12.親愛なる友
リュウセイとガウが監獄に収容されてからすでに5ヶ月が経過し、相変わらずワクチン探しで変わり映えのしない日々を送っている。
ブラッド・オメガ・プラスを投与されたクオンに関しては、これまでと何ら変わらず変異する素振りなど微塵も窺えない。
強い疑念を抱くものの、変異しないことに安堵していることも事実だ。
だがここでの生活も限界で、最近では4人の間で口数が減っていた。
脳裏をよぎるのは絶望という2文字。
気落ちする3人をいつも励ましてくれるのがムードメーカーのガウだった。
陽気で飾り気のない言葉がいつも3人を癒してくれていた。
だから何度絶望しても、また希望を取り戻し前に進むことが出来るのだ。
いつの間にか3人はいつもガウの存在に救われていたのだ。
風が仄かに雨の匂いを伴い頬を撫でていく。
太陽は厚い雲に覆われ、監獄内が普段よりも薄暗く見える。
一雨来そうだ。
そんなリュウセイの予感は見事的中することとなる。
この上なく残酷な形で……
灰色の空の下、貴族考案のクエストがまたもや発令された。
参加者は羅刹を含めた監獄内の駒全て。
その内容とは、貴族による駒狩り。
ルールは至って単純なもので、駒は狩る側の貴族から制限時間の2時間逃げ切ればいいだけのこと。
身の安全の確保として貴族は武装集団を同伴させるのだが、貴族への反発は許されず、武装集団への反発のみ許されている。
そしてクエスト開始直後、駒たちは貴族の目が届かぬ場所を求め監獄内を疾走した。
遠くから銃声が聴こえてくる、駒が狩られている。
リュウセイたち4人は聴こえてくる銃声にいちいち脅えながら追って来る貴族から逃げ続けていた。
4人が逃げ込んだのは草花が無造作に生い茂る公園。
ブランコや滑り台などの遊具が草花に埋もれるようにして佇んでいる。
4人はトイレ近くの茂みに身を潜め、這いつくばるようにして地面に伏せた。
幸い公園に生い茂る草花の高さは1メートルにも届き、伏せていれば追手の視界にも入らないだろう。
4人は自分たちの呼吸の音にさえも気遣いながら息を潜め、茂みの微かな隙間から公園の入り口を窺う。
すると、荒々しい足音を撒き散らしながら、貴族と武装集団が公園に踏み入って来た。
「逃げ足の速い奴らだのう。
まだ近くにいるはずだ、捜すのだ」
猟銃を手にした巻き髭の貴族が命じると、武装集団はきびきびと公園内の捜索を開始する。
武装集団が4人が潜む茂みに1歩近付くごとに4人の掌が汗ばんでいく。
その時、ニコラスが身じろぎした拍子に腕で小枝を踏んでしまい、パキッと音を立ててしまった。
その微音に敏感に反応した武装集団の1人が茂みに手を伸ばした瞬間―――勢いよく小猿のような無食獣が飛び出した。
無食獣は一瞬武装集団を見上げると、颯爽と公園の外へ走って行った。
物音の正体が無食獣の仕業と踏んだ武装集団は茂みを掻き分けることを取りやめ、4人の側から離れて行った。
遠退いて行く武装集団の背中を眺めながら、4人は安堵の息を洩らした。
しばらくして、公園に4人がいないと推測した貴族に連れられ、武装集団は公園をあとにした。
「……行ったみたいだな」
「危機一髪だったな、マジ焦った~」
「まだ焦っていたほうがいいんじゃなくて?」
安堵したのも束の間、唐突に投げ掛けられた聞き慣れぬ女の声に4人が強張る。
4人の後頭部に押し当てられる硬質な感触の正体が銃口なのだと、振り返るまでもなく悟ることが出来た。
