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Failed  作者: 玄侍
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Failed 後編

 三頭の虎が草原の中に身を隠し、腹這いでゆっくりと前進していく。グレーと黒の縞模様は目立ち辛く、遠目からは岩のようにしか見えない。獲物を見据える青い目の中には点を打ったような瞳孔があり、銃口の如く狙いを定めている。

 その先では、一人の若い男が木の幹にもたれて眠っていた。鎧を身に着け腰に剣も携えてはいるが、これではまるで無防備そのものだ。草原を吹き抜ける風には死の気配など微塵も混ざっておらず、彼の安らかな眠りを助長するだけだった。

 虎達は野草の背が低くなる直前まで彼に近寄って、立ち止まった。虎と彼の間は実に十歩ほどにまで迫っていた。虎達はこれから行う狩りへの興奮に荒ぶる呼吸を落ち着かせつつ、三頭の息が揃うのを慎重に待った。男は何やら寝言を呟きながら呑気に寝返りを打ち、虎に背を向ける体勢になった。

 虎達は互いの息が合ったことを沈黙の内に確認すると、一度ぐっと身を屈めて脚に力を込め、一斉に草の中から飛び出した。真ん中の虎が一際早い速度で距離を詰め、端の二頭はそれを取り囲むように後を追っていく。彼は我が身の危険に気がつく様子もない。

 真ん中の一頭が目の前まで迫り、獲物に飛び掛ろうとしたその時──横から駆け寄ってきていた別の人間が、体を入れてそれを遮った。

 「ギリギリセーフ」

 虎は固い鎧に鼻先をぶつけて呻り声を上げ、前足をついてその男を睨んだ。口周りに茶色い髭を蓄えた壮年らしい容姿、その手には棘がついた球状のハンマーを持っている。突然の妨害に狼狽えた他の二頭も、咄嗟に距離を取った。男は不敵な笑みを口元に浮かべながら巨大なハンマーを見せつけ、体勢を低くして唸る虎達を威嚇した。彼等も久々の獲物を諦めきれないのか、なかなか逃げ出そうとしない。

 「おい、起きろ子兎」

 そう声を掛けられて、やっと剣士は眠りから目覚めた。しかしその隙を突いた左の一頭がハンマーの男を横切り、剣士の体に一気に食い掛ろうとした。起きたばかりの彼は状況がすぐに掴めず、剣を抜く手が若干遅れた。虎は大口を開けて、容赦無く彼の喉元に飛び掛かっていく。

 だが次の瞬間には、虎はどこからか燕のように飛んできた一本の矢に首元を射抜かれ、木に磔にされていた。

 「おうっ」

 剣士は体を仰け反らせて驚いた表情をした後、にこやかに手を振って礼を言った。

 「助かったよ」

 両手に弓と矢の束を持った若い女が呆れた顔で彼を見つめている。

 「まだ助かってないでしょ」

 膠着状態を解いた虎はハンマーの男を無視し、油断している彼に駆け寄ろうとしたが、すかさず軽々と振られたハンマーに胴体を打たれ、黒い血を噴き出しながら遠くの草むらまで吹っ飛んでいった。

 それとほぼ同時に、ズン、と低い轟音が鳴り響いたかと思うと、残った虎のすぐ隣の地面に半球型の大きな穴が空いた。動揺する虎の行く先に、再び強い重力が起こって地面が丸く凹む。穴の底にはカマキリや草が糊のように潰れて張り付いていた。虎はすっかり怯えきって、一目散にその場から逃げ出していった。

 「スマン、外した」

 軽く詫びを入れながら、背の低い老人が杖をついて歩いてくる。禿げた頭とは対照的に、白いあご髭が地面に付きそうなほど長く伸びていた。眉毛も分厚く、目元が隠れきっている。

 「寝てばっかりいるから危ない目に合うのよ」

 射手の彼女が、矢の束を筒に片付けながらぼやく。ハンマーの男はそれを聞いて愉快そうに笑っていた。剣士も頭に手をやって決まり悪そうに笑った。

 その時、先ほど逃げた虎の鳴き声が遠くから聞こえてきた。しかし今度は甲高く、哀れな叫び声のようだった。

 声がした方を見ると、明らかに異質な存在が緑の真っ只中に佇んでいた。

 巨大な紫色の図体に、筋肉の塊のような太い腕と脚。頭には悪魔のように捻れた一対の角を生やし、右手には大きな両刃の斧を、左手には食いちぎられた虎の半身を持っている。そいつは遠くから彼らの姿を見つけると、狂気を孕んだ黄色い目をにやつかせ、無数の歯を剥き出して笑いながら、虎の半身を丸ごと口に入れて咀嚼し始めた。

 「寝起きでアレは、流石にきついか」

 ハンマーの男が苦笑じみた調子で言った。剣士は「いや」と呟いて首を横に振る。

 「丁度いいウォーミングアップになるよ」

 彼らは各々の武器を携え、恐れのない足取りで魔物の元へと向かっていった。


 *


 自分の意志で人を殺したのは初めてだった。

 怒りに任せて首を切り裂くと、男たちはあっさり動かなくなった。奴らの顔や腕には爪で掻かれたような傷がいくつもあり、マヤの抵抗がどれだけ激しかったのかを物語っていた。

 一人は股から流血していて、苦痛に身悶えている最中だった。そいつが納屋の中でどんなことをマヤに要求したのかは、考えたくもない。

 「何もしちゃいない」と、男たちは口々に主張していた。マヤに一物を噛み切られた直後、逆上したそいつが彼女を木片で殴って気絶させてからは、その気も萎えて外に出てきたという。勿論そんなことで許されるはずはない。許す訳がない。

 僕は男たちを殺した後、納屋に戻ってマヤの体を抱え、町の武器屋まで運んだ。体についた血を雨が洗い流すと、こめかみの大きな痣だけが痛ましく残った。

 致命傷の可能性が高い。

 涙はもう一滴も出てこなかった。悲しみは怒りに変わり、憎しみだけを増していった。憎悪の矛先は死んだ男たちを通り越して、その先は自分でも分からなくなっていった。視界に映る物が何もかも煩わしく、薄汚く見えた。中でも人間は、どんな相手でも敵のように思えた。

 マヤの姿を見ると、武器屋の男は血相を変えて何かを僕に怒鳴りつけていた。彼女をマットに寝かせてからもしきりに何か文句を言ったり、僕の肩を壁に叩きつけたりしていたけど、話の内容は一つも頭に入らなかった。

 僕はずっと考えていた。

 どうしてマヤがあんな目に遭わなければならないのか。マヤは僕よりもよほど人の役に立っていたし、多くの人々を救ってきた。荒んだ世界で彼女だけが唯一希望を持ち続け、人の心を信じていた。そんな彼女がどうして今、悪意の塊をぶつけられて、生死の境を彷徨っているのだろう。

