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Failed  作者: 玄侍
2/3

Failed 中編

 「駄目だ。体の軸が曲がっている。それじゃあ剣を振り下ろす時に力がこもらない」

 もう何百回これを言われたことか分からない。他の皆はもうとっくに練習を終えて家に帰ったっていうのに、僕だけいつもこれだ。あのだらしのないナロでさえ出来たはずの素振りが僕には一向に出来やしない。外はすっかり夕方で、じきに日も沈む。この調子だと、また夜遅くまで帰してもらえそうにない。

 僕はやれやれと首を横に振り、再び構えの姿勢を取った。

 両足を肩幅より広めに開き、背筋を伸ばす。へその前で剣の柄を固く握り締め、頭の上まで真っ直ぐ剣を持ち上げて、真っ直ぐ振り下ろす。

 「一、」

 「駄目だ。分からんか、左に曲がってるんだ。ちゃんと意識してやらないからすぐにそうなるんだ」

 意識はしてる。曲がっているつもりもない。

 もう一度、一から姿勢を整えて呼吸を落ち着ける。足を開き、背筋を伸ばす。こめかみから一雫の汗が流れ落ちた。それを袖で拭って、改めて姿勢を正す。

 蝿が一匹どこからか飛んできて、耳元で執拗に音を立てた後、僕の鎖骨辺りに留まった。思わず体勢を崩して手で払い退ける。蝿は僕の周りをしつこく飛び回ったままどこにも行こうとしない。

 「まだか。もうすぐ日が暮れるぞ」

 「でも、蝿が。集中できません」

 「蝿だ?」

 何を言っても無駄、と分かっていながら抗議した自分に苛立ちを覚える。大きく深呼吸をして心を落ち着け、再び構えの姿勢を作る。

 「虫ごときに集中を乱されるようじゃあ話にならんぞ」

 「わかってます」

 構えて、持ち上げて、振り下ろす。

 「一、……二、……」

 「全然分かってないな。いいか──」

 それから結局、練習は夜更けまで続いた。心身ともに疲れ切った僕は家に帰るや否や、気絶するように眠ってしまった。

 翌朝になると、まだ家畜も眠っているような早すぎる時間に、あの聞きたくもない無駄に元気な声が耳に飛び込んでくる。

 「おーい、ねえ、もう練習始まってるって。いつまで寝てるのー」

 すっかり師匠の回し者になったマヤが窓の外から叫んでいる。聞こえないふりをしても全く諦めようとせずに、僕が起きるまでしつこく騒ぎ立ててくる。こんなことをして誰が得するわけでもないのに、本当にとんでもないお節介女だ。死ぬほど疲れてるこっちの身にもなって欲しい。

 「ねえー、起きてるんでしょ?入っていい?いいのね。お邪魔します」

 窓枠を跨ぐ音が聞こえる。僕は布団を握って丸くなり、無駄な抵抗を続けた。軽やかな足音が近づき、布団の上にぽんと手が置かれたかと思うと、女らしからぬ腕力で一気に引き剥がされた。

 「やっぱり起きてるじゃない。早く行かないと怒られちゃうよ」

 「どうせ何しても怒られるよ」

 目をこすりながら起きる僕を見て、マヤはなぜか満足げな表情だ。全く、これほどまでに憎たらしい女が他にいるだろうか。多分いないと思う。

 「ほら、おべんと」

 差し出された竹編みの箱をひったくって、僕は家を出た。

 ────「遅いぞ。早く着替えてこい。戻ったら腕立てと素振りだ。百回やるまで昼飯はないからな」

 「……はい」

 師匠が僕に怒りの眼差しを向けている隙に、ナロが勝手に素振りを中断して、体を伸ばしながらあくびをしていた。振り向いた師匠がそれを見つけて、すかさず怒号を飛ばす。

 「おい、素振りはどうした!」

 ナロは慌てて素振りを再開したものの、結局、僕と同じように腕立てをさせられるはめになった。

 

