よん よっつのボタン
「桧原くんっ、おはよう!」
私は、教室に入ってきた桧原くんに声をかけた。彼は、ぽかんとして私を見上げる。迷惑なのかな? やっぱり、昨日のこと怒ってる……?
「あの――――」
「なんで、話しかけてくれんの?」
「え?」
私はぽかんとした。さっきの桧原くんよりきっとぽかんとしてるはずだろう。だって、おかしい。普通逆だもん。
昨日怒っていたのは、というか、嫌になってしまったのは桧原くんの方。私が桧原くんを嫌な気分にさせた。だから、返事してくれて嬉しかった。
なのに、彼は私が話しかけるという行為に疑問を抱いている。私が桧原くんに話しかけるのは、おかしかったのかな?
「私、桧原くんと話したかった。昨日、怒らせちゃったから……」
そう言って訴えると、桧原くんはふっと笑い出した。私は意味がわからなくて、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。私、言ったことおかしかった?
一通り笑い終わった彼は、一息ついてから口を開いた。
「ごめん、笑っちゃって。俺、怒ってないよ。むしろ、佐野さんの方が怒ったかと思った。だから、普通に話しかけてくれたのが嬉しくて」
「う、うん……?」
私は怒ってないよ? というか、桧原くんも怒ってなかったんだ! よかったぁ……。
桧原くんは怒ってなかった。それなら、いいんじゃない。そう、それでいい。だけど、なんか違和感……。
「じゃあ、昨日なんで突然帰っちゃったの?」
「……邪魔かな、って」
桧原くんは、後頭部を掻きながら照れくさそうにした。頬を赤く染めて、恥ずかしそうにうつむく。うわあ、かわいい。かわいいっ!
「邪魔なんかじゃないよ。また、あの、遊びに来てね……? お兄ちゃんも、会いたがってるから、」
「佐野さんは?」
「ふ、はぇ」
びっくりして、変な声が漏れてしまった。ひ、桧原くん、顔近い。しかも、ちょっと上目遣いになっちゃってるのがまた萌える……じゃないじゃない。私は健全な女子なんだから。ショタコンとかじゃないんだから。多分。
てか、ショタコンてなに? なんか誰かが言ってたから使ってみたけど、違和感しかない。ロリコンならまだ知ってる。
「佐野さん?」
「うあぁ!? あの、私、私はその、うえぇえ?」
待って、質問の内容を忘れた。ショタコンがなんだって? ……違う違う。ショタコンから離れるんだ私。離れろショタコン。落ち着け優樹菜。
「ごめん、なんだって?」
「だからぁっ! あぁ~……もう、いい。忘れて」
「う、うん?」
よくわからない。桧原くんは手で顔を覆って視線をそらした。指の隙間から、真っ赤になった肌が見える。照れてるなあ。
……あー、うん。ごめんなさい。決して見たかったわけではなくて、ただなんか、なんか目に入ってしまっただけであって、それがどうだかってことではなかったとして…………あの、ほんとすみませんでした。
「あの、佐野さん。あんま見ないでくれない……」
「えぇっ! え、えっ!? ごご、ご、ごめん!」
照れる桧原くん、テンパる私。なんなのだこれは。
赤面しながら向かい合う男女なんて怪しい以外のなにものでもなく、変な噂が流されるのは目に見えているので、私たちはそれぞれ自分の席に座った。恥ずかしい。なんか視線感じたし、多分見られてた……よね。
うああ! 軽く三回死ねる! それくらい、恥ずかしい!
