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Failed  作者: 玄侍
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Failed 前編

 

 Failed


 かこん、とゴミ箱が倒れる音がしたので眠たい目を開けて見ると、もぞもぞと不気味に動く何かが、ビールの空き瓶や壊れた木箱の合間を縫ってこっちに近づいてきていた。闇に紛れてよく見えないが、よく目を凝らしてみると、それは一匹の黒い化け猫だった。大きく見開いた両の眼を黄色く光らせて、剣のように長い毒の牙を剥き出しにして僕を威嚇しながら、化け猫は着実に距離を詰めてくる。三匹の鼠が物陰から出てきて、壁のパイプの上を走ってどこかへ逃げていった。普段は狡猾でしぶといあの鼠たちでも、やっぱり天敵は天敵らしい。

 腰の鞘から剣を抜こうとして左手を掛けたけれど、そこには何も挿さっていなかった。そういえば昨日の晩、酒場で払う金が足りなくなって、代わりに店の主人にあげてしまったのだ。丸腰のまま酔いつぶれて寝てしまっても、酒場と宿屋の隙間に隠れてさえいれば大丈夫だろうと思っていた。まさか、こんなところまで臭いを嗅ぎつけてくるとは全然考えもしなかった。だけどまあ、相手が猫ならある意味当然なのかもしれないな。

 化け猫は今にも飛びかかってきそうな距離にまで近づいてきていた。牙の先から緑色の液体が滴って地面に落ち、白い煙を上げている。僕は空の酒樽に深く寄りかかったまま、他人事みたいにそいつの接近をじっと眺めていた。

 あの毒まみれの鋭い歯でがぶりと噛まれてしまえば、もはや一溜りもないだろう。血中に毒が入り込んで、歩くごとに体を内側から蝕み、やがては息絶える。これまでありとあらゆる化け物どもをさんざん倒してきたのに、こんな猫に噛まれて終わりだなんて、そう考えるとなんだか笑えてくる。

 猫が立ち止まり、全身の毛を逆立たせて唸るような鳴き声を上げた。覚悟を決めろ、と言っているのかもしれない。

 「早く噛み付けよ」と僕は言った。

 それから頭を上げて喉元を晒し、猫が噛み付いてくるのを待った。

 建物の隙間からは、長方形に区切られた綺麗な星空が覗いていた。この世の終わりを告げる赤みがかった満月も、視界の端の方にひょっこりと顔を出している。生温い夜風に頬を撫でられながら、僕は目を閉じた。

 捨ててきた故郷の村のことを、本当に久しぶりに思い出した。そこに残してきた両親、幼馴染のマヤ、近所の子どもたち、家畜の牛や鶏、チューリップの花畑、師匠の家にあった立派な盾や大猪の首のことも隅から隅まで鮮明に頭に蘇っては、片っ端から紫色の闇に沈み、生けるものは全て死に絶えた。それは想像であり、また間違いなく現実だろうと思う。

 僕に期待を抱いて裏切られた人々の大多数が、既にあの世へと旅立った。生き残っている人々は終末への恐怖に震えながらも互いに身を寄せ合い、励まし合いながら最後の時間を過ごしている。僕には最後の時間を共に過ごす人なんていないし、そんなことが出来る分際でもない。町で誰かとすれ違えば、たいていの場合は白い目を向けられるか、恨みの言葉をぶつけられる。どうやら実態のよく分からない巨悪の化身などよりも、責任を果たし損ねたただの男の方がよほど憎く感じるらしい。当然のことだ。

 一時は国の希望とまで呼ばれて大勢に祭り上げられ、さんざん良い物を食って良い待遇を受けておきながら、結局誰一人として助けることができなかったのだから。はたから見れば、ペテン師も良いところだ。混乱と恐怖につけこんで美味い汁を啜った下衆とはまさに、自分のことに他ならない。

 猫はまだ僕を睨み続けている。口角を上げて牙を剥き出したその表情は、まるで笑っているようにも見える。

 ──哀れな男、あれだけ得意げに得物を振るってきたってのに、今ではただの屍同然、うんともすんとも動かない。酒の残った頭は惚けてぼんやり、萎えた身体をぐったりもたれたまま、何もできずに殺される。栄光の男が今や俺如きの餌とは、なんとも情けない話じゃないか。

