第四十九話 喪失
長いことその場を静寂が支配していたかのように思えた。しかし実際はほんの僅かな間だったのかもしれない。
「……まずは詳しいことを聞かせてもらおう。須藤、お前と皐月さんが最後まで高校内に残っていたな。あの時、一体何があったんだ。推測するに、あの変異体に襲撃されて傷をつけられたようだが」
「ああ、そうだ。あの化け物の爪で背中に一撃食らった」
「爪か。しかし身体検査の際、北山さんたちは何も気にとめた様子もなかったが……傷痕は残っているのだろう」
「いや、消えた」
「消えた……?」
佐伯くんがいつもと変わらぬ冷静な口調で沈黙を破り、二人は淡々と話を進める。未だにショックから抜けきれない私はすっかり置いてきぼりだ。佐伯くんは須藤くんをどうにかする気なのだろうか。須藤くんを殺すとか殺さないとか、そんな恐ろしい話題が出てもなお冷静に見える二人が怖い。特に佐伯くんだ。ここに来るまでも時折感じてきたことだが、彼は普段は優しく頼りになる一方で容赦がないところがある。須藤くんを殺すまではいかなくても、公民館から去るようにくらいは平気で言いそうだ。
「消えたということは……ほかに何か変わりはないのか?」
「……力が強くなったよ。リミッターの外れたゾンビみてぇにな」
「そんな! 英雄くんはもともと強いし……!」
「皐月、本当のことだろ」
慌てて口をはさんだものの、庇いたかった張本人に否定されてぐうの音も出ない私は本当に滑稽だ――。彼は自分にとって悪い状況を生む言葉を包み隠さず言ってしまう。私たちの生存を考えればこれほど助かる態度はないのだろうけど、頭を抱えたくなる。
「ゾンビが蔓延る世界を生き抜くだけでも大変なことだというのに、さらに未知の危険を孕んだ存在が身近にあるとは……」
佐伯くんの溜め息混じりの重い口調に、胸がドキドキする。何を言おうとしているのだろう。まさか、さっきの須藤くんの問いを肯定するようなことを……? 大学からずっと一緒にやってきた須藤くんに対してそんなことあるわけないと思いつつ、自信が持てない。悪い予感を払拭するため口を開きかけたところで佐伯くんの声が遮った。
「はっきり言おう。須藤、君は危険すぎる。今すぐ北山さんたちに事情を説明しに行くべきだ」
「で、でも! そしたら……危険だって判断されたら英雄くん、殺されちゃうかもしれない……!」
「ならばここを一人で出ていくしかない。ここまで共に助け合ってきた仲間だ、俺もこんなことを言いたくなどないが」
「だったらなおさらだよ……! そんな、まだ危険かどうかだって確かじゃないのに……」
そう言っている最中にも自分がひどく感情的で冷静さを欠いていることが自覚され、自然と言葉が尻すぼみになる。まるで私自身が詐欺師であるかのように思えてきた。須藤くんを守りたい気持ちは本当で、その意志を貫くことに何の疑問もないはずなのに。それが本当に正しいことなのか。よくわからなくなってきた。このままじゃただの考えなしのお花畑だ。しかし頭の中がぐるぐる掻き乱されるばかりで次の言葉が続かない。
「……わかった」
「英雄くん!」
「よく言ってくれた須藤。しかし今すぐになどとは言わない。明るくなったら北山さんに話をしよう」
「ああ」
最悪の展開だ。しかし彼の揺らぎない決心した様子に、ここで私が喚き続けても仕方のないことに思えた。須藤くんの自分が化け物に変化する恐怖を考えると、一人の方が落ち着くのかもしれない。結局は私の偽善だったのだろうか。言いようもない悔しさと悲しみに一斉に熱いものが込み上げてきて、たえきれず、ぐっと俯く。きっとぐしゃぐしゃのみっともない顔になっている。こうしている場合じゃないのに。とても顔を上げられそうもない。
霞んだ視界にすっと何かが入り込んだ。須藤くんの靴だ。もともと白いスニーカーだったろうに、血やら泥やらで汚れて黒ずんでいる。
「お前、まさかこれでお別れだとか思ってるのか?」
「へっ……?」
考えもしなかった言葉に思わず勢いよく顔を上げてしまう。真っ正面に須藤くんの顔があった。私にあわせて少し屈んで、彼の性格に似合わない真面目な顔をしていた――が、一気に崩壊した。
「ぶわっ! ひでぇ顔……! こりゃ嫁にいけねぇな!」
「え、ひど……って汚いよ! 顔面に向かって思い切り吹き出さないでよ!」
「もともといろんな液体でびしょびしょだろ」
「誰のせいで……っ!」
こんな会話が最後にできるとは思わなかった。しかし、長くは続かなかった――喉が詰まり、苦しくて嗚咽が漏れる。何も言わず背中を擦ってくれる須藤くんに気持ちが昂って、思わず彼の胸に飛び込む。
「……おいおい、やめろよ」
「お別れじゃないなら行かないでよ……」
まるでカップルの恥ずかしい痴話喧嘩だ。佐伯くんが見ているし、そもそも須藤くんは恋人でもなんでもないのに、気持ちの暴走は止まらない。やり手(だと思われる)の須藤くんもさすがに扱いに困ったのか少しの間されるがままにしてくれていたが、私の身体を引き離すとくるりと背を向けた。
「俺がお前らと行動しても大丈夫だと思ったら、また戻ってくる。判断をくだすその時まで、必ず生き残る」
彼はそう強く言い切った。その言葉は不確かで素直に希望を持つことができないものだったが、私は何も言うことができなかった。
「……この俺の判断だったら間違いないだろう。なあ、佐伯?」
ノリの軽い須藤くんらしく冗談ぽく問いかける。
