名無し猫の庭
その日は、空だけが未来を信じているように青かった。
四月の終わり。午前十一時を少し過ぎた公園には、幼い子どもを連れた母親と、犬を散歩させる老人がいるだけだった。
僕は池のそばのベンチに腰を下ろし、膝に置いた弁当袋の端を指先でいじっていた。
スマートフォンの画面には、クラスのグループチャットから届いた通知が並んでいる。
『担任、進路希望調査を今日中に出せって』
『三限の英語、小テストだったぞ』
『お前どこにいるんだよ』
最後のメッセージは、幼なじみの美緒からだった。
返信する気にはなれなかった。
進路希望調査の第一志望欄は、今朝まで空白だった。大学の名前を書けば、そこへ向かって歩き始めなければならない。就職と書けば、自分の人生を早々に決めてしまうような気がする。
けれど、何も書かないままでいれば、周囲の人間は親切そうな顔をして、僕の代わりに未来を選び始める。
だから僕は学校へ行かなかった。
逃げたと言われれば、そのとおりだった。
水面を渡ってきた風が、桜の名残を一枚だけ運んでくる。花びらは僕の靴のそばへ落ち、乾いた地面を滑っていった。
その花びらを追うように、黒猫が現れた。
どこから来たのか分からなかった。
茂みが揺れたわけでもない。足音も、鈴の音もなかった。ただ、気づいたときには僕の足元にいた。
夜をそのまま毛皮にしたような猫だった。
毛並みは濡れた絹のように艶やかで、細い身体には傷ひとつない。首輪もつけていなかった。左右の瞳は、陽光の下で溶かした琥珀のように輝いている。
猫は僕を見上げた。
その眼差しには、野良猫らしい警戒心がなかった。
むしろ、ずっと以前から僕を知っていて、ようやく見つけたとでも言いたげだった。
「なんだよ」
声をかけると、猫は返事の代わりに僕の足へ頬を擦りつけた。
細い尾が、足首を撫でる。
何かをねだっているのだろう。
僕は弁当袋を開いた。
母が死んでから、父は毎朝、僕の弁当を作っている。冷凍食品を詰めただけの日もあれば、妙に手の込んだ卵焼きが入っている日もある。
父は料理が好きなわけではない。
僕と話す方法を、ほかに知らないだけだ。
今日の弁当には、昨夜の残りの唐揚げが三つ入っていた。
「猫に鶏肉って、平気だったっけ」
そう言いながら、衣を外し、肉を小さくちぎって足元へ置く。
黒猫は匂いを嗅ぐことさえしなかった。
初めからそれが食べ物だと知っているように口へ運び、瞬く間に平らげた。
そして、僕を見上げて、
「にゃあ」
と、一度だけ鳴いた。
「礼なら、もう少し愛想よくしろよ」
黒猫は耳を動かした。
僕の言葉を理解したようにも見えた。
けれど、猫はそれ以上甘えることもなく、踵を返して歩き去った。
あまりにあっさりとした別れだった。
僕は、自分でも不思議なくらい寂しくなった。
胸の中に、猫一匹分の小さな穴があいたようだった。
「なんだよ、それ」
誰に向けたものでもない言葉が、風の中へ消えていく。
空を仰げば、眩しいほどの青が広がっていた。
こんな日に教室の机へ座り、教師の話を聞いているほうが間違っているような気がした。
進路。受験。将来。責任。
それらはすべて、自分のために用意された言葉ではないように思える。
今日という日だけが確かだった。
今ここにいる自分だけが、本物だった。
視線を戻すと、黒猫がいた。
公園の出口へ続く道の途中で、こちらを見ていた。
去ったはずなのに、数メートル先で足を止め、琥珀色の瞳を僕に向けている。
鳴きもしない。
尾も振らない。
ただ、その眼だけで僕を捕らえていた。
まるで僕の胸の中にあるもの――言葉になる前の、暗い願いを見透かしているようだった。
僕は試しに立ち上がった。
黒猫も歩き始めた。
僕が足を止める。
猫も止まり、肩越しに振り返る。
「ついてこいってことか?」
問いかけても、猫は答えない。
けれど、その沈黙が返事のように思えた。
*
黒猫は公園を出ると、人通りの少ない道へ入った。
僕も数歩遅れて、そのあとを追った。
いつでも引き返せるつもりだった。
ただの気まぐれだったし、知らない猫について歩くことに意味などなかった。