 分からない。何もかも滅茶苦茶だ。

 ただ一つはっきりしているのは、自分の中で確実に増していく深い憎悪。それだけしかなかった。拳を握り、歯を食い縛っても全く収まりがつかない。

 『下らないだろ』

 地鳴りのように低く、重たい声がどこからか聞こえた。或いは頭の中で直に囁かれたようだった。店の外に出て辺りを見渡してみても、何者の影も見当たらない。ただ相変わらず弱い雨がしとしと降り続いて、荒廃した町の瓦礫を濡らしているだけだ。

 『この世に守る価値はない。存続する価値もない』

 声は左右から立体的に聞こえることもあれば、頭の中心から聞こえている気もした。内容とは裏腹に、話ぶりはいたって単調であり、どこかに親しみのような物が込もっていた。ただその声を聞けば聞くほど、民衆に対する恨みが強くなっていくのを感じた。

 「どこにいる」

 そう訊いた自分の声も、いつもより随分と低くなっていた。

 『城に来い。道中の邪魔は除いておく』

 口の端から無意識に笑みが洩れる。

 声の主が待つ廃城の元へと、僕は再び歩き出した。


 *


  城の大きさは思っていたほどではなかった。

 元々そこは隣国との境界線上に位置していた場所であり、この城を中心として高く長い壁が南北に渡って築かれていたという。そういう意味では、これは砦と呼ぶ方が相応しいのかもしれない。実際、住んでいたのも王族ではなく外務を担う官職や使用人達であり、隣国を吸収して壁が壊された今となっては記念碑的な役割のみを果たしている。勿論、「それ」が支配と破壊の拠点としてここを占領するまでの話ではあるけれど。

 廃城は全体が黒い石で出来ていて、長い年月による風化も相まって酷く朽ち果てて見える。気のせいか、この城の周りは何か禍々しい空気で淀んでいるような感じがある。空は一段と暗い雲に覆われ、上階に向かうほど陽炎のような大気の揺らぎが強まっているようにも見える。そして鼻腔を突く酸っぱい腐臭だが、その原因は見て明らか、外壁の周りの至る所にあらゆる動物の骨やミイラが生ゴミみたく散乱しているのだ。その中に、絶叫を焼き付けたような人間の骨格が幾つか混じっているのを見つけて、僕は短い笑いを鼻から洩らした。

 鉄の扉が開け放された入り口を通り、中に足を踏み入れる。目の前は暗くて何も見えないが、奥の方に外からの淡い光が差していて、太い柱に巻きつくようにして設けられた螺旋階段の層を照らし出していた。僕は真っ直ぐにそれに向かう。

 シ──……

 周りの暗闇から聞こえるその囁きには、どこか懐かしさすら感じた。時折赤い光を放つ四つの目がこちらを見ていたが、特に何もしてこなかった。

 螺旋階段の途中には三度、廊下へと繋がっている箇所があり、廊下は円柱型の建物の内側を直径として結んでいた。そこから壁に沿った円い廊下へ続き、各部屋のドアが並ぶ構造になっている。三階のある一部屋は、巨大な鎖と沢山の錠で堅牢に閉ざされていた。

 光差す最上階へ出る。そこはいくらか広い空間になっていて、部屋の装飾も他より少しは豪華だった。そして何よりも、ここに漂う負のオーラは圧倒的だ。今の僕にとってこれほど心地の良い環境は他にない。

 「来たか」

 今度は普通に声を掛けられた。見ると、壁の開口部に腰掛けて項垂れていたそいつがゆっくりとした動作で床に降り、こちらに顔を向けて歩いてきた。その姿は初老の人間のそれだったが、体の軸は真っ直ぐしていて、背は高く、体格も良かった。白い髪が後ろ向きに整えられていて、同じく白い顎の髭が品良く揃えられていた。瞳の色は青く、深い哀愁と静かな怒りをその奥に湛えている。男は黒のローブを身に纏い、大きめのフードを背中に垂らしていた。

 男は目の前まで迫ると、口元に笑みを浮かべて握手を求めて来た。

 「やあ。初めまして」と、男は低い声と冗談じみた調子で言った。

 僕は彼の手を握った。

 その時、突然強い風が僕らの周りだけに猛然と吹き荒れた。同時に、確かな感触を持った青い炎の塊が周囲を目まぐるしく飛び交い、僕の身体のあらゆる部分に衝突して、内部へと浸透していった。それは氷のように冷たく、業火のように熱かった。体内の隅々までその火に焼き尽くされるような苦しみが僕を襲い、視界の全てが青い渦に支配された。叫び、床に膝を突き、のたうち回る。その間もずっと男は僕の手を残酷に握り続けていた。

 全身を駆け巡る冷気と高熱、怨念、憤怒、憎悪──。僕は自分が一つの巨大な敵意の塊となり、心身ともに魔の物へと変化していくのを肌で感じ取っていた。それに伴い、これまでの人生の記憶の断片がいくつも脳裏に蘇って消えていくのが分かった。

 それが、いわゆる走馬灯のような代物だったということは間違いない。

 失われゆく思い出に涙を流そうとしてみても、それは端から熱で蒸発していくだけだった。


 *


 「勇者ってのは、職業なんぞじゃない」

 父さんが口癖のように言っていたその言葉を、今更になって思い出す。夕食の席でも、薪割りの途中でも──酒に酔った時などにはなおさら何度も繰り返し、父さんは僕にその台詞を投げ続けていた。その頃の僕はただ何も考えずに剣の練習に励んでいたばかりで、物事の本当の意味だとか、人生の正しい在り方とか、そういうことについて真剣に考えたことは一度もなかった。だから父さんの言葉の意味も、分かっていたようで全然分かっていなかった。

 「今日から勇者になる、だのと言ってなるようなもんじゃないんだ。戦いは仕事じゃないし、遊びでもない」

 暖炉の前のロッキングチェアに腰掛けてライフルの手入れをする父さんの後ろ姿が、オレンジ色の光に包まれてぼんやり目の前に浮かぶ。口にくわえたパイプが何かを話す度に上下に動く。

 「誰か、他の人間のために戦うべき時が来るんだ。……いや、大抵の奴には、そんな時は一生待っても訪れやしない。だが、もしもお前にその時が来たのなら、決して投げ出さずに最後まで戦え」

 どうして今なのだろう。もう何もかも遅過ぎるというのに、なぜ此の期に及んでその言葉が胸の内に蘇って来るのか、さっぱり訳が分からない。

 ──戦うべき時なんて僕には来やしなかったんだよ、だって始めから何もかも無意味だったんだ。守るべき価値なんてどこにもなかった。

 存続すること、滅ぶこと、一体何がどう違う?どっちが希望でどっちが絶望かなんて誰がどんな理屈で決めた?どこかの誰かが救いを望んでいるのと同じように、僕は滅亡を心から望む。どちらも立派な願いじゃないか。

