第三十八話 安全
「凛太郎!?」
「誠……良かった、生きてて……」
二人はお互いの姿を目にとめるとすぐさま駆け寄り、肩を抱き合った。誠も凛太郎くんも顔をくしゃっとさせて涙をボロボロ流し、泣き笑いの表情でまた生きて会えたことを喜んでいる。本当に大切な仲間だったということが見てとれた。その分亡くなった他の四人のことを考えると心が痛む。辛かっただろう――ぐったりと血塗れで横たわる誠と、魂が抜けたような藤井くんの姿を思い出し、ああなるのも無理はないと思った。
「おい、さっき放送があったんだがよ、食料と衣類の配給があるようだぜ。んーと……八人分な。俺行ってくるわ」
二人が落ち着いたのを見計らってか須藤くんが切り出した。何もしなくても守ってもらえる――普段特に意識することなく享受してしまいがちなことだが、今はそのありがたさが身に染みるように感じられる。それにしても八人とは……最初は私と佐伯くん二人だったのがずいぶん大所帯になったものだ。心強い。
「一人で大丈夫? 私も行くよ」
大変だろうと一緒に付いていく気で立ち上がると、須藤くんは振り返りもせずヘーキヘーキと高く上げた片手をひらひらと振り、そそくさと部屋を出ていってしまった。
疲労で足がずきずきと痛み、足早に去る須藤くんを追いかける気にもなれなかった。一人立ち上がったまま取り残されたこの状況――何となくまた座るのも憚られる。その時ほんの少し尿意を催したのをいいことに、私はそのままお手洗いに行くことにした。
「須藤は力があるから大丈夫だろう。一緒に待っていよう」
佐伯くんはそう座るように促してくれたが、お手洗いに行くことを伝え廊下に出る。
――空気が一気に冷たくなった。温度は変わっていないはずだが、どんよりと暗く異質な空間であるように感じられる。廃ビルでも思ったことだが、幽霊が出そうな雰囲気だ。幽霊、ともう一度心の中でつぶやく。本当に幽霊は存在するのだろうか。明らかに人間の想像の産物であるはずだったゾンビが存在している今、エイリアンでもネッシーでもなんでもいるような気がしてきた。この瞬間も外では恐ろしいゾンビが闊歩している――自衛隊に保護されて安全を手にした今、その感覚が薄れてきているのを恐ろしく感じた。
角を曲がると前方にトイレの標識が見えた。少し歩く速度を速めて扉が閉め切ってある一つの教室の前にさしかかったその時、聞き慣れた声が飛び込んできた。
「……いや、まだ通じないよ。もうほぼ諦めてる。親はどちみち先に死ぬんだしね……うん、そうだね、ありがとう……」
奈美さんだ。そういえばいつの間にか教室からいなくなっていた。どうやら誰かと電話をしているようだ――立ち聞きするのは悪いが、なぜだか足が動かない。聞いてはいけないような気がし躊躇しているその間にも会話が耳に入ってくる。相手は彼氏さんだろうか。普段あんなに明るく振る舞う奈美さんが、今は震えた弱々しい声を出している。……家族のことを諦めている。彼女の正直な気持ちだろうが、私は聞いてショックだった。幸運にも家族の生存が確認できている私をいつも支えてくれる奈美さん。本来ならば私の方こそ支えにならなければいけないのに。
いたたまれない気持ちになって私はその場を引き返した。早歩きから駆け足になる。気がついたら元の教室の前にいてぼんやりしていた。
「あれ、皐月どうしたの?」
声をかけられたとき心臓に鈍い痛みが走った。ゆっくり首を声のした方に向けると、やはり奈美さんがいた。さっきの電話のときの雰囲気は微塵も感じられない。いつもの明るく勝気な彼女の姿だ。きっと今私は酷い顔をしている。その証拠に奈美さんは不思議そうな顔で私を見ている。
「疲れたんでしょ、中にはいろはいろ」
ニッと悪戯っぽい笑顔で奈美さんは私の背中をぽんぽんと押し出す。明るい笑顔の裏では、心の中は泣いているのかもしれない……。 奈美さんは教室に入ると携帯を放って床に胡坐をかき、相田くんとおしゃべりを始めた。
「皐月ちゃん、大丈夫? ぼーっとしてるみたいだけど」
「疲れてるんだよ。頼りない駿と喋ったらもっと疲れちゃうから、そっとしておいてあげなよ」
