22.約束
クオンが不死身ではなくなってから1ヶ月。
その間戦争に備え羅刹と対等に渡り合うためにトワの血液を増殖させ、不死身ではなくすために注射器に入れた血液を騎士や兵士に配布した。
戦争が起こると知った街人は安全地帯へと避難し、ヘブン帝国との国境に隣接する第5地区は今や空っぽの状態だった。
そんなある日、ボリス宅に騎士姿のイノセントが訪れていた。
「クロフォード公爵から我が国王に書面が届きました。
2日後の正午、ヘブン帝国に3万の羅刹の軍隊を伴い攻め入る、と」
「ついに開戦っすか……」
「はい。
ヘブン帝国との国境に隣接しているこの区域も戦火の影響は逃れられないでしょう。
あなた方も一刻も早くこの区域から逃げて下さい」
「イノセント、君はどうするの?」
「騎士は戦うのが使命ですから、俺は戦争に行きます」
「そう……」
「心配しないで下さい。
羅刹と戦うのはヘブン帝国だけではありません。
ヘブン帝国と同盟を結んだ各国が味方に付いています、絶対に勝ちます。
さあ、早く避難を」
イノセントに催促され用意された車に乗り込んだクオン、リュウセイ、ニコラス、シーザー、キャンディス、ボリス。
車窓を開け、クオンがイノセントを見上げた。
「必ず帰って来て」
不安を宿すクオンの言葉にイノセントが微笑を浮かべ頷くと同時に、ボリスが運転する車が発進した。
風が髪を舞い上げ視界の端ではためく中、クオンはイノセントの姿が完全に見えなくなるまでずっと見つめていた。
―――ほぼ休憩を入れることもなく2日間走り続け、もう正午を迎えている。
イノセントと羅刹はもう相まみえているのだろうか……
クオンは目を閉じる。
目を閉じれば瞼の裏に無惨な戦場の光景が想像出来てしまう。
耳をすませば、今にも怒号と悲鳴が聞こえてきそうだ。
……自分がいなかったら戦争なんか起きなかったのだろうか……
クオンの思考で不意にそんな考えが生まれる。
答えは否。
グラディスがいかれた娯楽を求める限り、羅刹とは異なる別の戦争がきっと起きていただろう。
そこにクオンがいてもいなくてもグラディスの考えは変わらなかっただろう。
きっと自分を責めても意味がないことだとクオンは納得し、移ろいでいく外の景色を眺めた。
夕方、第5地区から絶対安全地帯とも言える戦火の影響を受けないであろう第2地区へと到着し、終戦するまでの期間宿に身を寄せることになった。
街が寝静まり始める頃、ニコラスと同室のクオンは彼の安らかな寝顔を見つめ、記憶の糸を手繰り寄せていた。
監獄で出会ってから色々なことがあった。
ガウとジゼル、それにハロルド。
大切な人たちを失った。
思い出す度に目頭が熱くなり、涙の気配が押し迫ってくる。
本当にこのまま生き、自分だけ幸せになってもいいのか……
今すぐ死ぬべきではないのか。
1度決めたはずのことなのに、揺らぐ気持ちは止められず、葛藤ばかりしている。
優柔不断な自分に苛立った時、静寂にドアを叩く軽快な音律が響き渡った。
クオンの返事も待たずに控えめにドアが開くと、リュウセイが顔を覗かせた。
「起きてたか?」
「うん。
どうしたの?」
リュウセイはベッドに腰掛けるクオンの隣に座り、ニコラスを起こさないよう囁くような声で話し始めた。
「……本当はさ、お前に死んでほしくないんだ」
「いきなりどうしたの?」
「いきなりじゃない、監獄にいた頃から思ってたことだ。
いつから思うようになったのか覚えてないが、たぶんお前を仲間だと認識するようになった頃から。
仲間に死んでほしくないって思うのは当然だろ?」
「リュウセイ、でも私は―――」
「分かってる。
お前が死ぬことで罪を償い、死ぬことでだけ救われるってこと。
だが、残される身としてはやっぱ辛い……」
「……考えたよ、残される人が何を思うのか。
きっとニコラスは泣くんだろうし、君だって哀しむんだろうって。
それでも私は死ぬ道を選んだ。
あと1年、奪ってきた命に報い、苦しみ―――精一杯生きて幸せになろうって。
幸せだけを望むなら数十年生きようって思っただろうけど、それじゃあ私は自分を許せない。
死ぬことは私に罰と救いをもたらしてくれるから。
……こんな考え、いかれてるって思う?」
「いや、そんなことない。
そんなことないが……」
沈黙が落ちる。
ふとクオンが窓の外に視線を向ければ、希薄するネオンの真上に真珠のようなまん丸な月が浮かんでいた。
クオンは思う。
何故世界はこんなにも綺麗なのだろう、と。
「―――私幸せになるよ。
極上の至福の中で君やニコラスと生きて、笑って死んでいくから。
私を幸せにしてくれるんでしょ?
