逢坂の関
受験生諸君は、藤原行成のことを一体どのように記憶しているだろうか? 多くの高校で教科書とされている山川出版の『詳説日本史B』では、能書家として、小野道風、藤原佐里と並んで三蹟と紹介されるのみである。歴史に興味のない人ならば、「サリー(サリ)ちゃんのパパが豆腐を買うぜい(コウゼイ)」と語呂合わせだけ暗記して、それっきりにしてしまうことだろう。
藤原北家の系図を、頭の中で辿ってみて欲しい。嵯峨天皇の信を得た冬嗣が蔵人頭に任ぜられたことからその繁栄が始まるのは、誰もが知る所である。そこから、冬嗣、良房、基経が、それぞれ文徳、清和、朱雀・村上帝の外祖父となり、姻戚関係に基づく北家嫡流の摂関政治を確立した。基経の子として有名なのは長男時平だが、彼は宇多帝の親政と、道真という管家最大の英才に阻まれ、摂関や太政大臣の地位に就けぬまま早世した。代わって嫡流を継いだのが弟の忠平で、彼の孫の一人が、『蜻蛉日記』にも登場する兼家である。摂関だった兄二人の死後、兼家は謀略を駆使して時の花山帝を出家に追い込むと、自身の孫にあたる一条帝を即位させ、摂政となった。そして彼の五男・道長の代に至り、摂関藤原家は最盛期を迎えるのである。
ここで、少し系図を巻き戻したい。道長の父・兼家は三男だったため、氏長者はもともと長兄の伊尹が継いでいた。円融帝の御代には、摂政太政大臣にまで昇った男である。しかし、彼はいささか死ぬのが早過ぎた。嫡流は弟に移ってしまい、娘・懐子が生んだ花山帝も心ならず退位。伊尹の血筋は政治の中心から外れることとを余儀なくされた。この伊尹の孫にあたるのが、くだんの行成である。
父は伊尹の三男(または四男)義孝。美貌で知られ、中古三十六歌仙に選ばれるほど和歌の腕に優れた。しかし流行病を患い、天延2年(974年)、二十一歳の若さにして世を去った。まさに佳人薄命。この時、行成は僅か三歳であった。親族による後ろ盾が何よりも重要だった当時のことである。若き日の行成は官途に不遇で、『古事談』によれば出家も考えたという。
長徳元年(995年)、そんな行成に転機が訪れる。源俊賢が参議に昇進したため、彼がもともと就いていた蔵人頭のポストに空きができたのである。出世街道の入り口とされた、極めて重要なこの役職に、俊賢は、後任として友人の行成を推した。『大鏡』によれば、行成ではもとの位が低すぎるのではと案じた一条帝に対し、俊賢が「いとやむごとなき者にさぶらふ」、「かやうなる人を御覧じ分かたぬは世のためにも悪しきことにはべり」とまで説いたとされる。世の為を思うなら彼を抜擢すべきだというのである。
異例の人事だったが、行成はその仕事ぶりで期待によく応えた。能吏として名を馳せた彼は、最終的に正二位・権大納言まで昇り、当時を代表する公卿として後年「四納言」に列せられた。また、庶務に通じた彼は有職故実書『新撰年中行事』を著し、書家としても、数々の名作を残した。嫡流から外れた藤原の人間にしては、精一杯その才を振るい切った人生だったと言える。
行成という男は、極めて実直な男だった。彼は俊賢から受けた恩を忘れず、一時期自身の官位が相手のそれを越えた際も、決して上座につこうとはしなかったという。また『撰集抄』には、彼の性格を良く表す次のようなエピソードが載せられている。当時、藤原実方という宮中きってのプレイボーイがいた。次世代の在原業平といった体の人物で、光源氏のモデルかと目されている。ある日、殿上人たちが花見をしようと東山に出かけた折り、にわか雨に降られて大騒ぎとなった。そんな中ただ一人、実方だけは少しも騒がず桜の木の下に身を寄せて、「さくらがり雨はふり来ぬおなじくは濡るとも花の陰にやどらん」と和歌を詠んだ。どうせ雨に濡れるなら、桜の下で雨宿りしようというのである。避難して雨を逃れた者たちと違い、実方はずぶ濡れになってしまったが、皆、彼の風流に感心したものだった。しかし、後日これを聞いた行成だけは、歌はうまいが愚かだと言って、実方に呆れたという。所謂堅物なところが彼にはあった。興ざめなことを言うことが多く、男の同僚からは笑われ、女房からは嫌われていた。
