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名無し猫の庭

作者: 秋月キアラ
掲載日:2008/04/02

 その日は、空だけが未来を信じているように青かった。


 四月の終わり。午前十一時を少し過ぎた公園には、幼い子どもを連れた母親と、犬を散歩させる老人がいるだけだった。


 僕は池のそばのベンチに腰を下ろし、膝に置いた弁当袋の端を指先でいじっていた。


 スマートフォンの画面には、クラスのグループチャットから届いた通知が並んでいる。


『担任、進路希望調査を今日中に出せって』


『三限の英語、小テストだったぞ』


『お前どこにいるんだよ』


 最後のメッセージは、幼なじみの美緒からだった。


 返信する気にはなれなかった。


 進路希望調査の第一志望欄は、今朝まで空白だった。大学の名前を書けば、そこへ向かって歩き始めなければならない。就職と書けば、自分の人生を早々に決めてしまうような気がする。


 けれど、何も書かないままでいれば、周囲の人間は親切そうな顔をして、僕の代わりに未来を選び始める。


 だから僕は学校へ行かなかった。


 逃げたと言われれば、そのとおりだった。


 水面を渡ってきた風が、桜の名残を一枚だけ運んでくる。花びらは僕の靴のそばへ落ち、乾いた地面を滑っていった。


 その花びらを追うように、黒猫が現れた。


 どこから来たのか分からなかった。


 茂みが揺れたわけでもない。足音も、鈴の音もなかった。ただ、気づいたときには僕の足元にいた。


 夜をそのまま毛皮にしたような猫だった。


 毛並みは濡れた絹のように艶やかで、細い身体には傷ひとつない。首輪もつけていなかった。左右の瞳は、陽光の下で溶かした琥珀のように輝いている。


 猫は僕を見上げた。


 その眼差しには、野良猫らしい警戒心がなかった。


 むしろ、ずっと以前から僕を知っていて、ようやく見つけたとでも言いたげだった。


「なんだよ」


 声をかけると、猫は返事の代わりに僕の足へ頬を擦りつけた。


 細い尾が、足首を撫でる。


 何かをねだっているのだろう。


 僕は弁当袋を開いた。


 母が死んでから、父は毎朝、僕の弁当を作っている。冷凍食品を詰めただけの日もあれば、妙に手の込んだ卵焼きが入っている日もある。


 父は料理が好きなわけではない。


 僕と話す方法を、ほかに知らないだけだ。


 今日の弁当には、昨夜の残りの唐揚げが三つ入っていた。


「猫に鶏肉って、平気だったっけ」


 そう言いながら、衣を外し、肉を小さくちぎって足元へ置く。


 黒猫は匂いを嗅ぐことさえしなかった。


 初めからそれが食べ物だと知っているように口へ運び、瞬く間に平らげた。


 そして、僕を見上げて、


「にゃあ」


 と、一度だけ鳴いた。


「礼なら、もう少し愛想よくしろよ」


 黒猫は耳を動かした。


 僕の言葉を理解したようにも見えた。


 けれど、猫はそれ以上甘えることもなく、踵を返して歩き去った。


 あまりにあっさりとした別れだった。


 僕は、自分でも不思議なくらい寂しくなった。


 胸の中に、猫一匹分の小さな穴があいたようだった。


「なんだよ、それ」


