1:見知らぬ部屋での目覚め
二階建ての一軒家は、青年が目覚めた時、廃墟じみた静謐さが漂っていた。肌寒い空気は埃と湿気の臭いがし、曇り空から薄っすらと差した陽光は、人気のない廊下の静けさを仄暗く照らしている。
ケホ、と青年の咳が一つ響く。異様に渇いた喉の奥からは、薬の苦みと胃液の酸味がこびりついていた。水を探すが、周囲にあるのは積み重なった本の姿だけだった。
青年は埃が薄っすらと積もった床から上半身を起こし、長い前髪の隙間から雑然とした室内を見回す。
まず視界を埋めるのは、床に置かれた物だった。積み重ねられた本や、ゲームなどの空き箱が所せましと床を覆っている。ベッドからドアに向かって足の踏み場はかろうじてあるものの、物の数に対して、不思議と生活感はあまり感じられなかった。
ベッド脇のサイドテーブルには、飲料ゼリーのゴミとミネラルウォーターのペットボトルが二本ある。そして、左壁側にあるベッドは掛け布団と毛布が壁際に寄っており、唯一他の物が置かれていない。しかし、吐瀉物がシーツを汚していた。
鼻につく臭いに、青年はこみ上げる嘔吐感を無理やり飲み込む。
ここが誰かの自室であることはすぐに分かった。しかし、なぜここに自分がいるのか、青年には分からなかった。
情報を求め、足元に気をつけながら窓際へと寄る。ガラスに薄っすらと埃が付着した窓からは、落ち着いた雰囲気の住宅街が見えた。デスクに置かれたデジタル時計の日付は十二月中旬。左隣りの家の門には、クリスマスのオーナメントが飾られている。
ふと、ガラス面に反射した自身の姿が目に入った。その瞬間、強烈なめまいに襲われた青年の体が、崩れるようにガラス窓へぶつかった。
複数の人生の記憶が、濁流として一気に脳へ流れ込む。
一度目は漫画好きの一般人。二度目は、一度目で好きだった漫画の悪役であるヴィクター・エル・レンドールに転生し、原作通りに演じ切って死んだ。そして、三度目の今。
十分ほどガラス窓にもたれて記憶の処理をしていた青年は、呻きながらようやく体勢を戻す。その動作で、冷や汗が首筋を伝っていった。
目を覆い隠すほど長い前髪を掻き上げ、溜息を吐く。薄汚れた窓に反射した顔は、ヴィクターの顔とどことなく雰囲気が似通っていた。しかし、何の光もない陰鬱な黒い双眸が、鼻持ちならない悪党だったヴィクターから印象をかけ離れさせている。
三回目の人生の記憶は、前世の記憶が戻った衝撃のせいか、酷くあやふやになっていた。今分かるのは、働きもせずに一軒家で一人暮らしをしていることだけだった。
「……水」
長年発せられていなかったような掠れ声に、乾いた咳が一つ続く。指先まで上手く力が伝わらない足を引きずるようにして、青年は部屋を出た。そうして水分補給のために訪れたキッチンには、やはり空のペットボトルが並んでいた。
家内を一周した結果、青年はキッチンでもう一度水を飲みながら一息つく。
一階にはゴミだらけのリビング、カウンターキッチン、バスルームとトイレ、客間と思われる唯一整頓された部屋と、壁面本棚に覆われた書斎があった。床へ乱雑に出され、埃を被っている本のジャンルから、父親が昔使っていた部屋と判断できた。
二階には青年が目覚めた部屋があり、階段を挟んだ向かいには、物置きと化した一室がある。ここにはゴミ袋に入れられたゼリー飲料とペットボトル、段ボールが山積みになっていたが、幸い虫の姿はなかった。階段正面にある部屋は、鍵がかかっており確認ができなかった。
そして、あちこちに中身の詰まったゴミ袋が置かれていた。自室やリビングはもちろん、廊下にも侵食し、このまま数年も経てば立派なゴミ屋敷になっていただろう。
中身はおおよそ飲料ゼリーかカロリーバーのゴミ。それも通販で買っていたようで、二階の段ボール箱にはどれも同じ通販サイトの企業名が印刷されていた。
青年の過去に繋がる物は、目覚めた部屋のデスクの引き出しで見つけた。保険証と通帳だ。探せば他にもあるのだろうが、今の青年にそこまでの気力はなかった。
両親の現状も確認したかったが、スマホには一切他者と連絡を取った痕跡がなかった。ただし、通帳には定期的に金が振り込まれていた。金銭的な面倒だけは見るタイプの親なのだろう。今の青年にとっては好都合だが、過去の青年にとってよくない状況だったことは想像に容易い。
青年はシンクにもたれかかって床に座り、ぼんやりと天井を見上げる。