仕事人間だった行成が、自分の人生をどう評価していたかは、難しい問題である。彼を重用し、活躍の場を与えたのは、一条天皇と、時の為政者藤原道長であった。道長の血筋は、行成の祖父伊尹からすれば弟筋である。世が世なら、藤原の嫡流は自分の一族が継いでいたかもしれない。その無念を、果たして行成は捨て切れただろうか。
行成という人物を語る時、硬く、陰りあるイメージを避けては通れない。しかしそんな彼のことを、人間臭く朗らかに描き出した希有な史料が、この世に一つだけ存在している。それはとある女房が書き残した、他愛無い、そしてだからこそ尊い、歴史的な大著であった。
◇
私が詰めていた局の西側で、蔵人頭で中弁(文官の位の一つ)の藤原行成様が立ったまま、誰かと随分長く話をしていた。どうも相手は女房のようである。気になったので御簾の近くまで出て、「そこにいるのはどなた?」と問うてみると、「弁がいるのですよ」との返答。随分あっさりしとしたものである。相手が誰だか知ってのことだろうか。少しからかってやろうと思い、私は意地悪な声を作る。
「何をそんなに話し込んでいらっしゃるのかしら? その方の夫は大弁(中弁より上位の文官)様ですのよ? あの方がいらしたら、中弁の貴方なんてほっぽり出されてしまうでしょう」
「誰からそこまで聞いたんですか」
行成様は盛大に笑い、御簾越しにこちらを睨んだ。傍らの女房は、そんな彼を見て目を丸くしていた。
「私は彼女に、そんなつれない事はしないでおくれよって言い聞かせていたんですよ」
冗談めかす行成様。女房は驚いた様子で、慌てて弁明した。
「誤解です。私はただ、頭弁様に貴女を呼んでくるよう言われて。でも貴女は今、他のお務めを中宮様から仰せつかっていたから」
「なかなか取り次いでくれなくて、困っていたんですよ」
悪びれた様子も無く、眉を寄せて息を吐く行成様。
「貴方ねぇ、いい加減になさったら?」
私がどれほど声を荒げても、彼はどこ吹く風だった。
/
行成様は、近頃新しく蔵人頭に任じられた弁官だ。まだ若く、歳は私より十近く離れている。彼が初めて中宮様を訪ねて来た時、取り次いでやったのが私だった。以来変に懐かれてしまって、正直少し参っている。職の御曹司(中宮関係の役所)には中宮様付きの女房が何人も詰めているにもかかわらず、彼は決まって私に取り次ぎを頼むのだ。見当たらない時は捜し出し、私が自室に下がっていたりしようものなら、わざわざ部屋まで訪ねてくる始末である。
どうしてこんなに私ばかり、と、周囲は当然邪推する。だが実際のところは、そんな艶っぽい事情ではなかった。私たちの間にあったのは、恐らく一種の同族意識に過ぎない。
行成様は和歌が苦手だった。殿方たちが歌議論に花を咲かせた折りも、彼は随分と場を白けさせたらしい。論題にあがったのは「難波津」の歌。『古今和歌集』仮名序では歌の父とも称され、誰もが手習いとして一度は写す作である。宮中に暮らす者なら知らないはずはない。まして行成様は名高い能書家だ。古今集の書写を頼まれることだって度々あったろうに。それでも彼は、「歌はよく知りませんので」の一点張りだったという。