 誰に向けたものでもない言葉が、風の中へ消えていく。


 空を仰げば、眩しいほどの青が広がっていた。


 こんな日に教室の机へ座り、教師の話を聞いているほうが間違っているような気がした。


 進路。受験。将来。責任。


 それらはすべて、自分のために用意された言葉ではないように思える。


 今日という日だけが確かだった。


 今ここにいる自分だけが、本物だった。


 視線を戻すと、黒猫がいた。


 公園の出口へ続く道の途中で、こちらを見ていた。


 去ったはずなのに、数メートル先で足を止め、琥珀色の瞳を僕に向けている。


 鳴きもしない。


 尾も振らない。


 ただ、その眼だけで僕を捕らえていた。


 まるで僕の胸の中にあるもの――言葉になる前の、暗い願いを見透かしているようだった。


 僕は試しに立ち上がった。


 黒猫も歩き始めた。


 僕が足を止める。


 猫も止まり、肩越しに振り返る。


「ついてこいってことか?」


 問いかけても、猫は答えない。


 けれど、その沈黙が返事のように思えた。


     *


 黒猫は公園を出ると、人通りの少ない道へ入った。


 僕も数歩遅れて、そのあとを追った。


 いつでも引き返せるつもりだった。


 ただの気まぐれだったし、知らない猫について歩くことに意味などなかった。


 ところが十分ほど進んだころ、見慣れたはずの街が少しずつ形を変え始めた。


 駅前の再開発で消えたはずの古い文具店が、シャッターを閉じたまま残っている。


 高層マンションの建っている場所には、蔦に覆われた赤い屋根の家が並んでいた。


 電柱には、見たことのない町名の札が取りつけられている。


 文字は読めるはずなのに、目を離した瞬間、何と書かれていたのか思い出せなかった。


 スマートフォンの地図を開いた。


 現在地を示す青い点は、公園から動いていなかった。


 故障かと思って画面を閉じる。


 その瞬間、前を歩いていた黒猫が消えた。


「あれ?」


 左右を見回す。


 猫は、二つの古い家に挟まれた細い隙間にいた。


 人ひとりがようやく通れるほどの路地だった。


 入口には腰の高さまで雑草が生い茂り、奥は昼間だというのに薄暗い。スマートフォンの地図に、そんな道は表示されていなかった。


 黒猫はその闇の中から、じっと僕を見つめている。


 もう引き返したほうがいい。


 頭のどこかで、確かにそう思った。


 それでも足は、路地へ向かっていた。


 草を踏むたび、乾いた音がした。


 外から見たよりも、路地は長かった。


 五メートルもないはずなのに、いくら歩いても出口へ着かない。周囲からは車の音も、人の声も聞こえなくなっていた。


 聞こえるのは、僕の呼吸と、前を歩く猫の足が土を踏む音だけだ。


 やがて空気の匂いが変わった。


 湿った土。


 古い木材。


 何か甘い花の香り。


 そして、雨の降る直前に似た、微かな鉄の匂い。


 路地の先に、小さな庭が開けていた。


 そこだけが、夕暮れだった。


 さっきまで空は真昼の青だったはずなのに、庭の上には紫色の薄闇が垂れ込めている。枝垂れ桜には季節外れの花が咲き、風もないのに、花びらが水の中のようにゆっくりと揺れていた。


