食べかけ
その一撃に気がついた者は、被弾した私以外には誰一匹としていなかった。ただし、狙撃者は言うまでもない。
それは無音でも不可視の弾でもなかったけれど、この割れんばかりの喝采と紙吹雪の中ではすっかりかき消されてしまっていた。そもそも、王国広場を埋め尽くさんばかりに密集するあのウサギたちと私との距離は、バルコニーの高低差を無視してもおよそ百メートル。この音の洪水と併せて考えれば、気がつく方がどうかしている。
私がウサギ王国の騎士であることを示す銀のバッジは、被弾の結果として輝きを失っている。唾だった。胸で輝くバッジは私にとって、二つの長い耳に次ぐほどの誇りであった。それが今や、まさしく唾棄すべき侮蔑の証で汚されている。
大仰な音楽が流れ始めると、私を称えるために集まったウサギたちは静かになった。それに代わるようにして、可憐で慎ましやかな、けれど張りのある高らかな声が広場中に響き渡った。
「騎士さま、改めてお礼を言わせてくださいましね」
声の主――はしたない侮辱をはたらいた狙撃者はそう言って、私の目の前でわざとらしく微笑んだ。
狙撃者の後ろに仕えていた黒ウサギ(あの一撃に気付かないとはどういうことか!)がこちらへ歩み寄り、私の首へキラキラのメダルをかけてくれた。このメダルというのは王国一の職人に特注した大変な貴重品で、ウサギ界でも飛び抜けた栄誉の象徴である。
歓声と拍手で広場は沸き立った。あちこちから私の名を友人のように呼ぶ声が上がる。私は動揺を何とか隠し、国民へ向けて手を振った。狙撃者はニコニコしているだけだった。私は震える声で狙撃者に言った。
「姫さま……もったいなきお言葉と……素晴らしき栄誉を……」
私は姫の方へ向き直り、頭を下げる。そして、ウサギ王国において最大の感謝を示す右耳へのキスを姫に捧げようとして、やめる。私の首筋を、たくさんの不快さが虫のように這い回った。姫は私の耳元で、国民たちには聞こえない声で、ささやいた。
「わたくしにキスをしてくださるの、大恩人さま」
姫は軽く頭を傾げた。そして付け根から二センチ以降が消えている、包帯だらけの二つの耳を差し出した。
◆
恐ろしいけだものがウサギ王国を襲ったのは、収穫祭のちょうど一ヶ月前だった。
突然現れた獅子は腹を空かしており、数十匹の国民を手当たり次第に食った。長老ウサギの機転によって子ウサギたちは洞穴へ逃げ込み難を逃れたが、あろうことか獅子は【逃げ遅れた】姫に牙を向けた。
常日頃から「お飾り」「王国の恥」「自儘」「羊頭狗肉」と国民から大いに慕われている姫である。王の号令のもと国中の騎士が救助に向かった。
優秀な騎士は数多くいたが、所詮は対ウサギに限定した『歴戦のつわもの』たち、何百倍もの体長を持つ獅子に適うはずがない(そこには士気の問題もあったのだが)。
しかし、ウサギ王国にはこんなことわざがある。窮兎獅子を咬む。騎士らが全滅を意識し姫を諦めて撤退を始めた時、ただ一匹だけ、捨て身の覚悟で獅子へ飛びかかった騎士がいた。早い話、私である。
奇跡としか言えない一撃を右目に食らった獅子は、致命傷とは言えずとも自尊心を砕かれたのが痛かったのだろう、姫を振り落として王国から飛び出していった。
姫は両耳こそ食いちぎられたものの一命を取り留めた。
王と王女は、傷つきながらも命を手放さなかった幼き姫を称え、いっそう深い愛を抱いた。それと同時に、姫を救った勇気ある騎士を「英雄」と呼んだ。私は城へ招かれ、たいへんな褒美とお褒めの言葉を王からいただいた。
それからの私は、友人に言わせればまさに「うらやましい限りの大出世」であった。ただ、先日の式典で突然王から与えられた「姫の夫」という地位だけは、友人どころか名も知らないウサギからまでも哀れまれたが……。
こうやって自分の経歴を書き連ねてみると、私はますます自分がいやになった。首にかけられたメダルが、枷のように思えた。ひどい侮辱の印に見えた。
どうして私は姫を助けてしまったのか。どうして勇敢にも飛び出していってしまったのか。友人たちの言うように、あれを見殺して新しい姫の登場を待った方が利口だったというのに。
自分が王国の騎士だから? 違う。王国のためを思うのならば、見殺して王と王女に目を覚ましていただくべきだった。
姫を愛しているから? やめてくれ!
