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悪夢と一緒に生きながら

作者: 大鏡路地

学生時代に部誌に載せ、その後個人サイトで公開していたものを加筆修正など一切せずに(ここ重要)ルビだけ振り直したものです。

「……谷口、起きろ」

 不意にそんな声が聞こえてきて、私は目を覚ました。なんだか悲しい夢を見てたような気がする。ぼやけてた視界が回復してくると、夕日に照らされてオレンジ色に染まった教室と、私の席の横に立つ誰かの顔がはっきりと見えるようになる。

「あれ、委員長? おはよー」

「おはよー、じゃないだろ。もう下校時刻だ。夕方だ。お前が教室から出てくれんと鍵を閉められん」

 無愛想に我が葉吹高等学校一年四組出席番号一番、今まで交わした会話から推測した成績は上の下ぐらいのクラス委員長、足立(あだち)(とおる)くんは言うと、鍵の輪っかに指を入れて鍵をぶんぶんと振り回す。危ないなぁ。

「ったく、朝は俺よりも早く教室に来て鍵空けて入ってるかと思えば、机に突っ伏したまま放課後になるまで絶対に起きないなんて、どんな生活送ってるんだ?」

 呆れたように足立くんが言う。私は苦笑した。

「あはは……まあ、女の子には色々あるんだよ」

 そう言い、私は机の横にかけたままの中身が一切入ってないカバンを取った。

「ごめんなさい、ギリギリまで起きるの待っててくれて。鍵、私が閉めるから、先に帰っちゃってもいいよ」

「阿呆、ちゃんと教室の鍵を閉めたって報告は委員長が直接せんといかんのを知ってるだろうが」

「そうでした」

 ぺこりと頭を下げる。

「また担任か学年主任か生徒指導か体育のジジイに見つかると面倒だぞ。さっさと帰れ」

 ぶっきらぼうに足立くんが言う。委員長のくせに先生のこと『ジジイ』呼ばわりしちゃって、見つかったらどうなるんだろうか? あまりよくない結果が待ってる気がするんだけど。

 ま、今はその先生も見当たらないし。そんなことを気にしてもしょうがないか。

「じゃ、お言葉に甘えてさっさと帰らせてもらうね」

 私は教室と足立くんに背を向けて、廊下に出ようとした。

「あ――谷口」

「うん? 何かな?」

 足立くんが私を呼び止めた。

「いや……最近ひったくりとかストーカーとか通り魔とか、物騒な事件多いらしいからな。気をつけて帰れよ」

「うん、分かってるよ。じゃね」

 別れを告げると、私はなんだか浮かれた気分でたたたーっと廊下を駆けて風圧で腰まである長い髪をなびかせながら、オレンジ色の光を浴びつつ帰宅の途についた。


――とは言っても、まっすぐ家に帰る気はない。

 そもそも今は夏休みまでのカウントダウンが始まるぐらいの時期、つまり夏本番微妙に一歩手前。激しく傾いた太陽は強烈な西日で街を照らしつつも、まだしつこく西の空に浮かんで粘ってる。オーケー、遊ばない手はないね、うん。鼻歌なんて歌いながら、私は繁華街が集中する駅の方へ機嫌よく歩いてく。

 私が住む葉吹市は、小さく細い運河が四方八方縦横無尽に流れる上に海にも近く、おまけに緑地整備も進んでて、真昼はともかくこの時間帯は過ごしやすい気温だ。よし、ここはいつものパターンでいきましょう――いつもと言っても二ヶ月ぶりだけど。

 まず駅前のゲームセンターに寄って、クレーンゲームやレーシングゲームで遊ぶ。それからたった一人でカラオケに入り好きな曲を歌って、一時間ぐらいでそれをやめる。駅ビルの中の大型書店を冷やかしてから喫茶店に入り、ブラックコーヒーを注文してなんとなく渋くキメたつもりになって、それから、誰もいない真っ暗な1DKの二階建てアパート二階東端二〇一号室な我が家に帰り、私服に着替えてベッドに仰向けに倒れ込む。

 それが、私こと谷口香奈(かな)の二ヶ月に一回見られる行動だ。実はそんなにお金なくて、一ヶ月分と決めた予算の中から切り詰めた結果余ったほんの少しが私のお小遣い。普段の私は何もせずに冷やかすだけで何も遊んでいかないし買っていかないという、お店にとって迷惑極まりない存在でしかない。

 まあそれは置いといて。自分の行動について我ながら意味不明だなー、とか思うことは多々あるけれど、特に後悔なんかした覚えはないし反省もない。『己の欲望に忠実に。自分がそのとき正しいと思ったなら胸を張って生きよう』が座右の銘だ。

「あ~あ」

 思わずため息が出た。我ながら色気のない生活を送っているものだと嘆息してしまう。

 私はよく、『学校に来て朝から放課後までずっと眠り続けて授業料を食い潰すぐらいなら、学校辞めたら?』と、主にろくに付き合いもなく仲も悪い親戚連中や、放課後に街中で出会うクラスメート――私の方は毎夕私を起こしてくれる足立くん以外、誰一人として名前と顔を覚えてないんだけど――に言われる。たまに駅ビルの喫茶店で見かける上級生の人まで、こっちをチラチラ見ながら聞こえよがしに噂してくれちゃったりするんだから、多分、相当私は有名になってるんだろう。

 もっとも、イギリス系日本人だった父親譲りの金髪に、イタリア系の血が薄く入ってる母親譲りの翡翠色の大きな瞳なんていう外見なんだから、その時点で目立たないわけがないか。うん、自分で言うのもなんだけど私はかなりかわいい方になると思う。自分自身の行動で全てを台無しにしてるけどね。ついでに自覚があるだけになお質が悪いってのも分かってたりする。

