って急かしていた。皿を持って移動する間もしきりに鳴き、定位置に置いた途端、小さな頭を皿へ突っ込むようにして食べ始める。その頭を一撫でし、今度は自分の食事作りに取りかかった。
昨日の残り物であるカレーを温めながら、パックの白米を電子レンジに入れる。調味料と食材がほどほどに入った冷蔵庫から取り出されたポットの麦茶は、氷なしでたっぷりとグラスに注がれた。
昨日より味のしみたじゃがいもを頬張る綿貫の左手は、リモコンを操作する。連続殺人事件の犯人逮捕から一週間のニュースから、綿貫が最近繰り返し観ている映画に画面が切り替わった。
食事を終えた猫を膝に乗せ、すっかり聞き慣れたオープニング曲に耳を傾けた。口内の傷にしみるカレーの辛味に時々眉を寄せながら、綿貫の昼食は穏やかに進んだ。
ミルクがたっぷり入れられたコーヒーの香りが、リビングに柔らかく広がっている。最近はコンビニスイーツにハマっており、クリームチーズのロールケーキが小皿に乗っている。
派手なアクションのない、人々の生活のちょっとした事件を描いた映画だった。最初の人生で好きだった若手歌手が、画面の中で薄っすらと目尻に皺を浮かべて笑っている。ギターを弾く指は軽やかに、歌声は子守歌のように優しく響く。息子として登場する主人公は、まだ子役が演じている。
『――、―――。――――』
歌手の台詞が耳を通り抜け、眠たげな瞬きがさらにスローペースになっていく。
綿貫のあくびにつられたように、猫も小さな口を大きく開けてあくびする。そして、綿貫の腕を叩いて横になれと命じた。苦笑した綿貫がソファーに横たわると、猫が腹の上で丸まって毛づくろいを始める。寝る前のルーティーンだ。
やがて猫の寝息と主人公のぎこちないギターが重なり、リビングはゆったりとした空気が流れる。昼過ぎの暖かな日差しが毛布代わりになり、綿貫の瞼をとろとろと下ろさせた。
今でも綿貫は、悪夢に魘されて飛び起きる日が少なくない。初めて殺した従者の絶望に染まった双眸が生気を失っていく光景は、脳裏に焼き付いている。自分がエドワードに影響を与えたのではないかと苦悩する日も、本当はこれがヴィクターとして見ている夢ではないかと錯乱する日もある。
それでも、少しずつ物が増えていったリビングで猫と過ごしている時に、雪国の地下の秘密基地を思い出すことはなかった。