令嬢は鼓舞する
「ただいま戻りました。」
入室を許可された国王の執務室で、クリスティーナはカーテシーをしてからそう告げた。
隣国で無事婚約の挨拶を終えた後、クリスティーナは久しぶりに会ったはとこたちにもみくちゃにされた。
未だ彼らの中では幼い少女のままのようで、可愛がってくれるその姿に嬉しいような、悲しいような、くすぐったいような…なんとも複雑な気持ちでふた月ほど過ごした。
話し合いの結果、婚約式は行わず、八ヶ月後の穏やかな陽気に草花が芽吹く頃、婚姻式をリンドバークで行うこととなった。
そうなると存外時間がないもので、この滞在中に出来る限りの事をしておくことになった。特に時間のかかるドレスなどはリンドバークの流儀に則ったものを作る事にし、テオドールの希望を取り入れつつデザインを決め、サイズ測定までをすませ、一旦自国へ戻る事となった。
テオドールはまた一緒に行くと言ったため、共に馬車に乗り込み、また数日かけてあちこちに立ち寄りながら王都へ舞い戻った。
王都へ戻った翌日には、それを敏感に察知した貴族家から、茶会の招待状が続々と届き始めた。彼らの目的が明白なそれに付き合う気が起きなかったクリスティーナは、本当に親しい友人のものにだけ出席の連絡をし、それ以外は祖母と母に対応を任せる事にした。
帰国の翌々日には父が登城し、さらにその二日後にはクリスティーナ自身へも翌日の登城要請が届いた。
クリスティーナは召喚に応じる形で翌日に国王へ謁見する事になった。もちろん、登城前には例の彼らの進捗具合もハンナに確認してある。
登城すると父と共に国王の執務室に通された。
久しぶりに見る国王は肌の色艶が失せ、なんだか窶れたなといった印象だった。その隣に堆く積まれた書類の束を見れば、宰相不在の間の苦労は計り知れないものだったのだろうと察しがついた。
「隣国への手土産をご用意頂き、御礼申し上げます。あちらの国では非常に喜ばれ、返礼としてこちらの品をお預かり致しました。」
後ろに控えていた王宮の侍従にちらりと視線を向ければ、登城してすぐに彼らに預けていた検品済みの荷物が陛下に差し出される。
「ああ。ありがとう。後で確認させて貰おう。
楽にしてくれていい。ジョシュアから色々と聞いている。
改めて、クリスティーナ嬢、婚約おめでとう。君の幸せを心から願う。」
「ありがとう存じます。
父からもご報告があったかと存じますが、翌年の芽吹きの頃、婚姻を結ばせていただく予定でございます。
陛下には父の休暇を含め、様々なお取り計らいを頂き、有り難く存じます。」
「いや、構わぬよ。ジョシュアの不在は痛かったが…はは…。
んん。して…。例の件は…。」
「大体想定の範囲内でございます。こちらが報告書になります。」
「…ふむ。ではこれを元に最終的な処罰を確定させよう。後日、場を用意する。そこで最終的な決断を下そう。」
「畏まりました。ご連絡お待ちしております。
そうですわ。隣国で陛下と正妃様、側妃様へのお土産も購入致しましたの。侍従にお預け致しましたのでお使い頂ければ嬉しいですわ。」
「おお!ありがとう!
