1本目:よくあるはなし。
眩しい光と機械音。認識したのはどちらが先だっただろうか。
閉じた瞼からでも朝日の眩しさを感じられる。耳元で喧しく鳴るスマホに指を走らせアラームを止めた。目を閉じたままでもミスなくこなすその動作は何年も続けたもの。朝だからと起こしてくれる人など久しく居ない。
緩慢な動作で上体を起こし欠伸を噛み締めながらようやっと目を開けると何時も通りの殺風景な部屋がぼんやりと見える。白と黒で揃えられた室内の壁に、青いイルカと銀の星が描かれた時計だけ浮いていた。
枕元の眼鏡を装着するとシャツに着替えながらパンを焼き、コーヒーを啜りながらテレビを点ける。
『本日、最高気温は32度まで上昇するでしょう』
今日も、暑いらしい。
少し伸びた黒髪が鬱陶しい。
目にかかる前髪を雑に斜めに流し、最寄り駅までの道を歩く。
黒髪黒目眼鏡、175cmでやや細身、ついでに猫背が俺──久城 燈里である。漢字のせいで名前の読みや性別を間違えられる事があるが見た目も自分の捉え方も男である。職業は社畜。よろしくな!
等と誰に言うでもなく脳内でひとしきりやった後、欠伸を噛み殺しながら歩く俺の耳には、何時もの如く街ゆく人の世間話が聞こえていた。
「いやあ、そこの可愛い姫さんがよ〜」
「次はもっと良い方法でトリップしたいの!トラックはほんと痛い」
「わたしの重ねた経験も役に立ったのよ……ほっほっほっ」
──あいつもこいつも隣の高校生も斜向かいの婆さんも異世界トリップ―――何とまあ手軽に異世界とやらに行ける時代になったもんだ。
何時からだろう、『異世界トリップ』『異世界転移』というものが一般的になったのは。
切っ掛けは小説とかだった気がするんだが……いつの間にか実際に起こる現象になっていた。方法としてはトラックや電車と接触、床下の倒壊、眠りにつく……等々。終いには転移目当てに事故を起こしたり自殺したりする奴も出た程で、一時期は社会現象とまでなってしまっていた。
結局、望もうと望まざろうと、転移出来る奴は転移出来るし出来ない奴は出来ない、下手すりゃ無駄死にするだけだとなり、能動的に転移の為に無茶をする奴は減った。
不思議なのは、転移した奴らの中の何割かは現代に戻ってくる事。どうも偉業やら任務やらをやり遂げると戻ってくるらしい。経過時間の齟齬とか気になるが詳細は知らん。
俺自身は異世界経験が無い。別に行きたいとも思っていない。
べ、別に羨ましいとか思っていないし、今後転移した時の為に『転移ノート』とか作って対処法を何十通りか考えているなんてことも勿論無い。
マジで、無い。無いったら無い。……数通り、しか。
「あっつー……」
小さく呟きながら、まばらに人が歩く坂道を登る。一般的な朝の通勤時間にも関わらず、夏の陽はジリジリと首筋を灼いていく。あつい。こめかみを雫が伝い落ちるのがわかる。眼鏡が汗でずり落ちてくるのが鬱陶しい。
既にすっげー喉渇いた。なんか飲み物が欲しいな。
近くの自販機に近寄ると、必要な硬貨を入れて600mlペットボトルに入った水のボタンを押す。
ガコン
しゃがみ込み、取り出し口に手をつっ込んだ。
「…………ん?」
何故か何も手に触れない。
ペットボトルが、だけではない。狭い空間の筈なのに、言葉通り何も触れていないのだ。
どういう事か。これはまさか。所謂、あれ、なのでは。
いやいやいやいやこんな、何の脈絡も無くそんな転移だなんて、否転移はいつも突然にとか皆言ってたしでも。
大きくなる鼓動を耳の奥に感じながら、逸る気持ちを押さえ付け幾ばくかの期待と共にゆっくりと、取り出し口を、覗く。
いや、正確には、覗こうとした、となるだろうか。
覗こうと屈んだ時に突然足裏の感覚が無くなったのだ。足裏の地面の感触が。
「は?………ああぁぁあぁあ!?!?」
傍から見ていたら、地面にぽっかりと黒い穴が空いたような図になっているだろうか。地面が無くなったらどうなるか。そりゃ当然重力に引っ張られて地球の中心へと、………穴の底へと、落ちる訳で。
冷静に思えていたのはそこまでだし、落ちる身体はどうにも制御出来ないがそれでも、そんな状態でも、俺はこれだけは叫んでおきたかった。
「フェイントはズルいとおもいます!!!!!!!」
あとはお決まり、意識のブラックアウトである。