マインドハッカー(2)
マインドエンジニアと呼ばれる職業がある。
簡単に言えば精神科医と催眠術師を足して二で割ったようなものだ。
主な仕事は治療としての暗示や催眠。
精神科医がその道の研究者だとすると、彼らは技術だけを特化したプロフェッショナルである。会話を武器に精神病と戦う、その最前線の専門家だ。技術的には、下手な精神科医を凌駕する者も数多くいる。
21世紀半ばに登場したこの職業は、精神的疾患が爆発的に多くなっている現代の風潮と言う追い風を受けて、瞬く間に人々に認知された。
ところが驚いたことに彼らの需要は、実は、精神医療よりも他の業界に多かった。
大企業の多くが彼らの技術をいち早く評価し、欲しがったのである。
理由はいうまでもないだろう。新入社員の教育や、株主総会での心理操作、社畜と呼ばれるイエスマン社員の製造など、彼らの能力が必要とされる機会は、実に多いのだ。
多くのマインドエンジニアが高額の報酬で引き抜かれ、患者の治療のために学んだはずの知識を、企業や政府のために一般人を操るテクニックとして使うようになった。 医療現場で働くマインドエンジニアは、そんな彼らを邪道として忌み嫌い、軽蔑した。
逆に企業や政府のために働く者たちは、技術力で彼らを下回る場合の多いマインドエンジニアたちを蔑み、誇りを持って自らをマインドハッカーと呼んだ。
これがマインドハッカー誕生の経緯である。
そんなアウトローの多いマインドハッカーの中でも、特に危険視されるのが、洗脳や洗脳はずしを専門とする者たちである。
彼らはマインドハッカーの中でもトップクラスの力を持つものが多いが、彼らのクライアントの多くが宗教団体や、政府筋など、金に糸目をつけない連中であるため、その技術に対する尊敬と同等の、軽蔑や畏怖で迎えられる。
化け物を見る目つきで、由美子は男を見た。
精神をいじる専門家、それもアウトローとかアンダーグラウンドと言われる部類の人間である。
警戒するのも仕方ないことだ。
と。
小早川はニコニコ笑いながら、穏やかな低い声で喋りだす。
「そうだよ。俺は精神のプロフェッショナルだ。それも、超がつく部類だと自負している。君の考えてることなんて、だいたい見通せるぜ? ほら、その目だよ」
由美子が思わず顔に手をやると、今度は先ほどより少し抑揚の強い声が、するりと彼女の耳にもぐりこんできた。
「俺が笑いかけたとき、君の瞳は心持ち開いた。そしてマインドハッカーだとわかった瞬間、まぶたが少しケイレンした。君は心の中が目の周辺に出るタイプだね。気をつけたほうがいい。いや、そんなことをいうと余計に気になるかな? まあ、気にしないで。右のまぶたのケイレンのコトは忘れてくれ。ほら、またケイレンした。気にするなってば。気にすると余計におかしくなるんだ。意識しないことが大切だよ。意識しないで。気にしちゃだめだよ」
もちろん、由美子のまぶたはケイレンなんてしていない。しかし、気にするなを連発されるうちに、なんだか少し、右のまぶたがケイレンしているように気になってくる。
そんなはずはないと由美子は強く瞳を閉じた。
閉じた瞬間、小早川は由美子に顔を寄せる。
目をあけた由美子は、目の前に顔が迫っているのを見て、驚いて後ずさった。そのまま彼の顔を凝視する。 小早川は彼女の目を見ながら、探るようにその瞳を見返していたが、やがて少し強い早口で追い討ちをかけた。
「気にするなって。大丈夫だ、ケイレンは止まる。そうして強く力を入れてしまうと、余計にケイレンしてしまうんだ。リラックスだ。だいじょうぶ、リラックスして右まぶたのことは忘れるんだ。リラックス。リラックス。力を抜いて、心を穏やかに、あわてるな」
驚いたところに、リラックスリラックスと畳み掛けられて、由美子の身体にはますます力が入ってゆく。いまや、右のまぶたはわずかだが、明らかにケイレンしていた。由美子は自分のまぶたが痙攣していることに気づき、さらにあせる。
小早川の声はだんだん大きく強く早くなってゆく。
「ダメだ! そうやって力を入れたら、今度は左目がおかしくなるぞ? ほら、言わんこっちゃない。左目まで力が入ってきた。あせるな! あせるとケイレンしだすぞ! あせらずリラックスして身体の力を抜くんだ! ほら、右だけじゃなく左までケイレンしだした」
あっという間に、由美子の両まぶたはケイレンを始める。
「ああ、ふさがる。ふさがってしまう。瞳の周りの眼輪筋に異常に力が入ってきた。そのままじゃあ、まぶたが完全にふさがって、何も見えなくなってしまう。何も見えなくなるんだ。見えなくなる」
徐々に下がってきたまぶたは、いまや完全に閉じてしまった。
由美子はパニックにちかい状態になる。
そこで急に、小早川の声がこれ以上ないほど優しく、穏やかになった。
「大丈夫」
由美子はぴくんと身体を震えさせる。
すると小早川はゆっくり、穏やかに、声のトーンを落として由美子に話しかけた。