いやぁ…あの事件に加えて、ミシェル夫人のあれこれで正妃と側妃の視線が冷たくてね…。
クリスティーナ嬢の話題を出しやすくて助かる。会いたがっていたから、そのうち会ってやってくれ。」
「はい、ありがとうございます。」
そうして一通りの確認と世間話が済み、まだ用事があると言う父を残して国王の部屋から辞去した。
父の用件が終わるまで庭園でも見ようかと考えていたら、あの夜会の日にたどり着いた庭園が視界に入る。
前をいく侍女に少し立ち寄りたい旨を伝えれば快く案内してくれた。
ここにはもう、そうそう訪れる事はできなくなるのだと思えばなんだか感慨深い。王宮の庭園の中でも、ここが一番好きだった。色はそう多くはないが、穏やかな時間がそこにはある。深呼吸するようにして目を瞑れば、後ろから芝を踏み締める音がする。
「クリスティーナ嬢…帰っていたのか。」
「ギルバート殿下、ご機嫌麗しゅう。」
「…そうだな。」
「立太子されたとの事、また、ソフィア様とのご婚約おめでとうございます。
お二人が導けばきっと豊かな良き国となりましょう。」
「ソフィアは確かに私を支えてくれるよ。でも…」
「殿下、恐れながら申し上げます。それ以上続けられることはお勧めできません。」
「…それでもっ!」
「殿下。殿下と共に立つことができ、また、夫婦として幸せにしあえるのはソフィア様だけですわ。これは側妃様も同じお考えでございましょう?」
「確かに母上もそう仰っていた。
でも気持ちはそう簡単なものでもないだろう?」
「さぁ、どうでございましょう。
ただ、一つ言えることは、女は一度決めれば心の切り替えは早いものですわ。いつまでも後ろを見てばかりいれば、自分にとって真に価値あるものは気づいた時には手に入らないものになりましょう。
殿下。貴方様に必要なものは、共に前を向き、共に生き、共に考え、支え合える方ですわ。本当は貴方も、自分に必要なものが何か、分かっていらっしゃるのでしょう?
それに自由になった鳥は窮屈な鳥籠にはもう戻りたくないと考えるものです。大空を自由に舞い踊りたいと願っていると、そう思いませんこと?」
「…相変わらずだなあ…。」
「貴方を支えてくださる方を大切になさって。
ほら、貴方が無茶をしでかさないか、あちらで心配なさっていらっしゃるわ。安心させてあげて下さいましな。」
「ああ…本当だ。
ティナ、君にとって僕は今も昔も、ずっと弟だったのだろう?そして兄さんに対しても…。
彼女にとっても、もしかしたら僕は手の掛かる弟みたいなものなのかも知れないな…。」
口調と呼び名が変わった。どうやら幼馴染としての気安さで返して欲しいようだ。これからお互いにそれぞれのパートナーとの婚儀が控えている。その上、自分の身は国外にある。彼と幼馴染として向き合えるのはきっとこれが最後だろう。そう思えば相手に合わせるのも良いかと思う。
「今はそうかもしれないわね。
でも例え今はそうだとしても、二人なら思い合える夫婦になれるわ。相手を理解することも、手のかかる弟から脱皮する好機も逃してはいけないわ。」
ふふっと楽しそうに笑うクリスティーナの美しく輝く笑顔は、以前には見られなかったものだ。愛し、愛されているのだという輝きがそこにあった。
確実にあの隣国の王子のお陰なんだろうなと、悔しいと言うよりも、自然と受け入れられているのにギルバートは内心驚く。クリスティーナの不在の間、さり気なく側に居てくれたソフィアの気遣いに今気づいた。
「結局、僕は君にそんな笑顔をさせてあげられなかったな。きっとそれが答えだと本当は分かっていたんだ。
クリスティーナ嬢、君も幸せになってくれ。遠い空の下、それをずっと祈っているよ。」
その言葉ににこりと微笑んだ後、頭を垂れ、ギルバートが立ち去るのを待つ。姿が見えなくなったことを空気で感じ取り、頭を上げてクリスティーナもまたこの庭園を後にした。
ソフィアは自分のもとに来たギルバートが思っていたよりもすっきりとした顔をしているのを見て、「もう大丈夫そうだな」と思い、もう一度引導を渡してくれたのであろうクリスティーナに感謝する。後日、感謝と婚約の祝いも込めて茶会を開こうと心に決める。
「ご機嫌よう、殿下。お茶でも致しませんこと?」
何も聞かずに茶に誘えば、きょとんとした顔をする。
常に背伸びした顔をするこの男にしては可愛らしい顔をするものだと、こっそり心のうちで思っていれば手を差し出された。そこにそっと手を重ねれば、珍しくぎゅっと握り込まれた。「おや?」と怪訝に思って顔を見れば、何やら企んでいるような顔をしている。
不思議に思いながらも、互いに気に入っている庭園までエスコートされれば、自然といつもの距離に落ち着いた。
ーーとりあえずのんびりしましょ。
そんな風に思っていたソフィアが、この手のかかる婚約者に焦らせられるのはそう遠くない日かもしれない。