 やっと本当の目的を見つけたんだ。何かを救う為の戦いなんて僕には綺麗事すぎた。

 「たった一人の為でも良い。たった一人の為でも戦い抜けたなら、それが『勇気ある者』ってもんだ。身分やら能力ばかりを引っ提げた下らん男にはなるなよ、ヨウ」

 「何をらしい口聞いてるのよ」

 母さんが魚のパイの乗った大皿をテーブルに置きながら、呆れた笑顔でそう言った。父さんは何も言わずにパイプを口から離し、長い煙を吐いた。

 たった一人の為に──絶対に助けなければいけなかった人──僕はその一人すら守れなかった。だから代わりに、そのせめてもの償いに、彼女を手酷く裏切ったこの世界に復讐しよう。そう心に決めたのだ。

 冷たい憎悪の炎を燃やして、破壊と殺戮を成し遂げてやろう。もう失敗はしない。

 暖かな光景が蒼炎の渦に覆われ、跡形もなく消え去っていく。肉体と精神が負の力を完全に受け入れていった。

 もはや今の僕に出来ないことなど何も無い。


 *


 男は壁の四角い開口部の側に立って外の景色をじっと眺めていた。これからその全てを葬り去ろうとしている風にはあまり見えない。まるで国王がのどかな城下の風景を満足げに眺めているような、そんな姿に見えた。

 すぐ近くの空を一羽の鳶が飛んでいる。男はしばらく自由気ままに宙を旋回する鳶を見つめた後、左の掌をそれに向けて厳かに伸ばした。鳶の飛行に動きを合わせつつ、腕に軽く力を入れる。すると鳶は空中で魂が抜けたように気を失い、頭を真下にして一直線に落下していった。

 しかしそのすぐ後に再び浮上し、気が触れたような不気味な啼き声を二、三ギャアギャア上げたかと思えば、そのまま町の方へと飛び去っていった。

 男は腕を上げたまま鳶の行く方を静かに見守った後、ゆっくりとその手を下ろした。

 「気がついたか」

 男はこちらを振り向かずにそう言った。僕は何も言わずに青い瞳孔を彼に向けていた。

 「私の持つ力の内、三割程度をお前に分け与えた。それだけでも十分に強力なはずだ。大抵の物は思う通りに破壊し、操ることが出来る」

 僕は試しに床の隅に転がっていた壁の破片へと左手を向け、力を込めてみた。拳ほどの石が容易く木っ端微塵になった。

 「一体、何者なんだ?」

 そう訊いても、男は黙ったまま何も言おうとしない。僕は自分の手の平に目を落とし、よく観察してみたけれど、どこも変わったところはなかった。

 「……もう何者でもないさ。何も覚えていないが、そう……一国の王に仕える身だったことだけは、確かかもしれん」

 男は自分自身の中に眠る記憶を探るように、下を向いてそれだけを話した。彼のことについて、それ以上の過去が語られることはそれきり二度となかった。恐らく彼自身も、もう本当に何も覚えていないのかもしれない。

 僕もいずれはそうなるのだろうか。今だって、残された記憶は酷く曖昧で、まるでもう自分の思い出ではないような気がしている。これさえも、もうすぐすっかり消えて失くなるのだろうか。厚い暗闇の層の下に沈めてしまったように、記憶は何もかも不明瞭で、それぞれの境界がぼやけて、滲んでいる。感情を伴った思い出なんてほとんど残っていない。

 ただ一つだけ、鮮明に思い浮かぶ顔があった。

 幼くもしっかりとした、活気に満ち溢れた女の子の顔。夕暮れの日に照らされ、こちらを見ながら人懐こく笑っている。一体それがいつなのか、どんな場所だったのか──それが誰だったのかも、思い出すことはできない。

 だけど、それを思い浮かべるのはなぜかとても悲しく、不思議と憎しみの力を強くした。多分それは、僕がこの無差別の怒りに目覚める何かしらのきっかけだったんだろう。だから今でも忘れないでいられるのかもしれない。

 その子が笑う度に衝動が生まれ、無造作に全身を駆け巡る。固く瞑った目を薄く開いて、男の方を見遣る。男はずっと押し黙って何かを考えているようだ。

 「どうして、いつまでもここにいる?直接手を下せば終わりじゃないのか」

 「……ああ。そうだな」

 男は一度言葉を切って、僕の方へと振り返った。

 「お前がそうしたいなら、そうすればいい。だが私はここで、民が滅び行く様を眺めるさ」

 男は再び外の景色に目をやり、枠に背を凭れて座った。立てた膝に左腕を置き、右腕は体を支えている。遠い目がどこか一点を見つめていた。

 「なぜ?」

 「その方が、性に合っているからな」

 全く理解が出来なかった。この男の怒りというのはその程度のものなのか?あれだけの悪しき力を宿しておきながら、どうして破壊に及ぼうとしない?そんな体たらくが巨悪のあるべき姿なのか?

 男は僕の方を見て、歯を見せて笑った。

 「不満か?」

 「ああ」

 「だったら、暴れてくればいい」

 僕は黙って立ち上がり、螺旋階段の方に向かった。

 「一つだけ、気をつけておけ。どうも近頃、他所者の気配があってな」

 「他所者?」

 「ああ。……まあしかし、取るに足らんだろうが」

 男はまたも自問するように顔を俯け、神妙な表情を浮かべていた。こいつの意味深げな態度にはもううんざりだ。

 気に入らないならさっさと殺せばいい。

 螺旋階段を降り、廃城を出た。手始めに何から消してやろうか。

 暴漢がいい、と考えた訳は自分でもよくわからないが、とにかくこれで目標は定まった。国中の悪漢を殺し、汚れた傍観者共を殺し、行く行くはこの国を更地に変えてやる。

 町の煙が遠くに見える。それに向けて、僕は拳を振って歩き出した。


 *


 「流石にこういうとこまで来ると、暗いね。雰囲気が」

 剣士が頭の後ろに手をやりながら、能天気にそう言った。

 暗雲立ち込める空の下を、四人組の戦士達が肩を並べて歩いていく。彼ら以外の人通りは、ほとんど全くと言うほど無い。ただ道端の所々に、男や女の屍が無残に転がっているだけだった。屍は白骨化までした古いものもあれば、つい最近何かに殺されたような新しいものも混じっていた。