「別に、分かってもらうつもりもないんだけどなぁ……」

 自分自身の行動が招いている結果とはいえ、私のことを負の感情を込めて言ってくれるのは、気分のいいものじゃない。

 とは言ったものの、明確な解決策と言えば、自分の状態を無視して二十四時間三百六十五日、延々と目を開けて全身フル稼働でいるか、退学して家に引きこもっちゃうか、それとも自分の状態を周囲に言いふらして放置してもらえるようにするか。この三つぐらいしか思い浮かばない。しかも三つ目は成功確率が低いし。二つ目は性に合わないし。一つ目なんてとても体がもたないし……。

 ――って、あ。

 ふと見れば、もう壁掛け時計の針が十二時を指してた。いっけない、楽しみにしてた音楽番組の時間じゃない。私は起き上がると、慌ててテレビを点ける。これを見た後は撮りためた朝の連続テレビ小説とか、海を隔てたお隣の国のなんだか展開の読めるドラマとかを見て、気が向いたらお料理したり、お風呂に入ったり。そうして朝の五時までダラダラして過ごしてから、他のどんな生徒よりも早く登校して誰もいない朝の教室の鍵を開けて、自分の席に突っ伏して眠りに着くのだ。


 朝五時半。そろそろ眠たくなってきた私は、無駄に早い朝食後の優雅なティータイムこと、読み飽きた雑誌を意味もなく眺めるという不毛極まりない行為をやめて、制服に着替えて家を出る。まだ街は微妙に寝てる時間帯。当然静まり返ってる他の部屋の住人に迷惑がられないよう、私はそっとドアを閉めた。

 葉吹市は東西と南を海、北西を山に囲まれた地形に存在する、地方都市だ。江戸時代は城下町で、市内に大量に存在する運河網は、元々は波打ってあちこちで小規模な盆地みたくなって水はけの悪い葉吹の地を、水害から守るためにちまちま造られたものだそうだ。今では観光資源という別の任務にすり替わっちゃってるけど。『水の街、東洋の小ベネチア』なんて誰が考えたんだろう? そもそもベネチアなんかに行ったことのある観光客が何人いるやら。

 その市街を、我が家から中心部にドンと構える駅を通り抜けて、葉吹川の川沿いに東に進むと、学校が見えてきた。何の特色もない公立高等学校、葉吹高校。成績的には中級に位置する、ありふれた珍しくもない学校。

 ちなみに自慢じゃないけど、私の成績は一年一学期の中間テストが終わった現時点で、既に学年最下位をひた走ってたり。小耳に挟んだところによると、私の成績は零点ばっかりで、もしかすると成績最下位の学校でも最下位を取れるんじゃないかというぐらい。はい、笑い事じゃないですね。ま、気にしたところでもうどうにもならないし。

「あ。校門開いてる」

 朝早くから練習してる部があるのか、正門はもう開いてた。ラッキー。開いてなかったらヘアピンでピッキングして内側の南京錠を開けちゃうか、塀をよじ登って入っちゃうところだったよ。どうせ人いないし学校指定の体操服というのが正式名称の短パン履いてるから見られても平気だし。

 ――若干、私って女と青春捨ててるような気がした。微妙に自己嫌悪。これは強制的に忘れることにして、筋骨隆々筋肉ダルマの空手部員が陸上部と仲良くランニングしてる運動場の端を抜け、さっさと校舎に入る。

 下駄箱で上履きに履き替えて、まだほとんど誰も出勤してない職員室から教室の鍵を取る。階段で三階まで登って左へ曲がって自分の教室を開けた。誰もいないガランとした教室、設置にあたって散々税金の無駄遣いとか言われたクーラーはまだ動いてない。

 今日も今日とて一番乗り、教室ど真ん中最後尾の自分の机に座って、私は机に突っ伏した。


「――おーい、起きろー」

 不意に、私は目を開けた。

「うおっ」

 驚いたような声。意外以上に近くで聞こえたような気がする。

「……んーっ……」

 体を起こして背伸び。朝六時過ぎぐらいから朝礼授業掃除を完っ璧に無視して寝て、今は午後五時ちょうどか。ちょっと寝すぎかも。教卓の背後、黒板の上の時計を見ながらそんなことを思う。首を回すとポキポキと小気味いい音がした。ついでに横を見ると足立くんがいる。

「あ、委員長。おはよ。ありがと、また起こされちゃったね」

 私の記憶が正しければ、足立くんが委員長となって私を毎夕起こしてくれるようになって、今回で五十一回目だ。うん、無駄なことはよく覚えてるなぁ。

「おはよ、じゃないだろ。もう夕方だ。ったく、毎度毎度のことだが、相変わらずよく寝てるな」

「うん、寝る子は育つからね」

「ちなみに人間が一番よく眠れるのは午後十時から午前二時の間らしいぞ。体力が一番回復しやすいのもその時間帯だそうだ」

 へぇ、足立くんは物知りだねぇ。

「いや、俺が言いたいのはだな、普通の人間の目が覚めてくる時間帯にお前は眠り始めて、普通の人間の体が睡眠を欲するようになる時間帯に向かってお前の目が覚めてくる、その異常さなんだが」

「んー、そんなに気にするほどのことでもないと思うけどなー」

 私がそう言うと、足立くんは額を押さえていた。あれ、頭痛?