「妙な気を起こさず、そのままゆっくり立ち上がりこちらを向きなさい」
女の命令に4人が素直に従い対面を果たした瞬間、4人は目を見張った。
眼前で不敵に微笑んでいたのが、シェリーだったからだ。
「元気そうねリュウセイ。
クエストは楽しんでいる?」
「……お前も参加してたのか」
「ええ。
だけど私の目的は駒狩りじゃなくて、あくまであなただけど。
あなたはこの私を侮辱した初めての人間だもの」
「仕返しに何か企んでるってわけか……」
「そういうことね。
さあ、付いて来るのよ」
―――武装集団に連行されて来たのはスタジアム。
クオンとシェリーは武装集団と共に観客席に移動し、リュウセイたち3人は乾いた赤土のフィールドに移動させられた。
殺伐としたフィールドには大人1人が入れるくらいの透明な箱と、巨大なコンテナだけが置かれている。
「不死身のクオンは不参加だけれど、あなたたち3人には肉食獣と戦ってもらうわ。
解き放ちなさい」
武装集団の1人がリモコンのような機器のスイッチを押すと、コンテナが開け放たれた。
そこから姿を現したのは、今まで出会ったこともない巨大なティラノサウルスのような肉食獣。
全長5メートルの巨体に、鉄製の首輪、棘のように逆立った銀色の鱗、何本もの鋭角な牙に爪、重圧な尻尾、瞳孔がライオンのように萎縮した金色の双眸、恐竜というにふさわしい姿に、3人は恐怖から身動きが出来ずにいた。
「その肉食獣は肉食獣の中でも最も獰猛よ。
そこに透明な箱があるでしょう。
それは特別な素材で作られた強固な箱で、爆発されても損傷を受けないの。
1度入ったらこちらでロックを解除しない限り開かないわよ。
生き延びたければその箱に入るか、肉食獣を殺すことね。
そうしたら助けてあげる、その箱に入れた人間だけはね。
最も、その箱に3人全員は入れないでしょうけれど。
大人1人と子供1人が入れて限界、リュウセイとガウ、あなたたちのどちらかが死ぬことになりそうね」
「死ぬつもりはない」
「そう、なら3人とも死ぬがいいわ」
シェリーがそう言い放った直後、肉食獣は地響きを轟かせながらゆっくり3人との間合いを詰めて行った。
恐怖に震えながらも戦おうと拳銃を手に取るニコラスを、ガウが庇うように背中にかくまう。
「ニコラス、俺から離れるなよ。
いいな」
「……うん」
リュウセイとガウはマシンガンを手に自分たちよりも遥かに巨大な肉食獣を見据え、発砲した。
しかし銃弾は強靭な鱗によって阻まれ、弾き返されてしまった。
「銃が効かねぇしっ……」
ガウが青褪めた顔で1歩後退した瞬間、肉食獣の尻尾が振るわれた。
反射的にガウがニコラスを腕の中に抱きしめた直後、尻尾はガウとリュウセイを投げ飛ばした。
強烈な衝撃が2人の全身を駆け巡り、壁面に激突し、激痛に悶絶する。
「いってぇ……
ニコラス、無事か?」
「僕は大丈夫、でも、ガウとリュウセイがっ……」
「俺らは平気だって!
お前が無事でよかった」
豪快に笑ってみせるガウだが、頭を思い切り打ち付けたせいか出血している。
リュウセイだって身体を思い切り打ち付け苦悶の表情を浮かべている。
無傷なのはガウに守られたニコラスだけ。
戦う術も知らない自分が歯痒く、守られてばかりの自分が苛立たしく、ニコラスは泣きそうな顔で俯いた。
「なあリュウセイ、思ったんだけどさ、あの肉食獣の腹と指って他んとこに比べたら鱗が薄いじゃん?
