01 ゴーグルの中の宇宙
スコープを覗くと、私たちの意識は宇宙へと放り出される。
右も左も、上下さえない世界。極寒の真空空間に、私たちはただ浮かぶ。眼前の暗闇に目を凝らすと、だんだんと、遠くで煌めく無数の星々が浮かび上がってきた。けれどあれは一体、何万年前の光だろうか。距離感のなさが、現実感さえも奪っていく。
ふと、ライトが届くまでの狭い視界の端を、白い尻尾が掠めた。私たちの駆る、汎用船外戦闘機<セイレーン>の推進装置だ。この尻尾を動かし、先端から窒素を噴射することで、セイレーンは姿勢を保ったり、移動したりする。覚えたての手つきで操作バーを押したり引いたりすれば、尻尾は一秒ずつ遅れて命令を聞き入れ、蛇の頭のように俊敏に動いた。
それに感心して何の気なしに足元の噴射ペダルを踏んだが最後、作用反作用で勢いよくその場で横回転し始めてしまった。
「わ、わ、わ、……わああ……」
これが地球上ならば、やがて回転は落ち着いていくのだろうが、空気抵抗のない宇宙空間では待てど暮らせど回り続けたままだ。
「わー……」
と力無く呟いたところで事態は変わらず、目の前を同じ星々が何度も通りすぎていく。忙しない視界だが、それが返って他人事みたいに感じられて、やるべきことを思い出せた。操作バーをさっきとは逆方向に動かし、ほんの一瞬だけ噴射ペダルを踏み、離す。回転が弱まり、さらにもう少しだけ噴射すると、なんとか再び『浮かんでいる』状態に戻ることができた。
安堵のため息が漏れるのと同時に、ようやく周りの騒ぎに気付くことになる。
「もういい加減にして! 私から離れなさい!」
「ちげーよ! お前が激突してくるんだろ!」
スコープ内の緑に光る矢印が足元を示し、屈むようにしてそちらを見ると、二体の白いシルエット、セイレーンが折り重なってもがいていた。丸い頭の中心に出っ張ったメインカメラ、左右に二本の腕、そして人魚のように後ろへ伸びる尻尾の推進装置。それらがぶつかり合って、お互いを引き剥がせないでいる。
「ちょっと、大丈夫……?」
里乃は思わずスコープから顔を離し、本人らに直接声を掛けた。
スコープを外すと、そこは国際宇宙防衛観測機構、木星拠点<イザベラ・プライマリ>内の船外活動機操縦室だ。
茅田里乃をはじめとしたセイレーンの遠隔操縦者が、六畳ほどのスペースに円状に並べられた一人用のブースに座って操縦捍を握っている。ブースは建物のように連なっていて、上の階は別のチームの操縦者が詰めており、下は空きだった。
防護壁や断熱材、様々な機材に囲まれた船内の照明は暗く、セイレーンを通して見る視界と光量のギャップがないように調整されている。
里乃の向かいでは、自分と同じ学生服姿の男女が双眼型スコープを覗いたまま、手元のレバーを乱暴にガチャガチャと押したり引いたりしていた。
「ちょっとちょっと、止めなさいよ! 回ってる!」
「うるっせえ! だから……」
揉み合っている二人の声をかき消すように、別の二人が左右から口を挟む。
「失礼だぞ! その方を誰だと思っているんだ、すぐに離れろ!」
「そうだそうだ! お前なんかが触れていい方ではない!」
「だからうるせえって! ガイドが聞こえねえ!」
上のチームは外国籍のようだった。複数の青い目が、スコープを外して迷惑そうにこちらを見る。
「す、すみません……」
果たして日本語が通じたのかは分からないが、このままではいけない。
「二人とも、じっとしてて」
里乃は肩より上で切り揃えたおかっぱ頭の横髪を耳にかけて、再びスコープを覗いた。
里乃の駆るセイレーンが、もつれ合っている二体に接近する。近付く速度に気を付けながら、タイミングを計って片方の胴体に飛びつく。しっかり掴まえて、その勢いのまますれ違えば、彼らを引き離すことに成功した。
「やった!」
と思ったのも束の間、腕の中のセイレーンが暴れ始める。
「ちょっと! どこに連れて行く気よ! やめて離して!」
「え、待って! 今止まるから……」
頭で考えてから操作をしようにも、振動で視界がぶれて思考も手も止まる。
「あっ!」
ガクン、とカメラが揺れて、腕の中のセイレーンが上へすっぽ抜けていった。後頭部を押される形で、里乃のセイレーンは腰のあたりを軸にして、その場で前転を始めてしまった。
「あああ……」
力ない声が漏れ、下から上に流れていく景色を眺める。だが、さっきと同じことを縦方向にやればいいのだ。その光景をあまりまともに見つめていると酔いそうだったので、薄目で見ながら、息を吸って吐いて、噴射ペダルを踏む。
途端に、回転の勢いが二倍増しになり、眼前はルーレット状態になってしまった。
「間違えたあー!」
声を裏返らせて叫ぶと、男性の声が割り込んできた。
『一○六班! さっきから何をやっているんだ』
スコープの右側に小窓が現れ、ワンレンズ型の大きなサングラスで顔を覆った男性の映像が映し出された。サングラスは直線的なデザインで、非透過な素材も相まってどこか無機質な印象を与えていた。その顔の形も表情も、伺い知ることはできない。
小窓の下の欄には、Platoon、つまり小隊長の表記があった。
「茅田さんが! 班長であるこの私に! ぶつかって来たんですわ! その後もこの通り、ふざけているばかりで!」
「ええっ……だってそれは、あなたが」
思わず双眼スコープを外して、直接声の主を見る。だが彼女は、こちらの視線など無視するつもりのようだった。
『……カヤタ、君は早く止まりたまえ』
「あ、は、はいっ! えっと……えっと」
急かされると焦ってしまい、里乃の指は空中をうごめくばかりだ。
『母艦の方向をyに指定すれば、自動姿勢制御で止まるだろう』
「そ、そっかぁ……」
里乃が考えていたよりももっと手っ取り早い方法があったのだ。たった二つの簡単な操作で、里乃のセイレーンは素早くルーレット状態から脱することができた。』
通信の電波越しにも、彼が呆れたように小さく息を吐いたのが分かった。
『君たちはインターンの訓練生だ、こちらとしても成果など期待はしていない。でもだからといって、自滅はしてくれるな』
里乃の正面に座する彼女は、その言葉で他のメンバーよりも特に感情を害したらしい。
「期待していないですって? 私を誰だと思っているの……」
独り言にしては声量のあるそれを、小隊長は別段咎めることはなかった。
『この空域は、我々の主管轄防衛ライン。つまり……戦場の最前線だ』
ヘッドホンに警報音が鋭く鳴り、スコープに三角の表示が無数に現れる。
『君たちの機体でも捕捉できているな? この<イザベラ・プライマリ>の役割は、あの宇宙昆虫”ミスフィット”の数を減らすことだ。全滅させる必要はないが、地球を守る”プルーフ”の限界を超えない程度に、抑える必要がある』
三角の表示の先に、だんだんと何かが見えてくる。近付いて来ているのだ。
『だが、今回君たちに求めるのは三つだ。いいか、一度しか言わない。他の班の邪魔をしないこと。セイレーンを持ち帰ること。常に私の命令を聞くこと。以上だ』
近付いてくる物、いや者たちが、スコープ越しに少しずつ姿かたちを現わしていた。