「委員長、頭痛には半分が厳しさでできてるってのが売り文句の頭痛薬がオススメだよ?」

「正直頭痛薬よりバカと天然につける薬がほしい」

「……それ、私のことかな?」

 ちょっとむっとしながら言うと、足立くんに盛大にため息をつかれた。

「お前以外に誰がいるんだよ」

「あ、今のヒドイ! 私はバカじゃないよっ! 微妙に天然入ってるって自覚は多少あるけどっ!」

 とりあえず適当にグーでぽかぽかと殴る。足立くんは笑いながら自分のカバンでそれを防ぐ。何かそのやり取りというか掛け合いというか。それが楽しくて、思わず笑顔が浮かんだ。

「こらーっ、足立くん、カバンはそんなことに使っちゃいけないんだぞ?」

「お前が言うか」

「私はいいのっ! ダメなのは委員長だけっ!」

 最後に一発カバンにぽかんとやって、私は殴るのをやめた。

「ふぅ。もう私たちで最後?」

「あ、ああ。もうみんな帰ったよ。女子の連中がちょっと怒ってたぞ、お前が掃除しないで寝てばっかだって」

「起こしてくれればいいのに。掃除ぐらい私だってするよー?」

 隣の席の机に腰かけた足立くんにいうと、足立くんは、

「だってお前、教師に出席簿でバコバコ叩かれても横で爆竹が弾けても柔道部同士のケンカが始まっても寝てるし」

「……ごめんなさい、全然記憶にございません」

「だろうな。何やっても起きなかったし。顔に落書きされても気づかずに帰りそうだよな」

 うう。本当に返す言葉もない。

「ま、そんなことよりさっさと出てくれ。早く帰りたい」

「おっと、そうでありました隊長!」

 調子よく言って、私は机横にかけてたカバンを取ろうとした。

 すかっ。

 カバンの持ち手を掴むはずだった私の手は空振りする。

 ……って、あれれっ?

「私のカバンがない?」

 周囲を見回しても、誰のカバンも見当たらない。おかしいなぁ、今日もちゃんとカバンだけは持ってきてたはずなのに。

「ねぇ委員長、私のカバン知らない?」

「……机の中は?」

「ないよ。ていうか入らないもん、厚さ的に元々微妙なんだし」

「……ロッカー」

 ロッカーになんて入れたっけ、なんて思いながら、教室の後ろにある私のロッカーを開ける。あ、ホントだ。入ってた。学生としてあるまじき軽さのカバンは間違いなく私のもの。うん、中身カラッポのカバンは軽くていいなぁ。あ、中身ゼロなら持ってくる意味ないよね。折り畳み傘なら入ってるけど。

「あったか?」

「うん。でもおっかしいなー、私ロッカーになんて入れた覚え、ないんだけど」

「……」

 なんか、足立くんが変な視線を向けてきてる。『おかしいのはお前の頭じゃないか?』って言ってるように見えるのは被害妄想なのかな? む、なんか少し腹立ってきたかも。

「あっかんべー。足立くんのばーか」

「――……何をしてるんだお前は。ガキか?」

 盛大に呆れられた。ガキで結構です。と心の中で呟きつつ、自分でも変なことしてるよなぁ、なんて思ったらなんだか笑えてきた。

「ふふっ、じゃーね、委員長。気をつけて帰りなよー」

「ああ、帰れ帰れ」

「うわっ、『帰れ帰れ』なんて女の子に言うのはヒドイと思うよー? 私だって純情可憐な乙女なんだし」

「言ってろ」

 苦笑しながら足立くんは「じゃあな」と言う。バイバイ、と私も軽く手を振って廊下へ駆け出し――

「こらっ、谷口! お前また一日中寝てただろう! 俺様の授業もサボりやがって!」

 うわ、最悪っ。教室を出たところで、廊下にお腹が出た中年体育教師(推定独身)なオジサンがいたよ。ていうか今時『俺様』なんて言う人初めて見た。ダサっ。

「きゃーっ、襲われるぅ!」

 一応少しボリュームは抑えてそう叫んで、私は一八〇度方向転換。そのまま脱兎のごとく逃走を図る。

「なっ、貴様っ」

「センセー、バイバーイ」

 去り際にあっかんべー、をしてから下り階段に飛び込む。全段飛ばして踊り場に着地。残念ながら中年太りのオジサマなんかとは比べ物にならないぐらい、私の運動能力は高いんだから。私はそのまま全力疾走で下駄箱まで降りると、素早く靴を履き替えて運動場へ飛び出す。

「へへーん、逃げるが勝ちだもんね!」

 そう何となく気分的に叫びながら、私は運動場を全力疾走してた陸上部を後ろからサクッと追い抜かして校門を出た。


「ふんふーふふ~ん」

 鼻歌なんて歌いながら、現在私は駅前の飲食店街を自由気ままに散歩中。学校から真っ直ぐ家に帰って、今日はお気に入りのワンピースで街に繰り出してる。これはこれでなんだか新鮮な気分だ。大抵は制服で歩いてるし。

 不意に、鼻腔をおいしそうなラーメンの匂いがくすぐった。同時にタイミングよく、お腹の虫も鳴いてくれる。う。う、うわ、恥ずかしいな、誰かに聞かれなかったかな?

「谷口?」

「うわひゃあっ!?」

 いきなり背後から声をかけられて、思わず変な声を上げてしまう。

「あ、足立くん」

「何やってるんだよ、こんなところで」

 反射的に振り向くと、私と違ってまだ制服姿の足立くんが、後ろに立っていた。

「えっと……散歩?」

「いや、俺に訊かれても困る」

 それもそうだね。確かに反応に困るかも。

「そう言う委員長は、こんなところで何してるの? 夕飯のお店探し?」

「いや、俺の家、そこのラーメン屋」

「へっ?」

 見れば、さっきから漂っているいい匂いの発生源を足立くんは指差している。ご丁寧に、看板には『らあめん あだち屋』なんて書いてある。

「なんかよくある展開だなぁ」

「は?」

「ううん、こっちの話。へぇー、足立くんの家ってラーメン屋さんだったんだ。もしかして足立くんもラーメン作るの?」

「いや、お客さんに出すようなのは親父が作ってる。俺はウェイターみたいなもんだよ。一応料理はそれなりにできるけど」

 なんかそれってカッコイイかも。

 グゥ~~~~……

「……」

「……」

「……き、聞こえた?」

 何やらきょとんとした表情を浮かべてた足立くんが、いきなり笑い出した。

「あ、笑ったなー!」

「い、いや、俺は何も聞こえてないぞ? ただ、なんか急に笑いたくなっただけで」

 お腹抱えて笑いながらそんなこと言われても、説得力ないと思うんだけど。

「むーっ、そんなに笑うんなら明日から足立くんに起こされても起きてあげないんだから」

「そ、それは困る……くくっ」

「だから笑うなーっ!」

 私がこれだけ言ってるのに笑い続ける足立くんを見たら、なんだかむず痒い気分になってきた。く、くそう。空気読めない私のお腹め! 恨んでやるっ!