あそこを狙ったら銃弾も当たるんじゃない?」
「……考えてる暇はなさそうだぞ。
あいつ、また攻撃を仕掛けて来る気だ」
見れば肉食獣は牙を剥き出しにし、3人を睨み鼻息を荒くしているではないか。
ガウがニコラスを抱き抱え立ち上がった瞬間、肉食獣は大口を開け猛突進して来た。
ガウとリュウセイが軋む体でなんとか回避すると、肉食獣の鋭角な牙は先刻までそこにいた3人の残像を噛み砕くようにコンクリートの壁を破壊した。
もしあの牙の餌食になっていたら……
3人の脳裏を最悪の光景がよぎりおののいた。
ふと、3人は何やら肉食獣の様子がおかしいことに気付く。
のたうち回るような仕草を取っている。
コンクリートに深く牙が突き刺さったせいで、なかなか抜けないのだ。
これは絶好の好機だと察したリュウセイとガウは、剣を手に肉食獣に襲い掛かった。
リュウセイが肉食獣の鱗が薄い腹部に突き刺し、ガウが自分の腕よりも太い足の指を1本切断する―――効果はてき面だった。
ガウの推察通り、鱗が薄い部分には攻撃が有効のようだ。
悲鳴を上げる肉食獣と2人が間合いを取ると、コンクリートに突き刺さっていた肉食獣の牙がようやく抜け、血走った双眸が3人に向けられる。
今の1件で相当の怒りを買ったようだ。
不意に、ガウの視線が肉食獣の首輪を凝視し、驚愕した面差しであることに気付く。
「なあリュウセイ、肉食獣の首輪に付いてんの、もしかしてワクチンじゃねぇ?」
ガウに倣い、リュウセイの視線も肉食獣の首輪に向けられ、そしてガウ同様驚愕した。
首輪に取り付けられた注射器の中で、赤い液体が揺らめいていたからだ。
だがまだワクチンと結論付けるには早い。
毒薬の可能性だって否めない。
それに今まであの赤い液体を発見する度にワクチンとは異なり、期待を裏切られ、絶望を抱いてきた。
もうあんな思いを体験するのは御免だった。
だからリュウセイもガウも、ニコラスも、仄かに芽生える希望の光を闇の中に放り投げるように目を伏せた。
だが、萎縮していく3人の希望を取り戻させるようにシェリーの声が響く。
「それは本物のワクチン、私からのプレゼントよ。
好きに使うといいわ。
信じるか信じないかはあなたたち次第だけど」
シェリーの言葉に3人も、クオンも動揺した。
もし本当に本物だったら、こんな恐ろしい監獄生活から抜け出せる。
そう思うと、本物だと信じたい気持ちが強くなる。
「なあおっさん、リュウセイ、僕、あれがワクチンだって信じたい」
「奇遇だなニコラス。
俺もおんなじこと思ってた」
「俺も」
「おーいクオン、お前はどうだー?」
観客席に向かって投げ掛けられた声にクオンが一瞬息を詰まらせたが、次の瞬間には柔和に微笑んでいた。
「私も、信じたい」
クオンの言葉に3人が微笑を浮かべて頷くと、3人は肉食獣に向き直り、肉食獣から視線を外さぬまま小声で手早く作戦を立て始めた。
3人は互いに頷き合うと、すぐさま行動開始した。
ガウとニコラスが銃器を構えたのを合図に、リュウセイが肉食獣の背後に回り込み、背中に飛び乗った。
暴れ、リュウセイを振り落とそうとする肉食獣の突き出た鱗をリュウセイが必死に掴む。
一方のガウとニコラスは、肉食獣の気を少しでもリュウセイから逸らそうと銃を発砲し続けた。
目論み通り肉食獣の気をリュウセイから逸らすことには成功したが、怒りの矛先はガウとニコラスに向けられることとなった。
怯む2人の手が発砲することを忘れる。
「あちゃ~、作戦失敗したかも……
矛先がこっちに向く可能性を計算に入れんの忘れてた」
「今さら後悔するなよおっさん!
やっぱあんたバカだ!」
「そう言うなって。
そんなことより来るぞ」
まるで危機感など感じていないような素振りで、ガウがへらへらと肉食獣に視線を投げやると、肉食獣は背中のリュウセイには目もくれず2人に突進して行った。
「ぎゃあああああっ!!」
「わあああああっ!!」
悲鳴を上げ肉食獣から逃げ惑うガウとニコラス。
激しい振動に揺さぶられながらリュウセイが必死の形相で首輪の注射器に手を伸ばす。
あと数センチ―――指先が注射器を掠めたその時、尻尾の先がリュウセイの腕を僅かに斬り裂いた。
リュウセイが鈍痛に顔をしかめた瞬間、一際激しい振動にリュウセイの身体が宙に投げ出され、背中から無造作に地面に叩き付けられた。
「リュウセイ!」
「……っ、大丈夫だっ」
咳き込みながら声を絞り出すリュウセイ、ガウやニコラスに見えるように掲げたその手には、しっかりと注射器が握られていた。
「よし!