 *


 「はあ。もう死にそうだよ。なあヨウ。俺もうやめたいよ」

 屋根の下のわずかな日陰で、壁にもたれて昼飯を食べている間、ナロはそんなことばかり言っていた。僕は適当に相槌を打ったり打たなかったりしながら、マヤにもらった弁当を食べていた。肉団子がおいしい。

 「もうさ、なんでこんなことしてんのかなって感じじゃね。なんなのかな」

 「戦うためでしょ。悪党とか、危険な動物とかとさ」

 ナロはハムサンドをくちゃくちゃ音を立てながら食べている。僕はいつもそれにうんざりしていた。一度注意したことはあるけれど、どうしても直せないらしい。

 「そりゃあ俺もそうなりたいけど、こんなにしんどいならもうどうでもいいよ。そんなもんだろ?実際」

 僕は何も言わずにおにぎりを頬張った。塩加減が最高でこれもおいしい。この時だけはあの口うるさいマヤでもちょっとはありがたい存在に思える。

 ナロは吐き出すように露骨なため息をついた。その拍子に口からハムの欠片が飛び出てきて、ぽとりと地面に落っこちた。

 「なんかこう、別の世界があったらいいのにって思うよ。どんな上級魔法も自由自在に使えてさ。バッサバッサと敵をなぎ倒して、大活躍できたらって。そんな世界だったら俺だってもっと頑張ってるよ」

 ナロが落としたハムの欠片に、蟻がたかり始めていた。最初に一匹が近寄ってきて、触覚でハムを入念に調べてから、他の仲間に伝えて巣に戻る。蟻から蟻へ、せわしなく情報が伝えられて、皆でハムを細かく千切り、せっせと巣まで運んでいく。

 「俺、魔法には詳しいんだぜ。本で読んだんだ。属性が色々あってさ、火とか、電気とか、土なんてのもあって、それぞれに特殊な効果があるんだ。あと結界を張ったり、獣を召喚したりも出来るんだぜ。なあ、もしそんなこと出来たら最強だよなあ。ていうか、ほぼ無敵?」

 ハムの欠片は徐々に小さくなっていって、やがては跡形もなくなった。ハムを完全に運び終えた蟻達は、また新しい餌を求めてせっせと辺りを歩き始める。その様は本当に健気で、なぜだかとても頼もしく思えた。

 「蟻は偉いなあ」

 「え?」

 僕はデザートのリンゴをかじり、一欠片だけ残して巣穴の近くに置いておいた。

 「ごちそうさま」

 そろそろ午後の練習が始まる。今日こそは早く帰れたらいいけど、なんて思いながら、僕は稽古場に戻っていった。


 *


 「百三十二、……百三十三、……百三十四、……」

 またも夕暮れ時。そしてまた残っているのは僕一人だった。吹き抜ける秋風は涼しく、草むらからは虫の鳴き声が聞こえる。師匠が石像の様に腕を組んだまま傍らで僕の素振りを黙々と見つめている。表情一つ変えずに、素振りの是非も伝えないまま、ただそこに立っている。

 「百三十五、……、百三十六、……百三十七、……」

 昨日ほどの疲労は不思議と感じていない。あまりに体を動かしすぎて感覚が麻痺してしまったのかもしれない。今はただ、自分がしていることへのどうしようもない虚無感だけが募っている。一体何のために現在こんなことをやっているのか、この鍛錬が一体何の役に立つのか、頭ではわかっているけれど、心ではよく分かっていない。こうして剣の腕を磨いてその道に進んだとしても、その先にどんなゴールがあるのかまるで想像がつかない。結局どこまで行っても最終目的地なんかなくて、自分の居場所を見つけることすら出来ないのかもしれない。そんなことを思えば思うほど、この作業はどこまでも無意味に感じてくるし、とてつもなく孤独だ。

 この孤独──この空虚感──それはまるで、この先もずっと僕の人生を取り囲んでいく呪いのような気がしてならなかった。それは水のような呪い。水のように透き通っていて、水のように静かな、水のように冷たい呪いだ。

