予備
榛野から書類の作成について簡単な説明を受けた後「実際に一緒に作ろう」と言われていた。
しかし午後になっても書類が必要な市民が訪れない。
「こういう日がたまにあるのよね」
唇を尖らし椅子の上で背伸びをする。
椅子の背もたれがぎっと鳴る。
「説明しようとしたらこれだもの。もう」
時計の針は午後三時過ぎを示している。
並ぶ窓からの陽射しに陰りがある。
出入り口近くには書類を待つ人の為に長椅子が置かれ市の広報ラジオが流れている。
遮蔽物がないので楓達の事務机がある場所にもラジオの音は届く。
―第二縦貫道上り三キロの渋滞です
交通情報が女性の声で読み上げられている。
穏やかな午後だ。
先日の会議室での緊迫した空気とは正反対だ。
壁に映し出された写真が遠い幻に思えてくる。
森崎が嬉しそうに小箱を手に事務所へ戻ってきた。
「西尾さんがお菓子をくれたよ」
「お菓子!」
目を輝かせて榛野が立ち上がる。
「水仙堂の琥珀ですよ」
笑顔で榛野に箱を見せる。
感嘆の声を上げ「お茶を淹れてきます」と榛野はいそいそと給湯室へ向かう。
「溝口さんは」
「資料室へ行かれました。呼んで来ましょうか」
楓も立ち上がる。
「うん、お願いするね」
―緊急速報です
男性の声でラジオが伝える。
二人は動きを止めた。
先に行動したのは森崎だった。
小走りに壁に設置された調節器へ向かうと音量を上げる。
―規制されます。繰り返します。本日十六時より九鳩市への市民の移動は規制されます。以後は
「ごめんなさい、席を外すわ」
固い声を発し顔を強ばらせて森崎は二階へと上がって行った。
盆に茶碗を乗せた榛野が不思議そうに入れ違いになる森崎の背を見送る。
天井を指差し「どうしたの。ラジオ、音が大きいよ」楓に尋ねる。
既にラジオは週末の天気予報へ変わっていた。
「九鳩市への移動が出来なくなりました」
そう答えながらラジオの音量を戻した。
「ええ、また?あの市長は強気だね」
はっとしたように階段の方を振り向く。
自分と同じ事を考えたのだと藤は悟った。
先日の会議室での一件を思い出したのだ。
二人は沈黙のまま不安げに二階の様子を窺う。
榛野は盆を机の上に置くと二階へと上がった。
しかしすぐに下りてきた。
「駄目だった。ずっと電話で話をしてて、聞けるような状況じゃない」
深く溜め息をつくと盆から二つ茶碗を取ると藤と自分の机の上へ置いた。
楓は小さな声で礼を言い揺れる水面を見つめた。
「少しだけ、話している内容を聞いたけれど、あの件ではないみたい」
多分と呟き一口お茶を口に含む。
「じゃあ何が」
森崎を深刻な顔にさせたのか。
「これも多分、だけれど。九鳩市には十雪市から一人帰還者が行っているの。所謂、貸し出しね。もしかしたらそれかも」
森崎が二階から下りてくる気配はない。
待っていても仕方がないと榛野は仕事を再開した。
楓も気にはなりつつもそれに倣う。
貸し出しがいたとは初めて知った。
集中ができない、単純な書面を何度も見返した。
「あのね、ここだけの話」
榛野は書類を束ねながら再び口を開く。
「十雪市には予備帰還者もいるの」
「えっ」
独立帰還者は水晶病の治療への従事が義務付けられている。
が、特例がありその都市に既に帰還者がいる場合は予備登録保証金を納めれば予備として登録できる。
予備とは帰還者の責務から待機状態の者をいう。
予備の登録を抹消されるまで一般市民も同然である。
しかし制度はあっても受けられる者は極めて稀だ。
帰還者は常に不足している。
自らの都市を充分補える程の帰還者がいたとしても余力の帰還者は他都市への交渉材料に使われるのが通常だ。
よって予備を許可される事が先ず難しい。
加えて保証金は都市ごとに多少の差はあるがいずこも莫大な額に定められており一般市民には到底納められるものではない。
それが十雪市には存在するという。
対応所が所有する名簿には記載されていない。
貸し出しの帰還者も同じく載っていなかった。
「市の方針よ。担当しか載せないようにしているの」
きっと藤も知らないのだろう。
「此処って本当に狡いのよね。だって発生率高過ぎやしない?担当、貸し出し、予備、の三人に、二月に一人消失するまで四人だったのよ。多いよ」
その言葉に本の少し異質なものを感じた。
それが何か分からないがそれよりも新しい情報を整理したい。
一つ、貸し出し、つまり十雪市出身の帰還者が九鳩市へ派遣されている。
二つ、予備登録者が存在する。
二月に一人消滅しているのに何故現在も藤は一人で地下へ降りているのか。
「榛野さん、予備って誰ですか」
榛野は首を振った。
「そこまでは知らないの。三田さんから教えてもらったけれど、いるらしいとだけしか」
「そうですか。ありがとうございます」
隣の席で丁寧に頭を下げる楓に榛野は「やだ、大袈裟ね」と驚いていた。
一時間以上経って森崎は二階から下りてきたが、外出すると言い残し事務所を出ていった。
説明は明日してくれるらしい。
定時で仕事を終え榛野と共に対応所を出た。
高架鉄道から地下鉄へ乗り換える榛野と別れる。
一人になると腹の底に沈ませていた怒りが渦巻いて浮上する。
初めは予備登録者への怒りだった。
けれど気付かずにはいられなかった。
家に辿り着く頃には自己嫌悪が重く体にのし掛かっていた。
予備などより余程自分の方がたちが悪い。
(卑怯者は俺だ)
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