第四話 戦闘
ふらふらと不安定な足取りで近付いてくる気が狂った男子学生を、彼はじっと凝視していた。手が彼の身体に触れるまであと二メートルちょっと――男子学生が大きく一歩を踏み出した時、彼が動いた。鋭い、大きな音が教室中に響き渡る。目にも止まらぬ早さで、彼の竹刀が男子学生の伸ばしてきた腕に強烈な一打を放ったのだ。後ろから見ていてもすごい迫力だった。
その衝撃で男子学生はよろけて数歩後ろに下がり、膝をついた。もろに打撃を受けた片腕は上げることができず、うまく動かすことができない様子だった。竹刀と言えども骨にひびくらい入ったかも知れない。少なくとも普通の人間なら痛みで動けまい。しかし、男子学生は表情一つ崩さず何事もなかったかのように前進を再開した。
ゥウゥアァァァ……
男子学生の姿をした化け物はくぐもったおぞましい声をあげながら、もう一方の手を伸ばしてくる。すさまじい獲物への執念だ。
彼はすかさず大きく竹刀を振り上げ、化け物の額に一撃をお見舞いした。
長机や椅子にぶつかりながら、化け物が激しく転倒する。受け身をとらなかった上に足や腕が変な位置にあったため、嫌な音をたておかしな体勢で背面から倒れこんだ。最後には頭も強く打ち付けたようだ。
普通の人間なら痛みでのたうち回るところだ。しかし化け物は動かない手足をピクピクと痙攣させ、やがて無理だと悟ったのかうつ伏せになりそのまま地面を這って近付いてきた。
「これは、人間なのか……?」
彼が低い声で呟く。私も言われた通り周りに気を張り巡らせながらも、その光景から目を離せずにいた。目の前のそれは人の姿をとどめてはいるが、もはや人間性は全く感じられなかった。そうだ、あれは化け物なのだ。人を生きながらにして喰らうなんて……まるで映画に出てくるゾンビじゃないか。
「むこうを向いていてくれ」
彼は竹刀をおろし、体は化け物の方へ向けたまま背後の私に言った。そうしている間にも化け物は片足で床を蹴って少しずつ少しずつ近付いてくる。首をもたげ口を大きく開き、目の前の彼に噛みつこうともがいているのがわかった。
……これは、人間ではない。人間の姿をしているだけで、中の人間は死んでしまっている。彼が今からしようとしていることを何となく察して、私は無言で後ろを向いた。
間もなく何か固いものが崩れるような重い音が教室に響き、呻き声が途絶えた。
しばらく沈黙が続いた。背中の向こうに意識を集中させるが誰も動いている気配がしない。おそらく一人はもう二度と動くことはないだろうが……。彼に何か声をかけるべきかと思い口を開きかけるが、よい言葉が浮かばない。ただじっと彼が動くのを待つ他なかった。
「……行こう」
手が肩にポンと置かれ、反射的にビクンと震える。見上げると、どこか苦しげな表情の彼がいた。私と目があうと強張った顔で少し微笑んでみせた。
廊下に出るよう促す彼の背中越しに動かなくなった男子学生が見えた。首が奇妙な方向に曲がっている。ほっとした反面、いたたまれない気持ちになる。化け物がやはり一人の人間だったように思えてきたのだ。しかしそんな考えもすぐに改まった。歯に血をこびりつかせて醜く歪んだその顔はやはり人間のそれではなかった。
「首の骨を折った。……そうするしかなかった」
少し俯いて小さな声でそう言う彼の竹刀を持つ腕は僅かに震えていた。気がおかしくなったといえども、あれは元々人間だったはずなのだ。非常時とはいえ人を殺してしまったという自責の念に駆られているのだろうか。今度こそ何か言わなくては、と思った。
「……ありがとう」
彼が伏せた目を見開く。我ながら急に変なことを言い出したなと思ったが、止めるわけにはいかない。焦る気持ちで続ける。
「ああしなきゃ、私達もやられてた。……正当防衛だよ! それに……」
私は彼の背後、息絶えた化け物の側に転がる無惨に食い漁られた人の残骸を見つめた。彼も首だけ動かして同じ方向を見る。
「あれは……化け物だった。普通の人間が、あんなことするわけないよ。絶対そんなことあるわけない」
「化け物……か。それなら殺人の罪には問われないかな」
「殺人だったとしてもあっちだって人殺しだよ! それにあの様子じゃ社会復帰も無理そうだし……大丈夫だって」
彼を元気付けるために我ながら根拠も何もない無茶苦茶なことを言う。気付けば私も小刻みに震えていた。緊張の糸が切れたのか。しかしすぐに冷静さを取り戻した。まだ、終わっていない。早くここから出て家に帰ろう。もし万が一化け物だらけで出られなくてもこんな非常事態だ――大ニュースになって救助がすぐに来るはず。それまで生き延びなければいけない、必ず。
「ありがとう。人殺しかどうかは……今は考えないようにする。とにかくここから脱出することが先決だからな」
私の言葉には説得力も何もなかったが、彼の表情はさっきよりも幾分か緩んだように見えた。
廊下に出てもう一度二階が安全になったことを確認し、ついに一階へ降りることに決めた――が、一階へ続く下り階段を前に私達は立ち尽くしていた。
……ゥウ……アァアァ
微かだが、声が聞こえる。おそらく階段のすぐ近くにあの化け物たちがいる。それも二、三体。
「こっちにもいるなんて……。ど、どうする?」
「行こう」
まさかの即答に私は目を剥いた。
「え、本当に行くの?!」
「……ああ。少し奴らのことで試してみたいことがある。危なかったらまたここまで戻ってこよう」
彼が考えるには、あの化け物たちは極端に視力が悪く、ものがぼんやりとしか見えず、主に音を頼りに行動していると言う。そして動きは鈍い。確かに思い当たる節はある。しかし彼が信じられない訳ではないが、憶測を過信してよいものか。……でも他に道のない今、彼の言う通りにするのが一番だ。行くしかない。
「どうだ、行けそうか?」
彼が尋ねる。私は決心がつかず数秒口ごもったが、はっきりと返事した。
「うん、行こう。行くしかないよね」
彼は力強く頷き、階段の方に歩き出した。
「……ねえっ」
私は彼を呼び止めた。さっきからずっと聞こうと思っていたことがあったのだ。こんな時に能天気な奴だと思われかねないが、聞いてしまえ。
「私、伊東皐月っていうんだけど……あなたは?」
彼は一瞬ぽかんとしたが、すっと目元を細め優しげな笑顔で答えた。
「俺は佐伯義崇。よろしく、伊東さん」
(あっ)
心の中で思わずつぶやいた。頭をよぎったのは、いつもは母から「こんなの届いてたよ」と渡されても読みもしない大学の広報誌。それを最近何気なく読んだことがあった。そこにあったのは剣道で優秀な成績をおさめた在学生の写真。袴を着た凛々しいその男子学生の姿に目を奪われたのだ。同じ大学ならばったり会わないかなとも思ったことがあったが、まさかこんな時に合うとは。しかし感動している場合ではない。
佐伯君――か。よし、絶対に二人で生きてここから出るんだ。
心の中でそう決意し、私達は下り階段の一歩を踏み出した。