だから大切な君に残酷な言葉をあげる。
私の最期を看取って」
力んだ肩の力を抜いたらきっとリュウセイの瞳から涙が零れてしまうことだろう。
本当にこの上なく残酷な言葉だ。
リュウセイがクオンの死を望んでいないことを知っていながら最期を看取れなどと。
だけどこればかりはリュウセイとニコラスにしか果たせないことだ。
大切な人たちだから。
唇を噛み締め、リュウセイが頷きかけたその時、バスッ、と乾いた音と共に何かがリュウセイの肩口を撃ち抜いた。
「ぐっ……!?」
ベッドに倒れ込むリュウセイの肩口から鮮血が溢れ、真っ白なシーツを赤く汚している。
クオンが窓の外に目を向ければ、木陰の側からこちらに銃を向けるグラディスの姿がある。
状況を理解したクオンの中でどす黒い感情が蠢いた。
クオンは黒刀を手にすると室外へ飛び出そうと試みた、がリュウセイの血に濡れた手がクオンの手首を掴み阻んだ。
クオンはリュウセイの手をそっと外すと、柔らかく、だけどどこか寂しそうに微笑んでみせた。
「これが私が犯す最後の罪だよ」
クオンはそれだけ告げると室外へ飛び出した。
行くな、と掠れるリュウセイの声を聞きながら。
屋外に出て、グラディスと対峙したクオン。
相変わらず不敵な笑みを浮かべるグラディスを見据えた。
「もう2度と会うこともないと思ってた」
「冷たいことを言うな。
私はもう1度お前に会いたかったというのに」
「どんな理由で?」
「不死ではなくなったお前に用はないからな。
娯楽の一環として消しに来た」
「そう。
私も君を殺さなきゃならない。
君が生きていたらまた同じようないかれたことを繰り返す。
話し合いで解決出来ないなら殺すしかない」
「意見は一致した。
場所を変えて殺し合うとしよう」
―――2人が選んだのは人気のない公園。
夜風が2人の髪を揺らす中対峙し―――同時に地を蹴った。
砂塵が舞い上がり、剣と黒刀がかち合う。
刃が不協和音を奏でる中、2人は互いの刃を受け止めた体勢のまま互いを睨み付けていた。
しびれてくる腕に耐えきれずクオンが飛び退いたその隙に、グラディスは黒刀を弾き、クオンの頭部に狙いを定め剣を突き出した。
剣は紙一重で回避したクオンのこめかみを僅かに斬り裂いただけだった。
生暖かい鮮血がこめかみから頬にかけて伝い落ちていく。
クオンがおもむろに頭上を見上げれば、黒刀は太い木の枝に深々と突き刺さっている。
ジャンプしてもきっと届かない高さだ。
この状況を打破する方法を手繰り寄せるように思案していると、グラディスが不敵に笑い、次なる攻撃を仕掛けて来た。
体勢を低く保ち斬り付けてくるグラディスの動きを冷静に分析し見切ったクオンは、軽やかに飛躍するとグラディスの背に飛び乗り、踏み台にして黒刀を手にした。
クオンは地面に着地すると同時に黒刀を振りかざし、真一文字に斬り付けた。
うめき声1つすら上げずに倒れるグラディスをクオンが無情に見つめる。
満月に照り付けられ白く光るコンクリートに鮮血が滲んでいく。
グラディスは微動だにしない。
普通ならばこれで即死のはず。
だがグラディスはクオンの血液を投与し不死になった。
どんな攻撃を仕掛けようと死ぬことはない。
だからこそトワの血液を持参してきた。
クオンはポケットの中の硬質な感触を確認すると、血液を使用する機会が今だと察しグラディスに近付いた―――その時、グラディスの双眸が見開かれると同時に剣がクオンの脇腹を貫いた。
「くっ……」
あまりの激痛にクオンが脇腹を抱え崩れ落ちると、息を吹き返したグラディスがゆらりと立ち上がり、地面に転がった注射器を見下ろした。
「残念だったな。
お前より私のほうが1枚も2枚も上手だったということだ」
グラディスはほくそ笑むと注射器を踏み潰す。
割れた注射器から半透明の赤い血液が流れ出し、グラディスのブーツを汚した。
クオンが悔しげに睨み上げると、グラディスは愉悦に浸るように喉を鳴らして笑ってみせた。
