第四十三話 踏み台
「ウソだろっ……前も後ろも、囲まれてる……!」
「焦るんじゃねぇ」
もはや恒例の相田くんの慌てぶりに、私の隣の須藤くんが低い声で呻くように言う。
「塀を乗り越えるぞ。それしかねぇ」
通路を囲む塀はよく見る灰色のコンクリートの塀で二メートルほどある。誰かを踏み台にすれば乗り越えられないこともない。確かにこれ以外にこの状況を打破できる方法があるとは考えられなかった。そうと決まれば、急ぐしかない。誰が先に、と話し合う間もなく須藤くんが塀に両手をついてしゃがみこんだ。
「おら、佐伯。早く乗れ。お前がとっとと塀の向こうに侵入して次のやつらの補助をしろ」
「ああ、そうだな……失礼するぞ」
佐伯くんは躊躇うことなく須藤くんの背に足をかけると、一気に塀の上に乗り上げた。あっという間に佐伯くんの姿は消え、くぐもった着地音が聞こえた。
「佐伯、大丈夫? ゾンビはいない?」
「ああ、大丈夫だ。次は武器を持っている高岡さんが来てくれ。念のためこっちを見張ってほしい」
「わかった。……乗るよ、須藤」
名指しされた奈美さんが壁の向こうから差し出された佐伯くんの手を借りて壁を越える。あと八人。こうしている間にもゾンビの気配が迫ってきている。
ウァアアアァア……
地の底から響いてくるような声が耳にまとわりつく。もうだいぶ近い。目を凝らすとゆらゆら揺れながらこちらに近づいてくる影が見える。背筋が凍りついた。壁の方を見ると沙莉南ちゃんが上半身を反対側に乗り出しているのが見えた。
「須藤だけじゃ間に合いそうもないな……。僕も踏み台になるよ」
荷物を下ろし壁際にしゃがみこもうとする相田くんを倉本さんが制止した。驚いたように相田くんが目を見開く。
「……自分の役割を考えろ」
「ば、馬鹿にしないでください。僕だってそのくらいできる」
「そういう意味じゃない。あんたはそいつでやることがあるだろ」
倉本さんがくいと顎をしゃくる。その先には相田くんのスリングショットがあった。
「そうか……そうだね、わかった。じゃあ倉本さん、頼むよ」
相田くんはスリングショットを手に通路の真ん中に走って行った。倉本さんは少し嫌そうな顔をしたが、軽く溜息を吐くと塀の前にかがみ加世ちゃんを手招きした。遠慮がちに、だが一気に倉本さんの背に足をかけた加世ちゃんから須藤くんに目を移す。
「詰まってんだよ! さっさとしろ!」
「……きゃ!」
須藤くんが急に胴体を起こして、苦戦していた沙莉南ちゃんは持ち上げられて頭から落ちて行ったように見えた。……焦ったが、きっと佐伯くんがしっかり受け止めていてくれてるだろう。そう思っていると、佐伯くんが私の名前を呼ぶ声がした。はっとしてあわてて須藤くんの広い背中に足を乗せかけて、考えた。
「誠! 先に行って!」
「へ? 今ねーちゃん呼ばれたじゃん!」
「いいから、早く!」
「どっちでもいいから来い!」
須藤くんにどやされて、乱暴に誠を彼の背中の方へ押し出す。隣では凛太郎くんがちょうど壁を乗り越えたところだった。あと、四人。耳が不吉な音をとらえる。ずっ、ずっ、と何かを引き摺る音。おそるおそる通りの奥へ目を向けて息をのんだ。もう十メートルも離れていない。顔の表面にえぐり取られたような大穴を開け、黒ずんだ歯ぐきと二つの鼻孔がむき出しになったゾンビが、片足を引き摺りながら前のめりの姿勢で近づいてきていた。後ろを歩くゾンビも次々にその姿を現す。はじけるような音が鳴った。先頭を歩くゾンビが足を撃たれコンクリートの地面に倒れた。
「皐月ちゃん! 早く行って!」
相田くんが叫ぶ。誠は既に塀の中へ消えていた。
「……でもっ」
「皐月! ぐだぐだしてんじゃねぇ! 殺されてぇのか!」