 庭の奥には、一軒の古い日本家屋が建っていた。


 瓦屋根は黒く、柱は長い年月を吸い込んだように艶めいている。荒れ果ててはいない。むしろ、丁寧に手入れされていた。


 ただ、その家には生活の気配がなかった。


 洗濯物もなければ、自転車もない。


 玄関先に表札もなかった。


 縁側に、女が座っていた。


 黒猫が駆け寄る。


 女は驚きもせず、両手を伸ばして猫を抱き上げた。


 その仕草は、初めから猫が帰ってくる時刻を知っていたように自然だった。


 顔が上がる。


 女と目が合った。


 ――綺麗だ。


 それが最初の印象だった。


 黒髪は夜の川のように長く、縁側から流れ落ちていた。肌は透けるほど白く、瞳は猫と同じ金色をしている。


 年齢は分からない。


 二十代にも見えたし、遥か昔からその場所に座っているようにも見えた。


 薄い灰色の羽織を、白い着物の上からゆるくまとっている。襟元は少し崩れていたが、艶めかしさよりも、死者の装束を思わせる静けさがあった。


 ただ唇だけが、異様なほど赤かった。


 花の赤ではない。


 夕焼けの赤でもない。


 白い雪へ一滴落とされた、新しい血のような紅だった。


 僕は、その唇から目を離せなかった。


 女は僕を見ていた。


 それなのに、僕の肉体ではなく、その奥側を見ているようだった。


 骨の内側。


 記憶の底。


 自分でも見たことのない影。


 黒猫を膝へ下ろしながら、女は言った。


「どこから来たの?」


 声は低く、柔らかかった。


 遠くで雨が降っているような声だった。


「公園からです」


「公園」


 女はその言葉を、知らない異国の地名のように繰り返した。


「この猫についてきました」


「そう」


「あなたの猫ですか?」


 女は黒猫の背を撫でる。


 猫は僕に見せたことのない幸福そうな顔で目を細め、喉を鳴らしていた。


「この子が連れてきたのなら、あなたは異界人なのね」


「異界人?」


「ここではない場所から来た人」


「それなら、あなたのほうが異界人じゃないですか」


 女は少しだけ笑った。


 笑うと、その美しさは人間から遠ざかった。


「そうかもしれないわね」


 庭を風が渡った。


 桜の花びらが一枚、女の髪へ落ちた。


 僕は目の前の光景に見覚えがあるような気がした。


 夢の中で、何度もここへ来たことがある。


 そんな錯覚だった。


「この猫、名前はあるんですか?」


「名前?」


 女は不思議そうに首を傾げた。


「猫に名前は必要かしら」


「呼ぶときに困るでしょう」


「呼ばなくても、この子は帰ってくるもの」


 僕は黒猫へ手を伸ばした。


 ほんの少し、頭を撫でようとしただけだった。


 猫の金色の眼が細くなる。


 次の瞬間、黒い前脚が閃いた。


「痛っ」


 鋭い爪が、指先を切り裂いていた。


 傷は小さかった。


 だが、血は驚くほど鮮やかだった。


 赤い珠が指の腹に膨らみ、そのまま掌へ伝っていく。


「ああ」


 女が声を漏らした。


 その響きに、僕は息を止めた。


 心配した声ではなかった。


 長いあいだ待ち続けたものを、ようやく見つけた声だった。


 女の白い手が、僕の手首を取る。


 冷たいと思っていた。


 けれど、触れた指は人肌よりも温かかった。


「この子は名無し」


 女は僕の傷を見つめた。


「私以外の者が触ろうとすると、怒るの」


「消毒すれば平気です」


「ここには、そんなものはないわ」


 彼女は僕の手を引き寄せた。


 赤い唇が開く。


「待って――」


 言葉が終わるより早く、傷ついた指先が、その唇に包まれた。


 温かかった。


 柔らかかった。


 濡れた舌が、傷口をゆっくりと撫でた。


 痛みはなかった。


 代わりに、細い糸のような甘い痺れが、指先から腕を昇り、胸の奥まで入り込んでくる。


 女の瞳が、僕を見上げていた。


 金色の中に、小さな僕の姿が映っている。


 けれど、その顔には目も口もなかった。


 影だけの、名前のない人間だった。


 女が唇を離す。


 赤い舌が、指先に残った血を舐め取った。


「あなたの血は、まだ明日の味がする」