「不死の羅刹だったお前が無様なものだな。
なんともか弱き姿か。
―――これがお前の最期だ」
清光を放つ満月を背に、振り上げられた白銀の剣が殺意を醸しクオンを見下ろしている。
もう駄目だ……
クオンの胸中を覆ったのは絶望でもなく恐怖でもない、リュウセイとの約束を果たせないという哀しみ。
押し迫る刃の波動を感じながら、クオンはきつく目を瞑った。
クオンの脳裏に思い描かれるこれまでの日々。
リュウセイ、ニコラス、ガウ、ジゼル……
大切な人たちの笑顔。
瞬間クオンははっとし、目を見開いた。
「まだ死ねないっ……!!」
取り落とした黒刀を拾い上げたクオンは双眸に仲間への想いをたぎらせ、グラディスへ立ち向かった。
振り下ろされた刃を黒刀で受け止めた拍子に負傷した脇腹から鮮血が噴出し、クオンが苦悶の表情を浮かべると、その様がよほど愉快だったのかグラディスは嘲笑う。
「その姿では満足に戦うことも出来まい。
いい加減諦めたらどうだ」
「……っふざけないで!
私には私の帰りを待ってくれている人たちがいるっ、果たしたい約束がある!
今死ぬわけにはいかないっ!!」
クオンが吠えた次の瞬間、グラディスの身体にどこからか飛来したいくつもの何かが衝突した。
見ればグラディスの背後に大量の血液が入った注射器を抱えたリュウセイが佇んでいる。
リュウセイがグラディスに注射器を投げ付けたのだ。
トワの血液で真っ赤に染色されたグラディスはクオンを押し退けると、忌々しげにリュウセイを睨み付けた。
「死にぞこないの人間が……
殺してくれる」
肌が粟立つような低音を吐き出したグラディスがリュウセイに歩み寄ろうとした時、突然背中から衝撃が走った。
グラディスが壊れた人形のようにぎこちなく首を回せば、背後からクオンが黒刀を突き刺しているではないか。
「おの、れっ……!!」
激昂したグラディスは背中に黒刀を生やした状態のままクオンに向き直り、剣を振りかざしたその瞬間、1つの銃声が月夜に轟き、グラディスの頭部を貫通した。
リュウセイが発砲したのだ。
地面に倒れ込むグラディス。
きっともう2度と息を吹き返すことはないだろう。
グラディスの身体に付着したトワの血液が傷口から体内に侵入し、人間に戻ったのだから。
「クオンっ、大丈夫か!?」
木の幹に寄り掛かり座り込むクオンにリュウセイが駆け付けると、クオンは安堵させるように柔らかく笑ってみせた。
「大丈夫だよリュウセイ。
―――君がいてくれてよかった」
「お前1人に戦わせるわけないだろ」
「うん、ありがとう」
クオンが謝礼を述べたその時、不意にリュウセイの携帯電話が鳴り響いた。
液晶画面には見知らぬ番号。
怪訝に思いながらも電話に出ると―――
「はい」
『リュウセイですか?』
「お前っ、イノセント!?」
『そうです。
そこにクオンもいますか?』
「ああ」
『では一緒に聞いて下さい。
我々ヘブン帝国側は羅刹の鎮圧に成功し勝利しました。
生存した羅刹に関しましては、ヘブン帝国が保護し、トワの血液によって人間に戻すと、我が国王は仰っておいででした』
「それってつまり……」
『終戦です。
全て終わったんです―――』
―――全てが終わりを告げてから1年半後。
ヘブン帝国で騎士として本来の姿で生きるイノセントとは、たまに連絡を取り合い会っている。
シーザーやボリスも本業に勤しむ日々。
キャンディスに至っては終戦してすぐに誰にも何も言わず姿を消していた。
きっと同じ空の下のどこかで、同じ空を見上げていることだろう。
そしてクオン、リュウセイ、ニコラスはと言えば―――
イース帝国に新たな国王が誕生し、ヘルシティの治安も良い方向に保たれるようになり、3人はヘルシティ第10地区、海沿いの街に共に住んでいた。
リュウセイは2人を養うために毎日土木作業に出掛け、クオンとニコラスは近所の子供たちと共に遊び、日が暮れる頃夕食の支度をしてリュウセイの帰りを待つ日々。
