第一叫
『なっ、なぁー!?』
時にして天正五年(1577年)、素っ頓狂な叫び声を上げた主は、目の前の主人に平伏し、顔を上げた。聞かされた言葉がまるで信じられない内容であったからだ
『おはんが驚くのも無理はなか。生半な事ではないのは重々承知の上で・・・おはん、左馬介に下命でなく頼みたいのだ』
そう言われて、左馬介。頴娃左馬介久虎は居住まいを正した。兄の死を期に、家督を継いで足掛け7年。目の前の主人、島津兵庫頭忠平(のちの義弘)には2倍程の歳の差があるが、世話になっていた
元々、家督を継ぐ予定の無かった久虎の境遇は漸く衆中を纏めるに至った。と、言えるぐらいでしかない。その中で忠平は後ろ盾としてあれこれ差配してくれているのだから、世話どころではないとすら言えるだろう
『兵庫頭様から関白様に帯同して在京しろと言われるとは、正直、魂消申した』
関白。織田右大将信長が毛利戦にあたって昵懇の仲である近衛前久をこの九州の地へ派遣し、各勢力の紛争を調停しようと働きかけた訳だが、日向は伊東との間の戦が終盤にあたり、棟梁たる忠平の兄、修理大夫義久は歓待してもてなし、相良との和睦にも応じる形で話が進んでいるものの。前線にいる将兵の頭としての忠平自身は鹿児島での直接対峙を避けており、こんな動きを採るというのは久虎にとって慮外の事でもあった
『おいも今回の御下向で認識を改めたに過ぎん。上方の情報はいる。そいはこいからずっとじゃ。最初は伊勢の筋を頼ろうかとも思っちょったが。やめじゃ。あれはあれで今の価値がある』
伊勢、室町幕府の奉公衆に居る伊勢貞知の事だ。現在も足利義昭と共に鞆の幕府として仕えている。ここから毛利勢の情報も入手していきたい。そう思ったのだ。偵察・・・一時的な情報入手だけなら、詣の体で旅行する事でも足りようが、恒常的な入手となるとやはり屋敷が欲しい。そして、それがあれば上方へのそういった旅行もしやすくなる。毛利攻めは近衛公も求めての事だ、義昭の元からわざわざ引き抜いてそちらに付けるより、新しく人員を入れる方がその本気度を示せる。そう思ったのだ
『無論ただとは言わぬ。そなたには在京の費用分としては山川の運上の半分をこちらから儂が責任をもって送る』
『山川、指宿をですか!』
頴娃と隣接する指宿、その地は温泉もそうであるが天然の良港である山川の湊があり、坊津と並ぶ薩摩にとっての貿易の要の土地である。そこを頴娃にくれようと言うのだ。そして上方での生活には銭が要る。それを得るには一番の場所であり、その支配を忠平が保証し送ってくれるというのは頴娃にとって福音に近い。勿論、領主たる自分が居ないのだから目を光らせる必要があるが、それを宗家の人間である忠平自身が肩代わりしてくれると言うのだからこれ以上の保証は無い。まさに破格である
『不肖、この左馬介、励まさせて頂きます』
『やってくれるか』
久虎の返事に、忠平は安堵したように相好を崩した。実際、事が事だ、先方にもあらかた話を通しての話を、下命でなく頼みとして言ってくれる方だ。それだけ甘いとすら言えるのかもしれないが、久虎にとって美点であり心地良かった
『誓詞も追って用意する。関白様は既に帰京すべく領を発っておりもそ、急ぎ出立してくれ。それと』
『御意のままに・・・それと?』
忠平は懐中から皮袋を取り出し、久虎に手渡した
『いざ、と言う時に使えい。儂からの餞別じゃ。中の物と手紙はおはんにとっての一助になろうぞ』
切り札、とも言うべきそれは久虎の手の上にずしりとその責務の重さを伝えるのであった
こうして、久虎とその供回りが前久を追って京都に辿り着いたのは、天正5年3月の初めのことであった
上方では、織田家による雑賀攻めの最中であり、京洛は未だ戦乱による頽廃に喘ぎながらも活気を取り戻しつつあった。戦乱は破壊を呼ぶが、動員に伴う物流の移動を伴う為だ
『ホホ、兵庫頭殿から話は受けておる。そなたが左馬介か。実に励んで欲しいところ・・・では、あるのだが』
これからの主人である近衛前久は困ったような顔をした。いや、戸惑いの顔をしているのは久虎とその供廻りもそうだった。前久を追って京洛に辿り着き、その居所はと聞くと離れも離れ、北洛は比叡山の裏とも言える岩倉長谷の聖護院という寺であったからだ。前久の背後にも不動明王が鎮座している
『残念な事に、今、我が邸宅は無くてな。こうして弟の所で仮住まいよ。ホホ』
弟こと、聖護院の門跡である道澄は住まいとして寺を貸すだけでなく、前久の越後は長尾景虎への下向にも付き添っており、京洛から追放されたり流浪を続ける兄に苦労させられている人物とも言える。が、仮にも現役の関白がこれとは。そういわれるとこの寺もそんなに補修が行き届いているとは言えな・・・いや、ここは言葉を慎もう
『して、本題じゃが・・・この有様で侍所なぞ無い状況じゃ、住むところまでは手配できなんだ』
『となりますと我らは・・・』
前久は本当に申し訳なさそうな顔をした。つまり、随行させて来た供廻り等含めて20名あまりは今日からこれまで来たこともない土地で根無し草という事だ
『本当に相済まぬ』
『な、なんとぉー!?』
こうして、主命を受け青侍として左馬介が歩む道は最初から波乱を含みつつ始まるのであった
以前書いていたものをもっとマッシュアップして、経済視点を追加していったものになります
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