私と目があった相田くんが心配そうに声をかけてきて、奈美さんがからからと笑う。相田くんもまだ家族と連絡がとれていない――なのになんでこんなに優しいんだろう。自分のことで精一杯な自分が情けなくて、こぼれ落ちそうになる涙を必死でこらえる。私ばかり甘えていられない。
「ほーらよ」
「うっひゃあぁぁっ!!」
立ち尽くすのもおかしいので皆の輪の中に戻ろうとしたその時、視界が急に真っ暗になった。慌てて顔を覆う何かを取り払うと、白い毛布のようだった。振り返るとニヤニヤ笑う須藤くんがいた。本当にこの人はいつでもこんな調子だ。
「お前相変わらず色気もへったくれもない悲鳴出すよな」
「……すみませんね、色気なくて」
「いや、でも俺はそんな色気がねぇ皐月が好きだぜ」
「何度も言わないでっ」
あっという間にいつもの調子に引き摺り込まれ少し安心した一方、これでいいのかと複雑な気持ちになる。須藤くんはそんな私を「邪魔だ邪魔だ」と押し出し強引に座らせると円になって囲むように座る私たちの真ん中に大きな袋をドサリと降ろした。
「荒っぽいなぁ……中身は大丈夫なのかぁ?」
「中は食糧のパンと毛布、衣類、歯ブラシとかの日用品が少ししか入ってねぇよ。物資が不足してるみたいだな。ったく、三人分の女物の下着を受け取る俺を想像してみろ。見慣れてるとは言え……」
「はいはい御苦労さま。てか、あんたに手渡しされた下着なんてあたし履かないからね!」
須藤くんにきつくそう言って奈美さんは袋の中身を広げ、パンや毛布を皆に配っていった。新品の毛布を受け取った時、その柔らかさに何故か涙が出そうになった。隣の誠がじっとこちらを見ているのに気付き、慌てて目元をぬぐう。
「姉ちゃん……」
「ん、なあに?」
「姉ちゃんはさ、一体、佐伯さんと須藤さんのどっちとできてんの?」
一瞬訳が分からなくなった。誠は何を言っているのだろう。やっと意味がわかって、その瞬間顔がかぁーっと熱くなる。
「ば、ばかっ。できてるもなにも誰ともできてないからっ! できてるって、えぇーっ……。て、てかこのタイミングでそれ?」
自分でも何を言っているのか分からない。そして、はっとする。こんなおちゃらけた空気をつくって不謹慎じゃないだろうか。でもみんなはおかしそうに笑ってくれている。誠も平和だった以前と同じ笑顔で笑っている。それを見て私も自然と笑顔になる。
ここに来る途中で亡くなった渡部くん。家族と連絡がつかない奈美さんに相田くん。こうして安全を手に入れた今も辛いことがたくさんある。だから笑うことに戸惑いがあった。でも、これは大事なことなのかもしれない。こうして笑い合うことでお互いの心の安定剤になるのならば……。
「よかった。誠が元気になって」
誠は照れくさそうに微笑んだ。……が、だんだんと表情が曇り、憂いをひめた真顔になる。何かを求めるかのようにじっとわたしを見てくる。弟が何を言おうとしているのかはすぐにわかった。
「誠が元気だって知ったらお母さんきっとすごく喜ぶよ。ご飯食べた後で電話しよ?」
「……うん」
パンの包装を破きながら、こんな日々がずっと続いていつか平和を取り戻せますようにと強く願った。
*
夜、教室の窓際の床の上に私たちは一列になって横たわり、安らかな気持ちで目を閉じて次の日の朝を待った。こう安心感に包まれて寝るのも久しぶりな気がする。しかしもうみんなでおやすみを言ってから一時間は経っているのに私はなかなか寝付けないでいた。広い窓から漏れる月明かりが仰向けに寝転がる私の頭上でオーロラのようにゆらゆらと揺れているように見える。顔を隣に向けるととっくのとうに安らかな息をたてて眠りについている奈美さんの寝顔が目に入った。夕方のことを思い出し、複雑な気持ちで綺麗な寝顔を眺める。
いつの間にか意識が遠のいていた。心地よいまどろみが波のように押し寄せ、心の中を支配したと思いきや、急にさっと霧散する。瞬間、はっきりと目が覚めた。なぜか心臓がバクバクいっている。嫌な予感がする。その時、何かが静寂を破った。乾いた音。
「皐月さん」
「…………!」
急に肩を揺さぶられ驚きに身体が硬直し息をのみ込んだ。緊張した首を無理やり動かすと私の顔を覗きこむ佐伯くんが見えた。
「やばいことになった……。皆を起こそう。逃げるぞ」
現実は厳しい。幸か不幸か希望に満ちあふれた夢見心地な気分は消えうせていた。




