狂気の魔女 5
前のめりに倒れるジンドの姿がリューイの目に映る。
勝った、そう確信した瞬間背中に感じる殺気にリューイは反射的に前方へ飛び退いた。鋭い痛みと湿ったドレスの感触、背中を切られたようだ。
振り返るとそこには銀色に輝くナイフを構えたジンドの姿があった。貫いたはずの胸当てにも傷一つついていない。
「打ち抜いたはず……私に幻術を掛けたの?」
「俺に魔法は使えない。魔力を吸収した虫がお前に幻覚を見せた」
「魔宮虫だったの……聞いたことはあったけど」
リューイは深く息を吸い込んでからかっと眼を見開いた。リューイの両の瞳から真っ赤な光線がジンドに向かって噴出する。それは高圧で発射された液体だった。ジンドが避けると赤い液体は砂の上にへばりついてぐつぐつと煮えたぎっている。鉄の臭いが充満する。
「血か」
「魔女だからって接近戦は苦手だと思わないことね」
リューイが口元で両手の指を合わせて何か唱えると瞬時に長く鋭い爪が生えそろった。
「やっ」
薄い鉄が擦れるような音を立てながらリューイの凶刃がジンドを襲う。ナイフの上から感じる重みは金属のそれに近く、ただ爪が硬化しただけとは思えない感触だった。リーチならばリューイの方が圧倒的に有利だったが10本の刃を前にしてもジンドのナイフさばきは少しもブレを見せない。月明かりを反射させながら切っ先を交える二人の姿は舞台の上で踊るダンサーのようにも見えた。
小気味いい音が夜の闇にこだまする。
たかが小さいナイフ一本にリューイは翻弄され、ジンドに傷一つ付けることができない。熱線との合わせ技でさえ軽々と避けられてしまう。気が付けばリューイの爪はほとんどが折れてひび割れ、まともなものは残り二本ほどまで減ってしまっていた。
「まだ続けるか?」
ジンドの一撃で残るリューイの爪は右手の人差し指の一本だけとなった。これほどの力量差を持った相手と対峙したのはリューイにとっても初めての経験だった。胸の内から沸き上がってくるのは怒りでも恐怖でも無く、かといって喜びとも違う、異質なもの。最初の目的であったはずのシュリを殺されたことへの苛立ちなどとうにどうでもよくなっていた。
「そのナイフもただのナイフじゃないんでしょう?」
「妖精銀のナイフだ。滅多なことでは刃こぼれ一つしない」
「あなた、そういう情報隠さないのね」
「隠す必要が無い」
リューイは声を上げて笑った。それはジンドの言っていることが本心であることが知れたからだった。自身への圧倒的な自信、勿論それは実力による裏打ちがあってのこと。そこからは清々しささえ感じられた。
リューイが最後の一撃を見舞うために態勢を低くする。
「続けるわ。最後の爪、まだ残ってるもの」
「そうか」
二人の感覚は研ぎ澄まされ、風に運ばれる一粒の砂の粒子さえ止まって見えた。リューイは颯爽とジンドに向かって走り込み、直前で上空へ飛び上がった。黒いドレスをなびかせながら速度と重力を乗せて一気に爪を振り降ろす、狙いはジンドの首だった。
何かが割れる音、リューイの体が柔らかい砂の上に落ちる音、その後に少し離れた場所から折れた爪の先が砂の中に刺さる音が続いた。リューイの喉元でジンドのナイフがぴたりと止まっている。
「後半は背中の傷で動きが鈍っていたぞ」
「傷が無くても負けていたわ、そうでしょ?」
ジンドはナイフをホルダーに戻すと何かを探すように周囲をうろうろと見て回った。完敗だった、リューイはまどろむような意識の中で聞いた。
「何してるの?」
「ナイフを回収しないと」
緊張感の無い答えが返ってくる。リューイはその姿を黙ってしばらく眺めた後、砂の中に指を差して呪文を呟いた。砂の中を何かが走る音がしてからざっと手のひらに収まってきたのはジンドのナイフの刺さった自分の杖だった。魔宮虫が侵食して荒々しい樹の肌が露出し、白く干からびている。はめ込まれていた複数のリングも錆びついて、見るも無残な有様だった。
「気持ち悪いからさっさと抜いてちょうだい」
ジンドは小走りに足を崩して座るリューイの傍へやってきた。
「便利だな」
「魔女の記憶を持った物は呼べばすぐに戻って来る。まあ、これはもう使い物にはならないけど」
ナイフを引き抜くと魔宮虫たちはジンドの手元に一斉に集まってもぞもぞと切っ先へと戻って行く。
「どういう仕組み?」
「このナイフの先には魔障石の欠片が混じっていて高炉の役割を果たしている。こいつらは暖炉の火に当たるようにここに戻って来る」
「幻術を使った私の元へ真っ直ぐ飛んできたのも、魔障石の引力のせい?」
「それもあるが大体の場所は直感で見切った」
リューイは呆れて何も言えなかったがジンドの真面目な顔を見ていると不思議と笑みがこぼれた。
「杖を駄目にして悪かったな」
「今更よく言うわ。ジラッフを探す途中で新しいのを買えばいいことよ」
リューイが束ねた髪を解くと光沢のある長い毛髪が夜風に揺れて、異国の香りを運んできた。