ところが十分ほど進んだころ、見慣れたはずの街が少しずつ形を変え始めた。
駅前の再開発で消えたはずの古い文具店が、シャッターを閉じたまま残っている。
高層マンションの建っている場所には、蔦に覆われた赤い屋根の家が並んでいた。
電柱には、見たことのない町名の札が取りつけられている。
文字は読めるはずなのに、目を離した瞬間、何と書かれていたのか思い出せなかった。
スマートフォンの地図を開いた。
現在地を示す青い点は、公園から動いていなかった。
故障かと思って画面を閉じる。
その瞬間、前を歩いていた黒猫が消えた。
「あれ?」
左右を見回す。
猫は、二つの古い家に挟まれた細い隙間にいた。
人ひとりがようやく通れるほどの路地だった。
入口には腰の高さまで雑草が生い茂り、奥は昼間だというのに薄暗い。スマートフォンの地図に、そんな道は表示されていなかった。
黒猫はその闇の中から、じっと僕を見つめている。
もう引き返したほうがいい。
頭のどこかで、確かにそう思った。
それでも足は、路地へ向かっていた。
草を踏むたび、乾いた音がした。
外から見たよりも、路地は長かった。
五メートルもないはずなのに、いくら歩いても出口へ着かない。周囲からは車の音も、人の声も聞こえなくなっていた。
聞こえるのは、僕の呼吸と、前を歩く猫の足が土を踏む音だけだ。
やがて空気の匂いが変わった。
湿った土。
古い木材。
何か甘い花の香り。
そして、雨の降る直前に似た、微かな鉄の匂い。
路地の先に、小さな庭が開けていた。
そこだけが、夕暮れだった。
さっきまで空は真昼の青だったはずなのに、庭の上には紫色の薄闇が垂れ込めている。枝垂れ桜には季節外れの花が咲き、風もないのに、花びらが水の中のようにゆっくりと揺れていた。
庭の奥には、一軒の古い日本家屋が建っていた。
瓦屋根は黒く、柱は長い年月を吸い込んだように艶めいている。荒れ果ててはいない。むしろ、丁寧に手入れされていた。
ただ、その家には生活の気配がなかった。
洗濯物もなければ、自転車もない。
玄関先に表札もなかった。
縁側に、女が座っていた。
黒猫が駆け寄る。
女は驚きもせず、両手を伸ばして猫を抱き上げた。
その仕草は、初めから猫が帰ってくる時刻を知っていたように自然だった。
顔が上がる。
女と目が合った。
――綺麗だ。
それが最初の印象だった。
黒髪は夜の川のように長く、縁側から流れ落ちていた。肌は透けるほど白く、瞳は猫と同じ金色をしている。
年齢は分からない。
二十代にも見えたし、遥か昔からその場所に座っているようにも見えた。
薄い灰色の羽織を、白い着物の上からゆるくまとっている。襟元は少し崩れていたが、艶めかしさよりも、死者の装束を思わせる静けさがあった。
ただ唇だけが、異様なほど赤かった。
花の赤ではない。
夕焼けの赤でもない。
白い雪へ一滴落とされた、新しい血のような紅だった。
僕は、その唇から目を離せなかった。
女は僕を見ていた。
それなのに、僕の肉体ではなく、その奥側を見ているようだった。
骨の内側。
記憶の底。
自分でも見たことのない影。
黒猫を膝へ下ろしながら、女は言った。
「どこから来たの?」
声は低く、柔らかかった。
遠くで雨が降っているような声だった。
「公園からです」
「公園」
女はその言葉を、知らない異国の地名のように繰り返した。
「この猫についてきました」
「そう」
「あなたの猫ですか?」
女は黒猫の背を撫でる。
猫は僕に見せたことのない幸福そうな顔で目を細め、喉を鳴らしていた。
「この子が連れてきたのなら、あなたは異界人なのね」
「異界人?」
「ここではない場所から来た人」
「それなら、あなたのほうが異界人じゃないですか」
女は少しだけ笑った。
笑うと、その美しさは人間から遠ざかった。
「そうかもしれないわね」
庭を風が渡った。
桜の花びらが一枚、女の髪へ落ちた。
僕は目の前の光景に見覚えがあるような気がした。
夢の中で、何度もここへ来たことがある。
そんな錯覚だった。
「この猫、名前はあるんですか?」
「名前?」
女は不思議そうに首を傾げた。