 「黙れよ化け猫。いいから、さっさと食らいつけ」

 袖をまくって右腕を突き出す。猫は大きく顎を広げて、無抵抗の肉に牙の先端を合わせた。滴り落ちた毒に肌が灼かれ、ピンク色にただれる。僕が思わず目を瞑って呻き声を上げている間に、猫はさっさと顎を閉じた。

 「ヨウくん?ヨウくんなの!」

 激痛の最中、聞き馴染みのあるはつらつとした声に顔を向ける。猫も素早くそちらに振り向き、鳴き声を上げて威嚇を始めた。僕は身体を伸ばして近くに転がっていたビールの空き瓶を手に取り、壁にぶつけて半分に叩き割った。その音に再びこちらを向いた猫の顔を、割れた瓶の先で思いっきり突き刺す。

 悲痛な断末魔の声を上げて、猫は噴水のように血を吹き出しながらバッタリ地面に倒れて死んだ。

 「結構、良い武器かもしれない」

 そう言って僕はぎこちなく笑った。マヤがガラクタに躓きながら路地裏に入ってきて、ボロボロになった僕の右腕を持ち上げた。

 「こいつに噛まれたの?大変じゃないの!早く消毒しないと!」

 「いや、いい、いいんだ」

 立ち上がると酷いめまいがした。一瞬飛びかけた意識を慌てて取り戻し、腕の傷口を押さえながらガラクタを跨いで歩き出した。行くあてはどこにもない。ただ、今すぐ彼女から離れなければいけないという無意識に体が突き動かされた。もうこれ以上抱え込むものはないほうがいい。幼馴染も家族も戦友も、僕にとってはみんな過去の思い出でしかないからだ。過去の思い出でなければならない。

 「いいわけないでしょ!死んじゃうじゃないの!」

 走ってきたマヤに腕を掴まれて、それ以上行くのを諦めた。マヤは腰のポケットから葉の束を出して二枚手に取り、よく揉んで出てきた液を傷口に塗り込んだ。かなり滲みたけど、痛みを表情に出すことはしなかった。

 「慣れてるね」

 「当然。ここに来るまで二十人以上は治療してきたのよ。この辺りは毒性の危険生物が多いから」

 葉っぱの上から包帯で傷口をぐるぐる巻きにしながら、マヤは言った。彼女の袖口をよく見ると、自分でも怪我を治療したらしい包帯の端がちらりと覗いた。そして僕はとてつもなく辛いものを見た気分になった。道端で息絶えた人々の姿を見てもこんな気分にまではならなかったのに。

 「どうしてこんな所へ?どうして村を出てきたんだ」

 思わず僕は訊いた。包帯の端を丁寧に縛り終えると、マヤは腰に手を当ててまっすぐ僕の顔を見据えた。ちょっと可笑しいくらい真剣な表情だった。

 「あなたを探しに」

 「え?」

 僕の驚いた顔を三秒くらいじっと見つめた後、マヤはふっと笑って下を向いた。

 「嘘。……もちろんそれもあるけど、でも一番の目的は違うの」

 「じゃあ……」

 「ねえ、月花草って聞いたことない?」

 何か重要な秘密を囁くような口ぶりで、マヤが言った。僕はぼんやりと古ぼけた記憶の棚に月花草という名前を探してみた。たしかに、いつかどこかで聞いた覚えのある言葉だった。奴の住まう廃城へと向かう途中の山のふもとで、魔女のような格好の老婆がそんなことを話していた気がする。もっともあの時は、あの禍々しい山の中へ入る勇気を振り絞るのに必死で話を聞くどころじゃなかったけれど。

 「聞いたことはある」と僕は答えた。するとマヤの表情は目に見えて活発になり、上体をぐいと前に押し出してきた。

 「本当に?一体どこにあるって?」

 「それは……」聞いていなかった、と素直に答えるべきだったのに、僕は言葉を誤魔化した。期待に満ちたマヤを失望させるのが心苦しかったからかもしれない。他の何よりも、「失望」の二文字ほど恐ろしい言葉は僕の中になかった。

