8.揺らめき
ワクチン探しに疲弊したクオンたち4人は、溜め池のでほとりで休憩を余儀なくされていた。
太陽に反射しキラキラと光る水面をぼんやりと見つめていると、突然ニコラスがぼろぼろと涙を零す。
「もう嫌だ……
ワクチンなんかちっとも見つからないじゃんかっ……
一体いつまでこんなとこにいればいいんだよっ……」
「ニコラス……」
こんな寂れた監獄で毎日毎日ワクチンを探し、肉食獣の存在に脅えながら生きる日々。
気が休まる時なんかない。
その上、まだ幼いニコラスにはあまりに過酷な状況。
今まで気張っていた糸が切れ、不安や恐怖が荒波のようにニコラスに襲った。
子供にしてはよく耐えたほうだ。
ガウは泣きじゃくるニコラスを抱きしめる。
「悪ぃけど、ちょっとニコラスを連れて散歩にでも行ってくるわ。
少しは落ち着くと思うからよ」
「ああ、分かった」
リュウセイの返事を合図に、ガウはニコラスを促し歩いて行く。
「……毅然としてても、やっぱガキなんだな」
「うん。
泣きたいの相当我慢してたんだろうね。
でもガウがいてくれてよかった。
ニコラス、ガウと仲良しだから」
「端から見てたら本物の親子だしな」
くすくすと笑うリュウセイにつられてクオンも笑みを洩らす。
一見平穏そうに見える今この瞬間も、周囲への警戒心は解除出来ない。
いつ敵が襲って来るか分からないのだ。
不意にリュウセイが溜め池の水面を指先で弄び始めた。
水を弾く清音と指先に触れる冷たさが心地よくて、思わず笑みが零れる。
ふと、水面下で巨大な影が蠢いた。
不思議に思いリュウセイが身を乗り出すと―――水面下から出現した触手がリュウセイの足に巻き付き、水中に引きずり込んだ。
想定外の展開に愕然とするリュウセイだが、何とか状況を確認しようと水中を見回すと、体中から触手を生やした巨大魚がリュウセイを捕えていた。
ピラニアのような形状をした肉食獣だ。
数多の牙が生えた大口を開け、今にもリュウセイを噛み砕こうと様子を窺っている。
危機感を感じたリュウセイは動きづらい水中で剣を手にすると、足に巻き付く触手を切断し、水面に泳ごうと試みた。
しかし触手はしつこくリュウセイを求め、今度は四肢全てに巻き付いてきた。
ギリギリと強い力で締め付けられ、リュウセイの手から剣が零れ落ち、遥か水底へと消えていく。
リュウセイの口から逃れた酸素が泡沫となって水中で踊る。
息もそう長くはもたないだろう。
だがここで諦めるリュウセイではなかった。
眼前でうねうねと蠢く触手を見据えると、渾身の力を込めて噛み付いたのだ。
肉食獣は悲鳴を上げ、激痛にのたうち回る。
その拍子に自由が戻ったリュウセイは、一目散に水面を目指し泳いだ。
水面に顔を出し、咳き込みながら荒く呼吸を繰り返すリュウセイ。
また肉食獣に襲われる前に一刻も早く溜め池から出ようと試みた時―――肉食獣が水中から空中へ飛躍し、リュウセイに飛び掛かって来た。
リュウセイが思わず息を呑んだ瞬間、唐突に飛んできた矢が肉食獣の脳天に突き刺さった。
リュウセイが振り向いた先にはボーガンを抱えたクオンがいる。
肉食獣は悲鳴を上げることもなく、いとも容易く絶命した。
今は水面にぷかぷかと浮いているだけだ。
リュウセイは安堵の息をつくと陸上に上がり、クオンを見つめる。
「助かった」
「うん。
溜め池にはあまり近付かないほうがいい。
肉食獣がうようよいるから」
「……それを先に言ってくれ」
リュウセイが顔を引きつらせた時だった。
クオンの背後から忍び寄るライオンのような肉食獣の存在に気付いたリュウセイは目を剥く。
「クオン、後ろ!」
リュウセイが声を上げると同時に肉食獣はクオンに飛び掛かる。
上手く回避が叶わなかったクオンの右腕に、肉食獣の鋭利な牙が突き刺さる。
クオンの右腕に雷に打たれるような激痛が走った時、クオンの右腕は肉食獣によって喰い千切られていた。
鮮血を迸らせながら肉食獣から飛び退き距離を取るクオン。
苦悶の面差しで奥歯を噛み締めるクオンの右腕を、肉食獣がボリボリと骨を噛み砕きながら喰らっている。
そのおぞましい光景にリュウセイが粟立った。
クオンの右腕をぺろりと平らげた肉食獣。
2人が思わず身構えると、意外にも肉食獣は2人に背を向け、立ち去って行った。
拍子抜けしたリュウセイは大きく息を吐き、その場に脱力すると、鮮血が滴るクオンの腕を痛々しげに見つめた。
「お前、よく腕を落とすな」
「……本当にね」
クオンが苦笑した。
―――瑠璃色の空に三日月が瞬く夜、クオンたち4人は老朽化した家屋に身を寄せていた。
クオンに右腕には鮮血が滲んだ包帯が巻かれている。
クオンが怪我をしたいきさつを聞いたガウとニコラスは、同情の眼差しを注いだ。
「大変だったなー、クオン」
「クオンの代わりにおっさんが喰われればよかったのに。
あ、でもまずくて喰えないか」
「そんなことないぞ!