「猫に名前は必要かしら」
「呼ぶときに困るでしょう」
「呼ばなくても、この子は帰ってくるもの」
僕は黒猫へ手を伸ばした。
ほんの少し、頭を撫でようとしただけだった。
猫の金色の眼が細くなる。
次の瞬間、黒い前脚が閃いた。
「痛っ」
鋭い爪が、指先を切り裂いていた。
傷は小さかった。
だが、血は驚くほど鮮やかだった。
赤い珠が指の腹に膨らみ、そのまま掌へ伝っていく。
「ああ」
女が声を漏らした。
その響きに、僕は息を止めた。
心配した声ではなかった。
長いあいだ待ち続けたものを、ようやく見つけた声だった。
女の白い手が、僕の手首を取る。
冷たいと思っていた。
けれど、触れた指は人肌よりも温かかった。
「この子は名無し」
女は僕の傷を見つめた。
「私以外の者が触ろうとすると、怒るの」
「消毒すれば平気です」
「ここには、そんなものはないわ」
彼女は僕の手を引き寄せた。
赤い唇が開く。
「待って――」
言葉が終わるより早く、傷ついた指先が、その唇に包まれた。
温かかった。
柔らかかった。
濡れた舌が、傷口をゆっくりと撫でた。
痛みはなかった。
代わりに、細い糸のような甘い痺れが、指先から腕を昇り、胸の奥まで入り込んでくる。
女の瞳が、僕を見上げていた。
金色の中に、小さな僕の姿が映っている。
けれど、その顔には目も口もなかった。
影だけの、名前のない人間だった。
女が唇を離す。
赤い舌が、指先に残った血を舐め取った。
「あなたの血は、まだ明日の味がする」
「明日の……?」
「でも、少しだけ薄い」
彼女は微笑んだ。
あまりにも美しく、あまりにも恐ろしい笑みだった。
夜の湖を覗き込んだときのような、静かで甘い深淵がそこにあった。
「あなた、消えてしまいたいと思ったでしょう」
心臓が大きく鳴った。
「思ってません」
「嘘」
「学校を休んだだけです」
「それを、こちらでは“呼び声”というの」
黒猫が、にゃあと鳴いた。
今度の声は、笑い声に似ていた。
*
気づいたとき、僕は公園のベンチに座っていた。
夕方だった。
西の空が赤く燃え、池の水面に長い影が伸びている。
膝の上には、開かれていない弁当が置かれていた。
「……夢?」
スマートフォンを見る。
午後六時十二分。
父から三件、美緒から十四件、学校から一件の着信が入っていた。
僕は慌てて立ち上がった。
七時間近く経っている。
けれど、そんなに長い時間、あの庭にいた覚えはない。
せいぜい十分か十五分だ。
地図アプリの履歴を確認した。
今日の移動記録は、公園までで途切れていた。
僕の指には、細い切り傷が残っている。
その傷だけが、夢ではなかったことを告げていた。
家へ帰ると、父は怒らなかった。
玄関に立った僕を見て、一度だけ安堵したように息を吐いた。
「学校から電話があった」
「ごめん」
「弁当、食べたか」
僕は膝の弁当袋を見た。
「まだ」
「そうか」
父はそれだけ言い、台所へ戻った。
怒鳴られるよりも、その背中を見るほうが苦しかった。
食卓で冷えた唐揚げを食べた。
三つとも残っていた。
猫に与えたはずの一つまで。
けれど、最初の唐揚げを噛んだ瞬間、口の中に鉄の味が広がった。
吐き出すと、唐揚げではなかった。
黒く縮れた、桜の花びらだった。
瞬きをすると、皿の上には普通の唐揚げがある。
疲れているのだと思った。
そう思わなければ、その夜を越えられなかった。
*
翌日は学校へ行った。
何事もなかった顔をして教室へ入り、空いていた自分の席へ座る。
「昨日、どこにいたの」
美緒がすぐにやってきた。
肩までの髪を揺らし、僕の机に両手をつく。
「公園」
「電話くらい出なさいよ。おじさん、学校まで来たんだから」
「悪かった」
「本当に悪いと思ってる?」
「思ってるよ」
美緒はまだ何か言いたげだったが、僕の右手に目を留めた。
「その傷、どうしたの」
「猫に引っかかれた」
「猫?」
「黒猫」
美緒の表情が変わった。
怒りが消え、代わりに、青ざめた恐怖が浮かんだ。
「金色の目だった?」
「そうだけど」
「どこで会ったの」
「公園」
「それから?」
僕は答えなかった。