「う、うぅ~~……」

「あー、いや、悪かった」

 散々笑ってから、足立くんはこっちを見て、

「ウチで食べてくか? おごるぞ?」

「……いいの?」

「ま、散々笑ったからな。お詫びのしるしに」


「ほい、味噌ラーメンと小チャーハン」

「わーい、待ってました」

 足立くんがお盆に載せて持ってきてくれたラーメンとチャーハンを前にして、早速私は両手を合わせて『いただきます』をする。

「! おいしい!」

「そりゃどうも」

 うーん、駅前の飲食店街はほとんど制覇したと思ったんだけどなぁ。こんなにおいしいお店があるなんて知らなかった。なんだか損した気分になる。

「で、相席いいよな? 俺も夕飯まだなんだ」

「え?」

 幸せ気分に浸りながらラーメンをすすっていると、一旦カウンターの方に消えたと思った足立くんが、新たなお盆を持って横に立ってた。とりあえずうなずく。

「そのお盆のって、どのメニューの?」

「いや、これは試作品。親父の野郎、俺を毒見……じゃなくて味見係として夕飯によくこういう試作品を食わせやがるんだよ」

「ふーん」

 私は周囲を見回した。ここはお店の隅っこの席で、大きくも小さくもない店内は、帰宅ラッシュの時間帯にはまだ少し早いせいかそんなに人がいない。

「ちなみにそれって何ラーメンなの?」

 スープから麺、具に至るまで全てが赤色の試作品を食べてる彼に尋ねると、

「……『唐辛子アンド赤色野菜オンリー激辛ミックス』ラーメンらしい、親父曰く」

 その割に足立くんは汗掻いてないね。

「いや、昔から親父にこの手の激辛メニュー食わされ続けたら、それはもう泣く子も黙って気絶するかもしれない辛さのモン食っても、汗が出なくなった」

「……それ、私が食べたらどうなるのかな?」

「悪いこたぁ言わんから止めとけ。辛すぎて脱水症状起こす破目になる」

 う。辛いのは好きだけど、さすがにそれはちょっと止めておこうかな。

 しばらくして。

「ごちそうさま。おいしかったよ」

 あー、久しぶりかなぁ、こんなにおいしいラーメン食べたのって。お腹一杯だし自然と頬が緩んじゃうよ。

「そういう幸せそうな顔されたら、おごった甲斐があったってもんだ」

 足立くんはそう言って、自分も箸を置いた。辛い辛いって言ってたけど私のすぐ後に食べ終わるなんて、男の子は丈夫なんだなぁ。

「――なぁ、谷口」

「何?」

「前からずっと訊こうと思ってたんだけどさ、お前ってなんで学校で一日中寝て過ごしてるんだ?」

 う。私は少し返答に困ってしまう。

「もしかして、私が何かやましいこと、してるとか思ってたりする?」

「いや、それはない。さっきみたいに堂々と道のど真ん中で腹を鳴らすっていう間抜けな場面を演出できるやましいことをしてる人間なんて、全然想像できない」

 またなんだかひどいことを言われた気がする。私はジト目で足立くんをにらむ。

「少し以上に引っかかるものを感じるんですけどー……」

「気のせいだ気のせい」

 そうしてお互いに笑う。笑いながら、私はそういえばこんな風に誰かと一緒に食事しながら笑い合ったのって本当に何年ぶりだっけ、なんて一瞬考えた。――やめよう。そんなこと考えたってしょうがない。それよりも、

「ね、足立くん」

「ん?」

「さっきの質問の答え。どうして私が一日中寝てるかっていうの。……うん、全部は言えないけど」

 少し確認するように視線を向けると、足立くんは促すように小さくうなずいてくれる。私は人差し指を伸ばして、

「言うなら、睡眠薬を服用しても解決できないような、そんな病気に私は罹ってるんだよ。だから私は夜眠ることが出来なくて、朝から夕方にかけて寝てるの」

 ウソは言ってない。全て事実だ。一度睡眠薬飲んで夜に寝たことあるけど、悪夢を朝までぶっ通しで見続けてあんまりうなされてたからすぐにドクターストップかかったし。まあこんな突飛な話をしても疑わしそうな目で見られるよね――なんて思ったけど、少し失礼な予想に反して足立くんは真剣な顔して私を真っ直ぐ見てる。それがあまりにも真っ直ぐで、