須藤くんの本気の怒声に反射的に身体がびくんと揺れる。須藤くんが抱えているものを知っているのは私だけで、彼が無茶をしようとするのを予防できるのも私だけだろう。だがこれ以上迷う時間などなかった。結局私は中途半端だ。須藤くんの背中に両足をついて、瞬く間に大きな手に引っ張り上げられた。佐伯くんに抱きとめられる形で塀の反対側に着地する。それほど時を待たずして倉本さんが降りてきた。頬をだらだらと汗が伝った。さっきまで私がいた塀の向こうからはゾンビの呻き声が多数聞こえてくる。眼鏡がずり落ちそうになりながらもこちらに飛び込んできた相田くんを見届けて、私は塀に駆け寄った。
「英雄くん!!」
返事はない。奈美さんや誠も須藤くんが上がってこないのを心配して塀に近づいてきた。
「義崇くん! ごめん、私を持ち上げて! 英雄くんを引っ張り上げるから! たぶん踏み台がなくて苦戦してるんだと思う!」
「……だが」
「お願い、はやく」
引っ張り上げる役に私は心許ないと思ったのだろう、渋る佐伯くんに必死にわめきたてると、一気に持ち上げてくれた。肩車されるかたちになり慣れない感覚に少しひやひやしたが、焦る気持ちをおさえて塀の向こうをのぞき見る。心臓が跳ね上がった。塀を丸く囲むようにして大量のゾンビが迫ってきていた。須藤くんの姿が見えず視線を巡らせると、鈍い音が真下から聞こえた。真っ赤な血飛沫が舞っていた。斧が半円を描くように横に薙ぎ払われ、数体のゾンビが首を切らつけられホースの水のように血を吹きながら倒れた。
「英雄くん! 上がって!」
手を差しのべると、須藤くんが首を僅かに傾けちらとこちらを見る。そしてすぐ正面を向くと再び斧を振った。
「悪いが、こいつら隙をくれそうにねぇ」
背を向けたままそう言う須藤くんはたぶん冷や汗を流しながらもいつものように余裕ぶってにやりと笑っているのだろう。
「いいから、無理やり隙作ってこっちきてよーー!」
どうせ学園方面から聞こえる爆音や悲鳴で打ち消されるからと思い(もうだいぶ少なくなっているが)、無茶苦茶なことを叫ぶ。
進路も退路も断たれてこの中の誰もが一瞬でも絶望を感じただろうあの時、須藤くんは真っ先に動き出した。――おそらく、この中で一番絶望を感じているのに。不思議に思った。私が須藤くんの立場だったら自暴自棄になって何もかもどうでもよくなりそうなものだ。なぜ彼は生きるためにこうも力を尽くせるのだろうか。死を間近に感じているから、強く生きたいと思うのか? それとも、死を間近に感じているから、もう何も怖いものなどないのか? どちらにしても、ここで須藤くんを私たちが生きのびるための踏み台にするわけにはいかない。彼にも私たちの一人になって、ここまで駆け上ってもらわなければ。
とはいえ状況はそう簡単なものではなさそうだ。塀をのぼろうにもゾンビがそれを許さない。少しでも背中を見せれば待っていたと言わんばかりに彼の首筋に食らいつくのが目に見えている。そうしなくても、須藤くんは明らかに劣勢に立たされていた。こうしている間にもゾンビは増え、須藤くんの体力は減り、じわじわと間合いが詰められていく。どうしよう、どうしよう。何かアクションを起こさなければと考えを巡らせるが、ぐるぐる引っかき回されるだけで真っ白な頭から何も出てくることはなかった。
なぜ私がこの役を買って出たのだろう。よくよく考えればここには相田くんがいるべきだったのかもしれない。そう思い至って血の気が引いた。そんなこと今更考えても遅いのだけれども。
だがこちらにも勝機は回ってきた。須藤くんが切り払ったゾンビたちの死体が彼のまわりを囲んで足場を悪くさせていた。須藤くんがだいぶ鈍くなった動きで斧を横に払い、またゾンビの塀が積み上げられる。間髪入れずに向かってきた次のゾンビたちが同胞たちの屍に遮られ転倒した。
しかし、あろうことかそのうちの一体が前のめりになりながらも須藤くんの方へ向かってきた。――危ない! 手を思い切り須藤くんの方へ伸ばした。しかしそんな行為もむなしく、ゾンビはそのまま須藤くんにもたれかかってきた。思い切りぶつかってきた衝撃で斧が手を離れ、硬質な音を立ててコンクリートの地面に転がる。須藤くんに掴みかかったゾンビが上から見てもわかるくらい大きく口を開けた。