美緒は僕の腕を強く掴んだ。
「その猫についていったの?」
「どうして知ってるんだよ」
「答えて」
教室のざわめきが、急に遠ざかったように感じた。
美緒の指が震えている。
「ついていった」
「どこまで」
「古い家があった。庭に女の人がいて――」
美緒は僕の腕を放した。
唇が、音にならない言葉を動かした。
「知ってるのか?」
「お兄ちゃんが消えた日も、黒猫を見たって言ってた」
美緒の兄が失踪したことは知っていた。
僕たちが小学生のころだった。
高校二年生だった彼女の兄は、放課後に学校を出たきり帰らなかった。
警察は家出だと判断した。
財布もスマートフォンも持っていた。駅の防犯カメラにも姿が映っていた。けれど、駅から先の足取りは完全に途絶えていた。
当時の僕は、美緒の家から泣き声が聞こえるたび、何もできずに自分の部屋のカーテンを閉めていた。
「黒猫のことなんて、聞いたことない」
「言えるわけないでしょ。家族も警察も信じなかった。私だって、お兄ちゃんがいなくなってから何年も忘れてた」
「忘れてた?」
「昨日、思い出したの」
美緒は自分の胸元を押さえた。
「お兄ちゃん、いなくなる前の夜に言ってた。黒い猫が、庭の女のところへ連れていってくれるって」
教室の窓から、陽光が差し込んでいる。
それなのに、足元から冷気が這い上がってきた。
「庭の女って、どんな人だった?」
「知らない。お兄ちゃんも、詳しくは話してくれなかった。ただ――」
美緒の目が、僕の指の傷へ向けられる。
「すごく綺麗で、一度会ったら忘れられないって」
僕は無意識に傷へ触れた。
女の唇の感触が、指先に蘇った。
温かな舌。
金色の目。
血を飲んだあとの笑み。
忘れられない。
その言葉が、胸の奥へ静かに沈んだ。
*
放課後、美緒と市立図書館へ行った。
郷土資料の棚には、地域の新聞を縮刷した古い冊子が並んでいる。
美緒の兄が消えた年の記事を探した。
『男子高校生、下校途中に行方不明』
小さな記事だった。
写真の中で、美緒の兄は照れくさそうに笑っている。
名前は水城翔。
僕も何度か遊んでもらったことがある。けれど写真を見ても、顔をはっきりと思い出せなかった。
以前はもっと覚えていたはずなのに。
「こんな顔だったんだな」
僕が言うと、美緒は答えなかった。
「美緒?」
「私も……分からなくなってる」
彼女は写真を見つめていた。
「ずっと毎日思い出してたはずなのに。声も、笑い方も、好きだった食べ物も。なのに、思い出そうとすると、黒い靄みたいなものがかかる」
美緒は震える指で、記事をなぞった。
「お兄ちゃんが消えたことだけは覚えてる。でも、お兄ちゃんがどんな人だったか、少しずつなくなってる」
その記事の隣に、さらに古い失踪事件が載っていた。
十七歳の女子高校生。
十九歳の浪人生。
二十二歳の会社員。
年代も性別も異なる人々が、この街で忽然と姿を消している。
全員が、失踪する直前に学校や仕事を無断で休んでいた。
さらに古い新聞を辿った。
昭和。
大正。
明治。
記録に残るかぎり、この街では、何十年おきかに若者が消えていた。
そして明治三十二年の地方紙に、一枚の不鮮明な写真があった。
季節外れの桜が咲く庭。
古い日本家屋。
縁側に座る、黒髪の女。
画質が荒く、顔立ちまでは判別できない。
それでも僕には分かった。
あの女だった。
百年以上前の写真の中で、彼女は昨日と同じ姿をしていた。
記事の見出しには、こう書かれていた。
『猫返しの家、再び人を隠す』
本文の一部は、黒い染みで読めなくなっている。
判読できたのは、わずかな文章だけだった。
――家は、この世を厭う者の前に現れる。
――女は血をもって客を迎える。
――名を問われても、決して答えてはならない。
――名を失った者は、黒き獣となりて庭へ仕える。
「黒き獣……」
僕は呟いた。
美緒が息を呑む。
「昨日の猫」
黒い毛並み。
金色の眼。
首輪のない、名無しの猫。
僕が名前を尋ねたとき、女は言った。
猫に名前は必要かしら、と。
*
翌朝、公園へ行った。
学校へ行くつもりで家を出た。
制服も着ていた。