 「百三十八、……百三十九、……百四十、……」

 「もういい。そこまでだ」

 やっと師匠が口を開き、ストップが掛けられた。素振りを止めた途端、身体中にどっと疲れが押し寄せてきた。やっぱりとっくに限界を迎えていたんだろう。頭がくらくらして視界がぼんやりと霞む。粘ついた唾液が喉の奥からせり上がってきて、飲み込もうとするほどに吐き気を催す。僕は咳交じりにそれを地面に吐き出した。唾液はしつこく糸を引いて、なかなか全部を吐き出せなかった。

 「大丈夫か」

 師匠がいつもと変わらない調子でそう言った。例え一応だとしても、心配されたのはその時が初めてだった。

 「大丈夫です」

 それから僕が呼吸を整えて意識をはっきり保つまで、しばらく時間がかかった。その間、師匠はずっと黙って立ち尽くしていた。やがて僕がある程度回復したところで、師匠は腕を組んだまま背中を向けて二、三歩歩き出し、遠くの山に沈んでいく夕日を見つめながら言った。

 「なぜお前だけが、いつも遅くまで残されているのか分かるか」

 おそらく昨日までだったら、その問いに対する答えを間違っていたと思う。

 「それは、僕が一番まともだからでしょう」

 地面に座り込んだまま、僕はそう答えた。師匠はゆっくりと頷いて、うむ、と唸った。

 「だが、まだまだ及ばんな。お前には、確固たる信念というものが欠けている。その軸のぶれが素振りにも表れているんだ」

 なるほど、と思うところがあった。だからと言ってどうしようと思うわけではない。問題が信念のなさにあるとしたら、それはもう積極的にはどうしようもないからだ。

 「他の連中には曲がりなりにも目的意識があるらしい。例えそれが自分の栄誉や私利私欲の為だとしても目的は目的だ。信念とはちと違うがな」

 あの時は聞き流していたけど、ナロの言っていたこともそんなような話だった気がする。

 「しかし、欲になびいて半端な目的を持つ奴らほど目先の苦労ってのを嫌うもんだ。俺はそういう人間は嫌いだ。だからあいつらのことなんてどうでもいい。月謝のために世話してやってるだけだ」

 その言葉には僕も苦笑せざるを得なかった。と同時に、ナロ達のことが少し気の毒に思えた。

 「それに比べてお前はまだ熱心な方だ。いや愚直というべきか。お前は言われただけのことは満足にこなしているし、従って腕も順当に上がっている」

 敷地の外からマヤがこっちを見ていた。僕と目が合うと背伸びをしながら手を振ってくる。僕はため息をついて師匠の方に目を戻した。

 師匠はいつの間にか目の前からいなくなっていた。慌てて辺りを見回すと、もう百メートルくらい向こうを歩いて立ち去ろうとしていた。

 呆然とその背中を眺めている最中、視界の隅に奇妙なものが映った。それは地面に掘られた文字だった。傍らには細枝が落ちていた。

 『卒業だ 後は好きにしろ』

 地面にはそう書かれていた。僕はその言葉を繰り返し読み返して、繰り返し頭の中で唱えた。喜んでいいのかどうかよく分からなかった。結局、問題は何も解決しないままだ。だけどそれはもう、僕自身の個人的な問題でしか無いってことなんだろう。

 それから僕は着替えを取ってきて稽古場を後にした。ずっと外で待っていたマヤがうきうきした顔で弁当の感想を聞いてきた。悪くはなかったな、と僕は答えた。

 「良かった」

 マヤはそう言って明るく笑った。


 *


 いつかどこかで大きな失敗をする──そんな予感がしていた。それはもう子どもの頃からずっと僕の中で育まれてきた未来だった。悪い予感は悪い兆候を作り出し、悪い現実を呼び寄せた。そんな予感さえなければ全て上手くいったのかといえば、そういうことでもない。つまりそれは既に決まったことだったのだ。運命と言えるのかもしれない。だけど実際にはそれほど超自然的な代物じゃなくて、もっと数学的な確率論や何かで一から決まっていたことのようにも思える。きっとそういうのは他のありとあらゆる出来事についても同じで、目に見えない小さな関係の連続が現在を作り出しているんだろう。

