第四十四話 致命傷
塀の外のゾンビは増える一方で、一向にその行列が途切れる気配がなかった。このまま待っていてはかえって危険と判断した私たちは、塀を乗り越えながら民家の敷地内を跨いで移動することにした。民家の入口が揃って高校側を向いていることは幸いだった。ゾンビたちは高校から聞こえる音を頼りに、通路に沿って移動している。その流れに逆らってまで民家に迷い込んでくるゾンビはほとんどいなかった。いたとしても、それはもとからそこをうろついていた「住人」たちだろう。
いくつもの塀を乗り越え、腕が軋むような痛みを越えてじんじんと麻痺してきた。毎回私たちの支え役をやってくれている佐伯くんや須藤くんはより辛いはずだ。そうこうしているうちに、塀で囲まれた一番端の民家までやってきた。この周囲にもゾンビがうようよいるようではもう為す術がない。しかしここでも幸運の女神が私たちに協力してくれたようだった。
「この通りはゾンビが少ないようだ」
毎回先陣を切って塀を越えてきた佐伯くんが塀の向こうを覗いて呟いた。
「……と言っても街灯の光が届く範囲を見渡す限り、この通りに十数体はいる。まずは一掃しよう」
「俺もそっちに行くぜ」
「僕も援護する」
佐伯くんと須藤くんが通りに降り立ち、周辺のゾンビたちを仕留めにかかる。相田くんは倉本さんに踏み台になってもらってこちら側から狙撃する。私たちは塀越しに聞こえてくる音を頼りに戦いの様子を伺う。もとからの能力の高さもあり戦闘慣れしている二人だが、こうして彼らにゾンビの相手を任せるときはいつだって不安は拭えない。やつらが間抜けで動きがとろいとはいえ、向こうの攻撃を食らったら終わり。少しのミスが命取りだ。ましてや今は須藤くんのこともある。もし彼に今何らかの変化が起きたら――。ここにいる全員が危ない。
「もう大丈夫みたいだ」
頭上から相田くんの声が降ってきて我に返る。今回は何もなかったようだ。私を含め複数人がひとまずほっと息を吐く。ようやく民家の塀の中から抜け出すことができそうだ。
*
通りを高校と逆方向に進み、加世ちゃんが言っていた公民館に繋がる大通りに出た。普段から交通量が多かったのだろう、街灯は多いが幅が広く薄暗い道路は破損した車や横転した車で溢れかえっており、血に濡れた車内から異臭が漂ってくる。こういう視界が悪い場所は危険だ。一見すると動くものは見当たらないが、車が密集したあたりは夜の闇が支配していて何も見えない。物陰からいつゾンビが飛び出してくるかわからない状況だ。
神経を研ぎ澄まして、ゆっくりと歩を進める。夜風に吹かれて道路に散乱した空き缶がカラカラと音をたてる。その音にまぎれて、もう聞きなれた嫌な音が聞こえた。血肉に飢えたやつらの呻き声だ。割と近くから聞こえる。私の前を歩く相田くんの背中が強張った。
一層強い風が吹いた。風を切る音が耳にまとわりつき、四方八方からゴミがコンクリートの地面を転がる音や物がぶつかり合う音、開け放たれた車のドアが風圧で閉まる音が鳴る。同時に真横からゾンビの呻き声も聞こえた気がして、驚いてその方向を振り向く。びくびくしながらも何もいないのを確認する。どうやら幻聴だったようだ。
しかし安心したのもつかの間、車に衝突されて根本から折れ曲がっている信号機の横を通り過ぎたとき、前方の車の陰からゾンビが数体姿を現した。暗闇の中でもくっきりと浮かび上がる不自然なくらい白い肌に寒気がした。
「ちっ、やっぱりいやがったか」
佐伯くんと須藤くんが即座に駆けだす。と、そのとき後ろから悲鳴が上がった。……後ろにもいた?! 一気に場の緊張が高まるのを感じながら後ろを振り向く。
「凛太郎から手を離せ! このっ!」
列の後方で、誠が凛太郎くんに掴みかかるゾンビを引き離そうとしていた。その後ろでは倉本さんがもう一体のゾンビと向き合っている。凛太郎くんの片腕を両手で掴み、ぎりぎりとゾンビの頭が近付く。……こうなってしまうとやばい。あいつらは異常に力が強い……。一番彼らに近い奈美さんや私が助けに入ろうとするも、目と鼻の先でゾンビが凛太郎くんの二の腕に食いついた。
