魔獣の棲む森
◇ ◇ ◇
「デデ様、朝食の準備ができましたよ」
とロザリーが元気よくデデに呼びかけた。
( わあ、美味しそう……)
デデは食卓に乗っている朝食を見てエメラルドの眼がキラキラと輝いた。
中央のテーブルにはベーコンエッグと塩つけのキュウリとフキのピクルス。こんがり焼いたオーツ麦のトーストとジャガイモのスープ、オレンジと洋ナシのヨーグルトあえ。そしてローズヒップティーだ。
娼婦館に来てからデデは、めっきりと食が細くなって大分痩せてしまった。
女主人はせっかくの自慢の豊かな胸がなくなっては困ると、ロザリーにデデの好物を作るように、少しくらい贅沢してもいいからと指示をしていた。
そうはいっても贅沢な食材は何もない。
デデは好き嫌いはしないし、村で家族と食べていた素朴な食事が好きだった。
出された料理は何でも食べた。
ただ1つだけデデがリクエストしたのは「味付けは薄めでさっぱりして欲しい」という事だけだった。
デデにとって王都の食事は脂っこくて味が濃いものが多かった。
村の食事は塩は少なめで、酢やハープで味付けしたものが多かった。
娼婦館の客たちが、酒のつまみの料理を注文した時、鶏肉の揚げ物やビーフステーキなどガツガツと食しているのを隣で見てると、肉のキツイ匂いが苦手だった。
濃い目のタレ肉の脂ぎった匂いを嗅ぐと、デデは胸やけをする。
常にその場にいると、ハンカチで鼻を押さえるほどだった。
どうやら王都での食事の味もデデには合わないようだ。
ロザリーが召使になってからは薄味の食事を作ってくれるので、食欲が出てきてデデの体重も徐々に元に戻っていった。
◇ ◇ ◇
「デデ様は、森の絵が描いてある絵本がとってもお好きですね~」
とロザリーが苺ジャムをトーストに塗ってデデに渡しながらいった。
デデは頷いてトーストをお皿に置いた後、テーブルにあった筆談ノートに書く。
「森は大好き。村にも家の近くに森があってよく1人で遊んでいたわ」
「へえ、そうなんですね。そういえばうちの貧民街のすぐ傍にも、綺麗な森があるんですよ。だけど見た目とは違ってその森には魔獣が棲んでいるんです」
( 魔獣──?)
デデはエメラルドの眼を見開いてちょっとだけ驚いた。
「ええ、昔から“森に入った者たちは魔獣に殺されて誰一人帰ってこなかった”と言い伝えられてるんです。だから森にいく道の境目に木で柵がおおわれて看板にも『危険、魔獣がいるから絶対に入るな!』と立てかけてあるんです。たまに森から巨大な魔獣が柵を越えて、貧民街にやってきて大騒ぎになります。なんとか平民自警団の男たち数人で退治してくれたけど。森の中は魔獣だらけで、万が一子供達が何も知らずに遊びに入ったらと思うとゾッとしますよ!」
ロザリーは真っ青な顔になってぶるっと身振るいした。
デデは、トーストをパクリと齧りながらロザリーの話をじっと聞いていた。
( ロザリーの家の近所って、あの同伴する大司祭の教会に行く途中の赤い道かしら? そういえば少し先に欝蒼とした森が見えたわ )
デデは、はっと閃いて齧りかけのトーストをお皿に置く。
そしてペンをとってノートに筆談をした。
「本当にその森は魔獣が沢山いて、怖くて誰も近寄らないの? そんな怖い森がこの王都にあるの?」
「ええ、そうですよ。王都の『魔獣の棲む森』と昔から恐れられています。祖母がいうには若い頃、街のならずものたちが肝試しだといって十数人で森に入っていったけど、誰も帰ってこなかったんだそうです。王都の騎士団たちも捜索すら怖がって入らなかったとか。一度、前国王の時代にその事が大問題になって『魔獣の棲む森』を焼き払おうとしたそうなんですけど、王都民たちがこぞって大反対したそうです」
「そ・れ・は・な・ぜ──?」
デデはゆっくりと首をかしげて『読話』でロザリーに聞いた。
簡単な会話なら唇の動きや表情でデデの言っている意味がロザリーには分かるのだ。
「はい、昔から言い伝えがあってあの森には冥界に住む『魔王の国』へ通じる入口があるそうです。その周りを魔獣たちが守護して人間たちに近づけさせまいとしているのだとか──。もしもあの森を焼き払いでもしたら魔王が怒り狂って、冥界から出現して王都の街を滅ぼしてしまう、と王都民たちは昔からの言い伝えを固く信じているのです」