それでも足は、あのベンチへ向かっていた。
黒猫はすでに待っていた。
背筋を伸ばしてベンチの下に座り、金色の眼で僕を見上げている。
「翔さんなのか?」
黒猫の耳が動いた。
「水城翔」
名前を口にした瞬間、猫の瞳が大きく開かれた。
風が止まった。
公園から、あらゆる音が消えた。
遠くを走っていた車も、遊具ではしゃいでいた子どもの声も、木々のざわめきさえ聞こえない。
黒猫は僕を見つめている。
その金色の眼の奥に、一瞬だけ、人間の顔が浮かんだ。
泣いている少年の顔だった。
「やっぱり、そうなのか」
黒猫は低く鳴いた。
それは猫の声ではなかった。
「み――」
掠れた人間の声。
美緒、と呼ぼうとしたのだ。
黒猫は立ち上がり、あの日と同じ道を歩き始めた。
僕はあとを追った。
今度は迷いではなかった。
美緒の兄を連れ戻す。
それができると思っていた。
路地の奥では、今日も季節外れの桜が咲いていた。
けれど、庭の様子は以前とは違った。
縁側の下。
軒下。
井戸のそば。
木々の影。
無数の黒猫が、僕を見ていた。
十匹や二十匹ではない。
庭を埋め尽くすほどの黒猫が、音もなく座っている。
そのすべてが、金色の眼をしていた。
「おかえりなさい」
女は縁側にいた。
最初から僕が戻ってくることを知っていたように、微笑んでいる。
「この猫を返してもらいます」
「誰に?」
「家族に」
「この子に家族はいないわ」
「水城翔です」
黒猫たちが一斉に鳴いた。
悲鳴のような声だった。
女の笑みが消えた。
庭に咲く桜が、すべてこちらを向いたように見えた。
「その名を、どこで知ったの」
「昔、この街で消えた人です。そいつは、美緒の兄です」
「知らない名前ね」
「嘘だ」
「ここには、名前のあるものなどいないわ」
女が立ち上がる。
長い黒髪が、夜の幕のように縁側から落ちた。
「名前は痛みよ。名前があるから呼ばれる。呼ばれるから、帰らなければならなくなる」
「家族が待っています」
「待たれることが幸福だと思う?」
女は裸足のまま庭へ下りた。
一歩近づくたび、空の色が暗くなる。
「期待され、選ばされ、役目を与えられる。息ができないほど名を呼ばれて、それでも応えられなければ、失望される」
金色の瞳が、僕を映した。
「あなたも、それが苦しくて来たのでしょう?」
「僕は……」
「進路を決められない」
女が言う。
「父親の悲しみを受け止められない。友人の心配にも応えられない。何者かになれと言われても、何者にもなりたくない」
否定できなかった。
彼女の言葉は僕の内側から取り出されたものだった。
「ここでは、何者にもならなくていい」
女の指が、僕の頬に触れた。
「昨日も、今日も、明日もない。年も取らない。失敗もしない。誰かを失望させることもない」
黒猫たちが、喉を鳴らしている。
庭全体が、大きな獣の腹の中のように震えていた。
「ただ私のそばにいて、眠り、時々、迷っている人を連れてくる。それだけでいいの」
「この猫たちは、みんな……」
「望んだのよ」
女は優しく言った。
「忘れられることを」
黒猫の一匹が、僕の足へ頬を擦りつけた。
別の一匹が、制服の裾を舐める。
無数の金色の眼が、こちらを見上げている。
助けを求めているようにも、ここへ来いと誘っているようにも見えた。
「翔さんは望んでない」
「では、聞いてみましょう」
女は、水城翔だった黒猫を抱き上げた。
「ここを出たい?」
黒猫は震えていた。
口を開く。
けれど、出てくるのは猫の鳴き声だけだった。
「言葉がない者には、答えられない」
「あなたが奪ったんだろ」
「いいえ」
女は黒猫の額へ口づけた。
「自分で置いていったの」
僕は女の腕から猫を奪おうとした。
その瞬間、すべての黒猫が牙を剥いた。
何百もの唸り声が重なり、庭の地面が揺れる。
女の髪が風もないのに広がった。
髪の隙間から覗いた首筋には、無数の人間の口があった。
青ざめた唇が、声もなく名前を囁いている。
忘れられた名前。
呼ぶ者を失った名前。
僕には聞き取れなかった。
聞き取った瞬間、自分の名を忘れてしまう。
そんな恐怖だけがあった。