目を閉じる。すぐにあのシーンが再生された。何度も何度も、それこそ擦り切れるほど見たはずなのに、それは再生する度によりくっきりと鮮明になっている気がした。私が英雄となったあの瞬間。あれは、どうやっても忘れられない。
「助けて」と姫は言ったのだ。傷だらけで、ウサギの誇りである長い耳を失いながらも生に未練を持った声で、振りかざされた獅子の牙の下で、「助けて」と姫は言ったのだ。
私の心は弱かった。死にたくないと言う者を置いて逃げられるほど強くなかった。だから、自分の身も捨てる覚悟で救おうとした。
後悔している。救わなければ良かった。国民から白い目で見られる程度ならこんなに悔いはしない。しない、が。
◆
「姫の夫」として、私は明日の収穫祭でスピーチを披露しなければいけなかった。昨晩寝る前に書いた草稿には、王国の繁栄と国民の幸せを願う旨をまとめていた。何をほざくかばか者、命をかけて国民の幸せを叩き潰した英雄が。
「すばらしい演説ですわ」
確認として草稿に目を通し終わった姫は、その美貌に相応しい輝く笑みを私に向けた。しかしすぐに、目を伏せる。
「国民の幸せ」
わざとらしく悲しげな表情を浮かべる姫を見て、私の胃はねじれたように痛み始める。針を千本飲んだようだった。
姫は一つため息をつき吐き捨てるように、呪いのような声で私の名を呼んだ。こうなると長い。長いのだ。
後悔している。救わなければ良かった。国民から白い目で見られる程度ならこんなに悔いはしない。しない、が。
「わたくしの幸せは考えてくださらなかったのに。わたくしを不幸にしたくせに。地獄へ叩き落としたくせに。あなたは良いわ、父さまからちやほや称えられて大出世できたのですもの。でも、わたくしは?
わたくしはさんざん。この王国で耳を無くして生きていくのが、どれほど惨めで恥ずかしいことだかわかっていて。わからないとは言わせません。耳がなければウサギではないのに。あなたは知らないのよ、城を出ただけで笑い者にされるわたくしの悔しさ、恥ずかしさ。笑われて、ばかにされて、汚いものを見るような目で見られて、遠くの方で下賤の者がこちらを見て何か言っていて、でもそれがわたくしの短い耳では聞き取れないから何も言い返せないのよ。最悪だわ。わたくしはお姫さまなのに。貧民に嘲られるお姫さまなんていないのに。婚約も決まっていたのに。知らないでしょう、『本当の夫』はね、わたくしを捨てたの。気持ちが悪いんですって、耳のないウサギは。耳のない子が生まれたらどうするの、ですって。
どうしてわたくしを救ったの。放っておいてくれれば良かったのに。あのまま獅子に食べられていたほうがずっと良かった、こんな屈辱を味わわせられるくらいなら。生き地獄、生き恥よ。どうして、どうしてなの、どうしてこんな簡単なことがわからなかったの。耳がないウサギが、これから先どんな人生を送るのか、ちょっと考えたらわかるでしょう。見捨ててくれたらわたくしは大満足して眠れたのに。
あなたは前に言ったわね。わたくしが助けを求めたと。理解しなさいよ、あんなとっさの言い間違いを鵜呑みにして。察しなさいな。
わたくし、毎日あなたを呪うわ。助けるなんて許せない。あなたは騎士だったのよ。いい、騎士っていうのはね、お姫さまの命を守るのが役目ではないの。お姫さまを幸せにするのが騎士のつとめなの。今のわたくしは? 幸せに見える? ばかにしないで、貧賤の畜生。下風のぺいぺい。ドンキホーテ。使えない騎士」
そこまで言って彼女は両手で顔を覆い、うつむいて泣き始めた。私は黙っていた。申し訳ないと思うし姫に同情もしていた。
姫の「演説」を聞く度に強く思う。彼女はもの凄い。正論とか詭弁とか、そういう次元の話をしないのだから。王国の象徴が失われた場合の国民の混乱(この国の場合の混乱は浮かれ騒ぎだろうが)だとか、自分の父母がどれほど悲しむかだとか、そんなことはいいのだ。あの時助けられなければ、ついさっきまで幸せそうに味わっていた菓子も食えなかったのだぞ、なんて、言うだけ無駄なのだ。大事なのは、自分の今の感情。
断言できる。私の方が正しい。どんな理由であれ命を優先した私の方が、倫理的に正しいはずだ。百匹いたら九十九匹が私に味方するだろう。姫の凄いところは、間違っておきながらその残り一匹を味方につけられそうなところだ。
彼女が振り回すのは本当に本当の感情論で、とにかく己の不幸を訴える。過去も未来も関係なく、今の自分の哀れさを主張する。正論を手の届かないところまで押し流そうとする。
だから私は心の底から後悔させられているのだ。彼女を不幸にしてしまったことを。彼女の言い間違いを鵜呑みにしたことを。
◆
収穫祭の日は快晴だった。王国広場は賑やかになっていて、国民は広場の真ん中にあるニンジンの山を囲んで思い思いにお喋りしていた。露店の準備も整っている。