もう、だめだ。そう覚悟したとき、ゾンビの身体が螺旋を描くように回転し、人形のように宙を舞った。その異常ともいえる力に唖然としていると、ゾンビを殴り飛ばした須藤くんと目があった。彼の目には困惑の色が浮かんでいた。
「……思い切り力入れろよ」
須藤くんが囁くように言った。言葉の意味がよくわからないまま身体を強張らせると、その瞬間腕に強い力がかかり、上半身が思い切り下に引っ張られる。
「うああっ!」
「大丈夫か!?」
間抜けな声が漏れるも、必死に手に力を込める。佐伯くんも突然襲った衝撃に私を支える力を強める。須藤くんが私の手をとり、塀の表面のコンクリートブロックの僅かな隙間に足をかけ、駆けあがるようにして上ってきていた。気付けば彼の顔が間近にあって、彼は私の手を握る手とは反対の手に持っていた斧の刃を塀の縁に引っかけると、私の手を離して塀の内側に飛び込んだ。
……よかった。ほっと息をつき何気なく下を見て、ぞっとする。無数のゾンビがこちらを見上げていた。恨めしそうに、暗闇の中白く濁った目をぎらつかせて。その中の一体が鋭い音を立ててのけ反った。
気配を感じて何もないはずの隣を見ると、スリングショットを構えた相田くんがいた。下を見ると彼の身体を奈美さんと誠が支えている。
「……ごめん、遅すぎた」
「ううん、須藤くんは無事だったんだし」
申し訳なさそうに頭を垂れる相田くんに笑いかける。そうか、とぎこちなく笑う相田くんに、うんうんと頷くと、自分の意思と無関係に身体が揺れたのにはっとした。
「あっ! ごめん佐伯くん!」
「いや……」
あわてて降りようとしてバランスを崩し、余計佐伯くんの手を煩わせてしまった。ようやく地面に足をついたとき、短い間だったはずなのに足の裏の感触に違和感を感じた。冷静になって恥ずかしさに顔から火が噴き出そうになる。
「こうしている場合か。この薄い塀を隔てた先にはゾンビの大群がいるってのに」
倉本さんが顔を歪ませ悪態をつく。確かに、ごもっともだ。ここは全然安全地帯じゃない。ゾンビたちに知恵があればこの家の玄関から回り込まれて余計ピンチな状況に陥っていたかもしれない。
「高校側にある玄関はゾンビがうようよしていて、とてもじゃないけど突破できそうもないです」
こちらが一段落したのを確認してか、凛太郎くんがおずおずといった様子で報告する。沙莉南ちゃんと加世ちゃんと一緒に周囲の見張りをしていたようだ。
「はあ……やつらの様子をうかがいつつ、隙を見てここから脱出するしかないね」
奈美さんが長い溜め息をつく。まだ塀の外をぞろぞろとゾンビが歩いているようだ。一体どのくらいの数がいるのだろう。もしかして永遠にここから出られないんじゃないか。疲れからか、不吉なことを想像してしまった。
「公民館へはどうやっていくんだ?」
「あ、ええと……ゾンビたちが歩いてくる方角へまっすぐ歩いていけば大通りに出るんです。その大通りを右に曲がってちょっと先にある少し細い道を通って行けば公民館があります」
佐伯くんと加世ちゃんの会話をぼんやりとした頭で聞く。須藤くんを支えた腕がずきずきと痛むことに気付いた。それは彼が今も生きている証拠で嬉しくもあったが、反面どうしようもなく複雑な気持ちもあった。
「姉ちゃん? どうしたんだよそんな顔して」
「え……? あー大丈夫、なんでもない」
心配そうに顔を覗き込む誠に心の内を知られたくなくて、視線を移す。たまたまか、それとも意識的にか、須藤くんの姿が目に入った。苦しげな表情で自分の掌を眺めている。ゾンビを殴った方の手だ。もともとがっしりと鍛え上げられた彼の腕に不自然なくらい血管が浮き出ている気がした。もしかして。頭に浮かんだ恐ろしい考えに、私は必死に頭を振った。