行成様のお父上である後少将様(義孝)は、その美貌と歌才で浮き名を流した人物だ。さらに先代の謙徳公(伊尹)は、『後撰和歌集』を撰じた和歌所別当のお一人。そうした血を引く行成様が、皆の期待に反して和歌嫌いに育ったのは、なんとも皮肉な話である。
だが、彼の気持ちが私にはよくわかる。私の父も、当代きっての歌人だった。そのことは、心底から誇らしく思う。しかしだからこそ、私は和歌が苦手だった。非才な自分の歌で、一族の誉れたる歌道を汚したくはなかったからだ。
以前、行成様から餅菓子の贈り物を頂いた時、私は和歌ではなく、単なる文で返事をした。彼はそれをいたく喜び、わざわざ出向いて来て私を誉め称えた。
「女房というものは、少しでも歌に自信があると、何かにつけてすぐ詠みふけるものだから参ります。その点、貴女は滅多なことをしないから付き合いやすいのです。大体、私なんかに和歌を詠みかけてくる人の方が間違いですよ」
寡黙で実直な男だと有名だったから、その饒舌には少し戸惑った。でもおかげで、何故彼が私に懐いていたのかが理解できた。和歌が苦手な者同士、気安く感じていたのだろう。
「そんなに和歌を嫌うなんて、貴方それじゃあ則光みたいですよ」
そろそろ冗談の一つも交わせる仲かと思い、私は言った。口にした後で少し後悔した。則光とは、私の先夫である。親の敵のように和歌を嫌う男で、自分に寄越す和歌は、縁を切る別れの歌だけでいいとまで語った。少し疎遠になった頃、意地悪してみたくて試しに和歌を送ってみたら、本当にそれっきりになってしまった相手だ。
「貴女は、さっぱりとしたお人柄なのですね」
幸いにして、行成様は笑ってくれた。一安心した私は、歳上の女として、見栄を張ってみることにする。
「ええ。恋多き身ゆえ、昔の男など、ただの笑い種ですことよ」
「実方様もですか」
静かな声で、行成様は問うた。それを貴方が言うのかと、私は内心呆れた。
北家の傍流・藤原実方様とは、一時期恋仲だった。関係が途切れたのは、彼が陸奥に左遷されたからである。その原因となったのが、目の前に居る行成様だった。
まだ、彼が蔵人頭になる前の話。実方様は一体何に腹を立てたのやら、清涼殿の殿上の間で行成様と顔を合わせた途端、何も言わずに彼の冠を叩き落として庭に投げ捨ててしまった。人前で冠が脱げるというのは、恥部を晒すに等しい。恥じるあまり出家する者もいる程の大事件である。しかし、行成様は少しも騒ぐことなく近くにいた役人に冠を拾わせ、居ずまいを正して実方様に向き合った。「身に覚えがないのですが、理由をお教え願います」。行成様があまりにも丁寧に言うものだから、実方様は拍子抜けして逃げ去ってしまったという。この一件を御覧になっていた帝は、実方様を陸奥守に任じられ、行成様を蔵人頭に御抜擢なさった。
私がこの話を知ったのは、実方様が都を去った後のことである。悲哀の傷も癒えつつあった私は、ただひたすら、行成なる人物の人となりに感嘆したものだった。
「貴女が、涙ながらに和歌を詠み、実方様との別れを嘆いたことは、私も伺っています」
呟いて、行成様は苦く笑った。とこも淵ふちも瀬ならぬ涙川そでのわたりはあらじとぞ思ふ。
泣いたのは事実だ。慣れぬ和歌を捧げるほど、情を傾けていたのも事実。
「けれど、それももう、遠い昔のことです」
努めてきっぱりと、私は応えた。行成様は仄かに眉を震わせると、救われたように、一度深く頷いた。そして今度は晴れやかな顔をして、御簾にずいとにじり寄って来た。
「私は貴女と、『遠江の浜柳』の如き仲を結びたく存じます」
それは恐らく、「霰降り遠つ淡海のあど川柳刈れどもまたも生ふちふあど川柳」という万葉歌から来た言葉だった。和歌は苦手と公言する癖に、教養だけはしっかりあるようである。そういうところもよく似ている。なんだか愉快になって、私は彼を受け入れた。