「ひとりを帰すなら、ひとりを置いていかなければならない」
女の声が、口という口から響いた。
「それが、この庭の決まり」
「代わりを出せっていうのか」
「ええ」
「誰を」
女は、赤い唇をゆっくりと笑みの形へ変えた。
「あなたを」
僕の背後で、路地の入口が閉じた。
塀と塀の隙間は消え、枝垂れ桜の幹に変わっている。
逃げ道はなかった。
「嫌だ」
「本当に?」
女が僕の胸へ手を当てた。
心臓の鼓動が、その掌へ吸い取られていく。
「あなたはあの日、願ったでしょう」
――すべてから消えてしまいたい。
言葉にした覚えはない。
けれど確かに、僕の中にあった。
誰にも見つからない場所へ行きたい。
進路も責任も、父の寂しそうな背中も、美緒の心配も届かない場所へ。
明日にならない今日の中へ、隠れてしまいたい。
黒猫が僕を選んだのではない。
僕が、この庭を呼んだのだ。
「名前を教えて」
女が囁く。
その唇が、僕の耳元へ近づいた。
「そうすれば、もう苦しまなくていい」
僕は口を閉じた。
名前を言ってはいけない。
古い記事に、そう書かれていた。
女の唇が耳朶へ触れる。
「教えて」
甘い声だった。
母が幼い僕を眠らせるときの声に似ていた。
黒猫たちの中に、母の顔が見えた気がした。
次には、父の背中が見えた。
美緒が泣いていた。
「名前を教えて」
女の赤い唇が、今度は僕の指先へ触れた。
猫に裂かれた傷が再び開き、赤い血が滲んだ。
女はその血を、愛おしむように舐めた。
視界が白く霞んだ。
僕は、自分の名前を口にした。
*
どれほどの時間が過ぎたのか分からない。
この庭には朝がない。
夜もない。
紫色の夕暮れだけが、終わることなく続いている。
桜は散りながら咲き、咲きながら朽ちる。
女は昔と変わらない姿で、縁側に座っている。
その膝の上で、僕は目を覚ます。
彼女の指が、僕の黒い毛を梳いている。
僕の身体は小さく、しなやかになった。
声を出そうとしても、猫の鳴き声しか出ない。
かつて何と呼ばれていたのか、もう思い出せない。
顔も忘れた。
父の声も、美緒の笑い方も、遠い夢の中へ沈んでしまった。
ただ、ひとつだけ覚えている。
女の唇の紅。
血を舐める舌の温度。
その微笑みを見た瞬間、恐怖よりも深いところで、心を奪われたこと。
縁側の下には、一匹分の空いた場所がある。
水城翔だった猫は、もういない。
あのあと人間の姿へ戻り、泣きながら路地の向こうへ走っていった。
誰かのもとへ帰れたのだろう。
それでよかったのだと思う。
女が僕を抱き上げる。
「そろそろ、お客さまを迎えにいって」
優しく命じられる。
僕は彼女の腕から庭へ降りた。
塀と塀の隙間を抜ける。
その先には、眩しいほど晴れた空と、見覚えのない街が広がっていた。
公園のベンチに、ひとりの少女が座っている。
制服姿の少女は、膝に弁当を置き、スマートフォンの画面を見つめていた。
頬には、涙の乾いた跡がある。
僕は音もなく近づいた。
少女が顔を上げる。
「あれ、猫?」
僕は彼女の足へ頬を擦りつけた。
少女は少しだけ笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥に、忘れたはずの痛みが走った。
連れていってはいけない。
そう伝えたかった。
ここから立ち去れ。
誰かのもとへ帰れ。
名前を呼ばれることは、苦しいだけではない。
そのことを伝えようと、口を開く。
けれど僕の喉から出たのは、たったひとつの鳴き声だけだった。
「にゃあ」
少女が立ち上がる。
僕の身体は、勝手に歩き始めた。
一歩進み、振り返る。
少女は迷いながらも、僕のあとをついてくる。
遠く離れた庭で、女が微笑んでいる。
見えないはずなのに、その赤い唇がはっきりと見えた。
あの日と同じ、美しく、恐ろしい笑みだった。
僕は逃げることも、逆らうこともできない。
彼女の血を飲んだわけでもないのに、僕の身体の奥には、彼女の声が根を張っている。
愛なのか。
呪いなのか。
今となっては、その違いさえ分からない。
ただ僕は、永遠に彼女の虜だった。
名前をなくし、明日をなくし、黒猫となった今もなお。