まるで本当の親子のように。
空に雲1つないある日、仕事が休みのリュウセイを連れ立ってクオンとリュウセイは海岸を訪れていた。
「ニコラスー、一緒に遊ぼうぜー!」
「うん!」
先に海岸で遊んでいた数人の子供たちの元へニコラスが満面の笑みを浮かべて駆け寄っていく。
この1年半でニコラスは本来の明るさを取り戻し、たくさんの友達が出来た。
海水に服のまま浸かり友達と遊ぶニコラスを遠目に見つめながら、クオンとリュウセイは砂浜に腰を下ろした。
「そういえば思ったんだけど……」
「なんだ?」
「ニコラス、少し背が伸びたね」
「そうだな、5センチは伸びたんじゃないか?」
「これからもっと伸びるんだろうね。
リュウセイより大きくなるかも」
「あいつに見下ろされるのは勘弁だ」
「……本当はニコラスを家族の元へ帰してあげたかったけど……」
「仕方ないだろ。
あいつの家は母子家庭で監獄に収容される前に母親は死んでたって言ってただろ。
今は幸せだって言ってたからこれでいいんだよ」
「うん、そうだね」
不意に訪れる沈黙。
聞こえるのは寄せては返す波の音と子供たちのはしゃぎ声。
とても平和な時間。
今この瞬間がクオンにとって至福の時だ。
楽しげな笑い声を聞きながら、クオンは目を開けているのも億劫なほどの激しい眠気に苛まれていった。
身体に力が入らず、意思とは関係なくリュウセイの肩にもたれ掛かると、心配そうな顔をしてクオンの顔を覗き込んできた。
「眠いのか?」
「……うん」
声を押し出すのもやっとで、ひどくか細い声が出てしまった。
必死に眠気と葛藤するクオンを見つめ、リュウセイは悟っていたのだろう。
今この瞬間がクオンの最期だということを。
「ニコラス!」
リュウセイがニコラスを呼べば一目散に駆け寄って来る。
とろんとしたクオンを見つめ全てを察したニコラスの面差しはひどく動揺したものだった。
「クオンの傍にいろ」
「……うん」
ニコラスは泣きそうな顔でしゃがみ込むと、クオンの手を握った。
いつもなら握り返してくれる反応を見せるのに、今はなんの反応も返してくれない。
それがとてつもなく寂しく感じられ、ニコラスの目に涙が滲んだ。
閉じていく視界の中にリュウセイとニコラスがいる。
この最期の瞬間に確かに傍にいる。
クオンはリュウセイとニコラスとの約束を果たすべく脱力した身体を必死に起動させ2人を見つめると極上の笑顔を向けた。
「私幸せだよ。
ありがとう―――」
その言葉はリュウセイとニコラスの心に切なく響き、ニコラスに涙を与えた。
触れ合った肩越しにリュウセイの震えがクオンに伝達される。
泣いているのだろうか……
完全に閉ざされた瞳では確認しようもない。
きっとクオンの意識がなくなったあと、2人は哀しみに暮れ泣いてくれる。
クオンを想い泣いてくれる。
クオンにはそれが嬉しかった。
泣いてくれるほど強く思ってくれている証だから。
だけどずっと泣き続けるのだけは勘弁してほしい。
この先クオンがいない未来で泣かれても、クオンが零れた涙を拭ってあげることは出来ないのだから。
今だけ……いや、欲を言えば時々でいい、自分を思い出して泣いてほしい。
どんなに辛くても2人で生きていってほしい。
1人じゃなければきっと乗り越えられるはずだから。
クオンは身勝手ながらも切実に願った。
閉ざされた瞼の裏に、薄れゆく自身の鼓動と大切な人が呼ぶ自分の名を聴きながら走馬灯が流れていく。
共に生きた日々、たくさん泣いてたくさん笑ってきた大切な日々。
クオンにとってこの上ないはなむけだった。
楽しい日々ばかりではなかったけど2人がいたから―――大切な人たちがいたから乗り越えられた。
ありがとう…―――
安らかに眠るクオンの頬に涙が落ちる。
むせび泣く2つの声が波にのまれ、動かなくなった身体を愛しげにかき抱いた―――――