何もする気になれなかった。青年の意識としては、ヴィクターとして死んだ直後なのだ。指一本動くのも億劫だった。しかし、ぼうっとしていると、頭の中で際限なくヴィクターの記憶が駆け巡っていく。
せり上がる吐き気に喉を押さえ、ゴミ袋が置かれたキッチン内に目をやる。
「掃除……するか」
すでに疲弊した頭を無理やり働かせ、掃除の流れを考える。
吐瀉物で汚れたベッドは、真っ先に片付けたい。次に優先度が高いのはリビング、キッチン、バスルームとトイレ。他の部屋は後でいい。
コップの水を飲み切った青年は、ようやくと言った重々しい動作で立ち上がった。貧血による立ちくらみでしばし顔を顰めてから、適当なビニール袋を手に二階へ戻る。
汚れたシーツをくるめてビニール袋に入れて口を縛り、マットレスを見下ろす。汚れが染みているため捨てたいが、捨て方が分からなかった。前世の癖でつい魔法を使おうと詠唱したが、当然、魔法は発動しない。
十秒ほど悩んだ後、ビニール紐で縛り、ひとまず庭先に出した。最初の人生でも後回し癖があったなと、もうほとんど朧になっている記憶がわずかに思い出される。
細々とした体は案の定、腕力もスタミナもなかった。マットレスを移動させる最中も、何度も貧血を起こしながら階段をよたよたと降りていた。掃除後に二階へ上がるのは困難と考え、夜にソファーで寝る用の毛布を取る。
ふと、ベッド横のゴミ箱が視界に入った。空になった薬の包装シートが、いっぱいになったゴミ箱から溢れるように捨てられていた。およそ十枚以上、錠剤数は八十を超える。嘔吐の原因を察し、しかし何も思わずに部屋を後にする。
ゴミ袋を台所の棚から発掘した青年は、ひとまずリビングの片付けから始める。
リビングは二十畳。カウンターキッチンの前には、ダイニングテーブルと二脚のイスがある。飲料ゼリーやカロリーバーの空き箱、空のペットボトルが右側の席前を囲うように置かれていた。カウンターキッチンから見て左側の壁がけテレビの正面にはソファーとローテーブルがあり、壁際には書籍やブルーレイが積まれたローボードがある。
床には、やはり多くの書籍、ゲームの空き箱が乱雑に広がっていた。その中に辛うじて歩ける部分が残っているため、リビングも一応は使用されていたのだろうと推測できる。
片付けている間、青年は無心だった。けれど、頭の中では、いまだ鮮明な記憶がフラッシュバックしていた。
紙面で涙を浮かべながら応援し、対面では敵対した主人公達の表情。魔法で初めて空を飛んだ日。初めて人を殺した日。死ぬキャラクターを救えないかと模索し、結局は自ら手を染める結果になった夜の雨の冷たさ。騎士に胸を貫かれて絶命する瞬間のスローモーションのように過ぎていく光景。
書籍はひとまず部屋の隅に積み重ね、空き箱は畳んで重ねていく。積もった埃で手も服も汚しながら、ロボットのように手を動かし続けた。
ゲームの空き箱、スマホの空き箱、飲料ゼリー、わずかなカロリーバーの空き箱。記憶にない生活の痕跡は、青年の手によって過去を拭い去るように片付けられていった。
あらかた書籍を積み終えた後、ひとまず空き箱を束ねて、玄関に運ぶ。壁と同じ白い棚の上に置かれた郵便物には、『綿貫様』と書かれていた。その時になって、ようやく青年は今の名前を知った。
そうして黙々と作業し続け、二時間。
テーブル上もリモコン以外の物がなくなり、床に散らばっていた物も壁際に寄せられた書籍以外なくなった。ほとんど書籍に埋もれていたローテーブルも姿を現した。最後に埃まみれの床をティッシュで乾拭きし、見つからなかったウェットシートの代わりに、濡らしたフェイスタオルで重ねて拭く。
書籍に壁際を囲まれているものの、随分とリビングらしい景色に変わった。
まだ湿っているフローリングを歩いて窓際まで行き、窓を開ける。途端に、肌を凍らせるほどの冷気が前髪を揺らした。室内にこもっていた影の沈殿したような気配は、澄んだ空気によって攫われていく。
室内でありながら、白い吐息が口元に浮かんだ。春の気配はまだなく、木々は凍えたように枝を縮こまらせている。動き続けて熱がこもっていた体はあっという間に熱を失い、ふるりと肩が揺れた。
一度大きく息を吸い込んでから、青年はキッチンへうがいをしに向かう。埃臭いリビングにずっといたため、口の中まで埃っぽくなっていた。
カウンターキッチンに並んだペットボトルを片付け終わった頃には、青年の痩身はくたくたになっていた。
次の入浴を兼ねたバスルーム掃除に備えて、着替えを探しに自室へ行く。