 「どうして、その草が欲しいの?」

 僕はそう訊き返した。するとマヤは思いつめたように顔を暗くした。

 乱暴な唸り声と、窓を叩き割る音が遠くから聞こえた。きっと盗賊か何かが暴れているんだろう。家に松明でも放り投げたのか、赤々と炎が燃えて黒煙が立った。もはやこれも珍しい光景じゃない。

 「……お父さんが、重い病気に罹ったの」

 蛮声と騒音の中に、芯の通った彼女の声が響いた。静かだけど、とてもはっきりとマヤはそう言った。

 「月花草はね、大抵の病気や怪我が治せるすごい薬草だって、本に書いてあったの。私、古い本をたくさん読み漁ったんだけど、そのうちのいくつかにみな同じことが書いてあったのよ。月花草は神秘の万能薬だって。だけど、生息場所だけはどこにも書かれていないの」

 堰を切ったようにマヤは話し出した。父親のためにたくさんの書物を懸命に読み漁る彼女の姿が容易に目に浮かんだ。赤い炎の光に片側を照らされた彼女の顔は、それにも劣らないくらいの情熱に満ち溢れている。

 「草がどこにあるか、知ってる?もうあまり時間がないの」

 「多分……きっと、廃城に向かう途中の山のどこかにあるはずなんだ。本当にあるかどうかわからないけど、でも、可能性はある」

 かなり言葉を濁したつもりだったけれど、そんなディテールなんて全く耳に入らないという風に、マヤはぱっと目を輝かせて両手を重ね合わせた。胸に冷や汗が流れた。

 「すごい、場所を知ってるのね?行きましょう!一緒に行ってくれる?」

 「ああ。そりゃあ……」

 いくらかの後悔を募らせつつも、僕はマヤの後を追って歩き出した。断るだけの理由もなければ、助けてもらった恩がある。ただ、盗賊に出くわさないことを心から願った。武器も無いし、数ヶ月前ならともかく、今の僕にはただの暴漢にすら敵う自信が持てない。自信と思い切りの良さが戦いには必要不可欠なのだけど、今の僕にはそのどちらも欠けている。──こんな腑抜けが再びあの山に入っていったところで、結果は見えているというのに。

 「ねえ、大丈夫?」

 思考の渦にマヤの声が差した。

 「大丈夫。……急がないとね」

 考えていても仕方がない。どうせ一度は諦めた命なんだから、せめて死ねる覚悟でいこう。それくらいしか、もう僕には強みなんてないのだから。


 *


 その家は、お世辞にも綺麗とは言えなかった。白塗りの壁はあちこちにまるで焦げ跡のような汚れがあり、塗料も剥がれて真っ黒いレンガが覗いている。屋根も瓦が欠けて所々が剥き出しになっていて、完全に穴が開いてしまっている箇所もある。円くて小さなこの家はいかにも魔法使いの住処という感じもするものの、ここまで老朽していては、もはや物置か何かのようでさえある。

 「誰もいないんじゃない?」と、いかにも訝しそうにマヤが言った。

 「いや、いるはずだよ。もう長い間会ってないけど」

 ボロい木の扉を二回ノックした。ひと気のない静かな草地に、乾いた音が鳴り響く。中からの返事はない。

 「……やっぱりいないみたいよ。いいよ、お金なら私が出すからさ」

 そう、マヤが言った時だった。木の扉がぎいと音を立ててひとりでに開き、殺風景な白い部屋が目の前に広がった。その部屋のど真ん中で、カームが怠そうにあぐらをかいて瓶ごと酒を飲んでいた。周りには飲み干した空き瓶がごろごろ転がっている。

 「よう」

 無愛想な挨拶をしたきり、僕には目も合わせようとしない。マヤが遅れて「お邪魔します」と言うと、切れ長の目でじろりと彼女を睨みつけ、それから再びはめ殺しの窓を見つめて酒を飲みだした。ウイスキーの臭いがプンプン漂っている。