「明日の……?」


「でも、少しだけ薄い」


 彼女は微笑んだ。


 あまりにも美しく、あまりにも恐ろしい笑みだった。


 夜の湖を覗き込んだときのような、静かで甘い深淵がそこにあった。


「あなた、消えてしまいたいと思ったでしょう」


 心臓が大きく鳴った。


「思ってません」


「嘘」


「学校を休んだだけです」


「それを、こちらでは“呼び声”というの」


 黒猫が、にゃあと鳴いた。


 今度の声は、笑い声に似ていた。


     *


 気づいたとき、僕は公園のベンチに座っていた。


 夕方だった。


 西の空が赤く燃え、池の水面に長い影が伸びている。


 膝の上には、開かれていない弁当が置かれていた。


「……夢?」


 スマートフォンを見る。


 午後六時十二分。


 父から三件、美緒から十四件、学校から一件の着信が入っていた。


 僕は慌てて立ち上がった。


 七時間近く経っている。


 けれど、そんなに長い時間、あの庭にいた覚えはない。


 せいぜい十分か十五分だ。


 地図アプリの履歴を確認した。


 今日の移動記録は、公園までで途切れていた。


 僕の指には、細い切り傷が残っている。


 その傷だけが、夢ではなかったことを告げていた。


 家へ帰ると、父は怒らなかった。


 玄関に立った僕を見て、一度だけ安堵したように息を吐いた。


「学校から電話があった」


「ごめん」


「弁当、食べたか」


 僕は膝の弁当袋を見た。


「まだ」


「そうか」


 父はそれだけ言い、台所へ戻った。


 怒鳴られるよりも、その背中を見るほうが苦しかった。


 食卓で冷えた唐揚げを食べた。


 三つとも残っていた。


 猫に与えたはずの一つまで。


 けれど、最初の唐揚げを噛んだ瞬間、口の中に鉄の味が広がった。


 吐き出すと、唐揚げではなかった。


 黒く縮れた、桜の花びらだった。


 瞬きをすると、皿の上には普通の唐揚げがある。


 疲れているのだと思った。


 そう思わなければ、その夜を越えられなかった。


     *


 翌日は学校へ行った。


 何事もなかった顔をして教室へ入り、空いていた自分の席へ座る。


「昨日、どこにいたの」


 美緒がすぐにやってきた。


 肩までの髪を揺らし、僕の机に両手をつく。


「公園」


「電話くらい出なさいよ。おじさん、学校まで来たんだから」


「悪かった」


「本当に悪いと思ってる?」


「思ってるよ」


 美緒はまだ何か言いたげだったが、僕の右手に目を留めた。


「その傷、どうしたの」


「猫に引っかかれた」


「猫?」


「黒猫」


 美緒の表情が変わった。


 怒りが消え、代わりに、青ざめた恐怖が浮かんだ。


「金色の目だった?」


「そうだけど」


「どこで会ったの」


「公園」


「それから?」


 僕は答えなかった。


 美緒は僕の腕を強く掴んだ。


「その猫についていったの?」


「どうして知ってるんだよ」


「答えて」


 教室のざわめきが、急に遠ざかったように感じた。


 美緒の指が震えている。


「ついていった」


「どこまで」


「古い家があった。庭に女の人がいて――」


 美緒は僕の腕を放した。


 唇が、音にならない言葉を動かした。


「知ってるのか?」


「お兄ちゃんが消えた日も、黒猫を見たって言ってた」


 美緒の兄が失踪したことは知っていた。


 僕たちが小学生のころだった。


 高校二年生だった彼女の兄は、放課後に学校を出たきり帰らなかった。


 警察は家出だと判断した。


 財布もスマートフォンも持っていた。駅の防犯カメラにも姿が映っていた。けれど、駅から先の足取りは完全に途絶えていた。


 当時の僕は、美緒の家から泣き声が聞こえるたび、何もできずに自分の部屋のカーテンを閉めていた。


「黒猫のことなんて、聞いたことない」


「言えるわけないでしょ。家族も警察も信じなかった。私だって、お兄ちゃんがいなくなってから何年も忘れてた」


「忘れてた?」


「昨日、思い出したの」


 美緒は自分の胸元を押さえた。


「お兄ちゃん、いなくなる前の夜に言ってた。黒い猫が、庭の女のところへ連れていってくれるって」


