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十一 神ガカリの狂人

 幻視が見えた。

 ――いつかどこかの海岸。

 首をひっこめた亀のような形の小さく奇妙な舟に乗り込んでいったのは一人の若い僧侶であった。真新しい僧衣に身を包み、乗り込んだ舟室で一心不乱に経をあげている。

 否、彼がいるのは舟室などと呼べる場所ではない。窓もなく灯りもない狭い空間。かろうじて座る事ができる程度の無機質な空間。

 彼の若い僧侶の姿が唯一見える出入口に、浜に残った僧侶達は板を当てた。隙間を残らず塞いだ瞬間、ほんの束の間だが経を読む声が止んだ。しかしまたすぐ、奮い立たせるような経の声が聞こえだした。その声も乱暴に釘を打ち付ける音に掻き消され、よく聞こえなくなった。

 舟の四隅には鮮やかな朱色の鳥居が取り付けられ、大きく白い帆には「南無阿弥陀仏」の六字が高らかと掲げられていた。唯一の出入口を塞がれた亀のような舟。まるで海上に浮かぶ棺か横穴墓のように思えた。

 自らの墓穴に生きながら収まり、遠い遠い浄土を目指す――これこそが補陀落渡海であった。

 浜に残った僧侶達が別の小舟に乗り込み、棺を沖合に引いていく。ある程度の沖に来たところで彼らは紐を外し、棺を棹で突いた。

軽く押しただけで舟は潮に乗り、沖へ沖へと進んでいく。二度と戻らぬ死出の旅。

 舟上で見送る僧侶達も浜に集まってきた民衆達も、ただ押し黙って合掌しその出航を見送っていた。

 空は青々と澄んでいたが水上には乳白色の霧が立ち込めている。

 砂浜には若い娘がいた。娘は見物人を掻き分け、髪を振り乱しながら渚へ走る。


「まだ若いのにまこと大した信心であるな。いや実に殊勝な者じゃ」

「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」

「あの僧侶、出家する前は乱暴狼藉の多い性悪の侍でねえ。よく発心したものだよ」

「南無観世音菩薩……南無観世音菩薩……」

「案外今頃になって恐ろしくなって泣いたりしてるんじゃないかのぅ」

「南無……南無……」

「ありがたやありがたや。拝んでおくと良いぞ。尊いぞ、ああ、ありがたや」

「南無……」


 見物人達の囁き合う声が聞こえるが、娘は気にも留めず裸足で駆け抜けた。

 娘は素足のまま海へと踏み込んでいく。バシャバシャと音を立てながら、沖へ向かって去っていく舟を追いかけていた。

 やがて深みに足を取られたのか、娘は海の中へ転げた。それでもまだ追おうとするが、まるで海水が絡みつくかのように感じられた。もう追えなかった。

海水を飲んでしまい咳込んだおかげで声も出なかった。娘はもはや、霧の中へと消えていく舟に向けて手を伸ばす事しかできなかった。



「――祝女様。祝女様。一体どうなすったのですか?」


 私をまどろみから引き戻したのは呼びかける声だった。

 夏の日差しが眩しい。目が眩む。

 私に声をかけたのは魚の行商をしている女だった。私はどうやらまた幻視を見ていたらしい。

 祝女の先達に言わせると、神は祝女の都合など何も考えない。神の都合のよい時に勝手な事を頭の中に吹き込んでいくという。

 それを目で感じ取る者もいるし声として聞き取る者もいる。私の場合は幻視だ。

 しかし私に言わせればこれは甚だ迷惑な話だ。酷い時には痙攣をおこしてそのまま失神する事もあるし、しばしば幻視と現実の見分けがつかなくなる。私の姿を客観的に見れば妄想に囚われ幻覚を見ているようにしか見えないのではないかと思う。

 唐土帰りの医師などに言わせると、巫覡ふげきというものは脳髄に宿る精神が狂った時に見せる幻に踊らされているに過ぎないのだという。


 我々祝女は――我々より格が低いユタもそうだが――カミダーリーと呼ばれる状態を経て祝女になる。

 神に選ばれて抱き留められた者は、それまで元気に生活していたのに突然気が狂うのだという。寝込んだり奇声をあげて走り回るなど可愛いもので、中には家を飛び出して十年以上も帰らず乞食のようになる人もいる。家族が憎くて堪らなくなって離散したり、苦しみに耐えかねて他人や自分を殺す人さえいる。