「ゆっきー、どうしたの?」
「ぅわっ、えーと、瑞樹ちゃん」
声をかけてきたのは椎名瑞樹ちゃん。席が前後だから、昨日瑞樹ちゃんの方が話しかけてきたのをきっかけに、話すようになったんだよね。家は正反対だから、一緒に帰ったり寄り道したりはできないんだけど。それでも、仲良しの友達ができたのはとっても嬉しい。
「あれ。瑞樹ちゃん、ブレザーのポケットのボタン、取れかけてるよ」
「え、ホント!? わー、ホントだ! 恥ずかしー! まだ二日目なのに外れるなんて、この安物っ!」
瑞樹ちゃんはブレザーに八つ当たりをしていた。安物って、そんな大声で言わなくても……。
でも、私たちが着ているブレザーは、安物のようには見えない。きちんとしていて、生地も高級なもののような気がするんだけどなぁ。
そういえば、よく見れば瑞樹ちゃんは面倒なことが嫌いそうなのに、今日は髪の毛を細かい編み込みにしてあって、耳の後ろで二つ結びにしてある。凝ってるなあ。私なんて、いつも適当にツインテールにしてるだけなのに。
「まあいいや。この際だしとっちゃおっと」
「えっ、瑞樹ちゃん、それは――――」
私が止めるのも聞かずに、瑞樹ちゃんはボタンとブレザーを結びつけていた糸を引っ張ってちぎってしまった。とれた紺色のボタンはブレザーのポケットにしまいこむ。
「はーすっきり。ねえねえゆっきー。さっき、桧原と顔近づけてなに話してたの?」
「うえぇ!? な、なななっ、何もないっ。何もないからっ!」
動揺しまくった私が声を震わせながら答えると、瑞樹ちゃんはいたずらをする子供のようににやっと笑った。うわあ、嫌な予感がする……。
「さては、怪しげなことをしていたな?」
「怪しげなことって、どんなことよ~っ!」
嘆きながら、首を横に振った。適当に結ばれた髪の毛が、ぱさぱさと揺れる。怪しげなことって……。うぅ、恥ずかしい。他の人からは、そんな風に見られていたなんて。
そのとき、かちゃっと何かが落ちる音がした。何を落としたのかわからなかったけど、すぐに見当たらなかったから諦める。大切なものなら、必要になったとき気づくでしょ。
「なに、なんか落とした?」
「ううん、大丈夫」
心配してくる瑞樹ちゃんに私は笑顔で返事をする。落としたのは、私じゃないのかもしれないし。よし、気にしないでおこう。
「ねえ、一時間目ってなに?」
「総合じゃない? 委員会とか決めるのかもよ」
「あ、そっか。さすがゆっきー」
そんな他愛のない会話をしていると、ぴょこっと現れたのは桧原くん。口をとがらせて、私を見上げている。う、目がきらきらしているというか、あの、とにかくかわいい!
「佐野さん、ちょっと来て」
「ふええぇ!?」
入学式の時と同じように、腕を引っ張られる。桧原くんは足が速いから、ついて行くのに必死。
「ま、待って桧原くん!」
「佐野、さん」
私が叫ぶと、桧原くんは立ち止まって、肩で息をしながら私の名前を呼んだ。その意気に押され、私は体を硬くして「は、はい」とかしこまった返事をする。すると、桧原くんはズボンのポケットから何かを取り出して、私の手に押し込めた。
「な、に……?」
ゆっくりと手を開くと、黒の小さなボタンがひとつあった。私のスクールバックにつけてあったストラップの飾りだ。さっき何かが落ちていたのは、これだったのかもしれない。小さくて、見つけられなかったんだ。
「これ……あ、ありがと。でも、なんでここに連れてきたの?」
見覚えのない教室の前。『英語少人数』と書いてある。薄汚れた黄色のドアは、立てつけがあまりよくないようで、少し傾いていた。
「あ、いや、別になんでってわけじゃないんだけど。だって、俺が教室で佐野さんに話しかけたら、目立って、迷惑だと思ったからっ」
焦っているのか、しどろもどろになっている。あと、教室で話すより手を引かれて違う場所に連れていかれる方が目立つと思う。桧原くんって天然だなあ。かわいい。
なんでこんなにかわいいんだろう。もう、天使。照れてるのか、少し顔を赤くしてうつむいているのもかわいい。ついでに、手をぎゅっと握ってるのもかわいいなあ。って、私、バカ。なに考えてるの。
「じゃ、教室帰ろう? 授業、始まっ、ちゃう」
「あ、うん。ごめん」
「い、いいよ。早く行こ」
私も緊張して、舌を噛みそうになる。話し方変な子って思われてないかな? てゆーか、桧原くんに手、引っ張られるとか、嬉しすぎる。廣山さんもいるけど、きっと、叶えられる気がした。この、恋が。
「っあ、桧原くん。学ランのボタン、なくなってる」
「えっ、どこ!?」
「だ、第二ボタン」
慌ててボタンを確認する桧原くんに、私は情報をつけたした。第二ボタンって、卒業式の時に好きな人からもらえたらいいとか言うよね。うぅ、あんなに大事なボタンがなくなってしまうとは……。
「うわーっ、ほんとだ。やば、先生に見つかったら怒られる!」
焦る桧原くんの手首を掴んだ。彼はびっくりして少しだけ後ろに下がる。そして私のことを見上げた。
「なに?」
「わ、私のボタンっ、使いますか!?」
そう言って、さっき桧原くんが渡してくれた私のストラップのボタンを差し出す。サイズは小さいけど、色は一緒だからカムフラージュくらいならできるかもしれない。
桧原くんは差し出されたボタンを凝視して、笑った。ま、また笑われた……!