 「もう何度も来てるでしょ。こういうところ」と、射手の女が赤い髪を撫でながら言った。

 「まあ……っていうか正直、もうちょっと飽きて来たかな」

 「おいおい」

 ハンマーの男が笑いながら、足元の屍の頭につまづいた。彼はそれを軽く蹴って道の隅に退かした。

 「だって、ほら、思ってたより地味でしょ?俺はもっとずっと派手な冒険をイメージしてた訳よ。こんな風にだだっ広いばっかの世界を旅して、毎回毎回同じような奴を倒して……って、疲れるだけでしょ。おつかいじゃないんだから」

 剣士が好き勝手に吐き出す不満に、射手は腕を組んでため息をついた。

 「しょうがないじゃないの。あたしだってこんなダサい格好、今すぐ止めたいわよ」

 「けっこう似合っとるがのう。特にその、胸当てが良い」

 老人が長い顎髭を上下させながらほっほと笑う。その時、近くに転がる青年ほどの男が必死に左手を伸ばしていたが、老人は気がつかないふりをしながら杖でその手を押しやった。剣士は横目でそれを見ると、宙に目を逸らして肩をすくめた。

 「やんなっちゃうね。全く」

 少し離れた民家のどこかから、野蛮な男達の雄叫びが聞こえて来た。すっかり耳慣れたそれに一同が呆れていると、暴漢共の声は突如、断末魔の叫びへと変わった。

 幾重もの絶叫と何かの破裂するような音がしばらく続き、やがて嵐が去ったように沈黙した。

 四人は声がした方へと虚ろな目を向けながら、しばしの間、黙って立ち止まっていた。

 「何かあったのか」

 ハンマーが一応という調子で呟いた。さあね、と剣士が答えた。後は誰も、そのことについて話そうとする者はいなかった。

 一匹の鳶がどこからか飛んできて、怪しく叫びながら彼らの遥か頭上を旋回し始めた。狙いをつけているのは明らかだ。

 「射抜いちゃってよ。あれ」と、剣士が軽薄な調子で言った。

 「高すぎてムリよ。流石に」

 「じゃちょっと貸してみ。当てるから」

 剣士は返事を待たずに弓と矢を手に取り、慣れない手つきでそれを構え、空に向けた。これ見よがしに片目を閉じて、鳶の旋回にタイミングを合わせて、握った手を離す。

 矢は鳶のいる高度までなんとか届いたものの、そこで完全に勢いを失い情けなく落ちていった。狙いも全く見当違いの方向だった。

 「だめだこりゃ」

 剣士が言いながら弓矢を返すと、射手は細い目つきでそれを奪い取った。ハンマーはただただ大声で笑い、老人は無関心そうに前を見て歩いているだけだった。鳶はその後一気に下降して啼きながら襲いかかってきたが、すかさず射手が放った一矢により翼の付け根を抜かれ、ちょうど民家の煙突の中に落ちていった。若い娘の悲鳴が少し遅れて響いた。

 「どうよ」

 誇らしげな目を向ける射手に対して、剣士は素直に感心していた。

 「狙ってやったの?」

 「そう」

 「そりゃすごいね」

  鳶の落ちた家から聞こえる騒々しい啼き声と悲鳴に、老人はまたほっほと笑っている。

 「あれ、まだ生きてるぜ」と言いつつ、ハンマーも笑っていた。

 中年ほどの女がそんな彼らの姿を偶然見つけたらしく、家から飛び出して周りを気にしながら走って来た。

 「あのう、武器を携えて……戦士様でいらっしゃいますでしょうか?」

 「そうだよ」

 剣士は気怠そうな表情を隠すこともなく答えた。女は顔色をぱっと明るくして彼の手を握り、それから全員と固く握手を交わした。射手は露骨に顔をしかめて女を睨みつけた。

 「ああ。ありがとうございます、ありがとうございます。あなた方は正に、希望の光そのものですわ。そうだ、何か、お食べ物は要りませんか?もうあまり大した物は残っていませんが、果物なら幾つか……」

 「いらないよ」

 女の早口を遮って、剣士が口を開いた。ハンマーは頭を掻きながら小さく舌打ちをした。

 「そうですか……そう、もしお疲れでしたら、いつでも家で休んでください。家はこれでも宿屋なので、ベッドだけは何とか揃えてあって……」

 「なあ奥さん、もう行ってもいいかの」

 老人がわざとらしく不機嫌な声を出して問いかけた。女は口に手を当てて目を見開いてから、いかにも申し訳なさそうに頭を低く下げた。

 「これは、申し訳御座いませんでした。御健闘を、心からお祈りいたします」

 最後にそれだけ言い残して、女は周囲を見回した後、足早にその場を去って行った。

 「何あれ。ウッザい」

 射手が毒を効かせた声で言った。剣士は再びつまらなさそうに頭の後ろに手を回して、側に落ちていた小石を大きく蹴飛ばした。

 小石が転がっていった先のいくらか遠くに、道の真ん中で立ち尽くしながら四人を見つめる若い男の姿があった。男は道を横切る途中に彼らを見つけたようで、半身に構えたまま微動だにせず、じっとこちらを睨みつけていた。

 「まーた変なのがいるな」

 ハンマーが煩わしそうにぼやく。老人は杖に両手を重ねたまま体を前へ傾け、相手の目元の辺りをまじまじと注視していた。

 「ほっとこうよ、もう」

 剣士の言葉に促され、一同は妙な男を避けるようにして先へと進んでいった。老人だけは最後まで相手の様子を気に掛けていたが、「行くぞ。じいさん」というハンマーの言葉に促され、のろのろと剣士の後を追って歩いて行った。


 *


 一つの町の暴漢を皆殺しにするのに、三十分も掛からなかった。逃げ隠れる者を見つけ出すのには多少苦労したけれど、五感が研ぎ澄まされているだけあって、どこにいても難なく察知できた。追い詰めた相手の怯えきった様を見るのは気味が良かった。腰に携えた剣をわざわざ抜く必要はない。軽く念力を加えればそれで十分だった。

 頰に飛び散った小さな肉片を指で撥ね、両手を組んで軽く体を伸ばした。目の前に広がる屍の山から流れる血を念動力で押しやり、道を作る。

 年増の女が家の中から奇妙な目でこっちを見ていた。悪党を成敗してくれたとでも思っているのか、はたまた危険な存在と捉えているのだろうか。どちらともつかず戸惑っているのかもしれない。

 いずれにしろ、あれも罪深い傍観者の一人には違いないのだ。誰も彼も自分の身を案じてばかりいる。浅ましい限りだ。この下らない世の中がそのうち消えてなくなることを思うと、口元を緩ませない訳にはいかない。女は僕の笑う顔を見て急に目を背け、すぐさまカーテンを閉め切った。

 さっきの鳶が狂った啼き声を上げてすぐそこの空を飛んでいる。獲物でも見つけたのだろうか。

 よく見ると、そこに一発、非力な矢が放たれて落ちていく様があった。どうやらどこかに馬鹿な男がまだ残っていたらしい。僕が手を下すまでもなく、どうせあの鳶にやられて終わりだろう。