 「元気そうだね」

 冗談交じりに僕は言った。カームは「ふん」と鼻を鳴らして力強く瓶を床に置き、かあっと大きく喉を鳴らした。わずかに周りの空気が揺れた。

 「何の用だ」

 顔も向けずにカームは言った。マヤは緊張した面持ちで後ろから彼の背を見つめている。

 「ちょっとね。武器を貸して欲しいんだ」

 「……あの剣はどうしたんだ」

 酒場の親父にあげちまった、というのは止めておいた。貸してもらおうという手前、それでは信用がなさすぎる。

 「刃が欠けちゃってさ、もう使い物にならないんだ。なあ、いいだろ」

 それからしばらく妙な間が続いた後、カームが鼻で息をついた。こみ上げる怒りを抑えたような音がこもっていた。

 「その子は、なんだ?」

 突然そう訊かれ、マヤがぴくりと反応した。「あ……私、マヤっていいます」

 「あんたにゃ聞いてないよ」

 カームが再び苛立たしげに鼻息を洩らす。

 「マヤは幼馴染だ。そんなことはどうでもいいんだ」

 何気無い言葉だったのに、カームは神経質にそれを咎めてきた。

 「どうでもいい?俺の質問がどうでもいいってのか」

 僕は視線を宙に投げて聞こえないようにため息をついた。こうなってしまっては話にならない。

 「もうコーラルのことを忘れちまったのか?そいつと同じくらいの歳だったじゃないか。死んじまったんだぜ。お前のせいで」

 「俺のせいじゃない!」

 思わず語気が荒くなってしまい、隣にいたマヤがわずかにひるんだ。僕は目を閉じて気持ちを落ち着けようとしたけど、あまり上手くいかなかった。

 「……忘れたこともない」

 「そうか。でも、お前はまた俺の武器を持って危険な外をうろつこうってんだな。そいつを連れて。それで、また無残に殺しちまうんだ。──コーラルの時みたいによ」

 握った拳にこもる力がどんどん強くなっていくのを感じていた。怒りに震える右手をマヤが掴んで引っ張った。

 「もう行こうよ。もう無駄だって」

 「ひでえ死に様だったぜ。体中切り刻まれちまって、顔なんか誰だか判りもしねえくらいで────ぐ……うっ」

 カームは肩を震わせて、呻くような声で泣き出した。僕は眉間に皺を寄せながら両目を固く閉じて、一番最後に見たコーラルの姿を思い返していた。

 服ごと全身を切り刻まれて、血塗れになった彼女の姿。僕が意識を取り戻した時、彼女は既に目の前に横たわって死んでいた。左目は潰れ、右目は死の恐怖に大きく見開かれていた。絶望感と当惑とをない交ぜにしたようなあの表情。普段の彼女の穏やかな笑顔なんてまるで見る影もなかった。僕はその場で胃が空になるまで嘔吐して、戦いを続ける気力も完全に失ってしまった。

 「あれは違う……俺じゃない」

 「いいや、お前だ!」

 足元で炎が燃えた。マヤが叫び声を上げ、僕はあまりの熱に飛びのいた。火球はすぐに消えて無くなったが、近くの本に引火した炎はそのままめらめらと燃え続けていた。

 カームは目に涙を浮かべながら僕を睨んで立ち上がり、手に持っていた酒瓶を思い切りこちらに投げつけた。瓶は背後の壁にぶつかって割れ、残っていた酒が辺りに飛び散った。アルコールに炎が引火して、木製のドアにまで燃え移っていく。

 「あの優しかったコーラルを──俺に優しかったのはあいつだけだ──それをお前は……」

 炎が部屋のあちこちに起こり、天井の梁や座敷が燃えだした。背後の火の手も大きさを増す一方だ。熱気が体を包み込み、徐々に体力を奪い取っていく。

 床に転がっていた数本の空き瓶が一斉に宙に浮き上がり、僕をめがけてバラバラに飛んできた。そのうちの一本が左肩に命中して、鈍い痛みがした。

 「ぐうっ」

 「逃げないと!ほら!」

 マヤが僕の腕を引いて、焼けたドアを体で突き破り、家から駆け出した。カームは出てこなかった。窓が音を立てて割れ、一杯の炎が外に漏れ出した。

 「馬鹿、あいつ……」

 さっきからずっと、僅かな頭痛が続いている。カームの力のせいだと思っていたのに、あいつが死んでも頭痛は治まるどころか、徐々に強くなっていく一方だ。今まで必死に抑えてきた光景が脳裏に蘇ってしまったからかもしれない。