「ああ、そこは須藤を信じよう。俺もまた生きて会えることを祈っている」
須藤くんははっと笑うと扉に向けて歩き始めた。この世界に祈りなんて意味がない……生死という対極にある二つの結果がすべてだ。なのに、彼を引きとめる声も出ないし、身体も動かない。再び広がる静寂に扉の閉まる音が響いた。
須藤くんがいなくなり、私と佐伯くんだけが残された。
「そうこうしているうちにもう夜明けだな」
佐伯くんの一言でしばらく何もせずぼうっと立っていたことに気付く。彼の視線の先をたどると明るみ始めた空が見えた。公民館のまわりには高い建物がないからか見晴らしがよく、ここからの景色は清々しくこんな心中でも綺麗だと思えた。
「……皐月さんは」
「は、はい!」
もう体力的にも精神的にも限界なのだろう。一秒でも気を抜くといつまでもぼうっとしてしまいそうだ。自分を奮い立たせて佐伯くんに向き直る。須藤くんと話していたときから変わりのない彼の表情に、さきほどまでの緊張がよみがえる。
「どうして拒まなかったんだ」
「……え?」
私から視線を外して呟くように言われた言葉に、意味がよくわからず聞き返してしまう。間抜けな返事をしたからか佐伯くんはふっと笑う。
「……どうして須藤を拒まなかったんだ? 感染するかもしれないということ、わかっていたのだろう」
「あ……そ、それは」
忘れかけていたファーストキス未遂が思い出されて首から上に熱が集中する。そうだ、佐伯くんは全て見ていたんだ。キスしようとしたことも、みっともない顔で彼に抱きついたことも。彼はそういう意味で聞いたのではないだろうし、こんなときに恋愛脳でいるのはアホらしいとは思うが、この誤解も解いておきたかった。しかし今にも思考が停止しそうな頭でうまいことを言えるはずもなく。
「よくわからない……なんか、ショックでぼーっとしちゃって」
「そうか」
実際そうであったのだが、こんな煮え切らない答えでも佐伯くんは深く掘り下げてこなかった。しかし彼の端正な顔に何か複雑な感情がよぎった気がして、この張り詰めた空気をどうにかしようと考えを巡らす。
「佐伯くんはすごいよ……」
目を見開いて不思議そうにする彼に、自分でもよくわからないことを言いだしてしまった手前引っ込みがつかず、そのまま続ける。
「私、須藤くんのこと本当に考え切れてなかった……。自分が自分じゃなくなるかもしれないっていう不安を抱えて私たちといるのがどんなに辛いかとか。何もわからなかった」
言いながら、自分の言葉に違和感を感じる。何も知らない奈美さんや相田くんの前で平然を装って恐怖にたえるのは苦しいだろう。でも須藤くんだって一人は怖いに違いない。須藤くんは強いけどゾンビの大群には太刀打ちできないだろうし、そういったゾンビの恐怖を一人で乗り越えなければいけないのだ。ここになら彼の秘密を共有している私や佐伯くんがいる。やはり、引きとめるべきなのではないか。佐伯くんに話しかけておきながら一人考え込んでいると、はっと声がした。
驚いて目を向けると、俯き気味に頭を垂らして佐伯くんが突然笑い出した。大声ではないが、それでも彼にしては感情を思い切り吐き出して。あまりのことに呆然としている私をよそに彼はなおも笑い続ける。いつもの彼との変わりように恐怖に似たものを感じていると、ようやく笑いがおさまった彼が一言軽く謝罪する。
「反省なんかしなくていい。皐月さんの考えは正常だ。今のこの世界においても美徳だ……変わりない」
そんなこと、と言おうとしたところで続く彼の言葉に遮られる。
「君もわかっているだろうが、俺は須藤のことなんてちっとも考えていなかったよ。ただ自分たちが安全に確実に生き延びることだけを考えて行動しているだけだ。事務的に、機械的に……。昔からそうだ――他者の痛みを感じないし、俺自身も感情が薄い。周りに溶け込むために何かを感じてる風をわざわざ装うことだってある」
自嘲気味に、しかし今までにないくらい生き生きと話す佐伯くんに圧倒されて、ただただ受け身に彼の話を聞く。だんだんと目の前に立っているのが私が知っている佐伯くんではない気がして、目が眩んできた。しかし、彼の言葉にどうしても引っかかることがあった。
「じゃあ……佐伯くんの家で清見さんと寺崎くんの死を悲しんだのは……さっきの凛太郎くんのは、演技だったの?」
それを勢いで尋ねてしまえたのは私も疲れで平常心ではなかったからだろう。聞かれた佐伯くんは少し眉をひそめて考えた様子を見せると、言い切った。
「自分にもわからない」
あまりにも衝撃的で、頭がくらくらしてきた。佐伯くんの言葉をすべて真実と受け取るならば今まで見てきた彼は偽りだったということになる。ここで不思議と自身が彼に抱いていた想いがはっきりと意識された。私は佐伯くんのことが好きなんだ。そう思うと須藤くんのことも合わさって一気に喪失感が押し寄せてきた。……今の佐伯くんはおかしい。そう心の中で呟くと同時に彼が尋ねる。
「俺はおかしいだろう」
何も返すことができなかった。ただ自分を落ち着かせるため、心の中でしきりに言い聞かせていた。この異常な世界で、普通に見える人もみんなどこかでおかしくなってる。きっと彼は今疲れているんだ……。
「今からでも寝た方がいい。行こう」
私が黙っていると別に何も感じていない様子で彼が言った。それからどうやって部屋まで戻ったのか覚えていないが、いつの間にか私は眠りに落ちていた。