 そう考えて見ていたけれど、鳶は狙いをつけて襲いかかったかと思いきや、次の矢に翼を射抜かれて煙突の中にストンと落っこちてしまった。まぐれにしても珍しいことがあるものだ、と僕は思い苦笑した。

 のんびりしてはいられない。鳶をやった男を見つけて殺した後は、次の町で殺戮を始める。野蛮な族どもが消えれば次は庶民の番だ。全部終わらせるまでは気が休まらない。

 矢が飛んだのはどの辺りだっけな。

 僕にとって殺しは苦行でも快楽でもなく、義務的な行為に変化しつつあった。


 *


 男は一人、荒れ果てた町の様子を遠い目で眺めていた。時折真っ赤な鮮血が広い範囲に飛び散る様が、そこからでもわずかに確認することができた。我武者羅に怒りをぶち撒ける彼の姿を想像して、男は静かに笑った。

 男の中に衝動的な怒りや憎しみはなかった。ただ純粋に人間に絶望し、心から拒絶しているだけだ。人間を側で見ることさえも耐え兼ねたし、触れることなどは以ての外だった。だからこそ彼は多種多様な生物をその力によって危険な化け物へと変化させることにより、自らが直接手を下すことなくこの国を滅亡へと導いてきたのだった。またそれが深い部分においての怒りや憎しみであることにも違いなかった。衝動的ではなく、もっと遥かに根源的で芯に根ざした憤怒と憎悪が彼の中には存在しているようだ。その彼が唯一接触を許したのは、同じく強い敵意と負の心に取り憑かれたあの元剣士だけだった。

 しかし、そんな彼の人間と乖離した暮らしも一旦の終わりを迎えようとしていた。

 他所の遠い国から遣わされた四人の戦士がもうすぐそこまで迫っていることに、彼はかなり以前から気がついていた。それでも根城を変えることはしなかった。逃げたところで再び居場所を突き止められるのみであり、また自分以外の手で四人の息の根を止めるのが不可能であることも想定済みだった。四人それぞれが持つ能力の際立った強力さは、遠く離れた地点からでも明確に伝わっていた。しかし、その中には一人だけ、他と異なる気配を放つ者が混じっている。

 その気配が一体何であるかは、彼にも分かり兼ねた。さきほどから眉根を寄せて精神を集中しているのだが、それでも一向に答えは出ない。ただ刻一刻と戦士達の一行が近づくだけだった。

 「もう……そろそろだな」

 男は呟き、開口部の側まで歩いて行って外を見下ろした。一行は真っ直ぐに城の入り口に向かって歩いていた。その足取りには自信を超えたある種の倦怠感すら宿っていた。

 彼はその中の一人、剣士に注目した。そしてその装備を確認した時、ようやく今までの異質な気配の意味が判り、僅かな笑いを洩らした。

 「さあ。どうしたものか」

 男の心持ちは普段と比べればいくらか軽かった。やっと自分を凌駕し得る敵が現れたことに、幾許かの安堵を感じていたのかもしない。


 *


 結局、矢を射ったはずの男は見つからずに、気配も感じ取れなかった。その代わりに、妙な格好をした個性的な四人のグループが現れ、どこかへ歩いていった。その中には確かに、弓矢を持つ女も混じっていた。

 あの女がやったのだろうか。そもそも、彼奴らは一体何者なのだろう。この国に有望な戦士などもう一人も残ってはいないはずだ。

 他所者、というあの男の言葉が脳裏に浮かぶ。もしも彼奴らがその他所者だったとしたら、あの場で見逃さずに殺しておけばよかったのかも知れない。まあ放っておいても道中で化け物にやられるか、運良く城へたどり着いたとしても一瞬で捻り潰されるのが関の山だろうけど。

 あの時、男が浮かべていた神妙な面持ちがなぜか気に掛かった。取るに足りない相手と言っておきながら、余裕のようなものが一切感じられなかったのは気のせいだろうか。

 まあ考えても仕方がない。僕は自分のやることを最後まで果たすだけだ。城に篭るばかりのあいつとは怒りの程度というものが違う。

 何ならこのままこの町に居残って、全ての人間を根絶やしにしてしまおうか。考えてみればその方がずっと効率がいい。暴漢を何人も殺して、野蛮な男共に対する怒りも一時的ではあるが収まってきたところだ。今はそれよりも、奴らが死んで救われた気になっている善良じみた町民の方がよほど憎らしい。

 適当な家に狙いをつけ、戸を破壊する。果たして中に人は残っているのだろうか。

 『悪いが、城に戻ってくれないか』

 唐突に奴の声が頭に響いた。これからが本番だというのに、一体どういうことなのか。

 「なぜ?」

 『何、予想より少しばかり手強いのが来てな。手を借りたい』

 僕は耳を疑った。手強い?手を借りる?どうしてあいつがそんな窮地に追い込まれるようなことがあるのか。やはりさっきの四人が城へ?だとしても、たかが人間じゃないか。

 からかって馬鹿にしているのか、と考えるのが一番自然に思えた。しかしそこまで下らない真似をするような男とも思えない。

 「嫌だと言ったら、どうなる」

 『構わんが……私が、死ねば次の、……的はお前だ。とても、敵わんぞ』

 言葉の端々が途切れてしまっている。どうやら本当に苦戦しているらしい。全く、信じられないようなことだ。一体どう攻められた結果なのか、想像がつかない。

 「分かった。待ってろ」

 男の自嘲じみた笑いが、周囲に染み渡るようにして響いた。

 『出来れば……急いでくれたらありがたい』


 *


 城まで結構な距離を走ったものの、疲れはほとんど感じなかった。

 さっきまでこの城を取り囲んでいた禍々しい空気は目に見えて弱まっていて、奴の衰弱ぶりが窺えた。

 『来たか』

 その言葉が聞こえた直後、最上階の開口部から何か鈍く光る物が飛び出して、落下して来た。拾い上げると、それは奇妙な意匠が施された鍵だった。

 『三階に、閉ざさ……部屋があったはずだ。そこへ行って、中の物を持……私に寄越して欲しい』

 「ああ」

 『急げ……奴らが、油断して……内に』

 僕は鍵を手に握り、城に入って螺旋階段を駆け上がった。さっき上がって来たときよりも随分容易く登ることができた。

 階段の途中で廊下に入り、閉ざされた扉の前に立つ。錠の穴に鍵を入れ、一つ一つ鎖を取り外していく。厳重な封印を解くのには思ったよりも時間が掛かった。

 『まだか』

 「待ってろ」

 全ての鎖を降ろし、重い扉をこじ開けた瞬間────。燦然とした輝きが突然目の前に起こり、視界を真っ白く覆い尽くした。

 あまりの眩しさに、僕は思わず目を覆って唸った。

 薄眼を開けて、光る物体を見る。明るさに目が慣れると、それほど強力な光ではないことが分かった。

 月の光と同程度か、僅かに強い程度だろうか、円い形の頭が発光していて、茎と葉が付いている。植物のようだ。石の鉢から二本生えており、互いに合わさって少しだけ光を強めている。