「俺の声を良く聞いて。俺の声を聞いて。わかるね? 大丈夫だ。ね? 大丈夫だろう? 俺の声は聞こえるね? ほら、もう大丈夫。何も怖くない」
由美子は唐突に失った視力の代わりに、耳から聞こえる小早川の声に全神経を集中する。
男の声は穏やかで、低く、安心感に満ちている。
「聞くんだ。今から俺が君の手を握る。驚かないで? 握ったら、その手の感触だけを考えて。いいかい? それじゃあ、握るよ?」
小早川の手が、由美子の手を握った。由美子はその手を握り締める。
「そう、強く握ってごらん。そしたら次は、その力をゆっくりと抜くんだ。出来るかい? ああ、できたね。じゃあ、もう一度。そう、力を入れて。そうだ。それじゃ力を抜いて……うん、そう。ほら、君の身体は君の思い通りに動くだろう? ケイレンも止まってる。大丈夫。もう、目を開けられるよ」
由美子は恐る恐る目を開ける。
「あ……見えた」
呆けたようにつぶやく彼女を眺めて、小早川はにやりと笑いながら、ゆっくりと両手を彼女の顔の前まで持ってくると、「 ぱん!」目の前で両手を打った。
音にびくんとした由美子に向かって、小早川はニヤニヤ笑いのまま片目をつむる。
「とまあ、こんなところか」
一瞬ぽかんとした後、彼女は自分を取り戻した。
なにがあったのか、ここでようやく彼女は理解したのだ。
同時に、急速に怒りが湧き上がってくる。ほとんど無意識に、平手打ちをしようと右手を動かした。 その瞬間、絶妙のタイミングで、小早川が顔をしかめた。
「ひっぱたくのは勘弁してくれないか?」
先読みされて思わず動きを止めた由美子は、さらに怒りに燃えると、今度は明確な意思を持って、彼に平手打ちを放った。
ばし!
殴られた小早川は、それでもニヤニヤ笑いをやめずに言う。
「ま、これでおあいこってトコかな? じゃ、仕事の話を始めよう」
そのとぼけたセリフに、由美子は怒って声を荒げる。
「冗談じゃないわ! なんでこんなことをするのよ!」
由美子の剣幕に小早川は小鼻の横を掻きながら、ふふんと笑って言った。
「あんたぁ、俺を信用してるか?」
「してるわけないでしょう!」
「だろうな。そしてもちろん、俺もあんたを信用していない。だとしたら、考えうる限りの安全策をとるのは当たり前だろう? 違うか?」
「まあ、それは……でも……」
「俺はあんたを信用していない。それはあんたという人間だけじゃなく、もしかしたらあんたの後ろに居るかも知れないやつらも含めてだ。俺には、あんたが本当に弟のことで相談しに来たのか、それとも俺の敵が放った連中なのか、わからないんだからな。だとしたら、あんたに仕込まれたマインドボムを警戒するのは当然だろう?」
「マインドボム……」
「聞いたことがないわけじゃあるまい?」
小早川の嘲笑に、由美子は唇をとがらせる。
「バカにしないでよ、後催眠のことじゃない。私に後催眠をかけてから、あなたが言いそうな言葉をキーワードにする。キーワードが言われた瞬間、私があなたを襲う。そう言うことでしょう?」
中森教授を恩師と呼ぶことからもわかるように、彼女も精神医療を勉強していたことがある。当然、その言葉くらいは知っていた。
「それはいちばん単純な例だが、まあ、そういうことだ。催眠で無意識のリミッターをはずされたら、例えあんたが女で、素手でも、こちらが殺されることは充分にあり得る。火事場の何とかってヤツだな。俺はそれを警戒して、あんたに後催眠をかけられた兆候がないか、スキャンしたんだ」
「スキャン……」
「そうだ。マインドボムを仕掛けられた者は、当然催眠をかけられたこと自体を忘れている。しかし、それでも独特の兆候を示すモノなのだ。どれほど技術のあるエンジニアでも、その兆候を完全に消すことは出来ない。少なくとも、俺の目をごまかすのは絶対にムリだ」
「あなたには、そんなに敵がいるの?」
「まあ、両手両足の指じゃ追いつかないね」
「マインドハッカーって危険な仕事なんだ?」
その言葉に小早川は、肩をすくめて答える。
「まあ、俺の場合、性格的もに問題があるんだろうな。つい余計なことを口にしては、つまらない敵を増やしてばかりいる。他の連中は、もう少し穏やかに仕事しているんだろうが」
「でしょうね。わかる気がするわ。その敵のリストに、私の名前も加えておいていいわよ」
「冗談だろう? あんたに、俺の敵になれるほどのスキルがあるとは思えない」
小早川は鼻で笑う。
由美子はその様子にまた怒りを感じたが、それでも怒りを押さえて、大きくため息をついた。
「判った。とりあえず今回に関しては、許します。でも、今度やるときは事前にそのことを教えて欲しいわね。あなたくらいの腕前があれば、たとえ被験者が知っていたって、スキャニングくらい出来るんでしょう?」
小早川は黙ってうなずいた。
「あと、それから」
「なんだ?」
「私の名前は、高崎由美子。あんたあんたって気安く言わないで」
小早川は唖然としたあと、苦笑しながらうなずいた。