リュウセイ、肉食獣から離れてろよ!」
ガウはそう叫ぶやいなや、焼夷手榴弾の安全ピンを外し、肉食獣目掛け放り投げ―――直後、凄まじい爆発が生じ、肉食獣の周囲は火の海と化した。
熱風が吹き荒れる中3人が反射的に閉じた目を開ければ、ごうごうと燃え盛る業火に呑まれた肉食獣のシルエットが窺える。
悲鳴を上げる肉食獣は倒れ、やがて動かなくなった。
鎮火していく業火にガウが近付き、肉食獣の状態を窺おうと覗き込んだ時、業火の中で金色の双眸が見開かれた。
危機感を感じたガウが身を引いた瞬間、肉食獣の鋭利な牙がガウの腹部に噛み付いた。
「ぐあっ!」
「ガウ!!」
体中に刃が突き刺さっているような激痛にガウの気が遠くなる。
青褪めた顔でリュウセイが駆け寄り、ガウに喰らい付く肉食獣を引き剥がそうと試みるもののびくともしない。
ガウの腹部からおびただしいほどの出血が見られ、乾いた大地を赤く染色していく。
顔面蒼白していくガウを見つめ、ニコラスは身じろぐことすら出来ず、目に涙を溜めてただただ震えていた。
観客席から事の顛末を眺めていたクオンが立ち上がり、フィールドに降り立とうと試みた時、クオンに銃口を向けていた武装集団が発砲した。
だが数多の銃弾が体を蝕もうともクオンは倒れることなく、武装集団を睨み、殴り付けていった。
そんなクオンをシェリーが冷視する。
「理解しがたいわね。
クオン、あなたはリュウセイたちに殺されるために一緒にいるのに、何故庇おうとするの?
今までの同伴者の時は庇う素振りすら見せなかったのに……
彼らは今までの同伴者とわけが違うのかしら」
「そんなの私にも分からない。
でも、私は彼らを死なせたくない、生きて監獄から出てほしい。
それが庇う理由じゃいけない?」
「……あなた変わったわね。
羅刹のくせに、人間らしさが板についてきたんじゃない?
まあ好きにするといいわ。
あなたが足掻く様は実に愉快だもの。
だけど、調子に乗らないことね。
これ以上あなたが調子に乗れば、あなたの仲間に風穴が空くことになるわよ」
クオンがスタジアムを見回せば、スタジアムの至る箇所でライフルを構え、リュウセイたちを狙う武装集団の姿が確認出来る。
シェリーが合図を出せば発砲する気なのだろう。
「私を殺しても無駄よ。
私が死ねば彼らは発砲するし、肉食獣もリュウセイたちを襲い続ける。
嘘だと思うなら私を殺してみる?」
「……君たち貴族はどこまでも卑劣」
きつく拳を握り締めるクオンを見つめ、シェリーは不敵に微笑んだ。
牙が食い込んだ腹部だけが燃えるように熱く、指先は冷え、感覚を失っていく。
その間にも鮮血はとめどなく流れ出ていく。
リュウセイが必死に肉食獣をガウから引き剥がそうとしても、やはりびくともしない。
ガウがおもむろにニコラスに視線を向ければ、ニコラスは泣きそうな顔でガウを見つめている。
クオンだってリュウセイに応戦したそうな顔でガウを見つめている。
ガウは霞んでいく思考に必死に信号を送り、脱力していく身体に動けと命じ、爆発で黒く焦げ所々が脆くなった肉食獣の鱗に手を掛けた。
「おらあああぁぁっ!!」
ガウは咆哮を上げ、渾身の力で鱗の1枚を引き抜くと、肉食獣の片目に突き立てた。
ようやくガウを解放した肉食獣は悲鳴を轟かせながらのたうち回る。
崩れ落ちるガウをリュウセイとニコラスが抱き留めた。
「おいおっさん、しっかりしろよ!
死んだら絶対許さないからな!