「良かったぞ。お前のスピーチ」
友人はそう言いながら、片腹痛いスピーチを終えた私を捕まえ肩を叩いた。
彼は一昨年のミミズ王国との戦いで右耳を失っていたが、もともと地獄耳だったために片耳でも充分スピーチの内容を聞き取れていた。露店のニンジンソテーを食べながら、数多の友人を連れて来てくれた。彼らに褒められて初めて、私は生きた心地がした。
私はふと、バルコニーでスピーチをしている姫の方を見た。堂々としていた。国民は誰も聞いていなかったが、傍らに座られている王と王女は満足そうにうなずかれていた。私は情けない気持ちでいっぱいだった。
私は友人と一緒に、城から少し離れた酒場に入った。酔いも手伝って、場は大いに盛り上がった。話題はたわいもないことだったが、城外のウサギと話すのは久しぶりだったので私は大変楽しんだ。
愉快で仕方がない、と思わず口に出してしまった時、ふと思った。姫は、この収穫祭を楽しんでいるだろうか。
毎日私に呪いの言葉を吐いているのだ、私が陰鬱としているのと同様に彼女も良い気持ちでいるはずがない。私を毎日恨むためには、現実を毎日直視しなければならないのだから。姫にとって、それはどんなに苦しいことだろう。
私はこうやって愉快に息抜きできている。では、彼女は。彼女を楽しませるウサギはどこに。
彼女は偏った感情論を振り回してはいるが、確かに苦しんでいる。そしてその不幸へ叩き落としたのは、この私。どんなに正しくても、彼女を可能な限り引っ張りあげる義務があるのではないか。
どきりとした。常日頃、私に出来る償いなんてないと思っていた。だから私は後悔して反省するしかなかった。
だが、わかった。彼女を楽しませる。不幸がどこかへ消し飛ぶほどに、姫を愉快にさせる。それが償いだ。どうしてもっと早く気がつかなかったのだろう。
私は立ち上がった。こうしてはいられない。ああ、姫。まずは私がしたおかしな失敗の話をしよう。友人を振り払い、私は酒場の扉を開けた。
その瞬間、茶ウサギが弾丸のように店内へ転がり込んできた。私は彼に弾き飛ばされる形になり、全ての客が驚いて立ち上がる。茶ウサギは肩で息をしつつ叫んだ。
「すぐに逃げろ、あの獅子だ。仲間を連れてる。騎士は全滅して、王さまと王女さまはおれたちを逃がすために食われちまった。広場まで来てるぞ」
店内はざわざわし始めた。失神する者もいた。店の外に、着の身着のままで逃げ惑う国民たちの姿が見えた。
私たちも店を出て、避難者の波に加わった。ちらりと広場の方を見ると、確認できるだけでも五頭の獅子が暴れ回っていた。逃げ遅れた国民はあっけなく彼らの栄養分にされている。
指揮をとっているのは間違いなく、私を英雄にしたあの獅子。どこかで収穫祭の話を聞きつけ、ウサギをまとめて腹に収める計画を練っていたのだろう。一頭のみなら英雄の奇跡を起こせないこともないだろうが、あの数では。元騎士の勘で安全な逃げ道を探し、国民を誘導するのが精一杯だった。
情けない。しかし王さまの命を無駄にしないこと、それが「姫の夫」としての役目で……。
私は立ち止まり、振り返る。そうだ、姫は。私は波から外れ、取り残された。目をこらして広場を見る。
果たして不幸な姫は、あの獅子の巨大な足に押さえつけられていた。苦しそうにもがいている。
気付いた時には姫の方へ駆け出していた。ならぬ。やめろ。帯刀している剣は宝石を見せびらかす以上の能力を持っていなかったが、急所を突く程度なら出来るだろう。
突然背中に強い衝撃が走る。仲間の獅子が、目にも留まらぬ速さで私を地面に叩きつけていた。あっという間に複数の獅子に囲まれる。動転しそうになる心を抑えて周囲を見ると、すぐ隣に姫がいた。傷だらけの姫は、目を見開いて私の名を呼んだ。助けなければ。
姫の後ろ脚はなくなっていた。
「助けて。助けてください。お願い、死にたくないの」
私は呆然と姫を見つめていた。脳裏に色んなことが浮かんだ。
後ろ脚のないウサギはどんな人生を送るだろう。私や国民たちなら大丈夫だろう、でも姫は。姫はそんな立場じゃない。それは愉快な話で償えるのか?
体は剣を抜こうとしている。待て、ドンキホーテ。剣を抜く。待て、捨てろ、背を向けて逃げろ。
強くなりたいと思う。これ以上の不幸へ彼女を叩き落とさぬために、姫を見捨てる心が欲しい。だけど弱い心がじゃまをする。姫の懇願を振り払えない。
数頭の獅子が広場を離れていく。行き先は知っているが、私は姫から目をそらすことが出来なかった。
「大恩人さま。わたくしを助けて」
神様、私に強さをください。私は必死の思いで剣を捨て、天を仰ぐ。
私の頭上に、獅子の牙が振りかざされていた。
大学祭用に書いたぜ