 黄色く光る植物。初めて知るはずなのに、あまり驚きはない。ただ、何故かこれを見ていると、心の奥がざわついて仕方がなかった。

 月のような円い花と、淡い光。この植物の名前は…………そう、『月花草』だ。大抵の病気や怪我が治せるすごい薬草。神秘の万能薬。まるで誰かから聞いた言葉みたいだ。

 誰かから──この薬草を誰よりも探し求めていた──そして今、彼女自身が一番必要としているはずの……気を失って、生死の境を彷徨っている彼女自身が。

 思えばあれは、僕のせいだった。僕があんなところに一人で置き去りにしたからいけなかったんだ。だから今すぐ彼女の命を救って、謝らなきゃいけない。今までのことも、あのことも何もかも。だから……。

 そうだ。早くこれをマヤの所に持っていかないと。

 どうして今まで忘れていたのか不思議だ。あんなに大事な出来事を。あんなに大切な人を。

 僕は二本の月花草を持ち、階段を駆け下りた。一つはマヤのため、もう一つは彼女の父さんのためだ。間に合うかどうかは運次第だろう。

 『待て!どこへ行く』

 もうそいつに対して何も答えることはない。憎しみが完全に消えたわけじゃないけれど、だけど考えてみれば、本当に責めるべきは自分だったのだ。僕はもう悪の化身でも魔王の配下でもない。ただの駄目な男だ。

 「待て!」

 肉声が最上階から聞こえる。その後、強い光と共に、骨身を剣で貫かれる鈍い音と、苦痛に叫ぶ奴の声が聞こえて来た。場に相応しくない、拍手の音が混じっている。

 僕は振り返ることもなく階段を降りて行く。まだ与えられた力は失せていないのか、体力だけは十二分にあった。

 奴の静かな笑い声が脳内に響く。いかにも可笑しそうに、僕が階段を降りきるまであいつはずっと笑っていた。

 『やはり……人を、信じるものではないな』

 その言葉を最後に、もう奴の気配を感じることはなくなった。


 *


 月花草を抱えて、城を出る。あと少しで彼女を、マヤを救うことができる。

 しかし数歩走った後、突如、鋭い痛みが僕の右脚を襲った。転倒しながら見ると、脚には一本の矢が突き刺さって貫通していた。矢羽をよく見ると、そこに描かれた模様はいつかの老婆が持っていた魔除けの幾何学模様と同じ物だった。

 城の二階からこっちを見てガッツポーズを取っているのは、あの時四人組の中にいた女だった。

 「ぐうっ」

 激痛に呻きつつ、矢を折って引き抜く。矢はまじないのせいで触れるだけでも力が抜けてしまい、なかなか引っ張ることが出来なかった。

 やっと矢を取り除くと、傷口は少しづつ塞がり、やがて完全に治ってしまった。どうやら自然治癒力が格段に高まっているらしい。

 「おーい、抜けちゃったぞ」

 ハンマーを持った男が城の中から歩いて出てくるなり、大声で上にそう言った。女は嫌な顔をしながら次の矢を準備していた。

 僕は再び月花草を抱えて走り出したものの、またも飛んで来た矢に背中をやられてしまった。転倒こそしなかったものの、とても走ることが出来なかった。

 ハンマーの男がへらへら笑いながら駆け寄って来る。僕は急いで背中の矢に手を伸ばす。傷口が治ると分かればもう慎重になる必要はない。力を振り絞って、思いきり矢を引き抜いた。背中に穴が開き、血が飛び散る。

 「うわっ、グロいなあ」

 ハンマー男は顔をしかめて僕を見た後、頭上高くハンマーを振り上げ、そして脳天めがけて一気に振り下ろしてきた。体を転がして避けたかと思いきや、そのまま横にハンマーを振られて肩に重い一撃を食らった。

 吹っ飛ばされて地面に伏しつつも、痛みに耐えて精神を集中した。念力を使い、余裕で歩み寄るハンマー男の足をへし折る。しかし防具が少し凹んだだけで、確かな手応えはなかった。男は軽い痛みに耐えるように顔を歪めた後、苛だたしそうに舌打ちをした。

 「ただの防具じゃねえんだよ……おい、じいさんと勇者様はまだか!」

 そう奴が叫んだ時、城からもう一人の男が現れた。剣士だった。赤い防具を身に纏い、頭を掻きながら歩いて来た。

 「悪い、疲れて休んでた」

 「じいさんは?」

 「まだ階段降りてる途中」

 一体こいつら何者なんだ?この余裕、軽薄な態度、人を嘲笑うような言動……こんな奴らに邪魔をされている訳にはいかない。

 僕は地面に落ちている月花草の元へ走った。女が三本目の矢を放ち、耳を掠める。

 その時、剣士が月花草の存在に気づいて、全力で走って来た。

 「なに?それ」

 先に手に入れようと手を伸ばした時、肩に矢が突き刺さり、そのまま倒れた。僕は二階を睨んで次に放ってきた矢を突き返した。女は壁に身を引っ込めてそれを避けた。

 「それは……月花草じゃの」

 老人が驚いた様子で城から出て来て、剣士の持つ月花草をその手へと引き寄せた。二本の月花草はゆるゆると宙を漂って老人の手の内に収まってしまった。

 老人は杖を落として月花草を持ち、まじまじとそれを見つめた。

 「凄い。日の光を集めるとは聞いとったが、こんな場所でも輝けるとは……」

 「そんなに価値があるの?それ」

 剣士がそう聞くのと同時に、僕は老人が手から離した杖を引き寄せて奪い取った。

 「その花を返せ。お前らには必要ないだろ」

 不意を突かれた老人は少し慌てたものの、すぐに落ち着きを取り戻してほっほと笑った。その直後、僕は全身を強い力で押さえ付けられるような感覚に襲われ、強制的に地面にうつ伏せにされた。体に掛かる重みがどんどん強まっていく。

 「くっ……ぐ……」

 「生憎、そりゃ魔法の杖ではないのでな」

 骨が軋む。内臓が破裂しそうだ。僕も必死に対抗したものの、向こうの力が強まる一方だった。 

 頭が割れるように痛み、口から血が出てきた。意識が朦朧とし始める。

 ──たった一人の為でも良い。

 父さんの幻影が再び現れてそう語りかける。今度は本当の走馬灯なのだろうか。

 たった一人の為……今はマヤのためだ。あの時──僕が剣の練習を卒業した日の帰り道で見た彼女の笑顔を、僕はずっと忘れていなかった。

 やっぱりここで死ぬ訳にはいかない。

 気力を振り絞って抵抗を強めると、一瞬、重力に隙が生まれた。僕はその間に体を捻り、その場から抜け出すことに成功した。直後、僕がいた場所には轟音と共に大きな穴が空いた。