「そうですね。『遠江の浜柳』のように、切っても切れず、離れてもまたすぐ会えるような、近しい友となりましょう」
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そんな過去があるものだから、私自身、行成様のことは憎からず思っているのである。しかし、物事には節度というものがある。里の実家に帰っている時まで、中宮様への取り次ぎを頼みに来られた日には、さすがにうんざりするというものだ。一度厳しく叱らなければと、このところずっと考えていた。
「あのね行成様。何事も有り合わせで用を足し、拘りすぎず、その場に応じて対処するのが良いって、貴方の曾祖父様も書き残しておられますでしょう? ご存じなくて?」
だからそろそろ、私以外の女房にも慣れて欲しい。そう忠告すると、彼は憮然として、「これが私の性格ですから」なんて言って開き直った。おまけに、「改まらざるものは心なり」と、ご丁寧にも白氏まで引く。
「随分故事に詳しい様子で。それなら、『改むるに憚ることなかれ』とは、一体何の事を言っているのかしらね?」
私はわざと、作った仕草で首を傾げてみせた。孔子の『論語』を引いての反撃だった。行成様はふっと息を吐き、参ったとばかりに破顔した。
「これは、話題を変えた方が良さそうです」
殿方を言い負かして悦に入っている私を、行成様は意味有りげな視線で見つめた。
「ところで、私と貴女の仲が良いだなんて、人に噂されてるそうですね。実際こうして親しく話をしているわけですし、別にもう、恥ずかしがる事もないでしょう。どうです、お顔を見せてはくれませんか?」
女が殿方に顔を見せるのなんて、本来なら、すべてを許した時だけだ。歳下の癖に、大胆な話術をつかうものである。こういう柔らかい部分を、少しは他の相手にも見せれば良いものを。
最近の若い女房達は、平気で他人の悪口などを歯に衣着せずに囁き合う。行成様のことも、「近寄り難い方だわ。他の方のように和歌などを詠んで場を盛り上げようともなさらないんだから、つまらない人」なんて非難したりする。行成様は行成様で、そういう女房達に対して、これまた余計なことを言うのである。「私はね、目が縦にくっついていようが、眉毛が生えのぼっていようが、鼻が横にまがっていようが、ただ口元に愛敬があって、あごの下や首がすっきりと綺麗で、声の優しいければ、好ましく思われます。とは言っても、あまりに酷い不器量はお断りですが」。女房だって皆、己の容貌の欠点くらい自覚しているから、こんな風に言われてしまっては、気分を害するに決まっている。終いには、中宮様のお耳にまで、行成様のことを悪く吹き込む者が現れる始末だった。
彼女たちは、行成様の表面しか見えていないのだ。もちろんそれは、表面しか見せない行成様にも問題があるのだけれど。彼の生真面目な仕事ぶりが、男の世界、政治の世界で、どれほど高く評価されているか、女房達は知っているだろうか。飾り気のない態度の裏にある奥ゆかしさを、誰が。
「私、不器量ですわよ。以前貴方、『不器量は嫌い』っておっしゃってたでしょう? だから、お見せしません」
「そうですか、そんなに酷いなら貴女のことを嫌いになるかもしれませんね。貴女のことを嫌いたくはないので、そういうことなら、見せてくれなくて結構です」
行成様は真剣に頷くと、それからというもの、何かの拍子で私の顔が見えそうになっても、扇や袖で顔を隠したりして、本当に見ようとしなくなった。律儀と言うか、馬鹿正直と言うか、何にせよ面白い人だった。