きっと俺の身体は猛獣のほっぺも落ちるほど美味に決まってる!
是非1度食べてもらいたい!」
「……おっさん、やっぱバカだろ」
「おっさんじゃない!
俺はまだ28歳だ!
お兄様と呼べ!」
「老けて見えるよ。
そのひげのせいで」
「俺のチャームポイントの髭を馬鹿にするとはなんて生意気なガキだ……
あっ、そういやさ、素朴な疑問なんだけど、クオンって一体いくつなんだ?
羅刹って歳喰わねぇんだろ?」
ガウの言葉に好奇の視線が一様にクオンに向けられる。
通常女性に歳を聞くのは無礼に値すると世間一般では言われているが、ガウに常識は通じないらしい。
質問を投げ掛けられた当の本人は気にしていないが。
「124歳」
「ひゃくっ……!?
えっ!? でもさ、羅刹って20年前に造られたんじゃねぇのか!?」
「監獄が建設されたのが20年前。
羅刹を造る毒薬の研究は百年以上前から行われていて、私とジゼルは研究が始動してすぐに造られた。
監獄が建設されるまでの約百年間は研究施設でモルモットにされていた」
「……ひでぇ仕打ちだな。
貴族たちを恨んだりしねぇのか?
お前に苦痛を与えた奴らだろ?」
「恨んだって、もうどうにもならないでしょ?」
クオンは諦めたような自嘲を浮かべる。
弧を描く形の良い唇が微かに震えていた。
いくら言葉で恨んでいないと言っても、心底では計り知れない憎悪が巣食っているのかもしれない。
目元に影を落とすクオンを見ていたら、ガウはそれ以上何も口に出来ず、口をつぐんだ。
沈黙を貫いていたリュウセイが不意に口を開く。
「お前はなんで人間に戻ったあと他人に殺してもらおうとする?
普通なら人間に戻ったら自分で命を絶つんじゃないのか?
死ぬと決めてるなら、少なくとも俺はそうする。
他人に殺してもらう意味が分からない」
「……懺悔みたいなものかな」
「懺悔?」
「うん。
私は今まで数え切れない命を奪ってきた。
償っても償いきれないほどの罪を犯してきた。
仮に他人が私を許してくれたとしても、私は私自身を許せない。
私の命1つで許されるとは思ってないよ。
だから他人のために死ぬのは私の自己満足でしかない。
でも、私のちっぽけな命にも監獄に捕えられた人を助けるだけの利用価値がある。
だから最期くらいは誰かを救って死にたいって思ってもいいでしょ?」
クオンは純粋だ。
戦闘になれば、殺人を犯す冷酷さを持っているくせに、その心根はいつも純粋さを中心に築かれている。
この監獄で生きるために冷酷さを演じている。
他人に対して無関心だと思わせるような素振りを取る時も多々あるが、そうじゃない。
本当は人情深い人だ。
だから自分の罪を悔い、他人を救おうとしている。
なんだかいたたまれなくなり、リュウセイは目を伏せた。
「……お前、羅刹じゃなかったらよかったのにな」
羅刹じゃなかったら殺さずに済んだのに……
その言葉は呑み込んだ。
口にしてしまったら、本当に殺せなくなってしまいそうだったから。
この広大な監獄内で羅刹と巡り合うのはとても困難だ。
今まで何人かの羅刹と巡り合ったが、ただ運がよかっただけだ。
手にした好機を逃せば、生きているうちに監獄から出ることが叶わないかもしれない。
だから、クオンを殺すしかない。
リュウセイはクオンの過去を知ってしまったことを、クオンの心に触れてしまったことをひどく後悔した。
しばらく居心地の悪い沈黙が流れ―――唐突にクオンをある症状が襲う。
胃の辺りがムカムカするような、喉の奥が乾くような感覚。
激しい耳鳴りを伴い、頭にもやが掛かったようにぼんやりし、思考が鈍くなっていく。
身体が人間の血肉を求める―――飢餓感。