「――それは難儀な話だな」

 と足立くんが言う間に、どきっ。と軽く心臓が跳ねた、ような気がした。

「う、うん。かなり難儀なのですよ?」

 少しだけ足立くんの反応に戸惑いながら、私は続ける。

「しかも人のいる場所、集まる場所じゃないとまともに眠れないから、仕方なく学校に来てるってわけ。ドゥーユーアンダースタン?」

「いちいち確認取らんでも分かるよ、それは。つーかなんで最後だけ英語なんだよ」

 私が言うと、足立くんは途端に苦笑しつつ突っ込みを入れた。

「ところで足立くん?」

「ん?」

「なんでそんなこと訊くのかな? 特に面白いものでもないと思うんだけど」

 そう尋ねると、足立くんは困ったような顔をした。お。新鮮な反応かも。

「ま、まあ何と言うか、おおよそ三ヶ月近く谷口を起こしてたら、興味が湧いたんだよ。不規則な生活してる人間見たら心配になるし」

「ふ~ん、私のこと心配してくれてるんだ?」

 お水を一口飲んでから少し茶化すと、足立くんは真面目な口調で、

「当たり前だ」

 って答えてくれた。う。そこまで強く言われると嬉しいような恥ずかしいような。……でもやっぱり嬉しい方が勝って、私は自然と笑顔を浮かべてしまう。

「えへへ。ありがと、私なんかの話を真剣に聞いてくれて。気持ちは少し楽になったかな」

「そうか」

 軽くうなずいて、足立くんは言う。

「困ったことがあったら、俺でよけりゃいつでも頼れよ。少なくとも話は聞いてやれるから。今みたいに話すだけでも楽になるし」

「……うん、ありがとう」

 そう言って私は立ち上がった。

「ごちそうさま。そろそろ帰るね」

「あー、俺もそろそろ手伝わないと」

 いつの間にか、お客さんが増え始めてる。

「……ねぇ足立くん、やっぱりおごりじゃなくて割り勘にしてくれる?」

「え?」

「や、何と言うか、あれだけおいしいものを食べられたのにおごりでタダにするっていうのは、ちょっとどうかなって。だから、おごりじゃなくて割り勘。半分だけ。残り半分だけは足立くんの厚意に甘えさせてもらうってことで」

 そう言って私は愛用のお財布を安物のハンドバッグから出し、壁に掛かってるお品書きの札を見る。えっと、味噌ラーメンと小チャーハンで、その半分だから……、

「はい。これ……で、合ってるよね?」

 私は足立くんが出した右手に小銭を乗せる。ちゃりん、と澄んだ音がした。

「あ、ああ。合ってるよ」

 足立くんも立ち上がった。

「気をつけて帰れよ」

「はーい。でも大丈夫だよ、これでも一応護身術は習ってたことあるんだから」

 私は軽く片手でガッツポーズを取っておどけてみせる。

「万一ってこともあるだろ」

 心配性だなぁ、足立くんは。気遣ってくれるのはかなり嬉しいけど。

「えへ、ありがと。――それじゃ足立くん、また明日。多分学校でね」

 お店のカウンターの中に向かって「ごちそうさまでした」と言ってから、私は何故か高揚した幸せな気分で足立くんの家のお店を後にした。

「……あれ?」

 家に帰ってから気がついた。

「私、いつから委員長のこと、『足立くん』ってちゃんと名前で呼ぶようにしたんだっけ?」


 結局一晩考えても答えは出なかった。なんだかすっきりしないけど、考えても分からないならさっぱり諦めようと思う。一つのことにこだわり続けるなんて私らしくないもんね。さ、今日も教室に一番――

「おはよう」

「へ?」

 下駄箱で靴を履き替えてると、教室の鍵を置いてある職員室の方から、聞き慣れた声がやってきた。

「あ、足立くん。早いなぁ、負けちゃった」

「これは勝負なのか?」

 すかさず突っ込まれる。

「んー、勝負じゃないけど、先に登校されてたらなんだか負けた気分にならない?」

「残念ながらならない」

 つまんない人だなぁ。ノリ悪いと女の子にモテないぞ?

「今、ものすごく腹の立つような心の声が聞こえたような気がするんだが」

「あはは、気のせいだよ。……ふわぁ、眠たくなってきたなー」

 二人して並んで階段を上り、教室に向かう。当然鍵なんか開いてないので、足立くんが鍵を開ける。私は窓側から数えて三列目、つまり教室ど真ん中の一番後ろ。足立くんは私の左斜め前の席だ。

「結局今日も寝るのか」

「うん……そーだよ」

 本格的に眠たい……ダメだ。寝よう。そう固く心に決めると、私は自分の席に着いてガクリと机に突っ伏す。

「おやすみー……悪いけど、夕方よろしくね」

「――分かった。おやすみ」

 あ、そう言えば寝る前に誰かと挨拶交わしたのって、随分久しぶりだなぁ。三年ぶりだっけ? そんなことを思いながら、なんだか心の中が暖かくなるような感覚を味わいつつ、私は眠りについた。


 ちなみに、今朝早く見たニュースでは今日はお昼より少し前ぐらいから雨だったような。


 サーッという、嫌な音がかすかに聞こえる。雨音だ。私の一番嫌いな音。この音を聞くということは、実際に雨が降っているか、それとも『あの日』の夢を見ているのか。可能性としては後者の方が高いかな。いや、どっちもって可能性もあるか。

 目を開けた。案の定、私はセーラー服を着て、当時住んでた小さな小さなアパートのドアを開けようとしてる。私自身はその先に何が待ってるのかを知ってるから、開けまいと目を閉じるのに、セーラー服の私が見てる映像が流れ込んでくる。もう何度同じ夢を見て、何度同じことを繰り返してるんだろう?

 カチャリ。いつもは鍵がかかってるはずのドアが、鍵を開けなくても開いた。そして目の前に広がるのは、

 多分、私がよく知る何かだった『何か』。

 足元に広がるのは、多分私が小さい頃に転んだり、月一でお世話になってたりする、あとで固まってしまう『何か』。

 雷が落ちて、一瞬――ほんの一瞬だけ、視界がはっきりと照らし出される。

「あ……あぁっ……」

 あるのは、よく知ってる『何か』の成れの果て。猟奇スプラッタとかの類のものが見えた。見えてしまった。

「……っぁ――」

 声にならない声が、悲鳴として漏れる。

 もう一度落ちる雷、広がる惨劇。私の脳は『何か』を正確に理解していたけど、私の理性は理解するのを拒否する。嫌だ。こんなの認めたくない。これは悪夢なんだ。きっと悪夢だ。現実じゃない。嘘だ嘘だウソだうそだ嘘ダうそだウソだウソダ嘘だ嘘でしょ嘘なんでしょ覚めなさいよ悪夢――!