 だったら僕はそれに身を任せていればいい。なるようになるとはそういうことだ。幸い、もうこれ以上の悪い予感はしていない。最初で最後のあまりにも大きな失敗はもう終わったのだから。

 さっきコウモリにやられた左手が軽い凍傷になっていた。氷治しなんてものは無いからやけど用の薬草で手当てすると、ひとまず痛みは治まり、指も問題なく動いた。

 大岩の陰に身を潜めてどれくらい経ったのか、自分でもよくわからなかった。昔のことを思い出していた気がするし、半ば眠っていたような気もする。だとしたら気を付けなければならない。

 山も中腹まで登ってきたものの、それらしい花は一切見つからないどころか、花そのものがほとんど見当たらなかった。小さな白い花が木の根元などにわずかに咲いているものの、山の中にしてはあまりに少なすぎる。やっぱりここ最近の天候が影響しているのだろう。

 しかし予想していたほど危険生物の数は多くない。前にここを通ったときは息つく暇もないくらいだったのに、随分と手薄になったものだなと思う。きっともう誰も責めてはこないと思って安心しているんだろう。おかげで助かった。

 山頂に向かうほどに頭の痛みが増す。酸素が薄いせいでもあるし、もちろん彼女のこともある。首を横に振ってもため息をついても忘れることは出来ない。

 もしもコーラルがいたら、月花草を見つけるのもここまで難しくなかったのかもしれないな、と僕は思った。いくら幻の薬草といえど、彼女ならおよその場所の見当くらいはつけられても不思議じゃない。

 コーラルは薬草のスペシャリストだった。彼女は僕よりも二つ年下でありながら、並外れた医学の知識を持ち併せていた。そしてありとあらゆる種類の薬草やその効果、生息場所なども熟知していた。一切の戦闘経験が無いのにも関わらず仲間に入ることを許されたのも、そういう特別な才能があったからこそだ。

 おまけにあの子は本当に優しかった。あの偏屈なカームでさえ本気で惚れ込んでいたくらいだ。コーラルは肉体的にも精神的にも、人を癒すスペシャリストだったってことなんだろう。それが彼女にとっての生まれ持った使命であり、また喜びだったんだと思う。

 僕だって何度も救われてきた。何度もやめたいと思ったときはあったけれど、それでもこの場所まで来られたのはあの物静かなコーラルの、一所懸命な励ましがあったからに他ならない。

 ──だけど最後には、僕は決して癒えない深い傷を心に負うと同時に、唯一の心の癒しを失ってしまった。

 あの日、あの時。この場所で。

 自分が道の途中で立ち止まっていることに、僕は全く気がついていなかった。涙が流れていたことにも気づいていなかった。さっきから雨がぽつぽつ降り始めていて、それが頬を伝って流れ落ちているんだと思っていた。

 「俺のせいじゃない」と僕は呟いた。頭でも強く念じた。俺のせいじゃない。俺のせいじゃない。そうであってはならない。

 雨脚が徐々に強くなり出す。大粒の雨を木の葉が弾いてザアザアと音を立てる。僕は濡れたまま下を向いて立ち止まっている。涙が雨と混じって頬を流れ、首元を伝い、衣服に染み込む。

 シ──……

 不気味な鳴き声が暗い茂みから聞こえた。その声は雨音さえも遮り、まるで直接耳元で囁きかけるような響きを持って聞こえてきた。僕にはそれがまるで悪魔の囁き声のように思えた。

 シ──……

 背筋が寒くなるような不快極まりない声だ。僕は始め恐怖して、それから激しい憎悪で胸を満たした。そいつを憎むことで、自分を憎むことを避けようとしたのかもしれない。だけどとにかくその時は、心の底からそれを憎んだ。茂みを睨みつけて、迷わず剣を抜いた。