 マヤは激しく息を切らしながら、呆然と燃える家を見つめていた。彼女の大きな瞳には、オレンジ色の炎の揺らめきが映り込んでいた。

 「ねえ、何があったの?」

 ややあって、マヤは尋ねた。僕は何も答える気になれなかった。

 「──ごめん。武器屋、行こう?」

 「うん」

 頭の芯が締め付けられるように痛む。

 きっと生きている限り、この痛みから完全に逃れることは出来ないのだろうな……そんなことを漠然と思いながら、僕は燃え盛る家を後にして次の町へと歩き出した。


 *


 マヤの後ろ髪が焼けて短くなっていることに気がついたのは、あれから十分くらい歩いた後のことだった。さらに近づいてよく見てみると、あの時、首筋に火傷を負っていたようで、赤黒く色が変わってしまっている。範囲は決して広くないものの、かなりダメージが大きそうだ。

 「マヤ、酷い火傷じゃないか!どうして黙ってたんだ」

 思わず声が荒いでしまい、マヤは少し驚いたようだった。移動中は神経が敏感になっているから当然だ。

 「え?ああ、そう。さっきね。忘れてた」

 「忘れてたって……」

 人の世話はよく焼くくせに、自分のことについてはてんで鈍感だから哀しさすら覚えてしまう。思えば昔からそうだった。一緒に遊んでいて怪我をしようものならどんな小さな怪我でも慌ててくれるくせに、彼女自身は足の骨を折っても気がつかないのだ。もしかしたら、ちょっと抜けているのかもしれない。今になってそんなことを思うのも遅いかもしれないけど。

 「とにかく、手当するよ」

 「ありがとう。火傷にはこれ」

 マヤはポケットから紅葉のような形の葉を一枚取り出し、僕に手渡した。それから包帯も取り出して、必要な長さに鋏で切って渡してくれた。僕は葉を揉んで湿らせ、それを火傷に当てがいながら包帯を首に巻いて後ろで蝶結びにした。

 「ありがとう」

 少し頰を赤くして、マヤは再びそう言ってくれた。僕はどうしても感謝を受ける資格を自分の中に見つけられずに、ただ憂鬱さを増すだけだった。元はと言えば何もかも、僕の失敗が招いた災難でしかない。

 小高い丘の一本道を越えると、眼下に町が広がった。当然ながら荒れている様子だ。煙も数箇所から立ち昇って、暗い空の中に溶け込んでいる。

 「人がいればいいけど」と、僕は言った。

 「きっといるよ。もしもいなかったら、勝手に持ってっちゃえばいいし」

 マヤの大胆な言葉には、僕も久々に笑わずにはいられなかった。

 「それもそうだな」

 この時だけは束の間といえど、憂鬱を忘れられていた。


 *


 その町で原型を残していた数少ない建物の内の一つに、破壊された壁や扉を、板と釘だけでとりあえず修理したようなものがあった。入り口の上には今にも外れそうな四角い看板が止められていて、煤に覆われた”Weapon”の文字が微かに見て取れる。

 その看板を見上げながら、「ここだね」とマヤが言う。「うん」と、僕は応えた。

 中に入ると木の棚とカウンターが目に入ったものの、人の姿はない。おまけに棚の中身は全て空っぽで、銅剣一本として置かれていなかった。

 「やっぱり、もうやってないのかな」

 そうマヤが呟いた時、カウンターの裏のドアの向こうからガチャガチャと金属のぶつかり合う音が聞こえてきたかと思うと、茶色いオーバーオールを着たスキンヘッドの男が荒々しくドアを開けてこっちに入ってきた。大きく膨らんだ風呂敷を肩で背負っている。

 「何だ、お前ら……あれ、あんたは」

 店主はマヤの顔を指差して驚き、目と口を真ん丸くした。こう言っちゃ悪いけど、タコそっくりだ。マヤは「あっ」と声を上げて笑顔になった。

 「この前の!」

 「ああ。もう傷口もすっかり塞がったぜ。まさか店で会うなんてなあ」

 どうやら彼女が言っていた人助けの話は本当らしい。疑ったわけじゃないけど、こうして話しているところを見ると実感が湧く。

 「二、三週間前だな。店にあった武器があらかた男どもに盗まれちまってよ、仕方無えから南の方まで行って仕入れてきたんだ。道中猫の野郎に襲われたが、あんたがいたから助かったよ」