 それは狂人フリムンではないのかと思うが、実際何も変わらない。ある日突然気が狂ってそれまでの生活は無くなるのだ。

 神の気まぐれである日突然始まった死ぬより苦しい神ダーリーは、神の気まぐれである日突然終わり、そうして祝女になる。――もしも神が二度目の気まぐれを起こさなかったら一生狂人のままだ。

 祝女になった者は、狂人になる前に煮えるように高い熱を出して寝込む事が多いという。これなどまさに、熱病で狂った脳が見せる迷妄の証なのではないかという気もする。

 そもそも私はただの一度も神など見たり話をできた事がない。ただときどき白昼夢を見て気を失うだけだ。そういう自分でも笑ってしまうほどおぼろげな話をしているうちに私は祝女の目が開いたなどといわれ、今日まで来た。私の声だけがニルヤの神に届くと言われて祈るし、事実として度々見る白昼夢の中身をそのまま話す。私は神など感じた事がない。

 だけど最も貧しい人から王族まで、私が神の代理として物語っている事を疑わないし私がそうする事をひどく喜ぶ。それはそれで我島ウチナーには必要な事なのだろうと思い、今日まで祝女としてふるまってきた。


 ――どうやらここは波上ナンミン宮の近くのようだ。私は例の白昼夢に入ると自分でも何をしているのかはっきり分からなくなる(人はこれをカンガカリと呼ぶ) 従って正気に戻った今となっては、自分がなぜ部屋着一枚に裸足という異様な格好で岩にすがりついていたのかもよくわからない。人々にいわせればこれさえも神ガカリの奇瑞なのだというが。

 私を心配して声をかけてくれたこの魚売りもまたそう思ったらしい。

「お気づきになりましたか祝女様。神ガカリだったのでしょうか、ありがたい事です」

 そう言って彼女は拝礼し、自分の腰に下げてあった焼き物の水筒を恭しく私に差し出してきた。そういえば喉がカラカラだ。ありがたくその水を頂戴した。

 お礼を言って水筒を返すと、魚売りは売り物の中から一番良い魚を取り出して芭蕉の葉に包み、私にくれた。無論お代など必要ないと言う。

「ニルヤからの賜り物で今年は豊漁ですもの。元をただせば祝女様のお陰ですわ」

 ありがたく礼を言い魚売りの女と別れた後、私はとにもかくにも一旦家へと帰る事にした。果たして今度は一体何日ほっつき歩いていたのだろうか。


 私はいま街道をひどく不格好な身なりで歩いている。髪の毛は結いもせずボサボサに垂れているし服装は家で着るような薄手の着物一枚。それも雨風に濡れたのかかなり汚い。手足ははねた泥だらけで足元は裸足だ。はっきり言えば狂人か乞食のような姿である。もちろん私はこのようなナリで街道を歩いている事を恥ずかしく思う。

 しかし那覇の人々は私のこの姿をなんとも思わない。いや一瞬はぎょっとした様子でこちらを見る気がする。だがそれが私である事に気づくとすぐに微笑みを浮かべ、うやうやしく拝礼などしてくる。

――私が祝女だからだ。私が見苦しい身なりで外に飛び出すのも、あらぬ事をわめきちらしながら歩き回るのも、支離滅裂な白昼夢に溺れているのも、全ては神の振る舞いの代弁だからだ。普通の人ならば狂人として蔑まれるであろう異常な行動のすべてが、かえって私の霊能と人界離れした神の権威の証明になるのだ。

 もちろん私はこれを神の成させている事なのだとはこれぽっちも思っていない。狂人なのだと思っている。しかし周りの人々は時々私が発現させる狂った有様を神秘と崇め奉っている。

 同じ狂っているにしても狂人として蔑まれるような人生よりは祝女として敬われ愛されるような人生の方がずっと好ましい。

 そういう意味で私はたしかに神によって人生を支えられている。神は私の人生を光あるものにしてくれた。


 私の家は那覇からはずいぶん離れた場所にある。人通りもすっかり少なくなった。

 あの魚売りからもらった立派な魚をどう調理するべきかなどと他愛ない事を考える。塩茹でが良いか。いやいやこの暑さだ燻製にした方が良いかもしれない。そういえば豚の味噌漬けもそろそろ食べられる頃ではないだろうか。あの人は豚肉がどうも苦手だがあの味噌漬けだけは食べてくれる。味噌の香りが肉っぽさを消してくれるからだろう。だから


 ――あの人?


