表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/32

〇 比較神話学以前の事

 ……沖へ遥々と出て見たけれどもそういう宝の島は見えないときまると、それでは空中に、または水の底に隠れて凡俗の眼には入らぬものという風に考えて行くのにも、別に大きな指導者の努力を必要としなかった。そうして程なくまた第二第三の関門にぶつかって遠い行く手の見定めもなく次々と無造作に屈曲して来たということがいわゆる固有宗教の弱味といえば弱味だが、同時にまた懐古の学問の測り知れざる魅力ともなっているのである。

 今でも第二の世界は私たちのあこがれであり、それが何処にもないと聴いて悲しみ力を落す者はまだ多い。ただそこへ行きまたは戻ってくる通路がはっきりとしておらぬために迷わざるを得なかったのである。

   ――柳田國男『海上の道』(昭和三十六年)――



 むかしむかし 琉球国のとある海岸。

 男も女も沈みつゝある夕陽を拝み、静かな小波さざなみの音、そして祝女ノロ達の穏やかな歌声だけが響いている。そこへ

「もしもし。一つお尋ねしてもよろしいですかな?」

 祝女達の歌を遮る不躾な大声が響いた。人々はぎょつとして声の主を見やる。

 声の主は頭を丸めた僧侶であった。粗末な袈裟を肩からかけている。

「はい。一体何事でしょうか、お上人様」

 これに応へたのは鮮やかな青色の着物を纏つた一人の若い祝女であった。

 僧侶は祝女の姿と人々が熱心に行っている儀式を交互に見やり、尋ねる。

何故なにゆへそなた達はねずみをさやうな小舟に乗せ、海へと流すのですか。かやうな引潮の時に流せばたちまち沖に流れて戻つて来られなくなります。あまりに可哀想に思ふのですが」

 僧侶の咎めの言葉を聞き、鼠を紐で括って一匹づつ小舟へと乗せていた男が手を止めて口を挟んだ。

「余計な事を申されるな。今年は鼠が真に多く、作物にまで害をなすので、かうしてお返しいたすのだ」

「返す? 鼠を海へと返すのですか?」

 僧侶の言葉に今度は先ほどの祝女がこう答えた。

「はい。海の向こうにあるニルヤの国へとお返しするのです。鼠はニルヤのオトヂキヨの悪戯子だとこの島の者は信じております」

「さはいへども、海へ流すなど、あまりに――」

 すると祝女はクスリと笑ひながらさらに答えた。

「あらおかしやお上人様。貴方様などは三宝に仕えるいと尊き僧身を、海に流したではありませぬか」

 祝女の言葉を聞いた僧侶は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに大きな声をあげて笑った。

嗚呼ああこれは――わははは! 一本取られまうした。拙僧、自分自身を海へと流してこの国へと参つたのでした」

 祝女の方もにつこりと微笑んでこう答える。

「あの日の事は私今でもよく覚えております。打保船うつぼぶねからよれよれのお坊様が出てきて開口一番『此処は補陀落ふだらくか?』とお尋ねになりましたもの」

「いやお恥ずかしい。拙僧、補陀落ふだらくを願ふ一心で水と僅かな糧物だけを船に積み、熊野の岬から海に出ました。それから長い間波に揺られ流され辿り着いたのが、この色鮮やかな花の咲く暖かな国。さうしてそこに居たのは真に美しい娘。あの時は、嗚呼、此処こそが浄土に異ならずと思いましたゆへ――」

「私の方もニルヤからの使者かと思いましたとも。海の果てから舟で流れてきなさつたのですもの。しかし実際は、ヤマトから流れてきた尊いお上人様でございました」



 ――全ての儀式が日没までに滞りなく終わり、鼠は皆海に流されていつた。

一仕事終えた人々は火を囲み、楽しげに夜の酒宴を始めた。先ほどの祝女と僧侶だけは少し離れた場所の篝火の下、海を眺めて話し込んでいる。

「我が日本ひのもとには本地垂迹ほんちすいじゃくといふ教へがあります。神もまた仏の仮の姿――いや神と仏は同じ物だと言った方が分かり良いかも知れませんな」

我島ウチナーにも唐土から来た僧侶はおりますが、彼らは王侯の為に加持祈祷をするだけです。仏法のお話などしてくれませぬ」

「日本の仏法も大昔はみかどと国家を護る為の祈祷であつたと言ひます。まあそれはそれとして――実は拙僧には常々不思議に思っていた事があるのです」

「不思議な事と言いまするのは」

「日本と琉球。この二つの国は明らかに別の国といへど、やや深く見ゆれば言葉の端々も似ているし、御座おはす神も似ているやうに、拙僧などは感じるのです」

「似ていると、言いますと……」

「拙僧から見ますると、たとへば貴女らが小高い丘の上で海を見ながら遥拝している神。そなた達はこの海の向こうにその神が御座す国が在ると信じているさうですが――拙僧が仕えていた熊野の権現様にどこか似ているやうに思はれます」

「クマノ……? すみませぬ、私には分かりませぬ」

古事記ふることぶみ日本書紀ひのもとのかきしるしにある名ではその権現様のまたの名を伊邪那美イザナミとも申します。古の日本の母なる神です」

「イザナミ……」

「なにゆへ二つの国に伝わる神が似ているのか。琉球の神にも御仏が垂迹しているのか。或いは日本の神と琉球の神は同じ国から来た同胞はらからなのか。拙僧には分かりませぬ。今は無明の時代ですので。もつともつと先の世なら、或いは違った何かが見えるのか……」


 ――祝女様! こちらへ来て下さいまし! お酒も用意してございます! 神歌をお聞かせ下さいまし! ヤマトのお坊様もどうぞ!

酒宴の方から呼ぶ声が聞こえる。二人は連れ立って歩き出した。

「やれやれ、祝女殿は人々に慕われておりますな。拙僧の方はさっぱりです」

「そんな事はありませぬ。現に私はお上人様の話をもっと聞きとうございます。私からも貴方のお話――ヤマトの神のお話を皆に語りませうとも。お教へ下さひ、そのイザナミといふ神が御座す国の名前を」

「イザナミの御座す国の名を黄泉よみと申します。或ひは常世国とこよのくに。古き言い方ではの国とも。海の果てにある光に満ちた国だという事です」

「イザナミ……トコヨ……ネノクニ――ニルヤ」

 祝女はふつと海の方を振り返る。そしてじっと水平線を眺めた。海の果てまで何も見えず、唯静かに小波がうつ音だけが聞こえていた。見渡してもどこまでもどこまでも平和で穏やかな海であった。





  ……ここに其のいも伊邪那美命イザナミノミコトを相見むとおもひて、黄泉国よみのくにに追ひ往きき。ここに殿の縢戸とざしどより出で向かへし時、伊邪那岐命イザナギノミコト語らひりたまひけらく、「愛しき我那邇妹命あがなにものみこと(我が妻)、われいましと作れる国、未だ作りへず。故、還るべし」とのりたまひき。

   爾に伊邪那美命イザナミノミコト答へまをしけらく、「悔しきかも、速く来ずて、黄泉戸喫よもつへぐい為つ。然れども愛しき我那勢命わがなせのみこと(我が夫)入り来坐きませる事、かしこし。故、還らむと欲ふを、且く黄泉神ヨモツガミ相論あげつらはむ。我をなたまひそ」とまをしき。……

   ――『古事記』神代――

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