 言いながら、店主はカウンターの上に風呂敷を広げて山積みになった武器を一つずつ並べ始めた。なかなか立派な品揃えだった。

 「そっちは」

 店主は最初、僕の顔がよく見えなかったらしく、顔をしかめながら身を乗り出して確認した後、「ああ」と低い声で言った。

 「あんた、今更装備を整えてどうしようっていうんだ。もう仲間の連中だっておらんだろうに」

 店主の態度は露骨な嫌悪感こそ表れていなかったものの、マヤの時とは打って変わって冷たく暗いものを感じさせた。まるで僕の顔を見るだけで世の終末を思い出すというような調子だった。

 マヤは僕らの顔を交互に見ながらちょっと戸惑った後、取り繕うように言った。「あの、今日は違うんですよ」

 「何がどう違う?」

 「今日は、私のために来てくれてるんです。月花草を、取りに行きたいから」

 「ほお」

 店主はいたって気のないような返事をしてから、「月花草ね」と呟いた。

 「あれを手に入れたなんて話は聞いた事がねえが、まあ、そういうことなら力になろうか。恩もあることだし、武器はタダでくれてやるよ。どうせ、ろくに商売にもならんだろうからな」

 「ありがとうございます」

 マヤが明るく礼を言った後、僕も頭を下げた。「助かります。どうも」

 店主はカウンターの端から端まで武器を並べ終えると、「なんでも持って行きな」とだけ言い残してさっさとドアの奥に消えていった。

 マヤは腰に手を当てて、呆れたような表情で店主が入ったドアを見つめていた。それから短くため息をついて、「なによ、今更だなんて」と言った。

 「え?」

 彼女がどうして不服げなのか、その時の僕にはさっぱり分からなかった。だから、その後に続いた言葉を聞いて、僕は内心衝撃を受けざるを得なかった。

 「だって、まだ何も諦めたわけじゃないじゃないの。そうでしょ?」

 思わず口を開いたものの、言葉がすぐに出て来なかった。心臓が高鳴り、首元に一筋の冷や汗が流れた。

 「ああ、そう……そう、その通りだ」

 「でしょう?」と、マヤは嬉しそうな声で言った。僕は口に溜まった唾を飲み込んでカウンターの上に目を逸らした。

 「あの人、いい人だけどちょっと失礼よ。──まあいっか。早く選んで行きましょ」

 全く、なんということだろう。彼女はまだ何一つとして諦めていなかったのだ。どうして今まで気がつかなかったんだろう。

 マヤがどうしてこんなにも明るくしていられるのかということに、僕はこれまで何の疑問も抱かずにいた。それが彼女の性格だからとしか思っていなかった。だけどそれは半分正解で、半分違った。マヤはまだ希望を持っているのだ。

 未来への希望を。それはつまり、僕に対する虚しい期待でもある。とても虚しい期待だ。だけどその期待がいかに虚しいものなのかを、彼女は知らない。

 「ああ。……急ごう」

 それくらいしか、僕がマヤに言えることはなかった。


 *


 夜が明けても世界は相変わらず薄暗い。赤い月は僕たちの頭上からいつまでも下界を見降ろしている。得体の知れない恐怖を人々に与え続けて、少しずつ民衆を狂わせる。ある者は私利私欲のままに悪行を続け、またある者は精神を病み、善き人は虐げられる。そんな人々の醜態を尻目に、また時には助けながら、僕たちは歩を進めてきた。

 互いに傷つけあう人々の姿に、僕はいささか辟易しつつあった。もちろん僕の失敗さえなければここまで事態は悪化しなかったのだけれど、それでも、人はこんなにも深い闇を心に宿せるのかとついつい悲嘆してしまう。彼らが僕に失望感を抱いた時と同じように、今は僕の方でも、人間というものに対して少なからぬ失望感を抱いてしまうようになった。今もどこからか家屋の焼け崩れる音が聞こえ、女の悲鳴と汚い笑い声が空に響いている。

