〇 比較神話学以前の事
……沖へ遥々と出て見たけれどもそういう宝の島は見えないときまると、それでは空中に、または水の底に隠れて凡俗の眼には入らぬものという風に考えて行くのにも、別に大きな指導者の努力を必要としなかった。そうして程なくまた第二第三の関門にぶつかって遠い行く手の見定めもなく次々と無造作に屈曲して来たということがいわゆる固有宗教の弱味といえば弱味だが、同時にまた懐古の学問の測り知れざる魅力ともなっているのである。
今でも第二の世界は私たちのあこがれであり、それが何処にもないと聴いて悲しみ力を落す者はまだ多い。ただそこへ行きまたは戻ってくる通路がはっきりとしておらぬために迷わざるを得なかったのである。
――柳田國男『海上の道』(昭和三十六年)――
むかしむかし 琉球国のとある海岸。
男も女も沈みつゝある夕陽を拝み、静かな小波の音、そして祝女達の穏やかな歌声だけが響いている。そこへ
「もしもし。一つお尋ねしてもよろしいですかな?」
祝女達の歌を遮る不躾な大声が響いた。人々はぎょつとして声の主を見やる。
声の主は頭を丸めた僧侶であった。粗末な袈裟を肩からかけている。
「はい。一体何事でしょうか、お上人様」
これに応へたのは鮮やかな青色の着物を纏つた一人の若い祝女であった。
僧侶は祝女の姿と人々が熱心に行っている儀式を交互に見やり、尋ねる。
「何故そなた達は鼠をさやうな小舟に乗せ、海へと流すのですか。かやうな引潮の時に流せばたちまち沖に流れて戻つて来られなくなります。あまりに可哀想に思ふのですが」
僧侶の咎めの言葉を聞き、鼠を紐で括って一匹づつ小舟へと乗せていた男が手を止めて口を挟んだ。
「余計な事を申されるな。今年は鼠が真に多く、作物にまで害をなすので、かうしてお返しいたすのだ」
「返す? 鼠を海へと返すのですか?」
僧侶の言葉に今度は先ほどの祝女がこう答えた。
「はい。海の向こうにあるニルヤの国へとお返しするのです。鼠はニルヤのオトヂキヨの悪戯子だとこの島の者は信じております」
「さはいへども、海へ流すなど、あまりに――」
すると祝女はクスリと笑ひながらさらに答えた。
「あらおかしやお上人様。貴方様などは三宝に仕えるいと尊き僧身を、海に流したではありませぬか」
祝女の言葉を聞いた僧侶は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに大きな声をあげて笑った。
「嗚呼これは――わははは! 一本取られまうした。拙僧、自分自身を海へと流してこの国へと参つたのでした」
祝女の方もにつこりと微笑んでこう答える。
「あの日の事は私今でもよく覚えております。打保船からよれよれのお坊様が出てきて開口一番『此処は補陀落か?』とお尋ねになりましたもの」
「いやお恥ずかしい。拙僧、補陀落を願ふ一心で水と僅かな糧物だけを船に積み、熊野の岬から海に出ました。それから長い間波に揺られ流され辿り着いたのが、この色鮮やかな花の咲く暖かな国。さうしてそこに居たのは真に美しい娘。あの時は、嗚呼、此処こそが浄土に異ならずと思いました故――」
「私の方もニルヤからの使者かと思いましたとも。海の果てから舟で流れてきなさつたのですもの。しかし実際は、ヤマトから流れてきた尊いお上人様でございました」
――全ての儀式が日没までに滞りなく終わり、鼠は皆海に流されていつた。
一仕事終えた人々は火を囲み、楽しげに夜の酒宴を始めた。先ほどの祝女と僧侶だけは少し離れた場所の篝火の下、海を眺めて話し込んでいる。
「我が日本には本地垂迹といふ教へがあります。神もまた仏の仮の姿――いや神と仏は同じ物だと言った方が分かり良いかも知れませんな」
「我島にも唐土から来た僧侶はおりますが、彼らは王侯の為に加持祈祷をするだけです。仏法のお話などしてくれませぬ」
「日本の仏法も大昔は帝と国家を護る為の祈祷であつたと言ひます。まあそれはそれとして――実は拙僧には常々不思議に思っていた事があるのです」
「不思議な事と言いまするのは」
「日本と琉球。この二つの国は明らかに別の国といへど、やや深く見ゆれば言葉の端々も似ているし、御座す神も似ているやうに、拙僧などは感じるのです」
「似ていると、言いますと……」
「拙僧から見ますると、たとへば貴女らが小高い丘の上で海を見ながら遥拝している神。そなた達はこの海の向こうにその神が御座す国が在ると信じているさうですが――拙僧が仕えていた熊野の権現様にどこか似ているやうに思はれます」
「クマノ……? すみませぬ、私には分かりませぬ」
「古事記や日本書紀にある名ではその権現様のまたの名を伊邪那美とも申します。古の日本の母なる神です」
「イザナミ……」
「なにゆへ二つの国に伝わる神が似ているのか。琉球の神にも御仏が垂迹しているのか。或いは日本の神と琉球の神は同じ国から来た同胞なのか。拙僧には分かりませぬ。今は無明の時代ですので。もつともつと先の世なら、或いは違った何かが見えるのか……」
――祝女様! こちらへ来て下さいまし! お酒も用意してございます! 神歌をお聞かせ下さいまし! ヤマトのお坊様もどうぞ!
酒宴の方から呼ぶ声が聞こえる。二人は連れ立って歩き出した。
「やれやれ、祝女殿は人々に慕われておりますな。拙僧の方はさっぱりです」
「そんな事はありませぬ。現に私はお上人様の話をもっと聞きとうございます。私からも貴方のお話――ヤマトの神のお話を皆に語りませうとも。お教へ下さひ、そのイザナミといふ神が御座す国の名前を」
「イザナミの御座す国の名を黄泉と申します。或ひは常世国。古き言い方では根の国とも。海の果てにある光に満ちた国だという事です」
「イザナミ……トコヨ……ネノクニ――ニルヤ」
祝女はふつと海の方を振り返る。そしてじっと水平線を眺めた。海の果てまで何も見えず、唯静かに小波がうつ音だけが聞こえていた。見渡してもどこまでもどこまでも平和で穏やかな海であった。
……是に其の妹伊邪那美命を相見むと欲ひて、黄泉国に追ひ往きき。爾に殿の縢戸より出で向かへし時、伊邪那岐命語らひ詔りたまひけらく、「愛しき我那邇妹命(我が妻)、吾と汝と作れる国、未だ作り竟へず。故、還るべし」とのりたまひき。
爾に伊邪那美命答へ白しけらく、「悔しきかも、速く来ずて、吾は黄泉戸喫為つ。然れども愛しき我那勢命(我が夫)入り来坐せる事、恐し。故、還らむと欲ふを、且く黄泉神と相論はむ。我をな視たまひそ」とまをしき。……
――『古事記』神代――