「それ、小さくない?」
「うぅ……」
ごもっともです。小さい。このボタンは、明らかに小さい。でも、私のボタンを見つけてくれたんだから、何かお礼がしたかったんだよ。
「いいよ、それつける。あーでも俺、裁縫とかできないからさ、縫ってくれない?」
上目遣いでそう言われたら、断れるわけがない。私は内心冷や汗を流しながら、うなずいた。
「わ、わかりました……」
こうして、なんか裁縫をすることになってしまいました。私もあまり裁縫は得意ではないんだけど、ここは頑張らなくちゃ。
「裁縫道具、多分教室にあるから、先に教室行こう?」
「あ、わかった」
走り出そうとした矢先、授業開始のチャイムが鳴った。……予想通り、私と桧原くんは、初めての授業に遅刻した。
「ほんっとごめん!」
一時間目の総合の時間が終わると、桧原くんに謝られた。すごく頭を下げている。それは、そんな。
「き、気にしないで! 私が引き留めたのが悪かったんだし! あっそうだ、ボタン縫わなきゃ。桧原くん、学ラン……」
「あ、ほんとだ。ちょっと待って」
必死で桧原くんは悪くないと言っていたら、いつの間にか話題がすり替わってしまっていた。私の言葉に反応した桧原くんが学ランを脱ぐ。
うわっ、生着替え……っ! じゃないじゃない。落ち着け私。
桧原くんの学ランを受け取ると、私は裁縫道具を取り出してボタンを縫い始めた。緊張して手が震える。けど、汚くならないように気をつけなきゃ。
危なっかしい私の手つきをみた瑞樹ちゃんが、心配そうに代わろうかと言ってくれたけど、私は断った。だって、せっかく桧原くんが見てくれてるし……。
その時だった。
「いたっ!」
思わず手を引っ込めた。
勢い余って左手の人差し指に針を刺してしまったのだ。幸い血は出ていなかったし、痛みもその一瞬だった。だから、大丈夫だったんだけど。
「佐野さん。いいよ、もう」
桧原くんは冷たく言い放った。私は一瞬言われた意味がわからなくて、桧原くんを見上げる。
「もう、いいから」
彼はもう一度繰り返して私の手から学ランを奪い取ると、絡まった糸を解いて針を渡してきた。
唖然とする私に、瑞樹ちゃんは一言言った。
「だから、言ったじゃん。あいつを好きになったらいけないって」
彼女の声を聞きながら、ボタンを縫うのを廣山さんに頼んでいる桧原くんの姿をぼんやりと眺めた。二人は、楽しそうに笑っていた。
その日私は、全くなにも手につかなかった。ものを何度も落としたり、授業中もなかなか集中できなかったり。まだ今日は勉強的なものはなかったから良かったんだけど。
私は結局係りは書記をすることになった。瑞樹ちゃんと一緒なんだよね。やった。
桧原くんは体育委員をするとかなんとか。私が彼の方に目線をやると、一瞬目が合って、ぎこちなく逸らされた。呆れられちゃった。でも、やっぱり、そんな風にされるのは傷つく……。
しょんぼりしていると、瑞樹ちゃんが声をかけてきた。
「ゆっきーはさ、桧原のことが好きなの?」
「……うん、多分」
頷いたあと、また好きにならない方がいいとか言われるのかと思って、私は言い直そうと口を開いた。だけど、言葉を発する前に彼女に遮られる。
「あたしは応援するよ」
「瑞樹、ちゃん」
瑞樹ちゃん、あんなに反対してたのに。まだ、出会って二日なのに。
優しくて、私の事を考えてくれている。そんな瑞樹ちゃんのことが、私は好き。高校で初めてできた、私の友だち。
そのとき、後ろから廣山さんの叫び声が聞こえてきた。
「あーっ、カナぁ、見てよこれ! うちのカーディガンに学ラン縫い付けちゃったぁー」
「は? マジかよお前。ほんとに下手くそだな、もう」
仕方ねえなあ、と言いながら糸をはさみで切っていく桧原くん。あ、二人の顔、近い……。私は知らず知らずのうちに、食い入るように二人の様子を見ていた。
桧原くん、あんなしゃべり方もするんだ。なんか、私の知らない桧原くんを見たみたいで、悲しくなってくる。私、独占欲強すぎるよね。まだ会って二日しか経ってないのに、他の子が私の知らない桧原くんを知ってたら嫉妬しちゃうなんて。
「あーっ、ちょっと桧原引っ張りすぎ! ちょっと、カーディガンのボタン取れちゃったじゃん! どうしてくれんのよー!」
廣山さんが怒っている。それに対して桧原くんは「うるさい。黙れ」と低い声で言いながら眉間に皺を寄せた。
本当に、私に対する態度と全然違う。廣山さんと一緒にいる方が、桧原くんは気が楽なのかもしれない。顔見知りっぽいし。
考えているうちに、私って性格悪いなって思った。
「ゆっきー」
心配そうな声色で、瑞樹ちゃんが私を呼ぶ。
「気にしないで。私、大丈夫だから」
無理やり笑顔を作ると、瑞樹ちゃんは顔をしかめた。けど、彼女は何も言わなかった。分かってるよ、というように静かに微笑んでいた。
何かが落ちる音がした。
次回は番外編です。
奏音くん目線です。