第六話 予感
キャンパスの中央通りに出た頃には、私はパニック状態を脱しだいぶ落ち着いてきていた。この通りをこのまま真っ直ぐ進めば正門がある。しかしここから見る限り、私たちのいる位置から門の付近にかけて誰もいないようだ。
「なんだか、嫌な予感がする……」
思っていたことが自然と声に出てしまった。
「あぁ……何だ、この静けさは」
やはり佐伯くんも同じように感じているようだ。事態が収束に向かっているのなら、武装した男たちが門の前にバリケードを作り、救助に走り回っているはず。しかし、誰一人としてこの大学のメイン通りに姿が確認できないのだ。
「とりあえず、行ってみようか」
私達は歩き始めたが、胸中に膨れ上がる言い知れぬ不安に突き動かされ、やがて走り出した。通りに点在する血溜まりや人の死体も今は避けるだけで気にならない。
門が近付いてきた。それに従い、徐々に断片的な音が聞こえてくる。
――ぁぁぁーー!
誰かの叫び声? おそらく門の外、商店が建ち並ぶ大通りからだ。そして、救急車やパトカーのサイレンの音。一つや二つじゃない。幾つものサイレンが重なり、不協和音となってじんじんと耳にまとわりついてくる。まるで、戦争のようだ。
「銃声が聞こえるぞ!」
佐伯くんが興奮した様子で呟く。確かに、パンパンと乾いた音が街の奥の方から聞こえる。私は息が切れ、足が軋むのを忘れて走り続けた。だんだんと外の様子が鮮明になっていく。
門をくぐり商店が連なる大通りに出ると、そこには信じられない光景が広がっていた。
横転した乗用車、立ち上る黒い煙。車が衝突したのだろうか、商店の窓ガラスは粉々に割れ、周囲に飛散している。コンクリートの地面に転がる鞄とその中身……そして人間の残骸。車のフロントガラスにも建物の壁にも、どこもかしこもべっとりと血がついていた。
大学内だけだと思っていた――いや、そう信じていたかった――地獄が外の世界を侵食していた。
しばらく唖然と立ち尽くしていた。佐伯くんも同様だった。サイレンの音や悲鳴が鳴り響く中、風が煙と一緒に地面に散らばる紙類を巻き上げるのを夢の中の出来事のように眺める。
夢じゃない。これは、現実に起きている。この大学の学生を襲った化け物たちは、新たな獲物を求めて外に出て行ったのだ。――では、あれは今どこに? 疑問に思い、左右に広がる通りの奥の方に目を向ける。
「佐伯くん、あれ!」
門から道路を挟んで向かいにある学生御用達の食堂のガラス戸が血飛沫で真っ赤なのをぼんやりと見ていた佐伯くんは、私の言葉で目を見開いた。
「……奴らか!!」
いつもなら車が活発に行き来している大通り上に、のそりのそりと片足を引き摺りながらこちらに近付いてくる化け物の姿が見えた。通りの向こうにいくにつれ煙が濃くなりよく見えないが、目を凝らすと煙の奥でいくつもの影が蠢いているのが確認できる。もう一方も同じだ。囲まれている。
「だ、大学に戻ろう!」
咄嗟にそれが浮かんだ。このまま街に飛び出すより、構造をよく把握している場所に逃げる方がいい。
「そうだな……部室だ。剣道部の部室なら人がいない。安全なはずだ。行こう」
さあ、と私を促し走り出す彼を追う。
剣道部や柔道部といった部活の活動する畳の大部屋や、トレーニング機器を備え、いくつかの部室が入った体育館がこのキャンパスの端にあった。バスケットボール部やバレーボール部などが活動する体育館とは別にある、少々古い建物だ。とはいえ空調が壊れていることに加え鬱蒼と茂る木々に囲まれているため虫が多いことから、利用する団体は少なく、大学の外の施設を使っているようだった。
確かにあそこには人はあまりいない。したがって生者を狙う者たちも少ないはずだ。
生い茂る木々の間から体育館の緑の屋根が見えた。もうすぐだ。精神も身体も限界に近かった。今はただ生死の危険から解放されゆっくり休みたい。
「……止まって」
急に佐伯くんが立ち止まり、私の進路を塞いだ。
「ぎゃっ」
可愛さの欠片もない短い叫び声をあげ、勢いよく彼に激突した。一見細身だが鍛え上げられがっちりとしたとした彼の背中が私を身体を受け止める。
「どうしたの……?」
よろよろと体勢をたて直しつつ小声で佐伯くんに尋ねる。しかし彼は答えない。じっと何かに集中しているようだ。化け物の気配を感じたのだろうか。そう聞こうと口を開きかけたとき、佐伯くんは振り向いて立てた人差し指を口元にあて、静かにするよう私に伝えた。
……あぁっ……あ、あっ……助けてくれえぇー……
若い男の声がした。生存者だ! しかし、辺りを見渡してもそれらしき姿は確認できない。と、私達の少し先、校舎に囲まれた細い道に、男子学生が飛び出してきた。
男子学生は後ろを何度も振り返り、疲労して重くなった下半身を鞭打つように小走りで移動していたが、こちらの存在に気付いたようだ。
「あっ生きてる……! た、助けてっ助けてくれー!」
「声を出しちゃいけない!」
少し安堵した様子を見せた男子学生に佐伯くんが叫んだ。その時、こちらへ走り寄ってくる彼の背後の建物の影から化け物が数体現れた。生きている男子学生と比較してみてよくわかった。あれの肌は死体のようにまっ白なのだ。白い肌にところどころある黒い損傷部分がよく目立つ。
「あーよかったぁぁ……あああっ!?」
私達のいる場所まであと数メートルのところで彼の足がもつれ、前から派手に転倒した。急いで立ち上がろうとするが、足を挫いたようだ――バランスを崩して膝をついてしまった。化け物たちがもうすぐそこまで迫ってきている。
「……っ!」
佐伯くんが肩にかけた荷物を放り出し走り出す。そして竹刀を構え、地面に伏せる彼に覆い被さろうとする化け物に鋭い突きを食らわせた。化け物が仰け反り、後ろにいた一体を巻き添えにして後ろ向きに倒れる。突きを受けた一体は咽喉部がやられたらしい。息ができずに身をよじらせてビクビクと震えている。
また他の二体が近付いてきていた。化け物たちは対象を佐伯くんに変えたようだ。半開きの口から不気味な呻き声を漏らしながら彼ににじり寄ってくる。
佐伯くんはすぐにそのうちの一体に肩から胸にかけて強烈な一撃をお見舞いしたが、先ほど巻き添えを食らって倒れていた化け物が這いつくばって彼の足を掴み、もう一体への反応が遅れてしまった。化け物たちが彼のすぐ近くに迫ってきていた。間合いを取ろうとするが、足にまとわりつく化け物のせいでうまく動けないようだ。
佐伯くんの足下にせまる化け物をどうにかしなくては――考える間もなく私は駆け出していた。