呪ってやるからな!」
「怖いこと言うなって……」
今にも涙が零れ落ちてしまいそうなニコラスにガウが力なく笑ってみせる。
こんな所で死にたくない。
だが、自分の身体のことは自分が1番よく分かっている。
腹部の傷は致命傷、ガウは着々と死への階段を上っている。
息をすることすら億劫で、このまま死に全てを委ねて眠ってしまいたいとさえ思う。
だが死ぬにはまだやり残したことがある。
大切な仲間の未来を守るために、道を拓かなければ―――
それが自分に出来る最後の役目。
ガウは自分にそう言い聞かせ、根性と気合だけで立ち上がり―――箱にリュウセイとニコラスを押し込んだ。
その直後、箱は自動で閉ざされロックされた。
狭い箱の中で2人は密着状態となり、満足に手足を動かすことも困難だった。
「ガウっ、なんのつもりだ!?
ここから出せ!」
「おっさん!」
「―――これが俺に出来る最後の役目、お前らを命懸けで守る」
ぽつ、ぽつ、と、降り始めた雨がガウの頬を叩く。
ガウは焼夷手榴弾を2つ取り出すと背後を振り返り、観客席からこちらを見つめるクオンと、リュウセイとニコラスに満面の笑みを浮かべてみせた。
今まで見てきたどの笑顔よりも煌めいていて、自ずとリュウセイの頬を1粒の涙が伝った。
「お前なんかに喰われてたまるかよ」
ガウはそう呟くと安全ピンを抜き、焼夷手榴弾ごと肉食獣に突進して行き―――凄まじい爆発と共に業火に呑まれた。
―――どしゃ降りの中、クオンはシェリーと武装集団に連れられフィールドに降り立った。
業火は雨に鎮火され、原型を失くした黒い塊だけがあちこちに残されている。
箱のお蔭で無事だったリュウセイとニコラスは痛いほどの雨に打たれ、呆然と最後にガウが笑った場所を見つめていた。
まるで、ガウの残像を追うように……
もうここにはいないガウを想い、ニコラスを測り知れない哀しみが襲う。
「おっさんっ……」
泣き崩れるニコラスをクオンが抱きしめると、シェリーが鼻で笑った。
「犠牲が1人だけで済んでよかったじゃない。
無事ワクチンも入手したようだし、あなたたちは幸運ね」
冷徹なその言葉に溜め込んでいたクオンの怒りが爆発する。
クオンが殴り掛かろうと手を振りかざした時、銃声が轟いた。
シェリーの二の腕を銃弾が掠める―――憎しみを湛えたニコラスが発砲したのだ。
二の腕から溢れる鮮血を見つめ、シェリーは無情な眼差しでニコラスを見据えた。
「よくも撃ったわね……」
「お前さえいなければおっさんは死なずに済んだんだ。
お前さえいなければっ……
殺してやるっ!!」
ニコラスがトリガーを引こうとした瞬間、傷だらけのリュウセイの手がそれを阻んだ。
「やめろ」
「なんでだよ!?
この女はおっさんを殺したんだぞ!
お前おっさんの友達だったんだろ!?
くやしくないのかよ!!」
溢れる涙を止めようともせず、ニコラスの悲痛な叫びが響き渡る。
しゃくり上げるニコラスをリュウセイが強く抱きしめた。
「……ガウは、お前が人を殺すことを望まない」
「……死んだやつが何を望むっていうんだよ。
おっさんはもういないんだぞ、もう会えないんだぞ」
「……ああ」
「もうっ……会えないっ……」
「…………ああ」
リュウセイの掠れた声が雨音に呑まれる。
リュウセイの腕に縋り付き、哀しみにむせび泣くニコラスの声がいつまでも響き渡っていた―――
屋根を叩く雨音だけが耳につく。
クオンとニコラスが屋内に移動してから1時間が経つ。
そこにリュウセイの姿はなく、泣き疲れたニコラスは冷たい床に座るクオンの膝の上でブランケットにくるまって眠っている。
支給された衣服に着替え、クオンは雨で湿ったニコラスの髪を梳き、目元を腫らした彼の寝顔を見つめた。
あのあと、シェリーと武装集団は何事もなかったかのようにスタジアムをあとにし、クオンとニコラスは屋内に移動したが、リュウセイは自ら望んでフィールドに留まった。
このどしゃ降りの中、まだあの場にいるのだろう。
冷たい雨に打たれ身体を凍えさせながら、1人泣いているのだろう。