 教室の窓から、陽光が差し込んでいる。


 それなのに、足元から冷気が這い上がってきた。


「庭の女って、どんな人だった?」


「知らない。お兄ちゃんも、詳しくは話してくれなかった。ただ――」


 美緒の目が、僕の指の傷へ向けられる。


「すごく綺麗で、一度会ったら忘れられないって」


 僕は無意識に傷へ触れた。


 女の唇の感触が、指先に蘇った。


 温かな舌。


 金色の目。


 血を飲んだあとの笑み。


 忘れられない。


 その言葉が、胸の奥へ静かに沈んだ。


     *


 放課後、美緒と市立図書館へ行った。


 郷土資料の棚には、地域の新聞を縮刷した古い冊子が並んでいる。


 美緒の兄が消えた年の記事を探した。


『男子高校生、下校途中に行方不明』


 小さな記事だった。


 写真の中で、美緒の兄は照れくさそうに笑っている。


 名前は水城翔。


 僕も何度か遊んでもらったことがある。けれど写真を見ても、顔をはっきりと思い出せなかった。


 以前はもっと覚えていたはずなのに。


「こんな顔だったんだな」


 僕が言うと、美緒は答えなかった。


「美緒?」


「私も……分からなくなってる」


 彼女は写真を見つめていた。


「ずっと毎日思い出してたはずなのに。声も、笑い方も、好きだった食べ物も。なのに、思い出そうとすると、黒い靄みたいなものがかかる」


 美緒は震える指で、記事をなぞった。


「お兄ちゃんが消えたことだけは覚えてる。でも、お兄ちゃんがどんな人だったか、少しずつなくなってる」


 その記事の隣に、さらに古い失踪事件が載っていた。


 十七歳の女子高校生。


 十九歳の浪人生。


 二十二歳の会社員。


 年代も性別も異なる人々が、この街で忽然と姿を消している。


 全員が、失踪する直前に学校や仕事を無断で休んでいた。


 さらに古い新聞を辿った。


 昭和。


 大正。


 明治。


 記録に残るかぎり、この街では、何十年おきかに若者が消えていた。


 そして明治三十二年の地方紙に、一枚の不鮮明な写真があった。


 季節外れの桜が咲く庭。


 古い日本家屋。


 縁側に座る、黒髪の女。


 画質が荒く、顔立ちまでは判別できない。


 それでも僕には分かった。


 あの女だった。


 百年以上前の写真の中で、彼女は昨日と同じ姿をしていた。


 記事の見出しには、こう書かれていた。


『猫返しの家、再び人を隠す』


 本文の一部は、黒い染みで読めなくなっている。


 判読できたのは、わずかな文章だけだった。


 ――家は、この世を厭う者の前に現れる。


 ――女は血をもって客を迎える。


 ――名を問われても、決して答えてはならない。


 ――名を失った者は、黒き獣となりて庭へ仕える。


「黒き獣……」


 僕は呟いた。


 美緒が息を呑む。


「昨日の猫」


 黒い毛並み。


 金色の眼。


 首輪のない、名無しの猫。


 僕が名前を尋ねたとき、女は言った。


 猫に名前は必要かしら、と。


     *


 翌朝、公園へ行った。


 学校へ行くつもりで家を出た。


 制服も着ていた。


 それでも足は、あのベンチへ向かっていた。


 黒猫はすでに待っていた。


 背筋を伸ばしてベンチの下に座り、金色の眼で僕を見上げている。


「翔さんなのか?」


 黒猫の耳が動いた。


「水城翔」


 名前を口にした瞬間、猫の瞳が大きく開かれた。


 風が止まった。


 公園から、あらゆる音が消えた。


 遠くを走っていた車も、遊具ではしゃいでいた子どもの声も、木々のざわめきさえ聞こえない。


 黒猫は僕を見つめている。


 その金色の眼の奥に、一瞬だけ、人間の顔が浮かんだ。


 泣いている少年の顔だった。


「やっぱり、そうなのか」


 黒猫は低く鳴いた。


 それは猫の声ではなかった。


「み――」


 掠れた人間の声。


 美緒、と呼ぼうとしたのだ。


 黒猫は立ち上がり、あの日と同じ道を歩き始めた。


 僕はあとを追った。


 今度は迷いではなかった。


 美緒の兄を連れ戻す。


 それができると思っていた。


 路地の奥では、今日も季節外れの桜が咲いていた。


 けれど、庭の様子は以前とは違った。