このままここにいたら本能に身を任せリュウセイたちを喰らってしまう。
クオンはおぼつかない足取りで立ち上がった。
「……ちょっと外に出て来る」
「ん? 今からか?」
「血を失いすぎたせいで、身体がいつも以上に人間の血肉を求めてる。
理性があるうちにここを離れないと、君たちを殺してしまう」
「だ、大丈夫なのか?」
「大丈夫。
すぐ戻るから……」
それだけ言うと、クオンはガウやニコラスの懸念の眼差しを背に浴び、屋外へ出て行った。
薄暗い監獄内を月明かりを頼りに歩く。
飢餓状態に呑まれていく理性を必死に繋ぎ止めようと拳を握り締め、餌となる駒を捜す。
霞んでいく視界、立っていることすら億劫になったクオンは外壁にもたれ掛かり、壁伝いに座り込んだ。
「……っ食べたくなんかないのにっ……」
思わず零れ落ちた本音。
飢餓感に逆らえないことがもどかしい。
人間を喰らうくらいなら死んだほうがマシだと何度思ったことか。
だが激しい飢餓感に理性は蹂躙され、最終的に喰らってしまう。
人間を喰らったあとの喉にこびり付く血の味を思い出しただけで吐き気がした。
クオンは泣きたくなる感情を抑え、膝の間に顔を埋めた。
その時、不意に目の前が陰った。
クオンが顔を上げると、そこには見知らぬ3人の男がいる。
スキンヘッド、屈強な体格、ニキビ顔の男。
3人全員が卑しい目付きでクオンを見下ろしている。
「おめぇ羅刹だな?」
「……私を殺しに来たの?」
「その通り。
だがその前に―――」
スキンヘッドの男が気味悪く笑ってみせると、屈強な男とニキビ顔の男が一斉にクオンを押し倒し、武骨な手で失った右手を除いた四肢を拘束した。
「この通りワクチンは手に入れた。
もっとも、本物かどうか分からねぇけどな。
もし偽物だった場合、俺たちの夢は叶わねぇんだ。
化け物の姿じゃ意味ねぇからなぁ」
「夢……?」
「羅刹と一発ヤるって夢だ!」
興奮した男たちの手がクオンの衣服に伸び、乱雑に剥いでいく。
露わになったクオンの胸元を前に、男たちの欲情が色濃くなっていく。
鼻息も荒くなっていた。
男たちは舐め回すような視線でクオンを見下ろす。
するとスキンヘッドの男がクオンの膝を割り身体を割り込むと、自分のベルトに手を掛け、クオンの首筋に舌を這わせた。
ぬめった感触にクオンの身体の奥からぞわぞわと嫌悪感が湧き上がってくる。
スキンヘッドの男の手がクオンのベルトに掛かった時、クオンは男の首筋に噛み付き、肉を引き千切った。
「いぎゃああぁぁっ!!」
奇声のような悲鳴に四肢を拘束する2人の男の力が弱まる。
蹴り上げた拍子に注射器が落下し割れ、中の液体が零れ出た。
その隙にクオンはのし掛かるスキンヘッドの男のみぞおちを思い切り蹴り上げ、自由を取り戻す。
クオンは乱れた衣服を整えながら黒刀を抜刀し、男たちを見据えた。
引き結ばれた唇には、べっとりと男の鮮血が付着している。
「て、てめぇ、よくもっ……」
一瞬にして欲情を灯していた双眸から殺意の双眸へと切り替わり、男たちが一斉に銃器を手に取ると、じりじりとクオンとの間合いを詰める。
そして―――
―――1時間後。
なかなか帰って来ないクオンを心配したリュウセイたち3人は、クオンを捜しに屋外へ出ていた。
閑静な監獄内をしばらく歩き、求める人物を発見したが、その姿を目の当たりにし、3人は絶句する。
淡い月明かりの下、地面に横たわる赤く染色された男が3人。
その全員の肉体は所々が喰い千切られている。
こんな無惨な光景を作り上げた張本人のクオンは、返り血を浴び、無情な眼差しで男たちを見下ろしていた。
呆然と佇むリュウセイたちにおもむろにクオンの視線が向けられる。
身体を刃で貫かれるような眼光の鋭さに、3人は怯んだ。