リュウセイは今、やり場のない哀しみを受け入れようと必死に戦っているのだろうか……
クオンがどんなに寄り添い、優しい言葉を掛けようとも、リュウセイの哀しみが癒えることはない。
むしろ余計に傷付けてしまいそうな気がして、クオンは何も出来ずにいた。
「クオン?」
不意に響いた声にクオンが顔を上げると、そこに濡れ鼠になったジゼルがいる。
ジゼルの姿を目にした途端、クオンの胸がきゅうっと縮こまった気がした。
なんだかとても切なくて、泣きたくなった。
クオンにとってジゼルはかけがえのない友達、きっとリュウセイとガウの関係も2人と近しいものだったはずだ。
もし自分がかけがえのない友達を失ったら……
そんなことを考えてしまったら、胸奥から切なさが込み上げてきて涙が溢れてしまった。
「クオン? 一体どうしたんだい、あんたが泣くなんて……
何があったんだい?」
「……ジゼルっ……」
声を押し殺し抱き付くクオンを、ジゼルは泣き止むまで背中をさすってくれた。
―――クオンはジゼルにガウの死について話した。
時折言葉を詰まらせながら言葉を紡ぐクオンを、ジゼルは何も言わず優しい眼差しで見つめてくれていた。
全てを話し終え、クオンの涙が乾く頃、沈痛な面持ちでジゼルが口を開く。
「あんたは馬鹿だね。
あんたにとって同伴者はただの利用物でしかなかったはずなのに……
今まで同伴者を想って胸を痛めたことなんかなかったくせに、なんで心を通わせちまったんだい。
必ず別れが訪れるのに……
なんで辛い道を歩むんだい……」
「ジゼル……」
「あんたは本当に馬鹿だ……」
クオンは消え入りそうな声を耳元で聞きながら、ジゼルの背中に手を回し抱きしめ返した。
ジゼルの言う通り、クオンだって初めはリュウセイたちを利用しようと考えていただけ。
だがいつからか、一緒に時を過ごすうちに閉ざしていた心が解放されていき、3人を受け入れるようになっていた。
仲間だと認識するようになっていた。
それはきっと3人の心の温かさに触れたから、クオンも自ずと心を解放していったのだろう。
だからガウを失ったことがこんなにも辛い。
クオンとジゼルにも必ず別れが訪れる、分かっているけれど今はまだ傍にいたい。
クオンは腕の中の暖かな温もりが消えてしまわぬようにと、ジゼルを抱く腕に力を込めた。
―――どれくらいの時間が経ったのか分からないが、リュウセイはまだ戻って来ない。
まだこの雨の中泣いているのだろうか……
リュウセイを気掛かりに思う気持ちを頭の片隅に置き、クオンとジゼルはワクチンやブラッド・オメガ・プラスについて話し合っていた。
「そう、ジゼルもワクチンを手に入れたんだね」
「ああ、あんたに報告してから投与しようと思って捜してたんだ。
雨宿りしようと思ってここに立ち寄ったらあんたがいるもんだから、ちょっと驚いたよ」
「……これで全て終わるといいね」
「オメガ・プラスのことが気になるかい?」
「……うん。
投与されてから何度も人を食べてきたけど、なんの変化も見られなかった。
ジゼルは変異したんでしょう?」
「ああ、飢餓状態に陥る度にね」
「……シェリーは私が特別だって言ってた。
私が変異しない理由でもあるのかな……」
クオンが疑問の言葉を洩らした時、ずぶ濡れのリュウセイが姿を現し、ジゼルの姿を目にした途端僅かに眉を潜めた。
「なんだ、お前もいたのか」
「悪いかい?」
「……別に」
初対面の時は口論にまで発展しそうなくらい犬猿状態だった2人だが、今はジゼルと口論する気力すらリュウセイには残っていないようだ。
脱力したように壁面にもたれ掛かり、壁伝いに座り込む。
肌や髪から滴る水滴が床に水溜まりを作っていく。
隣でひどく憔悴したリュウセイを見つめながら、クオンはブランケットを差し出した。
「風邪引くから。
出来るなら着替えたほうがいい」
リュウセイは無言で受け取ると、冷え切った身体を労わるようにブランケットにくるまった。
雨音に沈黙とニコラスの寝息が降り注ぎ、時間が過ぎていく。
3人はまともに眠ることも出来ぬまま朝を迎えた。