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行成様は、相変わらず私とばかり親しくしていた。なんだか叱るのに疲れてしまって、私の方も、この歳下の友人をすっかり甘やかしてしまっていた。
ある日、職の御曹司へやって来た行成様と話し込んでいたら、いつの間にか夜がすっかり更けていた。
「明日は主上の御物忌なので、今宵は殿上に詰めなくてはなりません」
そう言って、行成様は別れの挨拶もそこそこに、さっさと参内してしまった。仕事熱心だこと、と感心すると同時に、あまりの色気のなさに自嘲した。こんな夜遅くまで語りあった男女が、何の交渉もなく、別々に朝を迎えるなんて、他にあるだろうか。
翌朝、案の定女房仲間から、昨夜行成とどうなったのか問われた。彼が私と真夜中を過ごしていたことは、皆知っているのである。何もあるわけないと、何度否定しても、同僚はなかなか信じてくれなかった。証拠があると言って取り出されたのは、行成様からの文である。なんと今しがた届いたという。さながら後朝の文である。
怪訝に思って読んでみると、どうも昨夜、ろくな挨拶もせず去ったことを詫びたかったらしく、言い訳が色々と書き連ねられていた。「今日は、心残りがたくさんあるような気がします。夜通しで、昔話などして夜を明かそうと思っていたのに、鶏の声に急き立てられてしまって」云々。結局、和歌の一つも詠み込まれていない。よくよく見ると、したためられた紙自体、文官が事務に用いる薄墨色の紙屋紙だった。どうせ仕事の合間に、ちょっと思いついて書いたのだろう。能筆だから良い手本にはなるだろうが、後朝の文とは程遠い。
大体、朝でもないのに鳴く鶏なぞいるものか。そう考えた瞬間、これが孟嘗君の故事を踏まえたものだと気がついた。秦の昭王に命を狙われた孟嘗君は、秦国から脱すべく、夜間に国門・函谷関に至った。しかし関は、鶏の声が朝を告げるまで開かない取り決めになっていた。そこで孟嘗君は、食客の一人に鶏の鳴き真似をさせ、函谷関を突破したという。『史記』に見える話である。
下らない文の中にも、こうして謎掛けを交えてくるから厄介だ。お見通しよと伝えるべく、私はすぐに文を返した。
「夜遅くに鳴いた鶏の声とは、孟嘗君のあれでしょう?」
「ええ、孟嘗君の鶏は函谷関の門を開き、三千の食客がなんとか逃げおおせたと、どこかの書物で読みました。しかし、私が今回言っているのは逢坂の関のことですよ」
今度の内容はいささか不穏だった。これは完全に恋文だ。そう考えると、最初の文も、私から関の話を引き出すための罠として非常に上手い。すっかり話題が恋の流れになってしまっている。
からかっているのだろうと、半信半疑に思った。
「夜をこめて鶏のそら音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」
嘘の鳴き声などでは、私の恋の関は開かない。しっかりした関守がいますからね。と、強く突っぱねることにした。わざわざ手慣れぬ和歌で返したのは、もし先方が本気だった場合に備えての、精一杯の誠意だ。
返事はすぐに来た。行成様も珍しく、和歌を詠んでいた。
「逢坂は人越えやすき関なれば鶏鳴かぬにもあけて待つとか」
酷い。あまりにも酷い。親しき仲でもこれは酷い。女に生まれて、よもや、ここまで無礼なことを言われる日が来ようとは。
逢坂の関は誰でも越えやすい関で、いつも開け放って待っているのだと聞きますが。どんな好色な女房だって、こんな歌を寄越されたら怒る。まして私は、もういい歳だと自覚して、中宮様の名誉に傷がつかないように、慎ましく暮らして来たのだ。あんまりな言い様だ。とにかく酷い。
すっかり呆気にとられてしまい、これ以上の返事は書けなかった。