 縁側の下。


 軒下。


 井戸のそば。


 木々の影。


 無数の黒猫が、僕を見ていた。


 十匹や二十匹ではない。


 庭を埋め尽くすほどの黒猫が、音もなく座っている。


 そのすべてが、金色の眼をしていた。


「おかえりなさい」


 女は縁側にいた。


 最初から僕が戻ってくることを知っていたように、微笑んでいる。


「この猫を返してもらいます」


「誰に?」


「家族に」


「この子に家族はいないわ」


「水城翔です」


 黒猫たちが一斉に鳴いた。


 悲鳴のような声だった。


 女の笑みが消えた。


 庭に咲く桜が、すべてこちらを向いたように見えた。


「その名を、どこで知ったの」


「昔、この街で消えた人です。そいつは、美緒の兄です」


「知らない名前ね」


「嘘だ」


「ここには、名前のあるものなどいないわ」


 女が立ち上がる。


 長い黒髪が、夜の幕のように縁側から落ちた。


「名前は痛みよ。名前があるから呼ばれる。呼ばれるから、帰らなければならなくなる」


「家族が待っています」


「待たれることが幸福だと思う?」


 女は裸足のまま庭へ下りた。


 一歩近づくたび、空の色が暗くなる。


「期待され、選ばされ、役目を与えられる。息ができないほど名を呼ばれて、それでも応えられなければ、失望される」


 金色の瞳が、僕を映した。


「あなたも、それが苦しくて来たのでしょう?」


「僕は……」


「進路を決められない」


 女が言う。


「父親の悲しみを受け止められない。友人の心配にも応えられない。何者かになれと言われても、何者にもなりたくない」


 否定できなかった。


 彼女の言葉は僕の内側から取り出されたものだった。


「ここでは、何者にもならなくていい」


 女の指が、僕の頬に触れた。


「昨日も、今日も、明日もない。年も取らない。失敗もしない。誰かを失望させることもない」


 黒猫たちが、喉を鳴らしている。


 庭全体が、大きな獣の腹の中のように震えていた。


「ただ私のそばにいて、眠り、時々、迷っている人を連れてくる。それだけでいいの」


「この猫たちは、みんな……」


「望んだのよ」


 女は優しく言った。


「忘れられることを」


 黒猫の一匹が、僕の足へ頬を擦りつけた。


 別の一匹が、制服の裾を舐める。


 無数の金色の眼が、こちらを見上げている。


 助けを求めているようにも、ここへ来いと誘っているようにも見えた。


「翔さんは望んでない」


「では、聞いてみましょう」


 女は、水城翔だった黒猫を抱き上げた。


「ここを出たい?」


 黒猫は震えていた。


 口を開く。


 けれど、出てくるのは猫の鳴き声だけだった。


「言葉がない者には、答えられない」


「あなたが奪ったんだろ」


「いいえ」


 女は黒猫の額へ口づけた。


「自分で置いていったの」


 僕は女の腕から猫を奪おうとした。


 その瞬間、すべての黒猫が牙を剥いた。


 何百もの唸り声が重なり、庭の地面が揺れる。


 女の髪が風もないのに広がった。


 髪の隙間から覗いた首筋には、無数の人間の口があった。


 青ざめた唇が、声もなく名前を囁いている。


 忘れられた名前。


 呼ぶ者を失った名前。


 僕には聞き取れなかった。


 聞き取った瞬間、自分の名を忘れてしまう。


 そんな恐怖だけがあった。


「ひとりを帰すなら、ひとりを置いていかなければならない」


 女の声が、口という口から響いた。


「それが、この庭の決まり」


「代わりを出せっていうのか」


「ええ」


「誰を」


 女は、赤い唇をゆっくりと笑みの形へ変えた。


「あなたを」


 僕の背後で、路地の入口が閉じた。


 塀と塀の隙間は消え、枝垂れ桜の幹に変わっている。


 逃げ道はなかった。


「嫌だ」


「本当に?」


 女が僕の胸へ手を当てた。


 心臓の鼓動が、その掌へ吸い取られていく。


「あなたはあの日、願ったでしょう」


 ――すべてから消えてしまいたい。


 言葉にした覚えはない。


 けれど確かに、僕の中にあった。


 誰にも見つからない場所へ行きたい。