いつしか雨は上がり、青空が広がっている。
クオンの膝の上で眠っていたニコラスの睫毛が不意に震え、瞼が持ち上がると、ぼんやりした眼差しで周囲を見回した。
「目が覚めた?」
「……うん。
リュウセイ戻ってたんだ」
「うん。
そうだ、ニコラス、紹介するね。
彼女は私の友達のジゼル」
「……羅刹?」
「心配しないで。
君を襲ったりしない」
ジゼルを一瞥するものの、さして興味がないのか、ニコラスはすぐに視線を外し虚ろに天井を見上げた。
ガウを失った哀しみがニコラスを苦しめている。
だがいつまでもここで落ち込んでいるわけにもいかない、一刻も早く全てを終わらさなければ。
クオンをリュウセイに視線を送り、手を差し出した。
「リュウセイ、ワクチンを。
今ここで投与する」
「クオン……」
僅かな動揺を滲ませるリュウセイからワクチンを受け取ったクオンの名をニコラスが口にする。
大きな瞳がゆらゆらと揺れている。
クオンは微笑を浮かべると、そっとニコラスの頭を撫でた。
「約束、ちゃんと果たすから」
いつの日かクオンがニコラスに言った。
必ず監獄から出してあげるから、と。
クオンは今その約束を果たそうとしている。
監獄から出ることを強く望んできたはずなのに、それが叶うということはクオンを失うということ。
ガウを失い、ここにきてクオンまで失うのか……
ガウだけじゃない、リュウセイやクオンだって今のニコラスにとっては大切な存在になった。
失いたくなくて、ニコラスは縋るようにクオンに抱き付いた。
「クオン、僕っ……」
「―――駄目だよニコラス。
その先は言っちゃ駄目。
聞いてしまったらせっかく固めた決意が揺らいじゃう」
クオンは切なげに笑ってみせると躊躇うことなく、腕に注射器を突き立て、ワクチンを投与した。
空になった注射器が床に転がり、クオンは元の身体に戻ったことを祈る。
いつの間にかクオンに便乗するようにジゼルもワクチンの投与を終えていた。
これで人間の身体を取り戻せていたなら死ねるはず。
クオンは壁面に設置された監視カメラを一瞥すると、真っ直ぐリュウセイを見つめた。
「あとは君の役目だよ、リュウセイ」
クオンが差し出す拳銃をリュウセイは躊躇いながら受け取り、クオンを見つめた。
今にも壊れてしまいそうなくらい儚い笑みを浮かべてリュウセイを見つめている。
懇願するように、殺すことを促すようにリュウセイを真っ直ぐ見つめている。
殺したくない。
浮き彫りになっていく本心がリュウセイの胸を締め付け、トリガーを引くことを制止する。
「リュウセイ―――私を救って」
クオンは震える声で紡ぐ。
殺すことで犯した罪からも、抱えてきた苦しみからも救うことが出来るなら―――
監獄から脱出するためだけではなく、クオンを救うために……
リュウセイは意を決しトリガーを引いた。
銃声が轟き、左胸から鮮血が迸り、クオンは後背のジゼルに寄り掛かるように倒れた。
ジゼルの手がクオンの手首に添えられ脈拍の有無を確認する。
脈拍はない、あとはこのままクオンが目覚めなければ全てが終わったことになる。
―――時間にすればほんの数十秒、3人は複雑な思いでクオンを見つめていた。
そして―――ジゼルの手の下で、トクン、と停止していた命の鼓動が脈打った。
閉ざされていたクオンの瞼が痙攣し、深紅の瞳が顔を見せると、ひどく絶望したような感情を滲ませ唇を震わせた。
「……あれはワクチンじゃなく毒薬だったんだね」
「いいえ、あれは本物のワクチンよ」
クオンが左胸を駆け巡る激痛に耐えながら呟いた時、甲高い声が響き渡った。
4人が振り返った先には、武装集団を引き連れたシェリーがいる。
シェリーの姿を目にしたリュウセイとニコラスは胸奥に押し込んでいた憎悪を浮き彫りにさせ、睨み付けた。
「なんでお前がここにいる」
「クロフォード公爵から電話があってね、クオンに言伝を預かって来たの」
「……私に?」
「ええ。
クオン、あなたが投与したのは正真正銘のワクチンよ。
だけどあなたは羅刹のまま、死ぬことは出来なかった。
それを疑問に思っているのでしょう?