 僕は叫んで、駆け出した。剣を茂みの中に突き刺すと、蛇は足元からぬるりと外に飛び出してきた。二の腕くらいの太さがあり、とても長い。もう二メートルは茂みから出てきているものの、まだ全体を現してはいない。鱗には柄がなく真っ黒な色をしていて、目は赤く光っている。間違いなくあの時の蛇だ。

 足元を抜けて後ろに回り込んだ蛇は、容赦なく僕の右脚に噛み掛かってきた。僕はそれを躱して再び剣を振りかざしたものの、蛇の動きは素早くてなかなか捉えきれない。剣を振るった隙を狙って、蛇は執拗に攻撃を仕掛けてくる。その速攻は思っていた以上にプレッシャーを感じさせた。段々こちらから仕掛ける余裕も無くなってきて、防戦一方に陥りつつあった。もし一回でも噛まれればお終いだ。奴の神経毒にやられたら自分でもどうなることか分からない。最悪、錯乱状態のまま命を落とすこともあり得る。自傷行為も症状の一つだからだ。

 唐突に蛇は攻撃を中断した。そして頭を遠ざけて距離を置いてきた。

 蛇は舌をちろちろと出し入れしながらこちらを睨み続けている。僕は一瞬の違和感を覚えつつも、がら空きになった蛇の胴部に思い切り剣を振り下ろした。

 刃が胴を真っ二つにしようとするその直前──首元に、まるで抉られるような激しい痛みが走った。後ろからの攻撃だった。僕は思わず体を仰け反らせて呻き、止めを刺し損ねた。

 直後、さっきまでとは種類の違う、熱を出したような頭痛が起こって、徐々に目の焦点も合わなくなってきた。僕は地面に手をついて意識を朦朧とさせながらも、わずかな余力で後ろを振り返った。

 蛇の胴体が繋がっている先には尻尾が無くて、代わりにもう一つの頭があった。双頭だったのだ。

 僕は苦笑も出来ないまま地面に倒れ伏して、そのまま自我を失った。


 *


 頬を滴る雨と雷の轟音に目を覚ます。僕は顔を冷たい泥に浸けた状態で地べたに横たわっていた。

 激しい白光と共に大木を割るような雷鳴が訪れ、その度に頭が芯から痛んだ。目眩も酷く、視界は雨も相まって滅茶苦茶だ。どんなに質の悪い二日酔いでもここまで酷い時はなかった。

 自分がどうして雷雨の山の真っ只中で倒れ伏しているのか、まるで思い出せない。考えようとしても頭がまともに働かず、ただ痛むだけだ。

 このまま再び眠ってしまいたいとすら思ったけれど、そういう訳にもいかず、泥に手をついて何とか起き上がった。むき出しの剣が近くに落ちていた。

 剣を拾って目線を上げたとき、遠くの方に動く影が見えた。豪雨と雷光ではっきりとは見えないものの、何かがそこに居るのは間違いない。

 近づいてみると、それが人の形をしているのが分かった。しかしその体型はよく見ると奇妙で、背丈は子どもほどしかないくせに、頭だけが異常なほど大きい。しかもその頭から二本、角のように尖った物が左右に向かって突き出している。そいつは片手に棍棒のような物を持ち、独特な歩き方でこちらに向かってきていた。その歩き方はどことなくスキップにも似ていた。

 僕は危険を感じて茂みの中に身を潜めた。向こうがこちらの存在に気が付いたのかどうかは定かではない。あの奇妙な足取りから思考や感情を読み取るのはどうしても難しい。何というか、そこには人間らしさというものがなかった。

 接近してきたそいつの姿を見れば、その理由は一目瞭然だった。

 体表は深い緑色の皮で覆われ、目は血のように赤く、黒目と白目に当たる区別がつかない。身につけているのはボロボロの腰布一枚、手に持った棍棒からは鋭い鉄の棘がいくつも突き出していた。さっき角のように見えていた箇所は耳で、潰れた鼻とは対照的にあまりにも長い。顔は全体的に角ばっていて四角かった。