 進路も責任も、父の寂しそうな背中も、美緒の心配も届かない場所へ。


 明日にならない今日の中へ、隠れてしまいたい。


 黒猫が僕を選んだのではない。


 僕が、この庭を呼んだのだ。


「名前を教えて」


 女が囁く。


 その唇が、僕の耳元へ近づいた。


「そうすれば、もう苦しまなくていい」


 僕は口を閉じた。


 名前を言ってはいけない。


 古い記事に、そう書かれていた。


 女の唇が耳朶へ触れる。


「教えて」


 甘い声だった。


 母が幼い僕を眠らせるときの声に似ていた。


 黒猫たちの中に、母の顔が見えた気がした。


 次には、父の背中が見えた。


 美緒が泣いていた。


「名前を教えて」


 女の赤い唇が、今度は僕の指先へ触れた。


 猫に裂かれた傷が再び開き、赤い血が滲んだ。


 女はその血を、愛おしむように舐めた。


 視界が白く霞んだ。


 僕は、自分の名前を口にした。


     *


 どれほどの時間が過ぎたのか分からない。


 この庭には朝がない。


 夜もない。


 紫色の夕暮れだけが、終わることなく続いている。


 桜は散りながら咲き、咲きながら朽ちる。


 女は昔と変わらない姿で、縁側に座っている。


 その膝の上で、僕は目を覚ます。


 彼女の指が、僕の黒い毛を梳いている。


 僕の身体は小さく、しなやかになった。


 声を出そうとしても、猫の鳴き声しか出ない。


 かつて何と呼ばれていたのか、もう思い出せない。


 顔も忘れた。


 父の声も、美緒の笑い方も、遠い夢の中へ沈んでしまった。


 ただ、ひとつだけ覚えている。


 女の唇の紅。


 血を舐める舌の温度。


 その微笑みを見た瞬間、恐怖よりも深いところで、心を奪われたこと。


 縁側の下には、一匹分の空いた場所がある。


 水城翔だった猫は、もういない。


 あのあと人間の姿へ戻り、泣きながら路地の向こうへ走っていった。


 誰かのもとへ帰れたのだろう。


 それでよかったのだと思う。


 女が僕を抱き上げる。


「そろそろ、お客さまを迎えにいって」


 優しく命じられる。


 僕は彼女の腕から庭へ降りた。


 塀と塀の隙間を抜ける。


 その先には、眩しいほど晴れた空と、見覚えのない街が広がっていた。


 公園のベンチに、ひとりの少女が座っている。


 制服姿の少女は、膝に弁当を置き、スマートフォンの画面を見つめていた。


 頬には、涙の乾いた跡がある。


 僕は音もなく近づいた。


 少女が顔を上げる。


「あれ、猫?」


 僕は彼女の足へ頬を擦りつけた。


 少女は少しだけ笑った。


 その笑顔を見た瞬間、胸の奥に、忘れたはずの痛みが走った。


 連れていってはいけない。


 そう伝えたかった。


 ここから立ち去れ。


 誰かのもとへ帰れ。


 名前を呼ばれることは、苦しいだけではない。


 そのことを伝えようと、口を開く。


 けれど僕の喉から出たのは、たったひとつの鳴き声だけだった。


「にゃあ」


 少女が立ち上がる。


 僕の身体は、勝手に歩き始めた。


 一歩進み、振り返る。


 少女は迷いながらも、僕のあとをついてくる。


 遠く離れた庭で、女が微笑んでいる。


 見えないはずなのに、その赤い唇がはっきりと見えた。


 あの日と同じ、美しく、恐ろしい笑みだった。


 僕は逃げることも、逆らうこともできない。


 彼女の血を飲んだわけでもないのに、僕の身体の奥には、彼女の声が根を張っている。


 愛なのか。


 呪いなのか。


 今となっては、その違いさえ分からない。


 ただ僕は、永遠に彼女の虜だった。


 名前をなくし、明日をなくし、黒猫となった今もなお。

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― 新着の感想 ―
[一言] 文体はとてもすっきりしていて読みやすかったです。 久々に面白そうなネタに惹かれて読みふけっていたのですが、急にぶつ切りで終わってしまっていたのでとても残念です。 これで終わっているようで…
2008/11/14 22:51 退会済み
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