明け方
暗闇の中を落下していると気づいても怖くはなかった。
寒くもなく暑くもない。
不快ではないが特に快適でもない。
ただ全身に水中にいるような抵抗がある。
上も左右も一筋の光も見えない。
何の音も聞こえない。
真っ暗な世界で自分の体だけが淡く発光している。
体というよりも体から剥がれていく薄い破片が光っているのだ。
細かな破片は絶えず剥がれては四方に散らばりやがて消えていく。
失った破片の代わりに辺りの暗闇が体に入ってきた。
その分だけ体は軽くなるが息苦しさを感じた。
藤は息苦しさに耐え兼ね早く底へ着けばいいと願った。
あとどのくらいだろうか。
仰向けだった体を回転させた。
光の破片が足や頬を掠めていく。
自分から剥がれた破片ではなかった。
先行して落ちていく人を見つけた。
「かえで」
伸ばした腕は少年には届かない。
それでも必死に小さな手は弟分の少年を掴もうと足掻く。
(つかめ、つかめ、つかめ)
自らを鼓舞し無我夢中で幼い体躯を動かす。
肩に指先が触れた。
(あともう少し)
落下に追いつこうともがいた藤の手はようやく楓の肩のシャツを握りしめた。
力任せにシャツを引っ張り上げる。
重い、とは思ったがこの奇妙な空間の作用もあるのか、さほど労せず持ち上げられた。
同じ頭の高さに並ばせると楓の顔を確める。
あれほど藤が乱暴に持ち上げられたにも関わらずその目は閉じられ眠っているようだ。
最初は名前を呼んでいただけだったがあまりにも起きないので鼻を摘まんだり脇腹をくすぐったりしてみる。
しかしそれでも目覚めない。
「起きろ、かえで。一人じゃさびしいだろ」
悲しくなって楓の両手を掴んだ。
楓の破片が暗闇の代わりに藤の内へ入ってくる。
藤の破片も楓の内へ溶ける。
「なあ、かえで。目を開けてよ」
何度目かの呼び掛けで楓の瞼が開いた。
「トー?」
暫くぼんやりとした顔だったが辺りの暗闇に気づくと怯えて藤にしがみついてきた。
「怖いよ。トー」
楓の様子に藤まで不安が移る。
しかし年下に弱気なところは見せられない。
藤の意地が行動を起こした。
見上げても真っ暗に変わりはないが落ちているということは上がれば此処から出られるのではないかと考えた。
「よし、僕がかえでを飛ばす」
楓に両腕を広げさせ脇に手を差し込むと藤は上へと放り投げた。
作戦は効を奏し楓の体はするすると上昇していく。
「ふー君」
頼れる者から離れ不安の色が隠せない楓は藤の名を呼ぶ。
その時楓の体から一際大きな破片がこぼれ落ちた。
朱い大きな破片は光を放ちながら落下する。
破片を失った楓は再び目を閉じていた。
あれは失ってはいけないものだ。
藤は瞬時に察した。
暗闇の中で朱い光芒を引きながら破片は真っ直ぐに楓へと向かってきた。
手を伸ばし破片を受け止める。
しかし目映い閃光を放つとそれは藤の胸へ吸い込まれてしまった。
同時に急激に睡魔に襲われる。
(だめだ、返さないと)
藤の体からも大きな破片がこぼれ落ちた。
蒼く輝くそれをどうにか掴むと力を振り絞り楓へ投げつける。
視界が閉ざされていく中で蒼い破片が楓の体の前で確かに力強い光を放つのを見届け藤は深い眠りへと落ちた。
手足がひどく冷えている。
寒さで目が覚めた。
体は布団に包まれているが冷たい四肢に藤は顔をしかめた。
胸部だけが火を点したように温かい。
両手を組んで胸の上に置くとやがて手も温かくなった。
窓に天幕を引いた室内は暗いが外からの明かりでうっすら輪郭は捉えることができた。
夜にしては明るい。
寝台脇の置時計を確認しようと身を起こしたところで部屋の扉が開いた。
「あ、起きた」
楓が足早に近づいてくる。
「もう少し眠っててもいいよ。まだ明け方だから」
再び寝台へ横たわらせようと藤の肩を軽く押す。
しがみついてきた柔らかで小さな爪の手とは違い硬い節と四角い爪で構成された手は高い熱を発している。
自らの体の冷たさに気づかれるのを恐れ何気なさを装って手を振り払う。
何故この時間に楓は藤の部屋にいるのだろう。
そもそも昨日自宅へ帰った記憶がない。
「倒れたから連れて帰って寝かした」
藤の疑問に楓の答は単純明快だ。
「医者に行こうかと思ったけど、様子見てたら大丈夫そうだったからさ」
優しい笑顔を藤に向ける。
この笑顔は一生変わらないだろう、藤は半分願いのような確信を胸の中で抱えた。
「悪かったな」
「いいよ」
元気そうだがろくに眠れていないのではないだろうか。
「今日は仕事休みだろう。此処で寝てから帰れよ。俺はもう大丈夫だから」
すると楓は首を振る。
「いや、連絡があって会議が入った。でもまだ時間あるから寝させてもらう」
そう言うと床にごろりと寝転がる。
藤は呆れて「客間を使え」と楓を追いたてようとするが床を転がるばかりで一向に部屋から出ようとしない。
「だってさ、あの寝台、ふかふか過ぎる。固い方がちょうどいい」
諦めて藤は自分の布団を楓の上へ落とした。
「藤はどうするの」
「目が覚めた。もう起きる。お前は寝てろ。起こしてやる」
布団にくるまり丸くなる楓を呆れた目で見て藤は廊下へ出た。
楓が何か言ったが布団に阻まれ聞き取れなかった。
どうせ大したことではあるまい。
聞き返さず扉を閉めた。
次も読んでみようかと思ってもらえる事を切に願っています。