 その瞬間、頭が引き裂かれそうなほど痛み熱くなった。そうだ、あの人!

 私は手にしていた魚を放り出し、悲鳴のような声をあげながら駆け出した。

 畦で野良仕事をしていた男達がぎょっとした顔でこちらを凝視するのが見えた。石段をバタバタと駆け上がる時に私は転んで顔を打ってしまう。鼻血が垂れているのが分かったがとても足を止めてはいられなかった。

 心ノ臓が割れるかと思うほど走り続け私はようやく家へと帰りついた。どういうわけだか手も足もガタガタと震えている。涙まで出ている。走り続けたからというだけでは決してない。私は震える手で玄関を開けた。

 途端に強烈な悪臭が鼻をついた。なんたる事だと慄きながら私は家に上がり込んでいく。嫌な臭いが充満している。脂汗が止まらない。今にも倒れそうになりながら、あたしはようやく床の間までたどり着いた。

 部屋の丁度真ん中に布団が敷いてあり、その枕元には木彫りの観音像が置いてある。

 部屋中に蠅がブンブン飛び回っている。そいつらが私の顔にも幾度となくぶつかった。

 ――嗚呼! 嗚呼!

 ブツブツと煮立って吹きこぼれる泡のように様々な事を思い出す。

 そうだ、私の夫はこの夏に悪疫にかかり臥せっていたではないか。ずいぶん看病して、それに私がニルヤの神にいくら祈ってもあの人の身体はちっともよくならなかった。

 当たり前だ、私には神の姿など見えないし聞こえない。祈りだって真似事だ。

  あの人が死んでいる。ウジタカリコロロキテ嫌な臭いに包まれている。

 ――嗚呼! 嗚呼!

 あの人は今、私の目の前で腐っていた。

 私はあの人が死んだ事に耐えられなくてそのまま莫迦のようになって飛び出したのだろうか。愛する人を腐る侭にしていたのだろうか。

 私がすっかり気が触れて徘徊していたのを見ても人々は神ガカリだありがたい事だとしか思わなかったのだ。私は悲しみに狂う事さえできないのか。全ては神の采配だというのか。

 ――嗚呼! 嗚呼!

 もっともっと恐ろしい想像が頭の中をよぎった。

 まさか。まさか。私はあの人の最後まで看取らなかったのかも知れないのだ。私が神ガカリになって看病さえ放棄して居なくなって、あの人はこの薄暗い部屋の中でたった一人で……何も覚えていないのだ。どうしてそうでないと言い切れようか。頭が割れる。焼けそうだ。身体中の水が汗になって出ているような気がしてくる。

 愛しい夫、愛しい貴方、愛しい上人様。

 私は蠅のブンブン飛び交う部屋の中で蛆のたかった死体にいつまでも寄り添っていた。


 私は私の幻視を狂人の妄想だと思っている。神の見せ給う光景だなどと今の今まで信じていなかった。しかしこれが神ガカリでないのなら、今あるこの光景は私が招いて成した事になるのだ。

 私はこの人が舟に乗って往く幻想を見た。この人が神仏かみほとけに取りつかれたような熱狂で必死の航海に出たのを見た。この人も見えもしない神仏にまとわり憑かれた狂人だ。

 私は神が分からない。神が来る国も分からない。

 この人は渇望したニルヤカナヤに行ったのか。補陀落浄土へ行ったのか。常世国に行ったのか。初めて出会ったあの日のように、また海岸で出会えないだろうか。

 

 開け放しの玄関から、夏に似つかわしくない涼やかな風が吹き込んだ。蠅も嫌な臭いも吹き散らすような気のする、気持ちの良い風。

 あの人と一緒に歩いていた時、よく吹いていた気もする風。

 私はゆっくりと外を見た。また幻視が始まっているのが分かった。独特の光で目が眩むのだ。

 蒼い海と空、それに入道雲が見える。

 蒼い空を、見た事もない緑色の何かがいくつも連なって飛んでいくのが見える。そうしてずっと清い風が吹きすさんでいる。

神風カンカジだ……」

 私はあの人の亡骸を撫でながらそう呟いた。

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