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「貴女のあの手紙ですが、殿上人たちもみんな見てしまったのですが」
構いませんよね、と後日訪ねて来た行成様は言った。ええ、ええ、結構ですよ。と、私は乱暴に応じる。
「行成様ったら、本当にお優しい方ですのね! せっかく上手く詠めた和歌も、人々の間に広まらないままではつまらないですものね。でも、逆に、みっともない和歌が人目につくのは嫌なことですから、行成さまのあの和歌は一生懸命隠して、絶対に人に見せたりしませんわ。ええ、そうよ、見せられるものですか。どうです、私の心配りの程は? 身に染みませんか? 貴方の優しさに、勝るとも劣らないでしょう」
一気に捲し立てると、流石に不味く思ったらしく、行成様は苦笑して、宥める声を作った。
「本当、人の真意を見透かすことにかけて、さすがに貴女は他の人たちとは違いますね。何も考えず見せびらかしたりして酷いなんて、その辺の女房のように文句を言われてしまうかと、心配していたのです」
貴方はそんなことより先に、もっと案じるべきことがあったはずでしょうに。怒り収まらぬ私に、今更おべっかを使ったって遅い。
「まぁどうしてかしら。私はお礼を申し上げたいくらいです」
「私の手紙を隠してくれたことには本当に感謝しています。もしあの歌が人目に触れでもしたら、どんなに恥ずかしく辛いことになったでしょう。今後も、貴女のその分別の良さを頼みにしています。全く、中宮様があの文を欲しがっていると噂に聞いた時は、どうなることかと思いました」
「あんな下品な歌、中宮様にお見せできるはずないでしょう! 汚らわしい!」
叱りつける私に、行成様はただただ笑うばかりだった。
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二年経った五月。月もなくとても暗い夜、殿方たちが、「どなたか女房は詰めておいでですか?」などと騒いでいるので、中宮さまが気に止めなさり、「出てみなさい、いつになく言い立てているのは誰なのです?」と仰った。私は部屋の端まで出て尋ねた。
「一体どなたですか? 騒々しい」
殿方たちは何も言わず、ただ御簾を持ち上げて、下から何かを差し入れて来た。呉竹だった。私は思わず、「あら、『この君』ね」と呟いた。彼らはもうそれだけで大興奮して、「さぁ、まずはこの事について戻って語り合おう」なんて言いながら去ってしまった。後に残ったのは、頭弁・行成様だけである。「どうしたんでしょうね、連中」などと言ってとぼけている。
「事情を聞きたいのはこっちです」
「実は、清涼殿の御前の竹を折って、皆で歌でも詠もうとしていたのです。そこで、どうせなら職の御曹司へ参って、中宮様の女房たちを呼び出して詠もう、ということになったのですが。一言目から、貴女に呉竹の名をいとも簡単に当てられて、退散してしまった。気の毒なことです」
まるで他人事のように淡々と語る行成様。あの程度の謎掛けくらい、と、胸を張りかけて息が詰まった。行成様は、真っ直ぐ私を見つめていた。
「貴女は一体誰の教えを受けて、普通の人は知るよしもないことを、そうもあっさり言ってしまうのでしょう」
「この君」の話は、『晋書』の王徽伝に見える。王徽之、またの名は子猷。彼は非凡な人物だったと言う。嘗寄居空宅中便令種。いつも寂しくひっそりした住まいに身を置き、竹だけ植えさせて、これを友とした。曰く、「この君だけは一日も欠かせない」と。
「私、竹の名だなんて、知りませんでした」
「そうです。貴女が、そんなことを思いつくはずがない」
穏やかに呟き、行成様は目を伏せた。