「ああああああっ!!」
凛太郎くんと誠が叫ぶ。ゾンビは悲痛に顔を歪め声をあげる凛太郎くんの腕になおも食いつき離れない。醜悪なゾンビの腐りかけた顔から滴り落ちる血液に、頭が真っ白になる。凛太郎くんが、噛まれた。
「この化け物が!!」
悲鳴に近い叫び声をあげて新鮮な肉を咀嚼するゾンビの頭を殴打したのは奈美さんだった。脳天へ加えられた強い衝撃にゾンビの体から一気に力が抜ける。
すぐに佐伯くんが走り寄ってきた。鞄からペットボトルを取り出すと、痛みとショックで悶える凛太郎くんの腕をとり、中の水で傷口を洗った。断続的に吐かれる凛太郎くんの短い息を聞きながら、まだ私は呆然と彼の腕の生々しい噛み跡を眺めていた。
凛太郎くんが噛まれてしまった。ゾンビの姿を認識してからあっという間のことだった。思えば、一緒に行動する仲間がこうして噛まれてしまったのは初めてだ。寺崎くんや清見さん、渡部くんは一気に殺されてしまったし、奈美さんと相田くんの友達の優子さんは出会ったときはもう末期だった。そして須藤くんは、どうなるのか未知数だ。噛まれて致命傷をおった仲間のその後は、実際に体験していない。私は、そのことを考えてこなかった。いや、考えることから逃げていた。もし誠や佐伯くん、他のみんなが噛まれたら。想像するだけで逃げたくなるような感覚に襲われたから。
「凛太郎! 凛太郎ぉ……! ねえ、大丈夫っすよね? 噛まれたからって絶対感染するわけじゃないでしょ?」
誠が狼狽して傷の処置をした佐伯くんにすがるように問いただしている。目には涙が溜まり、パニック状態だ。
「ああ、大丈夫だ。それよりゾンビが集まってくる。逃げるぞ」
凛太郎くんの噛まれた方の腕をタオルできつく縛りながら落ち着いた声で即答する佐伯くんの目は、声色と裏腹に細められ、冷たく見えた。なぜだろうか――彼の冷静さには何度も助けられてきたが、今は彼に僅かな違和感を抱いた。車の隙間を縫うようにして迫りくるゾンビの姿に、すぐにそれが馬鹿げた思いであったことに気付いたが。
「こっちだ!」
須藤くんに誘導されて、大通りからいったん脇道へ入る。ゾンビが集まってくる前にと慎重かつ急ぎ足で数度角を曲がる。ゾンビの脅威から遠ざかったところで、佐伯くんが加世ちゃんに道を尋ねる。彼女は凛太郎くんのことで涙を目に浮かべながらも、冷静に説明していた。
「おい」
小さく抑えられた声。しかしどこか棘のある声に、反射的にびくんと体が揺れた。倉本さんだった。彼の鋭い目線で私のことを言われているとわかって、さらに心臓がどきどきした。
「あんた、そんなんでよく生き残ってこれたな」
「……え?」
「あのガキが噛まれた時。近くに弟いただろ。それもゾンビ引きはがそうと躍起になって冷静さ欠いて」
彼の言わんとしていることが瞬時に理解できた。そうだ、私は凛太郎くんが噛まれたあと、すぐに行動に移すことができなかった。ただ凛太郎くんが噛まれてしまったことがショックで。悲劇はひとつひとつ順序良く襲ってくるんじゃない。奈美さんが動かなかったら誠も噛まれていたかもしれないのだ。ふと倉本さんのスコップが目にとまった。新しい血に濡れたスコップ。あの時倉本さんもゾンビと対峙していたのに私は何もしなかったのだと思い至り、さらに気持ちが沈む。
「体育館の前でもぼけーっと突っ立ってたもんなぁ、あんた。あの佐伯と須藤って男がいなきゃ何もできねぇんだろ。女ってのは常時非常時問わず利を貪る寄生虫だな」
なんでこんなひどいことを言うんだろう。特に女云々は性別に対する歪んだ偏見だ。そう思っても、見下すような笑みを浮かべる倉本さんに何も言い返せないでいた。思い当るところがたくさんあったから。前方の誠に目を向けると、さっきの様子とは打って変わって凛太郎くんを励ましながら彼と寄り添って歩いていた。私は何もできなかった――その事実が重くのしかかった。それから少しの間倉本さんの視線を感じたが、黙りこくる私にふんと鼻で笑うと興味をなくしたかのように歩みを速めて先へ行ってしまった。せめて寄生虫じゃないくらい言い返したかったが、今の私にそんな元気はなかった。