第1章 たそがれの市場(1)
空に満ちた月の光が、昼間のように辺りを明るく照らしだす。
王宮の誰もが寝静まった真夜中、寝台から起き上がったメリアは琥珀色の瞳をきらきらと輝かせながら、隣で丸まって眠っていた黒猫に向かって声をかけた。
「シア、そろそろ起きてちょうだい」
眠そうに眼を開けた黒猫は、呟く。
「おや、もうそんな時間かい?」
黒猫は人の言葉を口にした。
けれど、隣にいたメリアは少しも驚く様子を見せなかった。
黒猫がぱっちりと大きく開けた目は暗闇のなかで金色に輝いている。
「今日もお兄様の脱走の尻拭いで大変だったのよ! 私だってたまには息抜きがしたいの。あなたの好きな肉団子をあげたら、たそがれの市場に連れてってくれるって約束してたでしょ? 忘れたとは言わせないわよ! あなたに今日の夕食のほとんどを食べられてしまったから、私はもうお腹がぺこぺこなんだから!」
「おやまあ、そんなこともあったかねえ」
まだ眠たげな声で、黒猫が答えた。
「シア!」
ついに痺れをきらしたメリアが怒ったような声を上げると、黒猫はしぶしぶといった様子で起き上がる。
そして一つ大きく欠伸をし、のびをした。
前足で顔をなで、全身の毛をなめて丹念に身づくろいをしはじめた。
「早く、でかけましょうよ!」
「うるさいね。わかったってば」
メリアにせかされた黒猫は、寝台からひょいと飛び降りる。
次の瞬間、そこには黒猫の姿はなく、メリアと同じ年頃の一人の少女が立っていた。
黒髪のショートカットに、猫のようにつり目がちの瞳。
丈の短めの黄色いチュニックを身にまとっていた。
頭の上には尖った耳があり、背中のあたりで泳ぐ尻尾は先ほどの黒猫のものとよく似ていた。
メリアは、その少女の手につかまった。
彼女の方は、とうに出かける身じたくは終えていた。
王女として人前に立つときのごてごてと飾り立てた衣装や髪型ではなく、髪は下ろしたまま、服はごく質素で動きやすい麻の服にマントをはおっただけの姿だった。
「じゃあ、そろそろでかけるよ」
シアが差し出した手に、メリアはつかまった。すると、二人は月の映し出す影の中に吸い込まれていった。
上下も、右も左もわからない闇の中をひたすら歩いてゆくと、いつの間にか細い小道に出る。
そこをたどってゆくと、あの世とこの世の狭間にあるという、たそがれの市場に着くのだった。
□□□
その市場は、人外のものたちが集う市場だった。
メリアは、その市場にならぶ見なれぬ品物の数々に眼を奪われた。
何度足を運んでも、見飽きるということはない。
なぜならば、訪れるたびに、市場に並ぶ品々も、集う人々もがらりと顔ぶれを変えているからだ。
粗末な木組の露店には、見たこともない程美しい真珠を連ねた服や、宝石を蜘蛛の巣のように散らせたアクセサリー。
ニワトリや鳩、ヤギといった地上の動物もいれば、火の毛皮を持つネズミ、六本脚の犬や、角のある猫や、二つ頭のある鳩など、なんとも形容しがたい形の生き物も檻に入れられて売られていた。
メリアはシアに用事があるからこのたそがれの市場でしばらくの間待つように言われた。
そのために彼女は様々な屋台を見て回ることにした。
そこには、見たこともないような内側から光を放つ奇妙な果物なども積み上げられている。
もの珍しい光景にメリアが目を奪われていると、突然背後から肩を叩かれた。
「シア?」
迎えにきた友人かと思って振り向くと、そこにいたのは全くの別人だった。
「あの、どちら様でしょう?」
相手はフードを深くかぶっており、わずかにのぞく顎の肌は土色、手は干からびているのではないかと思うほどに痩せ衰えていた。
掲げた手には、鳩の卵ほどもある丸い大きな緑色の宝石のついた美しい首飾りを持っている。
その見知らぬ人物は、彼女に何かを問うように、話しかけてくる。
けれど、その言葉は、聞いたことのない言葉だったので、メリアには相手が何を言おうとしているのかまったくわからなかった。
「……ええと。なんでしょうか?」
メリアが途方に暮れていると、ふいに後ろから腕を引かれた。
それは、今度こそ本物の友人だった。
彼女は、にっこりと笑いながら何事か呟いた。すると、相手は残念そうに、その場を去っていた。
二人きりになったあと、メリアは友人に尋ねた。
「さっき、一体なんて言ったの?」
「あんた、今危なかったんだよ」
シアは、少し怒ったような口調で言った。
「どうして?」
シアは興奮しているためにか、眼をらんらんと輝かせ、耳をピンと立てながら言った。
「今、あの首飾りと交換に魂を譲ってくれって言われてたの。相手は死人だよ、取引に応じたら、たちまち干からびてしわくちゃになって死んでたんだよ。あー、もう怖ろしいったらありゃしない!」
「そうなの?」
知らぬこととはいえ、一瞬でもあの美しい首飾りに見とれてしまったことを思い出し、メリアはぞっとした。
そして、彼女は友人にしっかりとしがみつくと礼を述べた。
「ありがとう、助けてくれて」
シアの正体は冥府に住む魔物であったが、乳兄弟のリディマとともに、メリアが本心をさらけ出せる数少ない友人の一人だった。
「別にいいよ。知らなかったんなら、仕方ないさ。とにかく、無事でよかったよ。んもう、暑いから、離れておくれってば!」
いつものように、気取らぬ物言いで相手はそう言った。
「いやよ。怖いもの」
そんな友人をからかうように、メリアはわざとしっかりと腕にしがみついた。
「あんたねえ……」
シアはあきれたように溜息をつく。そして、メリアを連れて市場をめぐり歩いた。
「――いいかい。おのぼりさんみたいにあたりをきょろきょろしちゃだめだよ。あんたが人間だってわかれば、カモを狙ってとんでもないのが寄ってくるからね。
下手したら、人間界の誰からも忘れ去られて、帰る場所がなくなってたなんてこともありうるんだからね!」
「それってどういうこと?」
メリアが尋ねるとシアが答えた。
「人間は、まわりの人間と関わりあって生きてるだろ? それが楔になって人間界での存在が確定されてるんだよ。だからこそ、魔物たちにとっては、人間の記憶は宝石よりも貴重な宝物にもなりうるんだ。
逆にいえば、人間はその楔が失われてしまえば、まわりの誰からも忘れられちまうのさ。そうしたら、生きてはいても、人間界のどこにも居場所がなくなっちまう。」
「まあ、怖い!」
「ちょっと、本気で怖がってるのかい?」
「もちろん本気で怖がってるわよ。でもシアがいてくれれれば、そんな怖い目に遭うこともないでしょ?」
そう言ってメリアがにっこり笑いかけるとシアは悪い気がしなかったようで、メリアに向かって言った。
「いいかい? あたしにしっかりしがみついときな」
姉ご肌のシアは、この世界のことを何も知らないメリアを、まるで小さな子供のように面倒を見てくれようとする。
そのことが、メリアにはくすぐったく、新鮮でもあった。