クオンが纏う空気はいつもの柔和なものとは明確に違う。
ごうごうと燃え盛る炎のような殺意を纏っている。
飢餓状態に陥り、理性が飛んでいるのだ。
クオンは脱力したような動作でゆらゆらと3人との距離を詰めて行く。
その左手には鮮血で濡れた黒刀が握られている。
本能に従い、3人を喰らう気だ。
脅えるニコラスを庇うように、リュウセイとガウが銃器を構えると、クオン目掛け発砲した。
ガウが発砲するマシンガンの数多の銃弾が、容赦なくクオンを攻撃する。
だが飢餓状態で痛覚が鈍っているのか、クオンの表情は微塵も変化せず無情なままだ。
赤い衣服を着用しているかのようにクオンの身体が真っ赤に染色される。
クオンの双眸が殺意を増した次の瞬間、リュウセイに斬り掛かった。
リュウセイは拳銃で黒刀を受け止めることに成功したが、予想以上の腕力にリュウセイの背中が外壁に押し当てられ、逃げ場を失う。
「お、おい、リュウセイ!
大丈夫か!?」
「だ、大丈夫だっ……
お前はニコラスの側から離れるなっ……」
うめき声交じりに言い放つと、渾身の力でクオンを押し返し、黒刀を弾く。
手にしていた拳銃を投げ捨てたリュウセイは、クオンの左手首と右肩を掴むと、立ち位置が入れ替わるようにして身体を外壁に押し付けた。
肩で息をするリュウセイは、睨むような眼差しで無情なクオンを見据える。
「いい加減目を覚ませ、この馬鹿」
リュウセイがそう言った直後、クオンの動作が停止した。
理性が戻ったのかと疑念を抱くリュウセイだったが、それは違った。
理性の欠片も戻っていなかった。
クオンは大口を開けると、本能に突き動かされるままにリュウセイの腕に噛み付いたのだ。
「ぐぁっ……!
くっ……目を覚ませって言ってんだろこのボケーっ!!」
半ばやけくそと言ったリュウセイの怒声が月夜に響き渡る。
その甲斐あってか、クオンの双眸から殺意が消失し、普段の柔和な光が灯った。
理性が戻ったのだ。
状況が呑み込めていないのか、クオンは挙動不審気味に周囲をきょろきょろと見回している。
自分を襲った男たちの死体とリュウセイの腕の噛み傷を目にし、全てを悟ったクオンはリュウセイを突き飛ばすと、ガタガタとおののく左手で口元を覆う。
「……ごめんなさい、私……
君たちに危害は加えないって、初めて会った時言ったのに……」
自分の行為にショックと嫌悪感を浮き彫りにさせるクオンの頭をリュウセイがぞんざいに撫で回す。
恐る恐る見上げたリュウセイは、ひどく優しい笑みを浮かべていた。
「謝るな。
襲いたくて襲ったんじゃないって分かってる」
慈愛に満ちた言葉にクオンの胸が温かくなる。
それでも自分のした行いはクオンにとって許せないことだった。
いっそ責めてくれたら楽になれるのに……
クオンが俯いていると、いつの間にかガウとニコラスが側にいたことに気付き、ニコラスの小さな手がクオンの手に触れた。
ニコラスの真摯な眼差しがクオンに向けられる。
「もう大丈夫なのか?
ハラは減ってないのか?」
「……うん」
「そうか。よかった。
心配したんだからな!
もう心配かけるな!」
怒ったように顔を真っ赤にさせたニコラスは、クオンに抱き付き、甘えたように頬をすり寄せて来る。
惨劇を前にしても、クオンに対する恐怖は感じられない。
今にも泣き出しそうなニコラスを見つめ、クオンは胸を締め付けられる思いで片腕でニコラスを抱きしめ返した。
リュウセイもガウもニコラスも、本気でクオンを心配してくれている。
だから捜しに来てくれた。
その優しさが嬉しいと同時に、切なくもあった。
きっとそう遠くない未来に、避けられない訣別の瞬間が訪れるのだから―――――