 昔、何かの本で見たことがある姿だったけれど、その名前は思い出せなかった。何にしても、人型の化け物に遭遇したのは久しぶりだ。対峙すればどうなることか分からない。

 化け物はこちらに気が付いていなかったのか、前を見たまま通り過ぎようとしていた。しかし少し過ぎた辺りで突然立ち止まり、鼻をくんくんさせながら周囲を見回し始めた。僕は茂みの中で見つからないことを願うばかりだった。

 やがて願いは虚しく、化け物は僕を嗅ぎつけるや否やいきなり突っ走ってきて、棍棒を振り上げて高く跳躍し、物凄い勢いでそれを振り下ろしてきた。棘だらけの棍棒は目の前まで迫ってきたものの、寸でのところで回避した。化け物はジロリとこちらに目を向けると、すぐさま得物を掲げて再び襲い掛かってきた。

 相手の殺意は凄まじかった。何度避けても身軽に次々と攻撃を仕掛け続け、執拗に棍棒を振り回した。僕を殺すまで止めないつもりなのか、赤い両目も心なしかぎらつきを増したように思える。僕も必死で剣を構えて応戦したものの、棍棒を振りかざす力は体格に見合わず重たく、受け流すのに精一杯だった。僕がいくら体力を消耗して攻撃を防いでも、そいつはずっと活発に動き続けた。

 守りに徹する力は次第に衰え始め、動きはどんどん鈍った。そして、ついに致命的な隙が生まれてしまった。

 棍棒を受け流そうとした時、その重みに体が耐えきれず、尻から転倒してしまったのだ。化け物は倒れた僕に飛び掛かって馬乗りになり、そのまま容赦なく顔面めがけて棍棒を振り下ろしてきた。

 僕は咄嗟に右手を差し出して、棍棒を受け止めた。手の平を突き破った棘の先端が眼前まで迫って停止した。顔に自分の血が垂れてくる。激痛に洩れる呻き声が思わず高く裏返った。

 化け物は次なる一撃を繰り出そうと棍棒を引き抜いた。その時、大量の血が手の平から噴き出して相手の顔にもろに掛かり、化け物は目を覆ってひるんだ。僕はその隙によろよろ立ち上がり、左手に持った剣で思い切りそいつの肩を斬りつけた。

 化け物は醜い叫び声を上げて棍棒を地面に落とした。僕はさらにそいつの腕を斬りつけ、脚を斬りつけ、胴を斬りつけた。手の痛みはなぜか感じなくなっていた。血気が全身に溢れ、頭の中で糸が切れたように僕はがむしゃらに化け物を斬り続けていた。相手の首元がばっくりと裂け、耳が落ち、腸が飛び散った。それでも生命力の強いそいつはなかなか死なず、それがさらに僕の殺意を煽った。本能に身を任せて、これ以上斬れないくらいに敵をひたすら斬りまくった。

 化け物の血は赤かった。全身を切り身にされたそいつは、いつのまにか仰向けに倒れてぴくりとも動かなくなっていた。

 相手が死んだことに気がつくと急に気が抜けて、代わりに疲労がどっと押し寄せてきた。僕は荒ぶる呼吸を落ち着かせながら、剣の先を地面に突き刺し、血の海にへたり込んで目を閉じた。目蓋の裏は赤く見えた。

 早まっていた心臓が少しずつ遅くなり、段々と平常に戻っていくのが分かった。同時に、右手に空いた穴が再び強く痛み出した。

 どうにかして出血を止めなければならない。

 僕は所持品を調べようと、目を開けて立ち上がった。立ち眩みが起こって体がふらついたけれど、何とか倒れずに踏み留まった。ぼやけた視界が徐々に鮮明になり、世界は輪郭を取り戻していった。