「ッ、嫌ああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁァ――ッ!」

 無残な姿をさらす『何か』が、こちらを見た。


「谷口っ!」


「!?」

 突然の怒鳴り声で、私は目を覚ました。酷く気分が悪い。異常脈動する心臓は痛いし、激しい運動で身体機能の限界に到達したあのときみたいな感じで、気管支と肺がキリキリ痛い。いや、キリキリ痛いのは胃で胸の痛みはえっと……なんて言うんだろ、もうそんなことどうでもいいや。混乱し過ぎ。とにかく落ち着け私。体が小刻みに震えてる。じっとりと冷や汗が体中に噴き出てる。頭がガンガンと痛かった。あと――多分、心も。

「谷口!」

「っ!」

 びくり。体が反射的に跳ねた。

「――っ、あ……、あだ、ちくん」

 強い口調で呼ばれて私が声の方を向くと、心配そうに私の顔を覗き込んでる足立くんの顔が見えた。その向こうにちらりと見える窓の外は、見事な豪雨状態だ。もっともそんなことに構ってられるほど、今の私に余裕はなかったけど。

「お前、うなされてたぞ。顔色悪いし、大丈夫か?」

 ざわつく声が周囲から聞こえる。妙に霞みがかった脳で見回して、数秒遅れてやっと状況を把握する。どうやら授業中に起こされたらしい。叩き起こされるほど周りが心配になるぐらいうなされてたんだろうか? ああ、そういえば私、夢の中で叫んでたけどアレは現実世界でも叫んでたんだろうか。だとしたら注目されるのも無理ないかもしれない。

「谷口さん、大丈夫ですか」

 教壇の方から、見覚えのない初老の女の先生が問いかけてきた。見覚えがないのは当然で、今まで授業中に起きてたことがなかったからだけど。って、そんなことは今はもうどうでもいいんだってさっきから言い聞かせてるのに。今は問いかけに答えなきゃ。

「え、えっと……」

 しまった。先生とまともに正面切って話したことないから、どう答えたらいいのか分からない。私は目が覚めたばかりってこともあって混乱してしまう。ど、どうしよ、なんて言えば――?

「先生、谷口は気分が悪いそうなので、保健室へ」

 足立くんが返答に詰まる私の代わりに先生に答えて助けてくれる。思わず足立くんの顔を見やると、いつになく心配そうな――でも、優しそうな目と、ばっちり視線が合う。足立くんが口を開いて、

「谷口、立てるか?」

「あ、えっと――」

 私は答える代わりに立ち上がろうとしたけど、体に力が入らなくて、椅子にどさっと尻餅をついてしまう。お、おかしいな、立てないなんて。私は思わず不安に染まってしまった顔を、足立くんの方に向けてしまう。

「しゃーねーな」

 そう言って足立くんが、椅子ごと私を後ろに少し引くと、膝裏と背中に手を回してくる。え、ちょっ、ちょっと待って、何するのっ?

「よっ、と」

「……っ!?」

 教室が静まり返る。一瞬、何が起こったのか分からなかった私も、半秒ぐらい遅れて何されてるのかに気づく。教室中の視線が、足立くんにお姫様抱っこされてる私に注がれてる。

「先生、谷口は自力で動けそうにないので、俺が保健室まで運んできます」

「え、あ、はい、分かりました」

 呆気に取られたような先生にそう言い残して、足立くんと、足立くんに抱えられた私は教室を後にした。


「失礼します」

 足立くんがつま先で保健室の戸を開ける。

「ありゃ、先生いないのか」

 やたら冷静に足立くんが呟くけど、私は頭が真っ白になって何も考えてられない。

「下ろすぞ」

「え? あ、う、は、はいっ」

 動揺しきりの私はどもりながら答える。足立くんはゆっくりと備え付けのベッドの上に下ろしてくれる。ふっと消毒液の臭いが鼻をかすめた。

「……随分軽いんだな、谷口って。思ってたよりもずっと軽かった」

 足立くんはそう言って、勝手に棚から真っ白さらさらのタオルを出してこっちに放り投げてきた。条件反射的に私はキャッチする。

「わ、っと。か、勝手に出しちゃってもいいの?」

「先生がいないんだからしょうがないだろ、不可抗力だ。それより汗、拭いといた方がいいぞ。冷えたら風邪ひく」

「そ、そだね」

 私はぎこちなく返答する。久々にあの悪夢を見たせいもあるけど、何よりもさっきのお姫様抱っこの衝撃でまだ頭が混乱していた。

「じゃ、俺は教室に戻るから。あらぬ想像されたら堪らん。しばらく横になった方がいいと思うぞ、まだ顔色悪いし」

「……」

 首筋に浮き出た冷や汗を拭き取りながらぼーっとしていた私の目の前に、いきなり足立くんの顔が現れた。

「うわわっ」

「今の、ちゃんと聞いてたか?」

「え、な、何か言ったっけ?」

 全然思い出せない。というかいきなりのぞき込まないでよっ、心臓がバクバクしちゃってるじゃない! なんか耳の先や頬まで熱くなってきてる気がするしっ。

「長居すると教室のアホどもが要らん想像を掻き立てるから、俺は戻る。まだ顔色悪いし、しばらく横になっとけ」

 う。そう言われるとなんとなく横になりたくないのはどうしてだろう。

「横になっとけよ。これ委員長命令」

「……そんな権限、委員長の仕事に与えられてたっけ?」

「いいから寝とけ。また見に来るから、そのとき寝てなかったら明日から絶対に起こしてやらん」

 思わず習性で突っ込みを入れると、そんな台詞が返ってきた。うわ、ひど。

「じゃな」

「え、あ……」

 そう言って足立くんは保健室を出て行ってしまった。なんとなく以上に激しく名残惜しい感じがする。私はあちこちに浮き出てた汗を拭きながら、しばらく足立くんが出てったドアをぼーっと眺めてた。

「――……」

『俺が保健室まで運んできます』

 あ、う、うわ、わ、わわわわっ!