元々数の少ない衣類の中から、まだ着用できる服を探し出すことに一時間をかけた。ようやく見つけたのは、パーカーと黒いシャツ二枚とズボン一着、下着が二着。それを、今着ている服と、辛うじてペアが見つかった靴下と一緒に洗濯機へ入れる。無香料の洗剤の状態を匂いで確認し、洗濯を始めた。
浴室は、わずかに暖色を帯びた照明でも、一目で汚れが見て取れた。
浴槽は排水口が汚れており、長らく使われていないことを表していた。シャワーの使用頻度は、あまり脂っぽくない髪から察せられる。しかし、水垢が床の隅々にこびりついていた。汚れにこだわれる精神状態ではなかったことが窺える。
鏡に映った肋骨の浮き出た体を一撫でし、青年は息を吐く。色白よりも青褪めた肌は、へその左下にあるホクロが妙に浮いて見えた。
掃除用の専用洗剤を見つけられなかった青年は、ボディソープを浴室中に撒いていった。そして、未開封で残っていたスポンジを使い切る勢いで、ひたすら壁と床を擦る。浴槽の汚れは、自らの体をシャワーで暖めながら、時間をかけて落とした。
疲れ果てた体とは裏腹に、掃除の手は止まらない。その姿は、壊れたロボットが同じ動作を繰り返しているようにも見えた。
ミネラルウォーターのペットボトルは消費期限が過ぎていた。ひとまず冷蔵庫に戻した青年は、食べ物を探して冷蔵庫のドアを次々開けていく。
ほぼ空っぽの冷蔵庫は、エナドリの空瓶を冷やし続けていた。分離し切ったドレッシングとマヨネーズ、七味唐辛子が辛うじてドアポケットにあった。しかし、食べられそうな物は一つも見つからなかった。
キッチン内の棚を確認すると、ようやくインスタント系の食品を見つけた。青年は安堵の息を吐きながら袋麺を手に取り、裏面に書かれた消費期限に硬直する。何度確認しようとも、五年前の日付だった。
他の袋麺も大差はなく、フリーズドライの野菜スープは一年前に消費期限が切れていた。青年は少々悩む手つきを見せたが、野菜スープを持った手首の痩せ細ったひ弱さに目を向け、渋々ゴミ箱に入れた。
ようやく見つけたレトルトの塩粥を電子レンジで温めている時、青年はふと気づく。スマホで注文すれば、一ヶ月前に消費期限が切れた粥にチャレンジしなくていいのだと。
オレンジ色の光を浴びている丼ぶりの中で、コトコトと温まっている粥を見る。匂いは確認したが、弱った体にも問題がないかは運次第だ。温め終わった音が鳴り、オレンジ色の光が消える。悩んだ時間は一瞬で、青年は丼ぶりを手にダイニングテーブルへ向かった。
ダイニングテーブルは、手前のイスに座るといっそう広く思えた。スプーンの半分ほどお粥を掬い、色味や匂いを再度確認しつつ、少し冷ましたあと口に運ぶ。舌先にピリッとした塩味が感じられた。変な味はしなかった。
世情を把握するためにテレビを点けると、六時五分前のニュースが流れていた。
『連続殺人事件の続報です。被害者に共通点は見つかっておらず、犯人に繋がる手がかりも発見されていません。最初の事件からすでに三ヶ月が経過していますが、捜査は難航しており、警察への批判が日に日に高まっています。現場から山中さんに伝えていただきます』
『山中です。現在、三件目の犯行現場となった図書館前にいます。被害者は、図書館の中庭で倒れているところを発見されました。死因は刺殺。致命傷となった傷は首にありましたが、大半の傷口は腕に集中しており、抵抗した痕跡が』
被害者の氏名と顔写真が画面に表示される。十代半ばの少年だった。困っている人を無視できない類の笑顔は、ヴィクターが敵対していた主人公とよく似ていた。まるで――。
青年はスープを掬っていた手を止め、二つの瞬きの間、顔写真を見据えていた。ゆらりと瞳孔の奥で闇が蠢くような横顔だった。しかし、何事もなく食事に戻る。
半分ほど食べ進めると、胃が温かさに負けたようにじんわりと痛み出した。ラップをかけて冷蔵庫に入れ、水道水で口をゆすぐ。歯ブラシは見つけられなかった。
暖房の温度を二度上げ、照明を消し、リビングのソファーに横たわる。ベッドで丸まっていた無地の毛布からは、湿気の臭いがした。
体は疲弊し切り、精神的にも早く眠りにつきたかった。しかし、敵が多かったヴィクター時代の影響から、警戒心が抜けないまま浅い睡眠が続く。カーテンが開けられたままの窓ガラスは、しんと静まり返った庭を映していた。
凍風で庭の枝が揺れるたび、何度も意識を浮上させながら、夜は更けていった。