 それと同時に、何か途轍もない違和感と不安感が一挙に胸に押し寄せてきた。

 僕は足下に目を落とした。

 そのとき目の前で死んでいたのはどう見ても、緑色の化け物なんかじゃなかった。

 血に塗れていたのは白いエプロンと花柄の頭巾。傍に落ちていたのは棍棒ではなく、医療道具がぎっしり詰まった布のバッグだった。

 無残に、無意味に傷つけられた全身をぐったりと横たえて、優しかったその目に恐怖と絶望を焼きつかせて、コーラルは絶命していた。

 頭が真っ白になった。全身の力が抜けて、思わず膝に手をついた。再び呼吸が荒くなり、嗚咽が喉の奥から洩れた。

 僕は何かに突き飛ばされて、血溜りの中に転がった。

 そこに立って僕を見下ろしていたのは、全身が隈なく焼け焦げたカームだった。体中真っ黒で目玉だけが白くぎょろっとしている。筋肉が露出している部分もあった。

 「お前のせいだ」

 カームの言葉に、僕は震えながら絶句することしか出来なかった。何かを言おうとしても言葉にならず、ただ喘ぎ、涙を流すだけだった。

 「お前が!……」

 カームが声を詰まらせて拳を握りしめたその時、背後の樹に雷が落ちて雨を物ともせずに燃え出した。僕はにじり寄ってくるカームに怯えて後退ることしか出来なかった。ほとんど何も考えられなくなっていた。

 「どうか、気に……ないで下さい」と、コーラルの死体が吐血交じりに言った。「私のことは気に……ず、使命を果た……下さい」

 使命──使命なんてとっくに失敗に終わっている。もうどうすることも出来ない。

 カームは泣いたまま発狂したように暴れ出し、燃え盛る森の方に走っていって、炎に包まれた。全身に火を纏ったカームは絶叫しながら顔に手をやってよろめき、倒れて動かなくなった。コーラルは大量の血を吐いて白目を剥いたきり、もう何も喋らなかった。

 僕は吐き気を催してえずいたものの、胃液がせり上がってくるだけだった。酸に喉が焼かれて、それが更なる吐き気を催した。いくらかむせ続けた後、僕は地べたを這いつくばって落ちていた剣を手に取り、両手で逆さまに持ち替えた。

 そしてそのまま自分の首の前に剣先を構えて、思い切り突き立てた。


 *


 骨と皮しかないような老いた片腕が、信じられない力で僕の手を押さえていた。それはいつかの日に出会った老婆の腕だった。老婆は腕の力をさらに強めて僕の手を持ち上げ、無理やり剣をもぎ取った。

 「立ちな」

 嗄れた声で老婆は言った。僕は促されるままに立ち上がり、先を行く老婆の後について行った。思考はなおもおぼつかず、それが現実なのかどうかもよく分かっていなかった。

 老婆は首に幾何学的な模様の入った木の札を何枚か下げていて、歩くたびにカラカラと音がした。

 今まで来た道を正反対に下っていることに気がついたのは、歩き出してからしばらくの後だった。夢うつつだったし、傾斜が緩やかなせいでもあったかもしれない。

 「どこへ向かってるんです」と僕は言った。自分でも情けないくらい呆けた声が出た。

 「どこってあんた、降りるんだよ。この山をね」

 老婆はこちらも振り向かずにそう言った。ボサボサの長い白髪に滴って落ちる雨粒が妙に綺麗に見えた。

 「だけど……そう。あれを探さないと」

 「月花草かい。あれはもうここにはありゃしないよ」

 「じゃあ、一体どこに?」

 「さてね。私ぁこの山のこと以外には何にもわからんもんでね」

 まったく、失敗の波はどこまでも続いていくらしい。マヤの残念そうな微笑みが目に浮かんで、胸がつらくなる。ああもっと運が良くて、実力もあって、頭も良くて、何から何まで完璧にこなすようなやつがどうしてマヤの友達じゃなかったのだろう。どうして初めからそんな人間が選ばれなかったのか。どうして僕はそうなれないのだろうか。