 なんかさっきのお姫様抱っこ事件のこと思い出しちゃったよっ! 今思い出すとあれって激しく恥ずかしい気がするしっ。や、気がするじゃなくて本当に恥ずかしいっ。穴があれば入ってしまいたい。

「うあああっ!」

 私は思わず声を上げながら恥ずかしさを振り払うようにベッドの中に入った。傍から見たら物凄く奇人変人に見えるだろうな……。――あ、ベッドの中、暖かい。何ヶ月ぶりかなぁ、まともにベッドで寝たのって。

 ――って、あれ?

 どきどき。どきどき。

 お、おかしいな、どうして心臓が落ち着かないんだろう?


「谷口」

「ん、んぅ……?」

 誰かが優しくささやく声で、私の脳に再起動命令がかかる。けど、うー……心地いいから起きたくないー。

 そう思いつつも、私は温かいベッドの中で背伸びして筋肉をほぐして、ゆっくりと瞼を開ける。見覚えのない天井から降り注ぐ蛍光灯の光が目を刺してきた。どうやらいつの間にかまた眠っちゃったらしい。

「大丈夫か」

 足立くんが覗き込んできた。あ、そっか。ここは保健室で、確か授業中に足立くんにここまで運ばれたんだっけ。――お姫様抱っこで。

 うわっ、またなんか頬が熱くなってきた。

「ん? 顔赤いけど、熱あるのか?」

「な、ないないないない! 絶対、ぜーったい、本当にそれはない!」

 慌てて私は首を左右に激しく振る。

「そ、そうか? 無理するなよ?」

「してないってばっ、ほらっ、この通り!」

 私は上体を起こした。無理してないとは言ったものの、まだ少し脳に靄がかかってる気がする。いきなり激しく頭を振ったせいか、軽く頭痛もするような……あ、欠伸出そう。ぐるりと見回したけど、保健室は私たち以外誰もいないみたいだった。

「……なあ谷口」

「な、なぁに?」

 ちょっとはしたないかなー、なんて思いつつも足立くんの目の前で欠伸しながら尋ねると、

「いや……三時間目、あんなに苦しそうにしてたから、何か悪夢でも見たのか、それともお前の言う病気の発作か何かでも起きたのか、と気になった」

 あ、そのことか。私はしばし逡巡する。

「――ねえ足立くん」

 悩んだのは数秒だけ。そして、足立くんになら話してもいいかもしれない。どうしてだか、そんな風に思った。足立くんなら、きっと分かってくれる。そんな気がした。

「もしも、もしもだよ。ある雷が何度も落ちる豪雨の夜に、家に帰ってドアを開けたら、目の前には地獄絵図が広がってたら、普通の人ならどうなっちゃうと思う?」

 我ながらかなり突飛極まりない質問だと思う。

「……地獄絵図って、どんな」

「視界一面真っ赤。白かったはずの壁も、木目調のフローリングも、全て真っ赤なの」

 私の台詞が示唆する内容に気がついたのか、足立くんの表情が硬くなる。

「そんなことがね、――……前に一度あったから」

 私はその事件の当事者の一人だ。唯一の存命者でもある。

「私が夜眠らないのは、夜に寝ると百パーセントの確率でそのときのことを思い出すから。お医者さんが言うには、『暗闇が真っ暗な部屋に広がる血の海を連想させるから』夜の闇の中では眠れないんだって。朝明るい時間帯、人の声が聞こえる場所でなら眠れるのは、その反作用らしいの」

 別に好き好んで朝から夕まで寝る生活を送ってるわけじゃないんだよ。

「今でも雨と雷と夜がトラウマ。朝から夕の時間帯なら眠れるって言ったけど、今日みたいに雨の降る日はその時間帯でも、そのときのことを思い出してしまう。夢として見てしまう――というか、見させられてしまう。自分じゃどうしようもなく、強制的にね」

 はっきりいうと、あの光景はまともな神経の人間が何度も見れるものじゃない。見続けたら発狂する。事実私も発狂しかけたし。

「私がね、自由気ままに行動して、夜寝ずに朝から夕に寝るのはね。そういう悪夢を見続けて精神が破綻するのを防ごうとした、一種の自衛策なんだよ。まあこれはお医者さんの受け売りなんだけどね」

 ま、聞く人が聞けば言い訳にしか聞こえないんだろうけどねー、あはは。

「親戚の人たちはね、駆け落ちして結婚したお母さんたちに冷たくて、当然、一人残された私にも冷たくて。私、昔は根暗で陰気な女の子だったから友達もいなくて、誰も分かってくれる人はいなくて。気がついたら一人ぼっち。なんだか損した気分じゃない、そんなのって。だからせめて起きてる間は気楽に楽しく生きようって思って、気がついたらこんな私になって、こんな生活になってたんだよ。時々思い出す悪夢と一緒に、ね」

 そう言って、私は笑った。だって、悲しい顔してもしょうがないもん。もう気安く泣けるような歳でもないしね。

「……」

 私たち二人の間に沈黙が落ちる。カッチコッチと壁掛け時計が時間を刻んでる。

「あのさ、谷口」

「何?」

 不意に、足立くんが口を開いた。

「それ、ずっと一人で抱え込んでて、辛くなかったか?」

 いきなりそんなことを言う。

「うん、辛かったよ。でも、不幸せじゃなかったかな。自由気ままに常識外れの生活リズム。真夜中の町を一人で探険してみたり、意味もなく夜の喫茶店でブラックコーヒー頼んで渋くキメたつもりになってみたり。楽しいことの方が多かったからねー」

 でも、心のどこかで寂しい人生送ってるなー、なんて思うことはあるけどね。

「最近、気づいたんだけどさ。お前、女子の連中からはあまりよく思われてない」

「あ、やっぱり?」

 足立くんの一言もとっくの昔から予想してたことだった。そもそも中学のときから既に敵は多かったしね。

 だから、

「昨日、カバンがロッカーに入ってただろ。あれさ、女子グループが放課後に隠したんだよ」

 と言われても、あんまり驚けなかった。

「ふーん、そうなんだ」

「……俺はさ、そいつらが誰かのカバンをお前のロッカーに入れるの、見てたけど……止められなかった。ちょうど横から話しかけられて見てたのも一瞬だけだったから、それが本当にお前のカバンだったのかもいまいち確証が持てなかったし」

「う~ん、それはしょうがないんじゃないかなぁ。女の子のグループの嫌がらせ、男の子は止めにくいし。気にしないでいいよ? 中学のときもあったなー、そういうの。低レベルで笑っちゃうよね。教科書やノートをカッターで切り裂いたりとか。中学のときも、止められなくてごめんって謝ってきた男の子がいたなぁ」

 そういえばそれ以来かな。学校にカバン以外の何かを持ってこなくなったのって。教科書とノートは家で大切に保管してる――というより、押入れでホコリ被せてるっていうのかな?