 「もし救えたとしても、こんなに荒れてるようじゃあ仕方ないかもね」

 何気ない風を装って、僕はマヤに向かって言ってみた。

 「今だけだよ。みんな、凄く怖がってるの。だから、普段なら絶対にやらないようなことも、やっちゃうんじゃないかな」

 後ろ手を組んで遠くの燃える町を見つめながら、マヤはそう言った。

 「本当にそう思う?」

 愚問だった。マヤは当たり前のように「ええ」と答えた。

 「ヨウくんは、そうは思わないの?」

 「俺は……分からない」

 口ではそう答えたものの、正直なところ、マヤの言うことに賛成することはどうしても出来なかった。僕はマヤよりも人の本性について理解している自信がある。少なくとも、あんなにも多くの冷たい目に晒された経験は彼女にはないだろうから。

 「それに、いい人だってまだたくさんいるじゃないの。そういう人達のためにも、世界は救われるべきだと思うわ」

 「……ああ。そうだね」

 それについては、否定のしようもなかった。僕は自分自身を憎むと同時に、いつの間にか人を憎んでいたのかもしれない。だとしたら、それはただの逆恨みにしか過ぎないんだろう。

 「任せたわ、勇者さん。だけどあまり無理はしないで。命を大事に、ね」

 「うん。ありがとう」

 そろそろ民家も少なくなって、魔物の気配が増してきた。マヤを連れて行けるのもここまでだろう。ここから先は、間違っても誰かと一緒に行動なんてするべきじゃない。コーラルの身に起きたことを思えば、尚更だ。

 また頭の奥がきりきりと痛み始める。今度の頭痛はさっきよりもずっと酷い。あの山が近づいているからだろうか。

 「大丈夫?頭、痛いの?」

 額に手をやって立ち止まる僕を見て、マヤがそう言った。

 「大丈夫。それよりも、そろそろここで一旦別れたいんだ。ここから先は危ないからね」

 「そうなの?そんな、私──確かに戦えないけど、でも……」

 言いながら、マヤは顔を俯けた。自分だけが危険から逃れるのが忍びないのだろう。

 「この先を二人で行ったら、きっと凄く恐ろしいことになるんだ。だから、どこか安全なところで待っていて欲しい」

 「……わかったわ。それじゃあ私、あの納屋に隠れて待ってるから」

 マヤが指差した先には、板張りの小さな納屋があった。古くてあまり居心地は良さそうではないけれど、身を隠すには十分だろう。出入り口にはちゃんと扉が付いている。

 「あと、これを」

 そう言って、マヤは薬草の束と包帯、そして一枚の紙を手渡してくれた。

 「月花草のスケッチ。図鑑から切り抜いてきたの」

 紙の上には、無数の細かな花弁をまるで花火のように放射線状に広げた綺麗な植物のスケッチが描かれていた。その横には小さな文字で詳細も記されている。花は黄色いらしく、昼間に蓄えた光を受けて夜には発光するという。

 「多分、日の光がないから発光はしていないと思うの。見つけにくいかもしれないけど、頼むわね」

 「ああ。ありがとう」

 ついにここまで来てしまったな、と僕は思った。そもそも、本当にあの山に月花草が生息しているかどうかも定かじゃないというのに。こうなってしまった以上はもう、見つけられる可能性に賭けて行くしかない。

 「見つからなかったら仕方ないわ。とにかく、無事に戻ってね」

 「うん。それじゃあ、行ってくるよ」

 そして再び、僕は歩き始めた。マヤはああ言ってたけれど、もしも見つからなかったと知れば、やっぱりがっかりするだろう。もうこれ以上、誰かの失望を買いたくはない。

 少し進んだ先で、道端の草むらから大きなサソリが飛び出してきた。サソリは尻尾の針を向けながらじりじりと僕ににじり寄って、二メートルくらいの距離から一気に飛び掛かってきた。僕はあらかじめ抜いておいた剣でサソリを一刀両断にした。

 前方に目を向けると、次のサソリが道の真ん中で待ち構えている。そして更に一匹二匹と徐々に多く姿を現してきた。空中には巨大なコウモリも飛んでいて、時折真っ白い冷気を口元から放射していた。冷気を浴びた草は凍りつき、足で踏むとバリバリと音を立てて壊れていく。山の入り口はまだ三百メートルほど向こうだ。

 「行くしかないか」と、僕は一人呟いた。

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