( そうか……たしかにこの王国に魔法があるのなら魔王や魔獣がいてもおかしくはない。村では見た事がないけど、王都ならお伽噺で聴いた不思議な出来事もたくさんありそうだわ。そういえば上客の中に呪術師のおじいさんもいたっけ──)
デデは、あの呪術師を思い浮かべた。
いつも人柄の良さそうにデデににこにこしている老人だった。
比較的扱いやすい客でしつこくもないし、デデは嫌いではなかったのだ。
──その老人こそが、デデの両親を殺害しデデを娼婦に貶めた男なのに……。
◇ ◇ ◇
「デデ様は森がお好きですけど、あの森だけは駄目ですよ。入ったら二度と出てこれませんからね」
ロザリーはデデが食事もせずに考え事をしているので、少し不安になって思わず嫌な予感がした。
「だ・い・じょ・う・ぶ・よ」
とデデはニコッと笑って、再びトーストを齧る。
その後にベーコンエッグをフォークでモグモグと食べる。
だが、デデは食べながらもロザリーの不安通り、何やらとてつもないぶっそうな事を考えていた。
( 王都民から恐れられている森ならば、あたしがその森に行けば魔獣に出くわして死ねるかもしれない、館で死ねなくても、魔獣たちならアタシを殺してくれるかも!)
デデはまだ死を諦めていなかった。
何よりもこの館にこのままいたくはなかった。
男たちの言いなりにだけはなりたくなかった。
──それなら死んだほうが余程いい!
このままだと10月の誕生日が来れば、あたしは16歳になって“姫娼婦”のパトロン候補者4人の内の誰かのモノとなり確実に凌辱される。
デデは自分の身体の危険が近づくのをひしひしと感じていた。
村でアンナとして生きていた頃は、全く知らなかった“性行為”というもの。
娼婦館に来てから、周りの娼婦と客たちの個室での行いをデデは偶然何度か目にしてしまった。
それはデデからしてみたら余りにも“醜くておぞましい行為”そのものであった。
もう少しデデが野心家の娼婦だったら?
デデが自分の美貌を自覚していたら──?
それらを武器に高位貴族や王族の第3王子に色目を使って“姫娼婦”となり、最終的には『愛妾』になって御子でも成せば、自分の人生が安泰になる事だって考えたはずだ。
そういう気持ちの女であれば、この高級娼婦館は絶好の出世場所なのである。
だがデデは、これっぽっちも“野心”なんてさらさらもない“素朴な田舎娘”であった。
両親が死なずにあのまま村にいれば、親の勧めるままに嫁いだだろう。ロザリーのように平凡な男と結婚して、貧しくも平凡な家庭を持つものだとばかり思っていた。
だがこの娼館にいるかぎりデデが希望していた堅実な人生は、無惨にも断たれてしまった。
デデにとってこの娼婦館にいる限り、俗物のような客たちから逃れられることは出来ないと、がんじがらめに思えた。
何よりデデが嫌悪したのは上客たちの醜い本性だった。
外では偉人ぶって人々から“聖人君子”と言われている大司祭や騎士団長、大商会の会長、そして第3王子。
この4人全員が一皮むけば未成年の子供だろうと、お構いなしに婬猥な事を平気でする男たちだという非道な現実。
ゾッとするくらい人間の表裏をこの目で見てしまった15歳の無垢だった少女は、極度の男性不信に陥ってしまったのだ。
実際、上客の中にはまともにデデに手も触れない、本気でデデを崇拝している真面目な貴公子も中には沢山いたのだが、今のデデには彼等すらも4人と同じように汚らしく思えてしまう。
──娼婦館にくる男どもは全員同じ輩だわ!
誰一人信用なんかできない。奥さんや子供やフィアンセがいるくせに、あたしの体を玩具にして享楽にふけるだけの堕落な男たち。
──ロザリーもいつかは結婚してここからいなくなる。
そしたらまた、あたしは1人ぼっちになってしまう。自死する事すらできやしない呪われた運命。
──ならば、とりあえず“魔獣の棲む森”へ逃げてしまおう!
さすれば少なくとも彼等は森までは追ってはこない。
この『地獄』からは抜け出せる。
デデにとって男たちに凌辱されるよりは、魔獣に食われた方がよっぽどましだったのだ。
デデは真剣に「魔獣の棲む森」への逃亡を考え始めていた。