「それで、だな」

「うん?」

「……」

 沈黙が間に流れて、なんだか勝手に心拍数が上がってく。も、もしかしてこれはアレですか? ていうか私ってばちょっと期待しちゃってる?

「な、何かな、足立くん?」

 恐る恐る私が尋ねると、

「俺とお前、その、単なるクラスメートじゃなくて、友達になろう。何かあったときは、俺が助けてやる」

「……」

 一瞬、目が点になる。そして、

「な、何それっ、あははっ」

 思わず笑ってしまった。世に言う爆笑ってやつだ。

「ちょっと今のはないんじゃないかなー、なんか結構イイ雰囲気だったのにさ、『友達になろう』だもん。あー、おっかしー」

「……悪かったな」

「っていうか、足立くん」

 少しむっとしてる足立くんに、私は口元を押さえながら言う。

「友達になろう、なんて言わなくてもさ、もうとっくになってるでしょ?」

 それを聞き、足立くんは一瞬呆気に取られたような顔をした。

「ただのクラスメート同士が、世間話したり夕飯をおごってもらったりしないと思うし、悩み事とかを気軽に打ち明けたりしないと思うんだけど。それにわざわざ『友達になろう』なんて普通は言わないよ? だって友達って気がついたときにはもう、お互いに自然とそうなってるものでしょ?」

「――……」

「私は足立くんのこと、既に友達だって思ってたんだけど。違った? もしかして迷惑?」

 足立くんは数秒間だけ沈黙して、

「いや、迷惑じゃない。そうじゃなくて、……言うことに、意味があったんだが」

 ほぇ?

「それ、どういうこと?」

「な、なんでもない。こっちの話だ」

 足立くんはそう言って明後日の方向を向いてしまう。ぶーぶー、何か言おうとしたのをはぐらかすのはずるいと思うよ。それに実は、イイ雰囲気をぶち壊されて、ちょっぴり悲しかったり。なーんだ、告白じゃなかったんだ、なんてね。

「ああもう、もう夕方だ、下校時刻だ! 帰るぞ! ほれ、カバン」

 無愛想にそう言って、足立くんがずいっとカバンを突き出してくる。へぇ、持って来てくれてたんだ。嬉しいな。私はほんわかした気分になるのを感じながらカバンを受け取る。そのとき、ほんの少しの間だけ足立くんと私は触れ合う。実際には少しかすっただけだけど。私の指が、足立くんの指と。当然、勢いとかそういう場の流れみたいなものですぐに離れてしまうけど。

 どうしてか、私はたったそれだけしか触れられなかったことを、ものすごく名残惜しく感じる。

 とくん、とくん、と。

 心臓が少しゆっくりと、やや大きめに動いて。

「――あっ」

 頭の中で不意に、単語がひとつ浮かんで。

 その瞬間、気がついた。

 こんな気持ちになるのが、世間一般的にどう表現されるのかって。

 心の中でその単語を呟くたび、足立くんのことを考えるだけで、心臓が跳ねる。なんだか体中の血圧が上がってる気がする。相手の言動に一喜一憂する、この反応って。

「谷口」

 横を向いたまま、足立くんが私に手を差し伸べてくれる。私は一瞬だけ迷って――ドキドキしながらその手を取ってベッドから立ち上がる。すぐに手は離れてしまって、やっぱりそれはものすごく名残惜しい。自分の手に残る、足立くんの手の感触やぬくもり。まじまじと私は自分の手を見て、

「――……もしか、して」

 全身へ急速に血が巡り始めようとしてる。

「もしか、しなくても」

 私は足立くんには聞こえない程度の小さな声で、

「……恋、しちゃった――……?」

 かちゃっ。かちん。

 そんな音がして、しっかりとパズルのピースかそれとも歯車か。とにかく何かがしっかりとはまったような気がした。

 その瞬間から、心臓が心地いい程度に少し騒がしく暴れ始める。

 ああ、うん。腑に落ちた。間違いない。そういうこと。このドキドキの意味も、顔が赤い意味も、さっき名残惜しいなって思った意味も、私が『委員長』って素っ気ない役員名称から、『足立くん』って名前――でも名字であって、下の名前じゃないけど――で呼ぶようになった意味も全部ぜーんぶ、分かってしまった。分かったら、なんだか急に胸の突っかえ棒というか、のどに刺さった小骨が取れて楽になった感じになる。

 それでも相変わらず動悸や、新たに浮上してきた別種の苦しさというか切なさみたいなものは止まらないし、止められない。わざわざ止める気もないけど。

「――ねえ、足立くん」

「なんだ?」

 下駄箱のところまで来て履き替えてる最中、先に履き替え終わった私は数歩進んで振り向いて、足立くんに向かって一言。

「さて、問題です」

 私はかなりドキドキしながら、けどそれがなんだか心地いい。

 おそらく朱に染まった頬で、私は口を開く。

「私から足立くんに対する呼び名が、『委員長』じゃなくて『足立くん』に代わってるのは、何故でしょうか?」

 そう言って――私は悪戯っぽく笑った。


(9月19日追記)

自分で書いといてなんですが、最後の「悪戯っぽく」って自分で言っちゃってるこのヒロイン、あざと過ぎですね。何書いてんだ10年以上前の自分。

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