関白道隆様が薨じられたのは、四年前のことだ。御父上という最大の後ろ盾を失った中宮様は、今非常に苦しい立場にある。職の御曹司なんて、本当はただの役所で、中宮様がいらっしゃるような場所ではないのだ。中宮付きの女房も、日ごと数が減っていく。「空宅」などという虚しい言葉、思い浮かべるべきではなかった。
「しばし、お顔を」
真剣な声で、行成様は言った。
「不器量ですから顔はお見せできないと、先日あれほど」
「違う。近くに」
静かな、けれど力のある声だった。言われるまま、御簾に顔を寄せる。同じく近づき、行成様は囁いた。
「道長様は、並々ならぬ人物です。貴女も、身の振り方を考えた方が良い」
左大臣・藤原道長様は、道隆様の弟君にして、現在の氏長者である。道長様はこのところ、御息女の彰子様を帝のもとに入内させようと、強く働きかけていた。しかも、ただの女御としてではなく、中宮としてである。もしこれが強行された暁には、私がお仕えしている中宮様や、私たちは一体どうなってしまうだろうか。
「中宮様を、お見捨てすることなどできません」
道長様の勢力についた方が賢いと、理解できる程度には、男の社会も知っているつもりだった。けれど、どんなに考えてみても、私の主は一人だけだ。
「行成様の方は、随分と気に入られておられるそうで」
道長様が行成様の書を高く評価し、自分の持つ『往生要集』と、行成様が書写した『往生要集』を交換するよう頼んだことは、有名な話である。
「大した男ですよ、あれは」
苦い顔をして、行成様は呟いた。彼の出自と立場を思えば、自然な表情だった。
「彼が成そうとしていることを、根本から打ち砕くことは、最早誰にも叶いません」
酷く思い詰めた声で、行成様は言った。まるで、一度はそれを望んだのだと言わんばかりの痛切さだった。
「栽ゑてこの君と称す。栽ゑてこの君と称す!」
殿方たちが戻ってくる気配がして、私たちは御簾から離れた。彼らが吟誦しているのは、藤原篤茂様の詩だった。
晋の騎兵参軍王子猷 栽ゑてこの君と称す
唐の太子賓客白楽天 愛して我が友と為す
「栽ゑてこの君と称す。栽ゑてこの君と称す!」
珍しく、一緒になって行成様は詩を吟誦した。よく通る、いかにも風流な声だった。いつになく付き合いの良い彼に皆も喜び、大いに唱和して騒いだ。
◇
この年の十一月、道長の娘彰子は入内して女御となった。翌年、長保2年(1000)二月、彰子は中宮となり、清少納言がその身を捧げた定子は、皇后という例外的立場に追いやられることとなった。同年十二月、定子崩御。長保3年(1001)、二君に仕えることなく、清少納言は宮仕えを辞す。同年八月、右大弁行成、参議に昇進。以後、道長政権の中枢を成した。
余談だが、長保2年(1000)三月、彰子が中宮となった翌月に、行成は清少納言のもとを訪ねている。なんと、御簾の中にひょっこり入り込み、清少納言の顔をまじまじと余すところなく見つめたという。彼はいたくご満悦だったらしい。苦境続きだった清少納言は、デリカシーのなさに立腹しながらも、愛する友の奇行に心救われたことだろう。以後、行成は平気で彼女の御簾の中に入ってくるようになったと、清少納言は自身の筆で伝える。
一説に、道長が画策した「一帝二后」体制を一条帝に承認させたのは行成だという。道長の天下動かし難しと悟った彼は、せめて事をスムーズに進め、無用な争いや強引な手段から定子一派を守ろうとしたのかもしれない。定子が遺した皇子・敦康親王の家司となった行成は、親王が亡くなるその日まで、彼を道長の政治的圧力から守りつづけた。
行成の笑顔は、ただ『枕草子』に残るのみである。
歴史考証はいい加減です。
演出のため、枕草子本文も大幅に書き換えています。