 全身の痣が消え、関節が元に戻り、痛みは緩和されていく。

 「マジかよ」と、ハンマーの男が驚きの声を上げる。

 僕はそこから全力で走り出し、城の入り口へと向かった。地面に幾つもの穴が空くも、どれも少し外れていた。ハンマーの男が後ろから追って来たものの、重い得物の為にあまり速くは走れないようだ。

 乱射された矢の一本が右腕を貫通したけれど、無視して突き進んだ。痛みは凄まじいけど、利き腕じゃないから無問題だ。

 老人に念動力を使ったが、強い抵抗を受けてしまった。しかしそれは想定内だった。全神経を集中させて念を送り続け、抵抗に専念させ続ける。その隙に急接近して足元を払うと、老人はいとも簡単に転んで後頭部を城の壁に強打し、暫くの間そこで気絶していた。

 城の入り口から中に入ろうとした時、剣士が目の前に立ち塞がった。鞘から抜かれた剣は、黄金色に輝いていた。

 「はい。ここまで」

 剣士は怠そうにそう言った後、剣を振りかざしてきた。

 相手の剣の腕は素人並で、避けること自体は容易だった。しかし振られた剣身から光の帯が放たれ、その先端が僕の脇腹に触れた。当たった箇所は斬られたように傷が出来、それは時間が経っても治ろうとしなかった。傷口から少しずつ血が流れていく。

 「すごくない?これ、俺にしか使えないんだって」

 言いながら、剣士は再び離れた位置から剣を振り、光の帯を飛ばしてきた。必死で回避するも、でたらめに繰り出される攻撃を避けきるのには限界があった。体の端々が少しずつ斬られていき、元には戻らない。当たりどころによっては即死もあり得る。

 そういえば、と思い自分の腰を見やる。僕も武器屋で貰った剣を持ち続けているのだ。

 僕は自分の剣を抜き、駆け寄って相手の剣身を押さえつけた。振られなければ怖くはない。

 相手もいくらか余裕を失くし、後退して腕の自由を取り戻そうと必死になっていた。剣の腕でこちらが負けることはない。相手の動きを封じるだけなら、いつまでも続けていられる。しかし擦り合うほどに、こちらの刃だけが欠けていった。

 「お前、どこから来たんだ」

 相手の気を紛らわそうと話しかけると、剣士は懸命に力を入れながら微かに笑って見せた。しかしそれも束の間、再び歯を食い縛る。

 「お前が想像もつかないような、クソつまんねえ所だよ」

 僕らは力を掛けながら押し合い、城の入り口まで差し掛かっていた。しかし悪いことに、ハンマーの男が息を切らしつつすぐそこまで駆け寄っていた。

 「やっと追いついた」

 男は僕の元へ寄るや否やハンマーを振りかざし、腹を思い切り打った。

 僕はそのまま城の中へと吹っ飛ばされ、床に倒れた。男は一仕事終えたとばかりにハンマーを肩に背負い、ふうと息をついた。

 螺旋階段から射手の女が降りて来る。老人も意識を戻したらしく、頭を抱えて立ち上がろうとしている。

 黄金色の光で暗闇を照らしながら、剣士が歩み寄って来た。

 「改めてまして……はい。ここまで」

 剣士がにやっと笑い、剣を高く振り上げたその時──。

 シ──……

 闇の中から聞こえる不気味な囁きに、全員がそちらを向いた。

 シ──……

 剣士が体の向きを変えると、黄金色の光に照らされた巨大な黒い蛇がその姿を露わにした。しかし例によって、体の半分ほどはまだ暗闇の中に溶け込んでいる。

 「なんだこいつ」と剣士は呟き、剣を振る。蛇は光の帯を躱して一気に顔を近づけてきた。正確に言えば、僕が蛇の体を動かして攻撃を躱し、彼に迫らせていた。

 剣士の粗雑な乱撃を細い体で躱すのは容易だった。徐々に疲れが出て来て、振りも雑になっている。

 「なんで当たらないんだよ、クソ!」

 「カイト、危ない!」

 女が叫ぶと同時に矢を放ったけれど、遅かった。

 背後からにじり寄っていたもう一つの頭に首を噛まれ、剣士は武器を落として絶叫し、身悶えた。その場に倒れて暫く魚のようにのたうち回ったかと思えば、完全に動かなくなった。

 「おいおい、大丈夫か」

 ハンマーの男が声を掛けつつ近寄ると、剣士はむっくり起き上がった。そして落ちた剣を手に取り、何か訳の分からないことを叫びつつ男を斬りつけた。僕はその隙を見て暗闇の中へと姿を隠した。

 男の手からハンマーが取り落とされて石の床に穴を空けた。男は血に塗れながらも二、三回捻り出すような声を上げ、盛大な血飛沫と共に床に伏した。

 「あぁもう家に帰してくれよ、なあ!」

 剣士は発狂して意味不明の言葉を繰り返しつつ、老人めがけて剣を振った。老人は慌てて彼を封じ込めようと念を送り、その動きを止めたものの、既に飛んできていた光の帯に体を通過され、縦に真っ二つにされてしまった。死んだ後も剣士は奇声を上げつつ老人の体を細かく切り刻んでいた。

 それがいくらか続いた後、剣士は急に静かになった。そして僕の気配に勘付いたのか、偶然なのか分からないけれど、こっちに顔を向けた。その表情は絶望的な微笑みとも取れた。

 「死んだら帰れるかも」

 ポツリとそう呟いた後、彼は手に持った剣を両手で逆さに持ち替え、そのまま自分の喉を突き刺した。

 夥しい量の出血と共に背中から床に倒れ、喘ぐような息を洩らしながら、剣士は壮絶に死んでいった。

 射手の女は螺旋階段の途中でその様子をこっそりと見ていたが、彼が死んだのを見ると降りてきて、その屍に歩み寄った。

 「ちょっと何よこれ……カイト」

 カイト、というのはあの剣士の名前らしい。あまり聞き慣れない名前だ。

 「あたし……これからどうすればいいの?……あたしこれから、どの面下げて国に帰ればいいってのよ!何が勇者よ!ふざけんじゃないわよ!」

 女はしばらく怒り狂いながら剣士の体をガンガン蹴っていたが、僕がいることに気がつくと素っ頓狂な叫び声を上げて慌てて螺旋階段の方へ逃げ、そのまま階段を駆け上がっていた。