 いつも負の影を引きずっている。

 頭の中には暗雲が渦を巻いている。

 そして僕は、ついにそれを払拭出来ないままここまで来てしまった。むしろ、それに馴染みさえしていた。その延長線上に待っている、数多くの犠牲も知らずに。

 「気にしなさんな。誰しもどの道、死が訪れる。助けようとして助けられなかったとしても、あんたは善人だよ」

 その言葉が僕を救うことは、この先も永遠にないと思う。

 本当の善い人っていうのは、肩書きや関係なんて気にせずに、目の前の誰かを無条件で助けてあげられるような人だ。他人に手当てを施したり、相手に感情移入して励ましたり、そんなことが当たり前に出来る人のことだ。僕にはできない。

 「どうして、いつもこの山に?」

 否定の意味も込めて、話を変えた。

 その時、近くの茂みが不審に動いた。咄嗟に身構えたけれど、剣は老婆の手にあった。

 「剣を!──」

 「安心しな。もう魔物は出やしない。魔除けをぶら下げているからね」

 そう言って老婆は首に下がった木の札を掲げて見せた。

 「まあこれも、まだ完全とは言えんがね」

 茂みから飛び出して来たのはただのヒキガエルだった。おや旨そうだね、と老婆は言った。だけど捕らえようとはしなかった。

 「まあなに、暗くて静かなこの山が昔から好きなだけさ。そこに偶然、あんたが二度も通りかかった。それだけだろう」

 そう言われれば、他に返しようもなかった。そうですね、と僕は呟いた。それが老婆の耳にまで届いたのかどうかはよく分からなかった。

 「山を抜けたらこの魔除けを分けてやるよ。役に立つだろうからね」

 これから先のことをぼんやりと考えていた僕は、その言葉を聞き流しそうになった。

 「え?ああ、どうも。ありがとうございます」

 雨は弱まってきたものの、しとしとと細く降り続いていた。濡れた木の葉の放つ微かな光や土の匂いに、少しだけ心が洗われる気がした。

 マヤに会ったら言い訳なんて出来ない。包み隠さずに事実を話して謝ろうと、それだけ胸に誓った。たとえそれが彼女をどれだけ失望させるとしても、逃げてしまう訳にはいかないのだから。


 *


 山の出口で魔除けの札を貰い、剣を返してもらって老婆と別れた。蛇には十分に気をつけるんだよ、と別れ際に老婆は言っていた。次に噛まれたらもう混乱は解けないらしい。

 魔除けを首に掛けて歩き出すと、道の先に見えていたコウモリや獣の類が同心円状に距離を取っていくのが分かった。まだ不完全だと老婆は言っていたけれど、見たところ抜群の効果を発揮しているようだ。

 それでも足取りはとにかく重かった。何せこれから最悪なニュースを届けなくてはならないのだ。結果が駄目だったこと以上に、余計な期待をさせてしまったことこそが僕の一番の罪だろうと思う。それは今回に限ったことじゃない。

 どんよりとした空を背景に、古い納屋の影が見えてきた。一体どんな心持ちでマヤはあそこで待っているのだろうか。期待であっても、不安であっても、あるいは心配であったとしても、これから彼女が傷つくことには変わりないんだろう。

 納屋よりもさらに遠くの方に、二つの人影が並んで見えた。

 近寄っていくと、それが二人の男であることが判った。しかも、かなり大きな体格であることが見て取れた。

 二人とも風体はみずぼらしく、服ははだけていた。一人は苦痛を堪えるかのようにうずくまった体勢のまま、よたよたと歩を進めて遠ざかっていく。

 納屋の扉が外に向かって開いていた。

 僕は全速力で駆け出した。百メートル足らずの距離があまりにも長く、遠く感じた。これ以上の悪夢が続かないことを天に祈りつつも、胸の内はほとんど絶望感に満ちて、目に涙が溜まった。

 開いた入口から中を覗くなり、僕はその場に崩れ落ちた。

 すっかり変わり果てた姿のマヤが、床の中央に力なく横たわっていた。

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