以前言ったように、それはあなたが特別だからよ。
あなたが何者なのか答えを知りたければ、他の羅刹を殺し、監獄から脱出し、そしてクロフォード公爵家へ来なさい。
と、公爵はおっしゃっていたわ」
「……私が死なない理由があるの?」
「ええ、きっと理由を知ったらあなたは絶望するでしょうね。
知りたくなければ知る必要はないわ。
その代わり一生涯ここで過ごすことになるでしょうけれど。
あなたに現実を受け止める覚悟がある?」
妖花のような微笑を浮かべるシェリーの蔑むような視線を浴び、クオンは懸念を浮かべるリュウセイとニコラスを見つめると目を閉じた。
眉間に皺を刻み思案するクオンにジゼルが声を掛ける。
「クオン、あんたは早くここを出るべきだ。
自分が何者なのか知りたいんだろう?
他の羅刹を捜してたんじゃ時間が掛かりすぎる。
あんたが助けたいと願う同伴者も、このままじゃ年老いちまうよ。
だから……あたしが手を貸す」
「ジゼル、何をする気?」
「―――クオン、あたしを殺しな」
衝撃的な言葉にクオンは絶句し、動揺する眼差しでジゼルを見つめ、震える声を押し出した。
「やだよ……私にジゼルを殺せるわけっ……」
「クオン、あたしの願いを忘れたのかい?
あたしは死ぬことをずっと望んできたんだよ。
あんたの役に立って死ねるなら、それこそ本望だよ」
「だからってっ……」
「残酷なことを言ってるのは分かってる。
他の奴に殺されるのは癪だけど、あんたになら殺されてもいい。
―――クオン、人間を喰ったなんて気持ち悪い記憶を消してくれよ」
泣きそうな顔で懇願するジゼルを見つめ、クオンの視界が涙でぼやけていく。
クオンだってジゼルと同じ想いをずっと抱いてきた。
だからジゼルの苦しみが痛いほどよく分かる。
ジゼルはクオンのために、自分自身のために死のうとしている。
クオンは喉の奥から沸き上がってくる切なさを呑み込むように拳銃を取り、おののく手で銃口をジゼルの左胸に定めた。
「……私に君を救える?」
「馬鹿だねクオン。
あんたにしかあたしは救えないよ」
白い歯を見せて、くしゃっと笑うジゼル。
長い時間共に生きてきた大切な人。
見慣れたはずの笑顔がチカチカと煌めいて直視出来ず、クオンは睫毛を伏せた。
「これが最期であることを願ってあんたに伝えるよ。
バイバイ、大好きなクオン」
クオンは歯を食い縛り、思い切りトリガーを引き―――銃声が響き渡った。
薄く開けた瞼の先で、スローモーションのようにジゼルが倒れていくのが見える。
目を閉じれば走馬灯のようにクオンの脳裏をジゼルが見せてきた笑顔がよぎっていく。
クオンにとってその1つ1つがとても大切で、かけがえのないものだった。
―――どれくらい呆然とジゼルを眺めていただろう。
きっと1分にも満たない短時間、だがクオンには永遠のようにとてつもなく長く感じられた。
もしかしたらジゼルが目覚め、いつものように笑いかけてくれるんじゃないかとクオンは期待していた。
だがジゼルは目覚めてくれない。
いつか見たハロルドのように、安らかで幸せそうな顔をして眠ったままだ。
―――もう2度と目覚めない。
自分が作り上げた事実にクオンの切なさと哀しみが頂点に達し、押し留めていた涙がとうとう零れ落ちた。
「……ジゼルっ……」
クオンは顔を覆いジゼルの傍らに泣き崩れた。
ジゼルの望みは叶った、救われたと思っていいのだろうか……
クオンの胸中を支配するのは哀しみだけ。
雨はやみ、空は雲1つない晴天が広がり、柔和な陽射しが薄暗い屋内に射し込んでいるというのに、クオンもリュウセイもニコラスの心も晴れてくれないのは大切な人を失ったせいだ。
心の中でやまない雨が降り続いている。
いつまでもいつまでも―――――