 僕は城を出て、老人の傍に落ちていた二本の月花草を拾い上げた。二本とも、奇跡的に傷一つ付けられていなかった。

 ゆっくりしてはいられない。マヤの容体が心配だ。いくら月花草といえど、死んでしまってから蘇らせることが出来るなんて聞いたことはない。事は一刻を争う。

 城から走り去る途中、何かが僕の頭を掠めて、髪がいくらか落ちた。地面に突き刺さったそれは、矢だった。

 女が二階の開口部からこちらに向けて弓矢を構えていた。怒りが収まらないようで、しきりに何か叫びながら矢を射ってきた。しかし気が動転していては狙いも定まらず、一本も命中することはない。

 「どうしてくれんのよ!全部あんたのせいでしょ!」

 その時、ギャアギャアという聞き覚えのある啼き声が背後の空から聞こえてきた。それはあの鳶の声だった。よく見ると、左の翼が少し曲がっている。女は鳶の接近に気がついて矢を一本放ったものの、敢えなく外してしまった。鳶は怪我した翼を巧みに扱いながら、一直線に城へと突っ込んでいく。

 女の悲鳴と鳶の啼き声を耳にしながら、僕は再び前に向き直って走り出した。


 *


 武器屋の主人は僕を見て嫌な顔を浮かべたが、手に持った月花草を見ると顔色を変えた。

 「それ、あんたが採って来たのか?」

 「はい。まあ、色々あったけど」

 主人は月花草の一本を手に取り、よく観察してから、「こりゃあ本物だ」と言った。

 「あの……マヤは」

 そう尋ねると、主人は温かな表情を浮かべて言った。「奥に寝てるよ。カウンターを乗り越えてこい」

 僕は言われた通りにカウンターを踏んで乗り越え、奥の部屋に入った。マットと商品棚で作った簡易的なベッドの上で、マヤは静かに寝息を立てていた。

 「大丈夫かな」

 「すぐに目が醒めるさ。こいつを肌に密着させてやればいいんだ。花びらが当たるようにな」

 「それだけ?」

 「ああ」

 僕はマヤの衣服の中に、花弁を下にして月花草を入れた。本当にこれでいいのかと心配になったけど、効果は数時間もしないうちに現れた。

 月花草が徐々に光を強めていき、一度大きな輝きを放ったかと思うと、完全にしおれて光らなくなった。

 それと同時に、マヤが体を動かして小さく呻き、手を伸ばして目をこすった。僕と主人は生まれたての赤ん坊を見るようにそれを見守っていた。

 「あれ……どこ?ここ……」

 マヤがボーッとした顔と声で言いつつ、上体を起こした。痣は跡形もなく消えてなくなっていた。目は未だにとろんとしていて、まぶたが下りてしまいそうだ。

 「いつまで寝てんだ」と、僕は言った。主人は笑っていた。

 マヤはこちらに顔を向けるとパッと目を見開いて驚いた。それから服の中の月花草を取り出して、それを見つめた。

 「嘘……これ……」

 「まだある」

 そう言って僕は二本目の月花草を手に取り、マヤに手渡した。それはまだ淡い光を放ち続けている。

 「すごい。こんなに光ってるだなんて」

 にこやかな顔でそれを見ていた僕の背中を、主人が思い切りぶっ叩いた。首が取れるかと思った。

 「いやあ、おい、良かったじゃねえか。まあこれからどうなることだか分かんねえが、とりあえずな」

 主人の言いたいことはよく分かった。僕はここで、期せずして二つ目の吉報をも持ち合わせることになっていた。

 「奴はもう、死んだんですよ」

 「何?」

 意味がわからないという風に主人は聞き返す。マヤも夢見心地のまま首を傾げていた。

 「諸悪の根源が死んだんです。だからもうすぐ、ここも平和になる」

 これには主人もスキンヘッドを抱えて混乱しているようだった。だけどマヤの方は完全に信じ切っているらしく、当然のように笑っていた。

 「思ってた通りだわ」

 「でも、俺がやった訳じゃないんだよ」

 「なんでもいい。それより、ありがとう。助けてくれて」

 主人は僕らの様子を見ながら、「よかったなあ」などと言って感涙していた。情に熱い男なんだろう。

 それよりも、そう。僕には感謝なんて受ける資格がない。僕は、彼女に謝るために今ここに居るのだから。

 「マヤ、ごめん。……あの時、あんな所に置き去りにさえしなければ──」

 マヤは何も言わずに微笑み、首を横に振った。

 「本当、ごめん」

 「ヨウくんは悪くないでしょ。しかも助けてくれた。ありがとう、本当に感謝してる。それよりこれから、どうするの?」

 月花草を指でくるくる回しながら、マヤは言った。

 「マヤの父さんにそれを届けに行く。間に合えばいいけど──」

 「きっと、まだ間に合うわ」

 マヤは笑顔で、またも確信めいた調子でそう言った。彼女がそう言うのなら、たぶん間違いないんだろう。

 店の裏手から外に出ると、暗雲が晴れて、何ヶ月かぶりの青空が一面に広がっていた。主人はそれを見て驚き、マヤは伸びをして笑っていた。僕は深呼吸をした。空気が綺麗だった。

 主人の熱い見送りを受けながら、僕らは武器屋を後にして歩いていった。

 「青い目、きれい」

 「本当に?」

 マヤは答える代わりに、大きくうなずいた。月花草を胸に当てて、大切に持ち続けている。

 「それは、ありがとう────そうだ、ところで、」

 「村の人達なら、まだピンピンしてるよ」

 「そっか」

 何かもっと言わなきゃいけないことや、聞かなきゃいけないことがあった気がするけれど、よく考えたら一つもなかった。ただ大地を吹く風が心地良く、鼻を通り抜けていくだけだった。

 「村に帰った後は、どうするの?」

  そう訊かれて、僕はしばらく腕を組んで考えた。その間、民家の隙間から猫が一匹出てきて、また別の隙間に入っていった。毒なんか持っていない、ただの野良猫だった。

 「とりあえず、危険な生き物をどうにかするよ。まだうようよいるからな」

 「そう。それじゃあ、がんばってね」

 マヤの口ぶりはいつでも無限の信頼に満ちている。

 「うん。今度は絶対に、失敗したりしないよ」

 「あら。失敗なんてしたことないでしょ」

 マヤの笑顔は子どもの頃のそれと全く一緒だった。

 たった一人の為でいい。彼女の信頼のためだけに戦っていければ、それでいい。

 そう思うとなんだかとても心が軽く、これまでよりもずっと、のびのびと生きていける気がした。


  〜終わり〜



これが最初で最後の王道(邪道?)冒険ファンタジーになると思います。最後までお読み頂きありがとうございました。

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